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ブラーのデーモン・アルバーンが語る、トニー・アレンとアフリカ音楽から学んだこと

Rolling Stone Japan / 2021年6月2日 18時0分

トニー・アレンとデーモン・アルバーン(Photo by Stars Redmond)

トニー・アレンの遺作『There Is No End』がリリースされた。本作は、彼のドラムをベースに構築したトラックで国籍様々な新進MCがラップするという、自身のスピリットを次世代に引き継ぐ、まさに遺言のようなコラボレーション・アルバム。パンデミックの影響もあり、腹部大動脈瘤で急死した時点で録り終えていたのはトラックだけで、長年のコラボレーターであるフランス人プロデューサーのヴァンサン・テーガーが音源を預かり、本人のヴィジョンを尊重して完成に導いたという。

そんな中で唯一生前に仕上がっていた曲が、ひとつだけある。ブラー/ゴリラズのデーモン・アルバーンが共作・プロデュースした「Cosmosis」だ。約20年前に出会った彼とトニーは、ザ・グッド、ザ・バッド・アンド・ザ・クイーン及びロケット・ジュース・アンド・ザ・ムーンの2バンドを相次いで結成。ほかにも数多のプロジェクトで行動を共にし、トニーは、フェラ・クティを除いて最も長く、かつ密なコラボ関係をデーモンと結ぶことになる。またデーモンにとっても、2000年代以降活動域を広げていく上で、トニーがカタリストの役割を果たしたことはご承知の通りで、最愛のバンド仲間・親友・師のためならと、特別に取材に応じてくれた。以下は、「Cosmosis」のセッション、アフリカン・ミュージックへの情熱、そしてトニーとの関係について彼が語る、貴重なインタビューである。


トニー・アレンのドラムは「宇宙」

―あなたとトニーは多くの時間を一緒に過ごしてきましたが、彼は以前からこの『There Is No End』のような、若い世代と共演するアルバムを作りたがっていたんでしょうか?

デーモン:っていうか、トニーはいつだって若いアーティストに関心を持っていたし、そもそもコラボレーションが大好きだったんだよ。そして、彼は常に音楽を作り続けていた。立ち止まることを知らない人なんだ。自分の豊かな体験を次世代のミュージシャンに引き継ぐことを、いつも考えていたっけ。それを自分の使命のひとつだと捉えていたようなところがある。だからこういうアルバムが完成したことを喜んだんじゃないかな。と言いつつ、実はほかの曲はまだ聴けていなくて、『Cosmosis』の話しかできないんだけど、あの曲のセッションは、僕がトニーと過ごした最後の時間になった。親愛なる友とね。そういう意味では本当に貴い時間だったよ。



―『Cosmosis』は、作家のベン・オクリとグライムMCのスケプタという、ふたりのナイジェリア系英国人をフィーチャーし、”3世代のナイジェリアンの対話”という形をとっています。どのような経緯でこの組み合わせに行き着いたんですか?

デーモン:最初はベンとトニーの組み合わせから始まったんだ。僕とこの曲を共同プロデュースしたレミ・カバカ(筆者注:同じくナイジェリア系英国人で、デーモンの右腕的存在であり、ゴリラズのラッセルの声を担当している)が、以前からトニーとスポークンワードの曲を作りたがっていて、まずベンに声をかけた。彼とトニーの間には完全な意思の疎通があったと思うよ。それにベンのような文筆家にとってこういうレコーディングに参加するのはスリリングな体験だっただろうし、僕らにとっても、彼みたいに学識を備えていて筆が立つ人と過ごすのはスリリングだったし、お互いにとってプラスの結果が得られた。あのセッションは本当に楽しかったし、僕の心には真に喜びに満ちた時間として深く刻まれているよ。

―じゃあ、スケプタはあとから加わったんですね。

デーモン:そういうわけでもなくて、最初から説明すると、僕らはトニーの80歳の誕生日を祝うために、去年11月にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでパ-ティーを開こうと企画していたんだ(筆者注:トニーは昨年8月に80歳の誕生日を迎えるはずだった)。それで色んな人に出演を打診して準備を進めていて、そのプロモーションに使うために、トニーを交えてゴリラズ名義の曲をひとつ作ろうと思い立ったのさ。それが「How Far?」(筆者注:昨年5月初めにトニーを追悼するべく急遽リリースされた)で、スケプタを起用しようと決めたんだけど、同時期に『Cosmosis』も進行していたから「こっちにもスケプタをフィーチャーしようか」という話になった。だから、同じセッションで2曲レコーディングしたんだよ。



―スポークンワードというアイデアから始まったからこそ、『Cosmosis』でも「How Far?」でも、ドラムだけでなくトニーの声が聴けるんですね。

デーモン:ああ。こういう曲にして本当に良かったと思っているよ。まさかあれが最後になるとは夢にも思っていなかったから。トニーは、僕がこれまでに出会って時間を共有してきた大勢の人たちの中で、最も生命力に溢れていて、元気で、タフな人間だった。マジな話、誰よりもトニーが長生きするとみんなが信じていたくらいだよ。亡くなったと知らされた時に受けたショックの大きさは、言葉では言い表せない。当時僕はデヴォンにある家に滞在していて、家族のために夕食を作ろうと思っていたところだった。そこに電話がかかってきて、足の力が抜けて床に崩れ落ちてしまった……。以来、いつも彼のことを考えているよ。恋しくてしょうがない。僕にとって真に特別な存在だったからね。

―ざっくりした質問になりますが、そんなトニーのミュージシャンとしての魅力は、究極的にはどんなところにあると思いますか?

デーモン:トニーはユニークなんだよ。そして彼のドラムは……なんていうか、コズミックなんだ。宇宙の幾何学や振動と直結していて、同時に極めて本能的で、極めてモダンで、彼が生み出したリズムのパターンから、途方もなくたくさんの音楽が生まれることになった。だからこそ、年を取ってからも若いミュージシャンと何の苦労もなくコラボできたんだろうね。

「人生が変わった」トニーがもたらしたもの

90年代を通じてブリットポップの顔役であり続けたデーモンが、アフロビートのレジェンドの知己を得るきっかけとなったのは、ブラーの2000年のシングル「Music is My Radar」だった。両親の影響で幼少期から欧米圏外の文化に親しんで育った彼は、当時アフロビートにのめり込んでいたことから、何の気なしに曲の中でトニーを讃えて”彼は僕を踊らせる”と歌った。当のトニーはそれまでブラーというバンドの存在すら知らなかったが、自分が歌詞に登場する曲があると聞き及んで興味を抱き、デーモンとコンタクトを取るのだ。

以後、意気投合したふたりは様々な形でコラボレーションを重ねるわけだが、これと同じ頃にデーモンは、英国のNGOオックスファムに招待されてマリを訪れ、現地のミュージシャンたちとソロ・アルバム『Mali Music』(2002年)を作るなどし、さらにアフリカン・ミュージックに傾倒。欧米のミュージシャンとアフリカ各地のミュージシャンを集めてライヴ・パフォーマンスやアルバム制作を行なう”アフリカ・エクスプレス”を主宰し、マリやアルジェリアのアーティストの作品をプロデュースしたりと、トニーの力を借りながら多岐にわたる活動を通じて、アフリカン・ミュージックの偉大さを広く知らしめてきた。



―あなたとトニーの関係の始まりは「Music Is My Radar」でした。それまでのブラーには無いアフロビート由来のリズムを消化した曲で、驚かされたのを覚えています。

デーモン:うん。あの曲を書いて、本当に良かったと思う(笑)。マジな話、あの曲なしにはトニーに会えなかったわけで、僕のその後の人生は全く違うものになっていたんじゃないかな。ゴリラズもこんな風に発展しなかったかもしれないし、ほかの色んなプロジェクトも生まれなかったかもしれない。こういうことって、それが自分の全人生にどれほど大きなインパクトを与えるのか全く予期しないで、何気なくやっていたりするんだ。だからこのストーリーの教訓は、「どういう結果になるのか行動を起こす前によく考えること」だね(笑)。でも何よりも大切なのは、常に正しい動機で物事に取り組むってこと。つまりピュアな動機だよ。時には自分が望んだ結果に辿り着かないかもしれないけど、ピュアで正しい動機を携えて旅立てば、必ずマジックが起きるんだ。


2002年にマリを訪れたデーモン・アルバーン

―そしてあの曲のリリースと前後して、あなたは初めてマリを訪れています。当時アフリカに目を向けていたのはなぜだったんでしょう?

デーモン:ひとつの理由があるというより、たくさんの要素が連なっていった感じなんだよね。あの曲を書き、トニーと出会って、オックスファムの招待を受けた。ただ僕としては、親善大使としてマリに行くのはご免だった。そういうことには興味が無いんだよ。ほら、大英帝国の最後の燃えかすを引きずっているみたいで(笑)、うまく言えないけど、間違っているような気がした。ただ、アフリカン・ミュージックをものすごくたくさん聴いていたのは事実で、そのきっかけはオネスト・ジョンズとの出会いだったんだよ(筆者注:オネスト・ジョンズはロンドン西部にあるインディ・レコード店。欧米圏外の音楽を含む幅広いセレクションで知られる。デーモンはオーナーと親交を深めて、2002年に独自レーベルを共同設立。世界各地のアーカイヴを掘り起こした数々の名コンピを送り出している)。

だからオックスファムには「現地のミュージシャンと会うことには興味がある」と伝えたのさ。そうしたらあっさりと望みを叶えてくれたんだ。孤児院とか浄水場の視察はしなくていいと(笑)。もちろんそれも重要なんだけど、僕はミュージシャンであり、音楽を介してなら善意をもって貢献し、現地の人と関わることができる。つまり完全にピュアでいられる。そんなマリでの体験がアフリカを巡る僕の旅、そしてそれ以降起きたあらゆる出来事の始まりであり、トニーはその過程において指導者かつ案内人だったのさ。彼は音楽の話だけでなく、アフリカの哲学や礼儀についても教えてくれたよ。礼儀って、異国を訪れる時には本当に重要なんだ。僕がそれを最初に悟ったのは、日本に行った時だったんじゃないな。初めて訪れる場所ではその国特有のエチケットを理解し、カルチャーについてセンシティブでなければ、いい形でコミュニケートできないから。

異なるカルチャーを通じて学ぶべきこと

―トニーと固い絆が生まれたと実感したのはいつ頃でした?

デーモン:そうだな、初めてコラボした時のエピソードを聞いてもらうのがいいのかもしれない。僕は彼のアルバム『HomeCooking』(2002年)で『Every Season』という曲に参加したんだけど、フランスのテレビ番組でライヴで演奏することになって、ものすごく興奮していた。その一方で、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのイブラヒム・フェレールともコラボをしたばかりで(筆者注:彼は2001年発表のゴリラズの1st『Gorillaz』収録の「Latin Simone」にフィーチャーされている)、同じ番組にブエナ・ビスタも出演することが分かって、僕は両方のパフォーマンスでプレイすることになったんだよ。

で、まずはブエナ・ビスタのパフォーマンスが終わってステージを転換している時に、番組の司会者だったレイ・コークスっていうヤツから、マルティニーク産のホワイト・ラムのボトルを渡されて、愚かにも吞み始めちゃったのさ。あまりにもハッピーだったからね。これが大失敗で、次にトニーのパフォーマンスが始まる頃には完全に酔っ払っていて、カンパイバンザイゲットハイ!だ(笑)。当時の僕はまだアフリカのミュージシャンと共演するにはあまりにも未熟で、ポリリズムを理解し切れていなかったし、ダウンビートが掴めなくて、どこで歌い始めていいのか分からない。そのまま演奏だけが続いて、どういうわけか僕はドラムを叩いているトニーの後ろに座り込んで、彼を背後から抱きしめて、寝ちゃったんだ(笑)。その後の記憶は全く無い。翌朝ツアー・マネージャーに起こされて、眠気まなこで「昨夜は最高だったね!」と言ったら、彼が険しい表情で一部始終を説明してくれた。もちろんすぐにトニーに電話して謝ったんだけど、優しく「大丈夫だよ」と言ってくれたんだよね。あの瞬間、彼は僕の親友になった(笑)。なんて素敵な人だろうって思う。とにかくラヴリーな人なんだよ。

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―アフリカ・エクスプレスにもトニーは度々参加していましたが……。

デーモン:うん。計り知れない貢献をしてくれたよ。

―あのプロジェクトを通じて、欧米社会におけるアフリカの音楽への理解や認識について、どんなことを学びましたか?

デーモン:そうだな、昔は本当にひどかったから、もちろん理解は進んでいて状況は改善されつつあるけど、アフリカの音楽はものすごく長い間”ワールドミュージック”と括られてきた。この枠そのものが、大きな問題を孕んでいたと思うよ。僕は昔から、欧米圏外の音楽から学ぶべきことは限りなくたくさんあると感じていたし、自分が属するカルチャーの音楽から学べることってそんな多くないと思うんだ。それは、欧米の音楽に価値がないという意味じゃない。異文化のヴァイブレーションに周波数を合わせた時にこそ、自分が何者なのか、より大局的に捉えることができるんだよ。僕らはひとりひとりが独立した個人で、それぞれが己の人間性を定めるのだという考えは間違っている。みんな、この地球上に張り巡らされた巨大な有機体の一部分を形成していて、誰もがお互いに依存して生きている。お互いを尊重し、お互いの考えに耳を傾けなければいけないんだよ。

―ところで、数年前にとある雑誌の記事でトニーは、”お気に入りのデーモン・アルバーンの曲”として、ゴリラズの「On Melancholy Hill」とロケット・ジュース~の「Poison」を選んでいました。つまりあなた特有の、悲しみや憂いを含んだ美しいメロディに惹かれていたことを意味していますよね。

デーモン:うんうん、僕もそれなりにトニーに評価してもらえていたのさ(笑)。だからこそコラボしてきたわけだし、彼とプレイすることで本当に多くを学んだよ。ザ・グッド~とロケット・ジュース~では、トニーのやり方に自分を順応させる必要があった。絶対に自分のビートを変えないから、彼のビートに合わせて曲を作って、プレイしなくちゃいけなかったんだよ。でもそれって素晴らしいことだし、常に何かしらチャレンジを突きつけられた。たまにトニーのドラムを録音してループし、それを練習に使ったりもしたっけ。彼がドラムで伝えようとしていることにちゃんと耳を傾けて、心を寄り添わせてプレイするのは容易じゃない。ハイハット、スネア、バスドラム、それぞれのパターンが、トニーのオーケストラの中で担っている役割を識別しないといけない。マジな話、彼のドラムを聴いているだけで、どんどん曲が生まれるんだよ。終わりがないんだ。無限の可能性がある。それがトニーの神髄だと思う。トニー・アレンとは無限かつ不滅の可能性、だね。それがつまり「Cosmosis」の意味なんだよ。

【関連記事】追悼トニー・アレン、アフロビート・ドラミングを生み出した男


ロケット・ジュース~「Poison」を一緒に演奏するトニー・アレンとデーモン



トニー・アレン
『There Is No End』
2021年6月2日発売
視聴・購入:https://tony-allen.lnk.to/ThereIsNoEnd

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