高田渡が探った自分のルーツ 佐久間順平とともに振り返る
Rolling Stone Japan / 2021年6月3日 11時30分
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年5月は高田渡特集。第4週はヒルトップ・ストリングスの一員で、マルチ弦楽器奏者、シンガー・ソングライターの佐久間順平とともに、晩年期までの高田渡を振り返る。
田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは高田渡さんの「コーヒーブルース」。1971年のメジャーデビューアルバム『ごあいさつ』の1曲。このアルバムはベルウッド レコードの発足前に、キングレコードから発売されました。今月の前テーマはこの曲です。
コーヒーブルース / 高田渡
今月2021年5月の特集は高田渡。1969年にデビューして、ギターの弾き語りを基本に様々なルーツミュージックを取り入れながら、人間にとって大切なこと、世の中の矛盾、地に足をつけて生きていくこと、そんなことを歌い続けた方です。フォークソングとはどんな音楽を言うのか? フォークシンガーとはどんな人を言うのか? 生涯身を以て証明した答えのような人です。名誉や栄光とは無縁だった巷のレジェンド。2005年4月16日に亡くなって、今年で17回忌。彼を偲んで様々な企画が発表されております。
関連記事:高田渡作品をベルウッド・レコード創設者と振り返る、老成した歌は若者にしか歌えない
今月は改めて所縁の方を迎えて、彼の軌跡を辿ってみようと思います。今週のゲストは1977年に結成されたバンド、ヒルトップ・ストリングスの一員で、それまでも林亭という二人組で渡さんとステージを共にされていた方。1953年生まれ、ご自身のソロ・アルバムでも渡さんの曲をカバーしている継承者の一人です。息子の高田漣さんとも共演されています。マルチ弦楽器奏者、シンガー・ソングライターの佐久間順平さんです。こんばんは。
佐久間順平(以下、佐久間):こんばんは。よろしくお願いいたします。
田家:17回忌という時間についてどう感じられますか?
佐久間:なんだかんだあっという間という気もするし、ずいぶん長いなという感じもしますね。
田家:佐久間さんはソロ・アルバムを4枚お出しになっていますが、初めてのソロ・アルバムは還暦になってからだったんですね。
佐久間:そうですね。その前に1枚だけライブ盤を出したんですけど、還暦になってちゃんとしたものを作りたいなと思って作り始めたんです。
田家:渡さんが亡くなった後ですよね。渡さんが亡くなったこととご自身がソロ・アルバムを出して歌ったりすることは、どこか影響していたと思っていいですか。
佐久間:日本の歌ということに関して渡さんはずっとそのことばかり考えていたと思うんです。日本の歌というのはどこから言ったらいいか分からないけど、明治の頃から外国の曲に日本語の歌詞をつけて人々に歌わせる明治政府のやり方があったじゃないですか。それから童謡唱歌がうまれたりして、僕らは若い頃も学校で歌わされていたし、ある種のベーシックになっていますよね。そこまでは音楽はあまり商売的に成り立っていなくて、戦後になってから生業になり始めましたよね。そこで職業作曲家・作詞家という人が出てきて。でも、歌い手にとって歌というのはいつも密接にどう歌うか考えていたものだと思うんですよ。渡さんは日本のフォークソングで、どういう歌を作って歌っていくかということをずっと考えていた人だな、と傍で見ていて思うんです。渡さんから学んだことの中にそれがすごく大切なこととしてあって、僕も歌に拘っていきたいなと思って作ったんです。
田家:今年の1月になぎら健壱さんが『高田渡に会いにいく』という本をお出しになっています。渡さんのお兄さんと元の奥様、高田漣さんとシバさん、そして佐久間さんの5人の方のインタビュー、証言集みたいなものですね。マニアックで面白かったですね(笑)。佐久間さんはインタビューが一部と二部に分かれておりまして、費やされているページ数も一番多かった。
佐久間:渡さんが2005年に亡くなって、出版物やCDなど色々なことに彼のことが書かれて、大体のことは知られるようになったと思うんです。それから10数年経って、なぎらさんがどうしても表に出てこない裏の話があるはずだ、そこを探りたいということで。それでインタビュー形式で探りを入れながら話して、ちょっと場所変えようかと言って飲み屋に行ったり(笑)。
田家:つまり、なぎらさんが一番訊きたいことが多かった人が、佐久間さんだったんだろうなと思ったんですよ。
佐久間:一緒にバンドを組んでいたし、解散しても渡さんのバックで付いていて一緒にいる時間も長かったので、人に言えないことも載っていたりします(笑)。
田家:今日は思い出の曲を選んでいただきながら、話を進めていこうと思います。順平さんが選ばれた1曲目「生活の柄」からどうぞ。
生活の柄 / 高田渡
田家:ベルウッドから1971年発売のアルバム『ごあいさつ』の中からお聞きいただいております。渡さんのデビューは1969年、URCの『高田渡 / 五つの赤い風船』という片面ずつの作品でしたが、順平さんがフォークデュオ・林亭を組んだのも1969年で、同じ時期から始まってるんですね。
佐久間:僕はそれまでずっと洋楽を聴いていたんですよ。ブラザース・フォア、キングストン・トリオ、PPM、サイモンとガーファンクル。ビートルズも最初からずっと聴いていて、高校の頃はビートルズの最後のアルバムも毎日聴いていたんですが、ある時、友達が高田渡さんのアルバムを持ってきたんです。
田家:『高田渡 / 五つの赤い風船』ですか?
佐久間:たぶんこれだったと思うんです。聴いた時にビックリしましたね。
田家:やっぱり違う何かがあったということですよね?
佐久間:それまでは洋楽が一番で、日本の歌謡曲やGSはその次だと勝手にかぶれてたんです(笑)。でも、日本語でこんな歌を歌う人が出てきて、これはなんだろう! ってビックリしましたね。
田家:確かにビックリしますよね。林亭を見出したのは、高田渡さんだったそうですね。
佐久間:そうですね。大学に行って、吉祥寺にある「ぐゎらん堂」っていうライブハウスがあってよく遊びに行っていて。
田家:この話は後ほど伺いましょう。お聞きいただいたのは、「生活の柄」でした。
田家:お聞きいただいているのは、順平さんが歌われている「生活の柄」。去年発売になったソロ・アルバム『世界は愛で出来ている』の中に収録されています。原曲と解釈がかなり違いますね。
佐久間:そうですね。高田さんの曲を歌おうとする人は、どうもちょっとお酒を飲みながら、歌詞カードを抱えて、ぶつぶつ言いながら歌詞を開いて、わけのわからないことを言いながらボソボソ歌うスタイルから入る方が多いんですよ(笑)。高田さんと同じような歌い方になる人が多いんですけど、高田さんは亡くなって16年も経つし、そろそろ卒業して自分なりの解釈で渡の歌を歌っていこうと思ったんです
田家:なるほどね。先程の話の続きになりますが、順平さんは1953年に神奈川県の逗子に生まれて、6歳の時に千葉県の市川の方に引っ越しをされて、高校生の時に林亭を結成し、学生時代は吉祥寺にある「ぐゎらん堂」に入り浸るようになって、そこで渡さんと出会った。どういう出会い方だったんですか?
佐久間:なんとなく僕は彼をものすごく年上に感じていたんですけど、よく考えると3、4歳しか違わないのかな。10も20も離れているように見えていたんですけど、ある時お店で、今は映画監督をやっている小林政広が渡さんの家に遊びに行っていいですか? って話をしていて。大江田信くんとか何人かで三鷹のアパートに行かせてもらうんです。ちゃんと対面したのはそれが最初かな。
田家:1973年に林亭がアルバム『夜だから』をリリースしたあとですか。
佐久間:そのアルバムを聴いてもらって、渡さんがやろうとしていたアメリカン・フォークミュージックやカントリー、マウンテン・ミュージックに日本語を乗せて歌うというスタイルを僕らが真似て、歌詞を書いて歌ってたんですよ。ある種、自分を継承する若い奴が出てきたという感じだったんでしょうね。それで可愛がっていただいて。
田家:順平さんが大学を卒業して一人暮らしをしたのも三鷹だった。それは渡さんがいたからとか。
佐久間:そうですね。あとは仲間もいて、吉祥寺一派と呼ばれているシバとか武蔵野タンポポ団とか、中川五郎さんとか皆あそこら辺にいたもんですから、あそこに行かなくちゃ! と思って三鷹に(笑)。
田家:でもそこまでのめり込んで、側にいて何かを吸収したかったんでしょうね?
佐久間:そうですね。当時はまだ歌謡界とか演歌、民謡とかが主流の時代ですよね。そういうのまで自分ができるとは思っていなかったんですけど、なぜか高田渡を聴いた時にこれならできるかもって思ったんですよ。不遜ですけど。
田家:就職試験も受けずに、大学を卒業して「ぐゎらん堂」組に入った。
佐久間:そうですね。大学4年の時かな? 夏休みに一月かけて高田さんの北海道26カ所でのコンサートツアーに誘ってもらったんです。それは中川五郎さんも一緒で、3人でトラックに乗って回ったんです。あのツアーは忘れられないですね。
田家:それはすごいですよ。続いて順平さんが選ばれた曲は「仕事さがし」。1999年のライブアルバム『Best Live』の1曲目なんですが、これは1995年の上野の水上音楽堂での公演で順平さんがバックをやられています。
仕事さがし(LIVE)/ 高田渡
田家:これは覚えてらっしゃいます? ギターが順平さんで、ハーモニカが松田幸一さん。先程のボソボソ言うライブがこれですね(笑)。
佐久間:なんとなく覚えてますね。アルコールでダメになっていく加減というのがあって、ここら辺がまだ元気だったときかもしれないですね(笑)。
ダイナ / 高田渡 & ヒルトップ・ストリングス・バンド
田家:続いて流れておりますのが、ヒルトップ・ストリングス・バンドのアルバム『バーボン・ストリート・ブルース』の中の「ダイナ」。ボーカルとギターが順平さん、渡さんはマンドリンですね。ヒルトップ・ストリングス・バンドのメンバーは、ボーカルとギターが高田渡さん、ギターとマンドリンが佐久間順平さん、バンジョー・小林清さん、ベース・大庭昌浩さん。そこにトランペットの外山喜雄さん、クラリネットの後藤雅広さん、トロンボーンの池田幸太郎さん。アルバムには11曲が収録されていて、渡さんボーカル5曲、佐久間さん3曲、小林清さん2曲、インスト1曲。アルバムのライナーノーツには、小林さんが井の頭公園でセッションしたのが始まりだったと書いています。
佐久間:小林清さんは今はウクレレの大家として、全米でも話題になったりしているんですけど、実は彼はギターも上手だし、この時は4弦バンジョー、ベースの大庭昌浩さんはいま珍太さんと呼ばれていますが、小林さんと珍太さんともう一人で吉祥寺のピザ屋のシェイキーズで生演奏していて。その練習でたぶん井の頭公園にいたんじゃないでしょうか。そこにたまたま渡さんが通りかかったのかもしれないですね。
田家:このアルバムのレコーディングは3日間だったと渡さんはライナーノーツで書いていました。このアルバムのライナーノーツには、プロデューサーの小室等さんは「高田渡はバンドをやりたかったんだろう」と書かれてましたね。
佐久間:たぶん楽しいことが好きだったと思うんです。だから、武蔵野タンポポ団も皆で楽しいことやってみようよと始めたような感じじゃないですか。それとは別に自分個人の歌、と二つあったと思うんです。自分の歌は自分の歌としてストイックに追求されていたと思うし、バンドの方はジャグバンドとかカントリーバンド、ニューオリンズジャズバンドとか色々なものを叩き台にして、面白かしく皆でできないかなっていうことで作っていったと思います。
田家:どの曲を誰が歌うのかはどうやって決めたんですか?
佐久間:どんな風にやろうかというところから始まって、最初にやったのがアルバムタイトルの「バーボン・ストリート・ブルース」というニューオリンズの曲なんです。それに歌詞を作ろうと集まって、「抜けるような」という歌詞を作って、とにかくやってみようと。僕はエノケンさんの「ダイナ」っていう歌を歌えるかもしれないと思ったり。
田家:それは佐久間さんが仰ったんですね。
佐久間:ええ。そういう寄せ集めで、たとえば2時間でライブがあるとすると、バンドで始めて、途中渡さんのソロ曲があって、僕らもちょっとソロやったりして。で、またバンドに戻って全体のライブ、という流れになってましたね。
田家:その時は渡さんはもう「私の青空」を歌ったりしてました?
佐久間:たぶん歌ってたんじゃないかな……。
田家:じゃあ渡さんがエノケンさん好きなのはご存知だったんですね。
佐久間:そうですね。渡さんなりのルーツミュージックを探してたと思うんですよ。アメリカン・フォークソングに影響されているから、ミシシッピ・ジョン・ハートとかブルースマン、フォーク、カントリーシンガーを追っかけていたけど、それとは別個に日本の中でルーツになるような人を探していたんだと思います。そのひとりが添田唖蝉坊さんだし、川上音二郎さんの話はあまり聞いたことがないですね。でもやっぱり、エノケンさんのセンスはすごいですからね、渡さんも好きだったと思います。
田家:ヒルトップ・ストリングス・バンドには、エノケンさん的な雰囲気が溢れております。この曲もそうではないでしょうか? タイトル曲「バーボン・ストリート・ブルース」。
バーボン・ストリート・ブルース / 高田渡 & ヒルトップ・ストリングス・バンド
田家:高田渡さんはこのアルバムのライナーノーツに、いつも8~10くらいの楽器を持ち歩いて、マネージャーなしで日本中を旅したとお書きになっていましたが、そうだったんですか?
佐久間:そうですね。今この曲を聞いても、元気のいいテンポでやってますね。若いからできたって感じです(笑)。
田家:お聞きいただいたのは、1977年のヒルトップ・ストリングス・バンドのアルバムからタイトル曲「バーボン・ストリート・ブルース」でした。
BGM 風 / 林亭
田家:1993年に徳間ジャパンから出た渡さんのアルバム『渡』から「風」。お聞きいただいているのは、林亭の2009年のアルバム『風は歌う』の中の曲です。これは佐久間さんが歌われてます。
佐久間:渡さん自身も大事にしていた曲で。渡さんはとつとつと静かに歌うんですけど、こういう風にアレンジ変えたら林亭でも歌えるなと思って変えてみました。
田家:曲の作詞はさんという方で、曲がイギリス民謡。朝倉さんはコピーライターの方なんですね。
佐久間:そうなんですよ。渡さんは若い時に岐阜から出てきて、ある種の共産党の活動に近いセクションにいたんですよ。
田家:赤旗を刷っている印刷会社でしたよね。
佐久間:この「風」という詞に僕が触れた時に、左翼系の詩人が書いたんだと勝手に数年前まで思ってたんです。それで、3、4年前に朝倉勇さんに関して調べてみたんですが、彼はコピーライターの方で。なおかつこの詩は、詩人の金子光晴さんに書いたものなんですよ。朝倉さんが知人の出版社の方に、金子光晴さんの大きな写真に何か言葉を作ってくれと依頼されて、この詩を書いたらしいんですよ。僕はそのエピソードを聞いてびっくりしてね。僕は渡さんの真似をして、日本の詩人の作品を読んでいってすごく好きになったのが金子光晴さんなんですよ。
田家:さっきの上野の水上音楽堂のライブ音源も1995年なわけで、ステージ上で「風」を渡さんが歌うのもお聞きになっていたわけでしょう。一緒に演奏されたりもして。その時はどんな風に聞かれていたんですか?
佐久間:仲間が今何をしているのか聞かせてくれっていう歌詞も、きっと左翼系の地下に潜ってる人たちが仲間を思ってるんだろうなとか解釈してたんだけど、全然違ったんですよね(笑)。
田家:でもそういう意味では、色々なことを渡さんから勉強したり影響された部分もあるんでしょうね。
佐久間:ありますね。渡さんの家に行くと、本箱が日本の詩人の詩集ばかりなんですよ。片っ端から全部読んでるはずですね。
田家:そんな話も頭に置きながら、次の曲をお聞きください。1993年のアルバム『渡』から「風」。
風 / 高田渡
田家:高田渡さんの孤独感というのはどういうものだったんだろうと思いながら、この曲を聴いてました。
佐久間:僕も後で知ることになるんですけど、高田渡さんのおじいちゃんの時代から書いてある本があるじゃないですか。
田家:本間健彦さんの『高田渡と父・豊の「生活の柄」』ですね。
佐久間:あれを読んだ時に、岐阜で没落して落ち延びて東京に出てきたんだ、というのが分かったんですね。渡さんは4人兄弟の一番下ですけど、小さい時にお母様を亡くされてお父さんに育てられた感じがあって。お父さんは優しい方だったけど、社会的にちょっと破綻していたというのもあって、東京に出てきて働いてフォークシンガーとして歌うんだ、という感じなんですね。なので、どこかに愛情をちゃんと受け取れなかったということがあるんじゃないですかね。それがお酒にも結びついてくるような気がします。
田家:なるほど。お聞きいただいたのは、佐久間さんが選ばれた1993年の曲「風」でした。
田家:ただいまお聞きいただいているのは佐久間順平さんが選ばれた本日の5曲目「ブラザー軒」。これは順平さんがカバーされた曲ですが、これをカバーしようと思った理由は?
佐久間:「ブラザー軒」という歌詞は日本の詩人・菅原克己さんの詩なんですが、毎年一度集まりがあるんです。渡さんは「ブラザー軒」で菅原さんを世に広めたということで会に呼ばれていて、そこで歌ったりしていたんです。その経緯があって、渡さんが亡くなってからは漣くんとかも呼ばれていったんですけど、僕もお声がかかって。出版社の方が、菅原克己さんの全詩集を贈ってくださったんですよ。そこに「ブラザー軒」だけじゃなくて曲を作ったらどうだという意図を感じて(笑)。何曲か作ったんですよ。
田家:それでこの曲の入っている2019年のアルバム『美しい夏』が生まれた。全部、菅原さんの歌詞を集めたものなんですね。
佐久間:その中の1曲として「ブラザー軒」もカバーさせていただいたということですね。
田家:この曲は晩年の代表曲になるわけですが、順平さんがずっと渡さんをご覧になってきた中で、この辺から晩年かなというのはあるんですか?
佐久間:渡さんって少し変わった人で、若い時からじじいになりたがってたんですよ。老成したいっていうか、なんだろうな(笑)。
田家:若いっていうことが嫌だったのかもしれないですね。
佐久間:それよりも知恵を持ったおじいさんみたいなものに憧れて、ずっとそれをやってきたなという感じなんですよ。さっきのヒルトップ・ストリングス・バンドの時は、渡さんが27、8くらいですからね。その時はあのテンポですから元気だったんですけど、だんだんじじい志向になっていくというか。その頃から、おじいさんの領域に入りたがっていたからもう晩年だったんじゃないでしょうか(笑)。
田家:意識して晩年になろうとしていたと。晩年のステージの様子もこの後お伺いしていこうと思います。続いての曲は、1999年のアルバム『Best Live』から「ブラザー軒」です。
ブラザー軒(LIVE)/ 高田渡
田家:なぎら健壱さんが、渡さんが「ブラザー軒」をステージで歌っている時のエピソードが紹介されているんですが、これが面白いですね。歌いながら寝てしまった。
佐久間:二番を歌い終わったらスーッと静かになって、ギターも弾かないし動かなくなったんですね。僕も横にいて、起こすのもなあと思っていたんですけど。渡さんがふと目が覚めて、何事もなかったようにまた二番から歌い始めたんです。それで三番まで歌った時に、「あ、これさっき歌いましたね」と(笑)。ちょっと記憶は残ってたんですね。どこまで画策してるのかよく分かんないです(笑)。
田家:なるほど。この「ブラザー軒」については、来週高田漣さんにまたお聞きしようと思います。
BGM(夕暮れ(LIVE)/ 高田渡
田家:今流れているのは、アルバム『Best Live』から「夕暮れ」。自分の場所からはみ出してしまった人の歌です。作詞は黒田三郎さんと高田渡さんです。さきほど、高田渡さんの蔵書の話をされていましたね。詩人の本がたくさんあった。
佐久間:本棚が、レコードと詩集しかないくらいでした。文学的なことでも、自分のルーツを探ってたんじゃないかなと思うんです。詩人って自分の言いたいことを書くわけじゃないですか。渡さんも自分の歌いたいことを歌うという点で、詩人が何をやっていたのか、何を言いたかったのかというのをすごく読んでたんじゃないかなと思います。
田家:そういう日本の詩人の作品にとても詳しかった渡さんは、自分でも詩集を出していました。
佐久間:自費出版で『個人的理由』という本。その中に一つすごくいい詩があって、曲をつけてみたいと思って作ったのが「夕暮れ」という曲です。
田家:同じ「夕暮れ」というタイトルですが、こちらは作詞が高田渡、作曲と歌が佐久間順平さんという「夕暮れ」です。今日は、高田渡さんを忍びながら最後にこの曲を聴きましょう。佐久間順平さんで「夕暮れ」。
田家:この詩に曲をつけていらっしゃる時に、どんなことを思い浮かべましたか?
佐久間:吉祥寺の町の夕暮れに渡さんが立って嬉しそうにしている感じ。それと、僕の家に遊びに来てくれた時に昼からお酒を飲んで夕方には出来上がって、じゃあ帰るよって言って見送る時にちょうど夕暮れでね。夕焼けの赤じゃなくて、空がだんだん紺色からダークになっていく濃紺色というのかな。そこを指差して、この色だこの色だ、って言っていたのがすごく残っていて。この詩集『個人的理由』を見た時に、これがあのことか! と結びついたというか。
田家:なんで彼は自分で歌わなかったんでしょうね。
佐久間:実はこれはカバーで、別の若い人が歌っていたんですよ。それはフォークソング調じゃなくてポップス調なものでした。
田家:なるほど。でもこういう風に順平さんにカバーしてもらえるのは、彼にとっても本望ではないでしょうか。順平さんは高田渡さんの何を伝えていきたいですか?
佐久間:やっぱり歌ですね。自分が生きていて、何を思って、何を感じて、何を表したいか? それを高田さんは追求していたと思います。前にライブ盤を出した時に渡さんから電話があったんですが、その時彼はお酒を飲んでいなくて。飲んでいない時の声がすごく冷たく感じられたんですよ。「CD聴きました、歌が聴こえてきません」と。
田家:厳しいですね。
佐久間:聞いた時はもちろんショックだったんですけど、ちゃんと聞いてくれたんだな、大事なことだなと思って。僕はそれを追求していきたいなと思ったんです。
田家:なるほど、追求していってください。ありがとうございました。
佐久間:ありがとうございました。
田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」高田渡特集Part4。今年が17回忌、永遠のフォークシンガー高田渡さんの軌跡を辿る1ヶ月。今週のゲストは、ヒルトップ・ストリングス・バンドのメンバー、マルチ弦楽器演奏者、シンガーソングライターの佐久間順平さん。今流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。
改めて、さきほど流れた「風」とか「夕暮れ」を、高田渡さんにとっての孤独や自分の場所というのをどんな風に思っていたのかなと考えながら聴いておりました。当時の若者は、大学に行ったり辞めたりする人が多い中で、渡さんはお父様が極貧の詩人で、ご自身も定時制の高校に通い、印刷会社で働いたりしていた。学歴とは縁がないところに生活していて、フォークソングに出会った。フォークソングでなければいけないもの、音楽でなければ表現できないもの、音楽でないと味わえない喜びや幸せ、人と繋がれる幸せがあったんだろうなと思います。でも1980年代は、日本中がバブルに浮かれていた時代ですからね。
高田漣さんが以前他の場所で話していたんですが、バブルの時代のフォークソングはギャグだったというんですね。笑いものにされていた時代があった。その頃にフォークをやっていた人たちは皆孤独だったんじゃないかと語っておられました。その中で、高田渡さんはずっと歌い続けてきて、今日は晩年の話まで出たという時間でした。でも、時代が高田渡を求める。こういう混乱の時代だからこそ彼のことをあらためて思ったりするんじゃないかなと思います。順平さんは、自分のライブを続けていらして、7月18日には中津川で佐久間純平「鼓土里座」ライブも開催予定です。中津川フォークジャンボリーの流れから結成された人たちがやっているライブです。歌は歌い継がれていきます。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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