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高田渡のカバーアルバム『コーヒーブルース』、高田漣と父子の思い出を振り返る

Rolling Stone Japan / 2021年6月8日 11時30分

高田渡

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年5月は高田渡特集。第5週は高田渡の息子であり、シンガー・ソングライター、マルチ・ミュージシャン、プロデューサーである高田漣をゲストに招き、高田渡のカバーアルバム『コーヒーブルース』と共に高田渡を振り返る。

田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは高田渡さんの「コーヒーブルース」。1971年のメジャーデビューアルバム『ごあいさつ』の1曲。今月の前テーマはこの曲です。

関連記事:高田渡が探った自分のルーツ 佐久間順平とともに振り返る

今月2021年5月の特集は高田渡。2005年4月16日に亡くなって、今年で17回忌。彼を偲んで様々な企画が発表されております。永遠の高田渡。今週は第5週目。最終週のゲストは高田漣さん。高田渡さんの御子息で、シンガー・ソングライター、マルチ・ミュージシャン、プロデューサー。細野晴臣さんのバンドリーダーとしても知られております。今、最も多角的に活動されている40代の1人でしょう。高田渡さんの曲を集めたカバーアルバム『コーヒーブルース』が2015年に出ました。今週はご本人にそのアルバムを語っていただきます。よろしくお願いします。

高田漣(以下、高田):よろしくお願いします。

田家:アルバムのライナーノーツに、父の歌を歌えるようになったのは最近(リリース当時)だと書いてましたね。

高田:震災の影響がすごく大きくて、その後にいろいろな場所でちゃんとしたPAシステムもないような状況でライブをする機会がある中で、アンプラグドなアコースティックギターと歌という風に自分が徐々にシフトしていくような時に、父をはじめとして、子供の頃から聴いていた先輩たちのフォークソングをもう一度追体験していく感じがありまして。そこから一気に父の歌に戻っていったという感じでしょうかね。

田家:アンプラグドな形に対して改めて惹かれるようになっていったと。

高田:それが一番大きなきっかけでしたね。あとは、日本語の表現のダイレクトさをもう一度思い知ったというか。自分たちが伝えたいことがあるなら、それを日本語で表現するのが日本人にとって当たり前のことで。そういうことに気づかないほど、自分は長いこと洋楽の世界にいすぎたのかもしれません。

田家:なるほど。どんなアルバムにしようかということを考えて作られたんですか? アルバムを作るということが先にあったんでしょうか?

高田:そもそも作品全体の音楽的な青写真というよりも、もし父と一緒に作品を作るのであれば、きっとこういう手段を取るだろうなという感じで録っていたことは確かでしたね。クリック音を入れないとか、歌とギターを一緒に録って、なるべく一期一会の雰囲気を大事にするとか。ある種、自分ではあるんだけど、父のアルバムをプロデュースしているようなイメージでやっていましたね。

田家:残念なことは父の作品をプロデュースできなかったことだ、と仰っていましたもんね。そういうライナーノーツを参考にしながらアルバムの話をお伺いしていこうと思います。そういう話をお伺いして、この曲が一曲目だと、なるほどと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。カバーアルバム『コーヒーブルース』の一曲目、高田漣さんで「仕事さがし」。



田家:これは実際にステージで二人でいっしょにやられたことがあるという。

高田:そうですね。大概の場合、父はこの曲から始めてましたね。

田家:一緒にやるようになったのはいつからなんですか?

高田:元々17歳くらいの頃に僕がだんだんギターを弾くようになってきて。父も面白がって、最初はステージで1、2曲一緒にブルースを演奏するようになったのが最初で。その頃は賑やかしというか、自分もそこまでいろいろなことできなかったですし。でも何年も経っていくうちに、少しづつレパートリーが増えてきて、いろいろな地方の方が漣君も連れてきてよっていうことで一緒に旅をすることが増えてきたという感じですね。

田家:「仕事さがし」は渡さん本人も忘れてた曲なんですって。

高田:そうみたいですね。恐らくそれこそ1stアルバムの頃に歌っててもおかしくなかったんですよね。ライブ音源も残ってるんです。曲調はもうちょっとブルージーな感じだったんですけど、すっかり父は忘れてて。友人だったシバが歌っていたのを聴いた父が感動したらしく、後日シバの家に電話をかけてきて「この前歌ってた仕事さがしって曲の歌詞を教えてくれ」って言ったという伝説がありますね。だから、高田渡の曲ではあるんですけど、シバというフィルターもあって完成した部分もあります。

BGM(仕事さがし / 高田漣)

田家:再び「仕事さがし」を聴きながら、話を進めて参ります。アルバムを作ってみようと思った時に、どういう手の付け方をされていったんですか?

高田:父が生きていたとして、じゃあ一緒に今までの楽曲でアルバムを作ろうと言った時に歌うであろう曲をなるべく選ぶようにしてましたね。普段のステージで一緒にやっていた、ライブレコーディングをしているような感じで選曲しました。

田家:かなり選曲やアレンジを悩まれたわけでしょう? 

高田:そうですね。あるいは、父は最近この曲歌わないけどこんないい曲あったんだよって父に伝えたいような思いもあって選んだ曲もあったりしますね。

田家:それはある種の感傷的な作業でもあったんですか?

高田:ノスタルジックな気持ちもなかったわけではないですけども、不思議と録音しながら思い出される話は、高田渡の面白かったこと。一緒に演奏していて笑ってしまったこととか、一緒に旅をしていて馬鹿みたいに笑っていた風景が浮かぶ方が多かったですね。

田家:それでは、このアルバムのタイトル曲「コーヒーブルース」をお聞きいただきます。



田家:これもライナーノーツにお書きになっていましたが、漣さんは幼稚園の時にマンドリンの絵を書いてそうですね。

高田:そうですね。マンドリンやバンジョーの絵ばかり描いていましたね。

田家:身の回りにいつも楽器があるお子さんだったんですね。

高田:逆にいうと、楽器や音楽家以外がほとんどいないような世界にいたので。小学校になって友達の家に行くまで、自分の身の回りにいる髪が長くて靴もろくに履いていない、そういうヒッピーみたいじゃない人たちが普通なんだと。世の中のお父さんはメガネをかけて新聞を読んで、毎日会社に行く人たちなんだっていうのをその時に初めて知ったくらい、ある種の劣悪な環境で育ちましたね。

田家:僕も当時そういう格好していて、人のことは言えないんですが(笑)。

高田:たぶん子供の世界って多かれ少なかれそうだと思うんですよ。お肉屋の子供がずっとお肉に囲まれて育つように、僕にとってはそれが音楽の世界だったわけで。今こうやってミュージシャンになって、皆さんが僕の子どものころを振り返ると、特異なケースに思われるかもしれませんが、自分にとってはごく当たり前の世界というか、職人の子供が職人になったみたいな部分はありますね。

田家:子供の頃はバンドごっこをやっていたそうですね。

高田:これは父の意図もあったかもしれないですけど、楽器のおもちゃが多かったんですね。本物の楽器もあるんですけど、恐らく本物の楽器は触られると困るじゃないですか(笑)。だから、触られないようにする最善の手立てはおもちゃの楽器を与えることなんですよ。身の回りにおもちゃの楽器がたくさんありまして、当時僕は太鼓が好きだったんです。なので、太鼓を並べてドラムセットみたいにして、近所の友達を連れてバンドごっこをしていましたね。

田家:打ち上げごっこもしていたとか(笑)。

高田:バンドごっこは前菜ですね。バンドごっこをやったあとは、自分が住んでいたアパートの台所でやるんですけど、その後にバンドごっこで観客役だった人とは別の部屋を用意して、そこでジュースが用意されていて乾杯して打ち上げごっこが始まるんです。その一連の動作が、子供が見ている父親の日々の営みだったんでしょうね。

田家:その時からバンドリーダーだったんですね。

高田:当時から今と大してやってることが変わらないという。悲しいですけど(笑)。

田家:17歳の時に初めてステージに立ったのは吉祥寺のライブハウスと。

高田:そうです。吉祥寺の「のろ」っていうお店で毎年やっていたんですけど、色々な方が夏に集まってライブをするんです、そこで父が出るはずだったんですが、僕もその頃に音楽に興味があって照明のお手伝いをしていたんです。その年に父が最初の大きな入院をしてライブに出れなくなりまして、中川イサトさんが「本当は最後に渡が出てきて歌うはずだったんですけど、この責任は息子に取らせます」って言って急に呼び出されて。ええ! と思いながらも、照明席からステージに行って、エレキギターを渡されて弾いたのが最初でしたね。それが夏休みの8月最後の週の日曜日だったんですよ。新学期になって9月の最初のあたりに西岡恭蔵さんのアルバムで弾いてデビューするんですけど、それは事前に決まっていて。自分の中である種の臨戦体制だったので、なんとなくステージに上がったのはいい度胸試しだという感じがありましたね。

田家:そんな話を次の曲のライナーノーツでお書きになっています。アルバム『コーヒーブルース』から「ひまわり」。



田家:この曲は他と雰囲気が随分違いますね。

高田:父がすごい好きだったフェデリコ・フェリーニの映画みたいなイメージで、せっかくだから一曲くらいストリングスとか入ってるアレンジをしてみたいなと思ったんです。

田家:さっき17歳の話も出ましたが、渡さんの17歳の日記『マイ・フレンド: 高田渡青春日記1966ー1969』の中でも、彼がバンジョーやキーホルダーを作ったという話もありましたもんね。

高田:父も自分なりに模索して音楽に没頭し始めようとしている頃ですからね。僕も読んでいて、変な話、僕の中には子供の頃から知っている高田渡しかいないわけで。高田渡にも青年時代があった、読んでてそこがすごくグッとくるところではありましたね。

田家:父にもこういう17歳があったんだと。

高田:それも自分が思っていたよりも果敢というか。楽器を自分で作ろうとするし、ピート・シーガーにも手紙を書こうとするし。晩年の高田渡からすると、想像もつかない無鉄砲な若さがまだあったんだなと思いましたね。

田家:フォークソングのことを知りたいからと評論家の三橋一夫さんの家に行ったり、添田唖蝉坊について教えてと言ってみたり。それは晩年とは違う若さなんでしょうね。

高田:そうですね。読んでて、ようやく高田渡という人の語られなかった若い頃の部分が見えた気がしましたね。

田家:書き残さないと語られないんでしょうね。

高田:でも、冗談でよく父をよく知る人が話してましたけど、今回出した写真集は父も喜んだと思うんですよ。だけど、日記に関しては、きっと彼が天国か地獄で「なんてことをしてくれてんだ」って言ってたに違いないと思いますよ(笑)。

田家:写真集は喜んでるんでしょうね。

高田:そうですね。なのでちょっとだけ親孝行したつもりですが、日記に関してはどこかに呪いが来てるんじゃないですかね(笑)。

田家:でも、日記のおかげで分かったこともたくさんありますからね。漣さん自身は洋楽少年だったわけでしょう?

高田:まさに。小林克也さんのラジオ番組「Best Hit USA」をいつも聴いているような。でも普通の当時の若者でしたね。

田家:でもそういう音楽を聴いていると、お父さんのやっている音楽はちょっと違う物だと思いませんでした?

高田:洋楽だけじゃなく、当時の歌謡曲とかも聴いていたんですよ。ただ、それと高田渡らがやっている音楽は違うものと考えていたので、その二つが当時はつながりはしなかったですね。だから、テレビで大滝詠一さんや細野晴臣さんのYMOや松本隆さんのお名前を見ても、父が一緒にやっていた方というのはどこか繋がらないままでしたね。そういう方たちというのは1970年代から父と一緒にやっていた方で、今となって考えると、そういう音は繋がってるんだと思えますけど、当時は全然違う別の世界に見えましたね。かたや華やかな世界、かたやじめっとした世界(笑)。

田家:それでは次の曲をお聞きください。高田漣さんで「系図」。



田家:1972年のアルバム『系図』のタイトル曲です。詞が三木卓さん。漣さんは、これを渡さんの詞だと思っていらしたと。

高田:そうですね。この曲に限らず、子供ながらにフォークシンガーというのは自分の詞を歌ってるものだと思っていたんですけど、ある日母に言われてショックでしたね。あれ? 自分のことを自分で歌う人々じゃないんだ、という驚きがありました。

田家:でも詞の内容は渡さんのことだと思って皆聴くでしょう。

高田:そうですね、今でもそうやって誤解されている方も多い詞だと思います。

田家:1週目でも語っていらしたように、どんな詩人の詞でも結局彼のものになってしまういい例かもしれませんね。

高田:高田渡が歌いたいと思う歌詞は、どこか自分で重なる部分があるということなんだと思いますね。

田家:この「系図」は細野さんの存在感が強いアルバムなんですが、その話この後にまた改めてお聞きしようと思います。



田家:この曲はステージでご一緒に演奏されたりしていたんでしょう?

高田:そうですね。今でもよく覚えてますけど、父がこの曲を初めて歌ったのが、何周年かの記念の時で。当時「歌うシーラカンス、高田渡は新曲を歌うのだろうか?」ってチラシに書かれていたんですよ。この曲はその時に初めて披露したんだと思うんですけど、誰も新曲だと気づかなかったんです。今までの曲と何ら変わらかなったので。それくらい完成されていたというか、気がついてみるとこの曲が高田渡の晩年の傑作、ひょっとしたら生涯通じてみても代表作の一つなんじゃないかなと思います。

田家:そう思う理由はありますか?

高田:この曲の作詞は菅原克己さんなんですが、実は父と菅原さんは因縁というか云われがありまして。高田渡は若い頃から、この菅原さんの詞の「ブラザー軒」を歌にしようということはトライしていたんですよ。ずっとそれができないままでいて、菅原克己さんのお弟子さんの中に父を旧くから知っている方もいて、「なんで渡ちゃんは菅原克己の歌を歌わないんだ」と言われたことがあったらしくて。父はそのことに対して、珍しく怒ったらしいんですよ。それくらい菅原さんの詞を歌にしたいという思いはあったらしいんです。ただ、若かりし頃の高田渡には、あの詞の世界観が早かったんじゃないかなと思って。自分がある種の主人公であり、幽霊の父親であり、年老いた主人公でありと、実年齢が追いついてようやく自分の中で歌になったというか。ともすると、他の高田渡の歌の多くは、若かった父が背伸びして老成している気がするんです。ただ、「ブラザー軒」を出した時にはそれがやっと追いついたというか。だから、本人にとっても歌に対して思い入れがあったと思うんですよ。だからすごく高いアベレージで、本人が入り込みすぎて歌えなくなってしまうんですね。どこか落語の「芝浜」に近い世界というか、高田渡が歌に捉われちゃうという意味でも興味深い曲でしたね。

田家:菅原克己さんは、戦時中に反戦運動で投獄されていた方で、ブラザー軒も仙台に実在の洋食屋だったと。

高田:菅原さんは調布に住んでいらして、高田渡と近い距離感にいたんですよ。あまり言われない話なんですけど、父がすごく尊敬していた金子光晴さんも武蔵野にいらしていたりとか。どこか自分の近くにいた方というのも関係しているような気がしまして。菅原克己さんのこともずっと気にしていらしたんです。晩年に父が遺した言葉の中で、新たに作りたいアルバムの中で歌いたいと言っていたのが菅原克己さんの詞なんですね。ようやく菅原さんの詞に自分が手をつけられ始めた時に亡くなったんだと思います。

田家:やりたいことがまだたくさんあったんですね。そういう中で、次の曲も、渡さんも漣さんも好きだった一曲をお送りします。



田家:この曲は親子揃ってお好きだと。

高田:さっき話に出た、父が自分の歌詞を歌ってないということについてもう一つ驚きだったのが、この曲が昔CMで流れた時に、父の歌だと思っていたら、実はエノケンさんのカバーだったということで。子供ながらにカバーということに驚いて、自分の歌詞でもなければ、自分の歌でもない、何なんだろうということでショックで。しばらくは父の曲の何を聴いたらいいか分からなかったですね。保育園の頃でしたけど。

田家:でも保育園の頃からカバーという意識はあったんですね。そういう方が、父親の曲をカバーするというのは普通のカバーじゃないですよね。

高田:どこかで父がフォークソングを伝承歌として捉えていたので。もちろん父親なんですけど、これが後世に残ればいいなという思いも何処かにはありましたね。

田家:「私の青空」はホームソングでもありますが、漣さんの家はいわゆるどこにでもある家庭ではなかったわけじゃないですか。そういう意味では、違う目で父親を見た時期はあったんですか?

高田:例えばキャッチボールをしたみたいな父親像はないんですよ。でも写真の中でもそうですし、僕の記憶の中でも、たくさん音楽の場に連れて行ったりしてくれて、何かそういう場を提供しようとしていたんじゃないかなというのはうっすら思いますね。

田家:なるほどね。それでは続いて、アルバム13曲目「ホントはみんな」。



田家:2007年のCMソング。作詞が斎木良二さん、作曲が徳武弘文さんです。

高田:僕はこのCMをよく覚えていて、あれ! これ親父だ! と思った印象が残ってます(笑)。

田家:ライナーノーツによると、今回の『コーヒーブルース』はアナログ録音に拘っていて、細野晴臣さんの『HOSONO HOUSE』が参考になったと。

高田:特にこの曲のイントロはイメージしてます。温かみのある音にすごく拘って。初めて自分の作品でアナログ録音しました。

田家:高田漣さんと細野さんの関係は、改めて濃い物があるなと思ってこのアルバムを聴いていました。

高田:そうですね。父が亡くなった年から、細野さんのバンドをご一緒させていただいたりしたので。父に教わりきらなかったことを、細野さんに教わったような感じはしましたね。

田家:渡さんが亡くなった日に、細野さんが出る埼玉県のジョンソン基地というところで開催されたハイドパークコンサートというのがあって、その出演依頼の電話がプロデューサーの麻田浩さんからかかってきた日だった。これは『細野晴臣さんと彼らの時代』で読みました。

高田:自分が細野さんのバックで出ることは決まっていたんですけど、そのステージに高田渡を呼びたいと細野さんが仰り始めたらしく、急な電話でびっくりでした。でも、麻田さんの電話は、ぼくが受けたわけじゃなくて、混線で入ってきたんですよ。他の人と電話している時に、急に声が麻田さんになって。お悔やみの電話かなと思ったら出演依頼だったので、今となっては作り話みたいな偶然ですよね。

田家:そこから細野さんと一緒にやるようになって、アメリカツアーも一緒に行かれてるんですもんね。

高田:細野さんに限らずなんですけど、父が色々な方と繋いでくれてるのかなと思いますね。三浦光紀さん然り、いろいろな方との出会いは、全て父が糸を引っ張ってるような気がします。

田家:本日最後の曲はアルバム14曲目「おなじみの短い手紙」です。



田家:このアルバムの最後の、「ホントはみんな」、「おなじみの短い手紙」、「くつが一足あったなら」が良かったですね。

高田:ありがとうございます。この順番にレコーディングしたわけじゃないんですけど、父のやったようになぞる作業から、段々と自分のカラーが少しずつ出てきたというか。自分の次の作品につながるヒントが、少しずつ定まってきたんです。特にこの「おなじみの短い手紙」は、それこそ父と一緒にやり始めた1990年代のレコーディングスタジオのことを急に思い出したりして、当時の懐かしい機材を使って録音したりしましたね。

田家:なるほど。何を伝えたいのかが、スタイルじゃないところで分かってくる曲ですね。伝えたいことはたくさんあると思いますが、17回忌の中で改めて高田渡という人がこの後どのように若い人に伝わっていけばいいと思いますか?

高田:自分も自暴自棄になることがあるんですけど、高田渡みたいな人はもう世の中に生まれないんじゃないかって、よく色々なレジェンドの話をすると出てきますが、今回写真集とか父の作品を聴いて思うのが、いつの時代にも高田渡的な若い人たちってたくさんいて、でも自分たちが年老いていく中でそれをキャッチできなくなってきてるんじゃないかなと思っていて。でも絶対いるんですよ。それを高田渡という言葉で言うべきじゃないと思うんですが、比喩的にいえば新しい高田渡。そういう人たちが表現できる場所があるのが理想だと思うし、かつてはそれがURCやベルウッドであり、三浦光紀さんらが作り上げたある種の理想郷であって。そういう意味でのフォークソング、グッドミュージックが残っていくのが理想かなと思いました。

田家:いつの時代にも”高田渡的”な若い人たちがいる。なるほど。ありがとうございました。

高田:ありがとうございました。



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」高田渡特集Part5。高田漣さんをゲストにお送りしました。今流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

1970年代は断絶の時代だと云われていました。僕ら若い人は、30歳以上は信じるなと言っていました。大人というのは全然違う価値観で生きている人たちなんだと思っていました。でも今は違いますね。高田渡さんの音楽は世代を超えて、息子さんが伝える側に回っている。これはあの頃のミュージシャンたち、自分の親とは話が合わないなと思った人たちが、子供達だけには自分たちのなにかを伝えようと思って、子供たちにビートルズやボブ・ディランを聴かせたりしてました。僕もその一人です。

高田渡さんは、息子さんにそれを託して、息子さんがそれを伝えているという親子でもあります。コロナで家族関係がバラバラになったりもする時代です。ライブもできなくなって、音楽とは何だろう と問い直されている時代に、彼が何を歌ってきたのか? 彼はどんな生き方をしてきたのか? ということを、格差社会の中で改めて光を当てて、受け止めてもらえるといいなと思いながら一ヶ月を終えたいと思います。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
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