アルファレコードが求めた精神の自由 村井邦彦と共に振り返る
Rolling Stone Japan / 2021年5月11日 17時30分
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年4月はアルファレコード特集。第4週は、アルファレコード時代の黄金期と音楽人の自由を求めた思想を振り返る。
田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは「WE BELIEVE IN MUSIC」。作詞が山上路夫さん、作曲が村井邦彦さんの新曲です。お聞きいただいているのは、2015年9月27、28日に渋谷Bunkamuraオーチャードホールで行われたライブ音源です。このライブのために書き下ろされた曲でした。歌っているのは小坂忠さん、小坂さんの娘・Asiahさん、ギタリスト大村憲司さんの息子・大村真司さん、ドラマー林立夫さんの息子・林一樹さん、村井邦彦さん、そして先日亡くなった村上"ポンタ"秀一さんです。今月の前テーマはこの曲です。
WE BELIEVE IN MUSIC / 小坂忠、Asiah、他
関連記事:村井邦彦とともにアルファミュージックの創設期を振り返る
今月2021年4月はアルファミュージック特集。お聞きいただいているALFA MUSIC LIVEは、村井さんが70歳を迎えた2015年に行われたライブで、アルファゆかりのミュージシャンが大集結。夢の一夜を繰り広げました。タイトルの「WE BELIEVE IN MUSIC」は、アルファが設立された時のスローガン。今年の3月にこのライブの映像作品が発売されました。今月はそのライブ音源を使いながら、アルファレコードの功績を振り返っていこうという1ヶ月であります。
先週と今週は、アルファミュージックの創立者、作曲者、ピアニスト、現在はロサンゼルス在住の村井邦彦さんにリモートで話を伺えることになりました。アルファミュージックの理想とはなんだったのか? まずは今回の映像作品『ALFA MUSIC LIVE』のDisc2から雪村いづみさんの「東京ブギウギ」をお聞きください。作詞は、J-POPの父こと服部良一さん。焼け野原だった東京のJR中央線のレールを刻む電車の音がブギの8ビートに聞こえたというところから生まれた曲です。
東京ブギウギ / 雪村いづみ
バックバンドはキャラメル・ママ時代のティン・パン・アレーでピアノは松任谷正隆さん、そして武部聡志さんがサポートで加わっています。雪村いづみさんは1937年生まれ。美空ひばりさん、江利チエミさんと並ぶ元祖三人娘。このライブの時は78歳、元気でしたね。客席で感動しました。ジャズシンガーですが、アメリカンポップスの日本語カバーでヒットした最初の人です。「青いカナリア」という曲がありましたね。映画『シェーン』の主題歌「遥かなる山の呼び声」とか雪村さんの日本語バージョンで覚えました。先週と今週は村井邦彦さんにリモートで話を伺っております。J-POPの父・服部さんや雪村さんについてこんな話をされていました。
(インタビュー)
村井邦彦(以下、村井):本当に心に残ってますね。打ち上げの帰りに細野晴臣と雪村いづみさんがエレベーターで一緒だったらしいんです。後でマネージャーから聞いたんですけど、細野が「雪村さんは本当に素晴らしい、死ぬまで歌い続けてください」と言っていたらしいですよ。
田家:1974年に『スーパー・ジェネレイション』というアルバムがリリースされましたが、あのアルバムは村井さんが作りたいと仰ったんですよね。
村井:僕が発案しました。それはどういう意味かというと、戦前から活躍されてきた作曲家と、戦後間もなく大スターになった雪村いづみさん、その後に出てきた村井という作曲家と、その10年くらい後に出てきた細野晴臣。世代が違う人たちが日本のポピュラー・ミュージックの歴史を作っているわけですね。そういう4人が合体して何か作ろうというのがこの企画だったんです。
田家:服部良一さんに対してはいつ頃から畏敬の念を感じていらっしゃいました?
村井:子供の頃からブギウギを聞いていましたしね。僕の音楽のバックグラウンドはやっぱりジャズですから、服部さんもジャズですよね。アレンジをした服部克久さんも半分はクラシック、もう半分はジャズです。雪村さんはその時代の方ですし、細野晴臣はロックもよく知っているけど古い音楽やジャズもよく知っているんですよ。だからこの組み合わせはとても面白かったですね。
田家:1945年の戦争が終わった年に生まれになっているというのは、何か特別に感じることがありましたか?
村井:ありますね。戦争が終わって日本はまだ独立国じゃなくて、1952年に独立したという時期ですからね。今回、小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』を書こうとしている理由は、その頃のことがあまり語られていないというのがあるんですよ。もう一回穿り返して、何があったのかということを書こうと思って。それと、昔から日本の音楽ファンというのは、邦楽を聞いたりやる人じゃない限り、20世紀初頭から欧米の音楽やクラシック、ジャズ、シャンソン、タンゴをずっと聞いてきたわけですよね。それが戦争のちょっと前くらいから、敵性音楽としてジャズとかが聴けなくなった時期があった。それが今度は突然聴いてもよくなって、ジャズブームになったりした。その繋がりのところをよく説明してくれる本が少ないんですよ。でも、話してくれる方はどんどん亡くなっているし、その辺もどんどん掘り下げてみたいなと思っているんですけどね。
(スタジオ)
田家:村井さんがおっしゃっていた小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』の話は今週も出てきますが、webサイト「リアルサウンド」で始まった、キャンティを始めたオーナー、日本の新しい文化を世界に広めた、世界の文化を日本に紹介した川添浩史さんの物語なんです。アルバム『スーパー・ジェネレイション』は1974年に発売されて、雪村いづみ、服部良一を歌うというサブタイトルもついていました。演奏はティン・パン・アレイに変わる前のキャラメル・ママです。
服部さんがなぜJ-POPの父と言われるのか? 今村井さんも仰っていましたが、戦前から西洋音楽、ジャズとかカントリー、ブルースをやっていたミュージシャンはいたわけです。日本の場合はやっぱりジャズがメインです。そういう人たちが、戦争で敵性音楽と扱われたことで、日本でジャズがやれなくなった。それで上海に行ってジャズをやる人がいたりして、服部良一さんもその中の一人だった。『上海バンスキング』というミュージカルはそういうジャズマンを描いたものですね。服部さんは戦前から作曲はしていたわけですが、戦時中に作曲家が皆軍歌に駆り出された時に、彼は軍歌を書くのを拒否していた。「そんな音楽はやりたくない」ということで上海に行ったりしていた。戦後に先程の「東京ブギウギ」のような8ビートのポップスを日本語で始めた。そういう意味でもJ-POPの父と言われているんですね。村井さんは1945年生まれですから、彼が戦前のこと、それらが戦後にどう伝わったか知りたいと思うのは、私も全く同感です。
先程の話の続きと先週の話のおさらいになりますが、去年の末から村井さんは小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』をお書きになっています。レストラン・キャンティの創設者・川添浩史さんの物語。アルファミュージックは1969年にパリで設立されたんですね。なぜパリかと言うと、元タイガースの加橋かつみさんの初ソロ作品のレコーディングがパリで行われた。プロデューサーの川添象郎さん(川添浩史さんの息子)と村井邦彦さんは幼なじみのような関係で、川添象郎さんが村井さんにパリに来ないかと誘って、そこで色々な話が起きてきて音楽出版社を作ることになりました。アルファミュージックは音楽出版社でありながら、自分たちのスタジオを持っていたんですが、個人が作った音楽出版社がスタジオを持っているということ自体が、当時は異例の出来事でした。そのアルファスタジオの第一号レコーディングが作家契約第一号でもある荒井由実さんの「ひこうき雲」でした。村井さんにはスタジオの話も訊いております。吉田美奈子さんもそのスタジオでレコーディングをしていたんですが、吉田美奈子さんデビューアルバム『扉の冬』は細野晴臣さんのプロデュースでした。村井さんはアルファミュージックになってからは、アルファレコードとしては細野さんとプロデュース契約もしています。お聞きいただく曲は吉田美奈子さん「朝は君に」、1976年のアルバム『FLAPPER』の曲です。
(インタビュー)
田家:日本で新しいスタジオを作る難しさはありましたか?
村井:難しさはなかったですけど、揉めましたね。設計施工したのは鹿島建設ですけど、鹿島建設のスタッフがビクターの原宿スタジオとか作っていて。それとはコンセプトが違うからね。僕らがやる音楽は、例えばユーミンとかティン・パン・アレイみたいなものですけど、ビクターは邦楽がありますからね。原宿の前に築地にビクターのスタジオがあって、ある日そこに行ったら畳をひいた台があって。これなんですか? って訊いたら、三味線の録音をしていたと。ビクターは総合レコード会社ですから、歌謡曲、クラシック、邦楽など何にでも使えるスタジオを目指しているわけですよ。でも僕らは的を絞って、ユーミンとかティン・パン・アレイみたいな音楽を録るためのスタジオですから、そこに大きな違いがありました。
田家:アルファの女性アーティストというとユーミンがいますが、吉田美奈子さんも柱の一つだったと思います。吉田美奈子さんのアルファレコードで出す前のアルバム『MINAKO』も村井さんのプロデュースですもんね。
村井:『MINAKO』はユーミンの初期のレコードのバックだった大貫妙子とか山下達郎、吉田美奈子がバックコーラスで参加したアルバムだから。贅沢だよね。その時代から吉田美奈子を優れたシンガーだと認識していて、原盤を作ったらRCAの永野さんという重役が「村井さんお願いだからこれをRCAで出させてくれ」と言うので、RCAでリリースしましたね。その中に大滝詠一の「夢で逢えたら」も入ってましたね。
田家:1977年11月にアルファレコードを設立されて、細野さんとプロデューサー契約するようになってそこから関係が変わりましたね。
村井:細野は当時まだクラウンレコードとアーティスト契約があったのかな。僕はどうしてもアルファ陣営に細野がほしいので「プロデューサーとして来てくれ、行く末にはアーティストとしてもアルファでやってほしい。その代わり好きなことを思う存分やってくれ」ということで来てもらったんです。
田家:小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』の村井さんと細野さんの対談の中で、細野さんを村井さんが紹介されたのが川添浩史さんの家のダイニングキッチンだったと。
村井:そうなんですよね。それで細野に訊いたら、川添浩史さんとは会ってないらしいんですよ。そうだったのかと思って。川添浩史さんの家で会ったわけだから、浩史さんと細野も会っていたと僕は思っていたんだけど。ただ、川添浩史さんに大きな影響を与えた哲学者・仲小路彰さんと細野は何回か会って、細野も大きな影響を受けたらしいというのはその対談の時に分かりました。
(スタジオ)
田家:この曲はアルバム『FLAPPER』に収録されていたのですが、このアルバムはレコード会社がRCAで、原盤制作はアルファミュージックでした。アルバムプロデューサーが村井さんです。先週のおさらいですが、アルファミュージックのモットーは二つありました。作家の自由な発想で音楽を作る、そしてもう一つは国際的な音楽ビジネスをやる。作家の自由な発想で音楽を作るという中には、ミュージシャンの自由な発想という考え方もあった。それがスタジオを拠点にした音楽作りになっていったんですね。
後者の国際的な音楽ビジネスというのを象徴していたのが、A&Mレーベル。例えばバート・バカラックとかセルジオ・メンデス、カーペンターズ、ポリスが所属していました。村井さんはご自身でアルファの歴史を、第1期黄金時代が1977年まで、第二期が1978年からとお書きになっているんです。この1978年はA&Mの日本での権利をアルファミュージックが獲得した時でした。そこからまた違うステージに入ったということなんでしょうね。A&Mの権利を獲得したときのことも伺っております。お聞きいただくのは、ハイ・ファイ・セットの「海辺の避暑地に」のスタジオ版です。
(インタビュー)
村井:今まで国内のアーティストだけやっていたんですけど、A&Mと契約することになってポリスだとか色々な人をやりだすわけです。そういえばA&Mに於けるトミー・リピューマってアルファに於ける細野と似てるんですよ。A&Mはジェリー・モスとハーブ・アルパートが主になってやっているけれども、必ず伝統的に外部プロデューサーを入れてる。第一弾はルー・アドラー。これはオウドレーベルというのを作って、そこでキャロル・キングが大ブレイクするんです。その後に、A&Mはトミー・リピューマを使って彼のレーベルを始めるんですよ。だからアルファに於ける細野の¥ENレーベルと似てるんです。
田家:今日はハイ・ファイ・セットの「海辺の避暑地に」を流そうと思っているんですが、これはA&Mのスタジオでレコーディングされたんですよね。
村井:この曲はフランスの曲で、バークレー時代から僕が毎年フランスに行って良い曲を選んで買ってくる中の一曲だったんです。この録音セッティングは僕がして、有賀が現場をやってくれて。今考えると豪華なミュージシャンが入っているんですよ。リー・リトナーがギターを弾いてソロを録ってるんですけど、山本潤子ちゃんの歌も美しいし、アルファの名作の中でも僕の中でずっと残っている録音です。
田家:赤い鳥、ハイ・ファイ・セット、サーカスというコーラス重視の音楽スタイルもアルファの柱の一つに思えました。
村井:うーん、自分がいいと思えるものを作りたかったんですよね。
田家:1978年のA&Mレコードとの契約というのは、色々な既製のメーカーとの争奪戦になったと。
村井:そうなんですけど、僕らの方が友達なので有利なんですよ。向こうも友達だからやるっていうわけじゃないけど、経済的な条件が他と一緒なら気心の知れた人と仕事がしたいということだったんじゃないかなと思いますけどね。
(スタジオ)
田家:ハイ・ファイ・セットの1977年のアルバム『THE DIARY』の中から「海辺の避暑地に」。レコーディングはA&Mのスタジオで行われて、ギターにはリー・リトナーが参加してプロデューサーが村井さん。今お話したような関係があってA&Mの権利を獲得した。個人がこういう大手レーベルの権利を獲得するのは、当時、直接洋楽に関わってなかった僕らにも大きな事件として伝わって来ました。
RYDEEN / YMO、村井邦彦
田家:3月に発売になった、2015年のライブを収録した映像作品『ALFA MUSIC LIVE』から「RYDEEN」をお聞きいただいております。原曲は1979年9月に発売になったアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』に収録されていました。これが全世界を席巻して日本でも一位になり、YMOブームが決定的になるわけです。お聞きいただいてお分かりのように、今回の映像作品は村井さんがアレンジして、演奏でも参加されたんですね。細野晴臣さん、高橋幸宏さん、村井邦彦さんのYMOです。そこにサポートで武部聡志さんと鳥山雄司さん、大村真司さんが加わっています。
アルファミュージックの作家的自由と国際的ビジネスの二つの柱を象徴していたのがYMOですね。この構想はアルファレコードの発足パーティで発表され、A&Rの大プロデューサーのトミー・リピューマとエンジニアの大御所、アル・シュミットが「これいいね」と言ったことが村井さんの背中を押したんですね。YMOの世界的成功には色々なエピソードがあって、最初のワールドツアーに行くときにファーストクラスで行ったほうがいいよ、と村井さんが言ったんだそうです。理由は、海外の人はそうやって人のことを判断するから、名前もない人が海外に行くときにはそこの格を作らないといけない、という川添さんのアアドバイスがあったそうです。YMOの海外の成功について改めて触れないといけないことがあります。『モンパルナス1934~キャンティ前史~』の主人公である川添浩史さんが、戦後すぐに”アズマカブキ”を海外に広めようとしてツアーを組んだのですが、それを村井さんがヒントにしたというのも聞いたことがあって。その話も伺っております。
(インタビュー)
村井:さっきもお話した、日本が独立を取り戻して数年というタイミングで日本の古典舞踊・文化を世界に持っていったんですね。僕はその頃まだ子供でしたけど、その関係の人たちがまたね、僕の人生で色々あったんです。例えば勝新太郎さんと若山富三郎さんの兄弟は、アズマカブキの三味線プレイヤーとして行っているんです。後年、僕は勝新太郎さんと若山富三郎さんの映画のために、2、30本くらい映画音楽をやっていて。一番最初は勝さんから指名があったんだけど、色々話していたら、僕が川添浩史さんに可愛がられていたということが分かってきて、それ以来僕と勝さんの関係はすごく強くなったんですね。
(スタジオ)
田家:村井さんは今回の映像作品のリリースに伴って色々なメディアに登場されていて、YMOのことはかなり話されてるんでしょうね。この番組のインタビューでは、YMOのことよりもアズマカブキの話がしたいという雰囲気が強く伝わってきてこういう話になりました(笑)。YMOの話が勝新太郎さんの話になった、これがインタビューの面白いところです。
『モンパルナス1934~キャンティ前史~』は、改めてアルファミュージック、村井邦彦さんを知るとてもいい材料になっています。川添浩史さんのことをよくご存知の安倍寧さんという僕らの大先輩、ショービジネスの生き字引のような音楽評論家との対談が『モンパルナス1934~キャンティ前史~』の取材のために行われてました。その中で安倍さんが「川添浩史さんは、反権力的な面があったんだよね」という話をしていたら、村井さんが「そうなんです、そこに惹かれているんです」と答えられていたんですよ。アルファミュージック、村井邦彦という流れの中で反権力という言葉がとても新鮮に聞こえて。今までそんな流れでアルファミュージックを語ったことがない、見たことがないと思って、そのことを訊いたら村井さんはこんな風にお話くださいました。
(インタビュー)
村井:反権力というのは広い意味であって、特定の権力ということに対することではないんですね。川添浩史さんは、人間というのは何者からも自由であるべきだ、という考え方を持っていたんです。とは言うものの、国家権力など必要とされる権力があるわけで。今コロナ禍になって、フランスは夜7時以降は外出禁止ですが、これは権力によって自由が制限されている例ですね。こういうことがあるわけですけども、川添浩史さんは、自由であるためにはある力を持たないといけないと。その力と言うのは、自分が美しいということ。美を力として自由を作っていくんだと言っているわけですね。ヒトラーとかスターリンというような独裁者は、音楽まで口出ししてきますよね。ヒトラーの場合は、退廃音楽と言ってジャズとか抽象音楽をいじめてやれないようにしたわけですね。スターリンも革命を鼓舞するようなわかりやすい音楽じゃないと認めないんだよね、それでショスタコーヴィチという人は自分を表現するために苦労するわけですよ。そういう経験から出てきたアンチ権力というのが、川添浩史さんの考えだった。それが僕にとってとても魅力があったんです。
田家:アルファミュージックというのはそういうことと全く切り離された形でイメージを持たれているなと思ったりしたんです。
村井:僕たちは、イデオロギーはあまり関係ないんですよ。でも、先ほど話した人間は何者からも自由である。特に芸術音楽に携わる人は何者からも自由であるべきというスタンスはとっていましたね。
(スタジオ)
田家:こういう話になりました。『モンパルナス1934~キャンティ前史~』はそういうことを考えさせる小説でもあったんですが、アルファミュージック、村井邦彦さん、川添象郎さんなど今月登場している人にとっては、音楽とはこうあるべきだという思想やバックボーンがあったということを今頃知ったという感じがありますね。1970年代〜1980年代のアルファミュージックはおしゃれな音楽だと皆が思っていましたからね。そういうことだけじゃないんだということを今改めて思ってもらえたら、この番組の意味があったんではないかと思いながら、この曲をお聞きください。「WE BELIEVE IN MUSIC」。
WE BELIEVE IN MUSIC / 小坂忠、Asiah、他
田家:作詞が山上路夫さんで、作曲が村井邦彦さんです。アルファアメリカは、色々な契約の問題や経営的な問題があって1983年に撤退して、YMOもその年に散開します。村井さんは1985年に身を引いて、1990年代には日本の音楽シーンから離れてロサンゼルスに住むようになって、今もロサンゼルスにお住まいです。ご自分でも、クラブでジャズを弾いたり歌ったり、自分の曲を発表しているという生活です。2019年に、細野晴臣さんがアメリカツアーをやりました。この模様は映画にもなっているんですが、このロサンゼルス公演に村井さんやヴァン・ダイク・パークスさんなど所縁のある人たちが集まるシーンが感動的でした。色々な経験を経て、同じ音楽を40年以上前に志した人たちがアメリカで再会したというのが多くのことを物語っているような気がしました。村井さんには、退社以降のことも訊いております。お聞きいただく曲は、「ALFA MUSIC LIVE」で最後に村井さんが歌った「美しい星」。これは1973年に赤い鳥に書いた曲でした。その曲の話も訊いております。
(インタビュー)
村井:若い頃からやりたいなと思っていることを思う存分やって、アメリカに進出したけども経済的に失敗したと。そこで続けようと思えば続けられたかもしれないけど、やっぱり人間15年くらい一生懸命仕事して飛び回ってたら疲れますよ。僕はその時きっとすごく疲れたと思うんです。僕が言い出したんです、パートナーがお前やめろっていったんじゃなくて、僕から辞めますと言って辞めたんですけど、それが今に至るまでの次の仕事をやれたエネルギーの素になってるでしょうね。だからよかったと思っているけど、アーティストや社員の皆さんには悪かったなと思わないこともないんですけどね。でも、しょうがない。
田家:離れた後に日本の音楽への見方とか変わりました?
村井:あまり日本の音楽のことを考えなくなりましたね。一度離れてやろうという感じでした。
田家:細野さんは2019年にアメリカツアーを行って、映画にもなりましたが、その中でロサンゼルスでの公演で村井さんや色々な人と再会しているシーンがすごくいいシーンだと思ったんです。
村井:観に行きましたね。なんか夢を見ているようだったな、30年以上前に苦楽を共にして世界ツアーをやった人が歳をとって舞台に立っていて、やっている音楽がすごくいいんですよね。
田家:2015年には古希を迎えられていますが、歳の取り方ということについてこういう風に歳をとったらいいんじゃないかなという考えはおありですか?
村井:自分でも時々考えるんですよ、こんなに歳をとってラジオに出たりするよりどこかで静かにじっとしていた方が良かったなと思うんだけど、小説も始めちゃったしね(笑)。人それぞれじゃないでしょうか。
田家:先週もお話しましたが、亡くなった方への感謝の言葉をコンサートの最後で一言ずつ仰っていたのが素晴らしかったと思うんですが、ああいう洗練した形でコンサートとしてやれたのはアルファじゃないとできなかったと思うし、村井さんじゃないとできなかったろうなと思って見てましたね。
村井:心から思ってるからできるんだよね。でもこの5年間で服部克久さんや村上"ポンタ"秀一も亡くなって、ちょっと寂しいですよね。
田家:メンバー紹介で村井さんが「村上"ポンタ"秀一」と呼んだときに、ポンタさんがアップになるんですよね。そのシーンはやっぱり泣けますね。
村井:亡くなった時はそのシーンを見返しましたよ。
美しい星 / 村井邦彦
村井:これは環境問題の歌なんですよ。地球を美しいまま子供たちに残していかないといけないという、ユニセフのために書いた歌なんですけど、「翼をください」ほど有名じゃないけど、僕と山上道夫さんの代表作として残っていってほしいなと思って、最後に自分で歌ったんです。
田家:『モンパルナス1934~キャンティ前史~』はこの後どうなっていくでしょう?
村井:川添浩史さんは1970年1月に亡くなっちゃいますから、そこまでだと思うんですね。その後に細野晴臣とかユーミンがどういう活躍をしたかというのは箇条書きでまとめるかもしれないけど、ストーリーとしては川添浩史の死を以て終わりになると思います。年内くらいには決着をつけたいと思っているんですけど、そうすると僕が77歳になった辺りで出版記念パーティができるかなと思って(笑)。
(スタジオ)
田家:77歳の出版パーティを楽しみにしたいと思います。『モンパルナス1934~キャンティ前史~』、僕らが知りたかったこと、戦前から戦後にかけてを日本の音楽に新しいものを取り入れた、自由を愛した音楽人や文化人がどんな風に過ごして、戦後どう花開いたのかという答えが書かれています。今小説は連載中なんですが、その合間に取材のための対談も行われていて、それも発売されるんだそうです。その時は、今日お聞きいただいた話をもっと色々な形でできるんではないかと楽しみにしております。
田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」アルファミュージック特集Part4。日本のポップミュージックの流れを変えた音楽制作会社アルファミュージックの特集。2015年のライブ「ALFA MUSIC LIVE」の映像作品が今年3月に発売されました。それを使いながらの特集です。ゲストには、現在ロサンゼルスにお住まいのアルファミュージックの設立者、村井邦彦さんをゲストにお送りしました。流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。
今はシティポップ、アルファサウンドと言いましょうか。そこにティン・パン・アレイや女性アーティストが歌ってという作品が、海外の色々なところから反響があるという時代になっております。今回こうやってアルファミュージックや村井さんを辿ってみて、今まで何にも知らなかったなというのが素朴な感想です。何の保障もない中で新しいことをやろうとする人たちには動機があります。それを支えるエネルギーや信念、情熱もある。その裏付けとなる精神的な支えがなんだったのか? 村井さんがアルファから撤退して35年経ってようやく訊けたのが、個人的には最大の収穫だったと思います。
川添浩史さんから何を受け継いだのか? アルファミュージックは何を伝えようとしてきたのか? それは精神の自由だった。音楽や芸術の自由が一番力になるんだということを川添浩史さんは伝えようとして、キャンティが始まったんですよ。『モンパルナス1934~キャンティ前史~』には、キャンティ前史というサブタイトルがついています。今、世界中が自由というのを軸に揺れ動いております。自由でいいのか? それを制約すべきなのか? ということで皆が右往左往しているわけで、改めて時代を超えて学ばないといけないことがあるのではないかと思って、村井さんのインタビューをお聞きしておりました。音楽がこうやって伝わっていく時代だからこそ、色々なことを改めて知ってほしいなと思いました。77歳の出版記念パーティを楽しみにしましょう。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
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