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甲斐バンド、1974年から1977年までの歩みを振り返る

Rolling Stone Japan / 2021年6月19日 10時30分

甲斐バンドのデビュー45周年のライブベストアルバム『サーカス&サーカス2019』

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年6月は甲斐バンド特集。第1週は甲斐バンドのデビューアルバム『らいむらいと』から3枚目のアルバム『ガラスの動物園』を基に、1974年から1977年までの甲斐バンドを振り返る。



田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、甲斐バンドで「吟遊詩人の唄」。2019年に発売のデビュー45周年のライブベストアルバム『サーカス&サーカス2019』からお聞きいただいております。

今週の前テーマ、というより一曲目という感じですね。この曲のオリジナルは、1974年12月に出たデビューアルバム『らいむらいと』の曲です。このアルバムの他の収録曲は全部オリジナルなのですが、この曲だけイギリスのシンガーソングライター、レオ・セイヤーの1974年の「ONE MAN BAND」という曲に、甲斐さんが歌詞をつけたカバー。1974年当時の新曲。発売されてすぐに歌詞をつけて歌ったんでしょうね。ライブのお客さんの歓声をお届けしたくて、長めにお聞きいただきました。

2019年に発売された45周年のライブベストアルバム『サーカス&サーカス2019』は、これまでのライブからのベスト盤でした。今お聞きいただいたのは、1977年12月の中野サンプラザ公演、40年以上前です。甲斐さんと一緒に声をあげていたあなた、今おいくつなんでしょう? 甲斐バンドの初めてのライブアルバム『サーカス&サーカス』に収録されていたものが、この45周年盤に収録されました。

今月2021年6月の特集は、甲斐バンド。1974年のデビューで、1986年に解散しました。1996年には再結成されて、何度となく再び集まってライブやツアーを行ってます。今年もツアーが進行中で、6月8,9日にはBillboard Live Osakaでライブがあります。なぜ今甲斐バンドなのか? 1986年6月に武道館5日間公演で解散したんですが、これは日本の音楽史上最大規模の解散コンサートです。ここから数えて35年、改めて軌跡を辿ってみようと思いました。

甲斐バンドとはどんなバンドだったのか? 日本の音楽シーンの中でどういう存在だったのか? 乱暴に言ってしまうと、はっぴいえんどからBOØWYに至る過程の最重要バンドだと思ってます。もちろんはっぴいえんどとBOØWYは全く別の存在のバンドですが、時系列で見ていくとその間がすっぽり抜けていて、そこを支えていたのが甲斐バンドだったという気がしております。まだロックバンドが不遇の1970年代から1980年代への橋渡しになった。メジャーシーンに影響を与えながら自分たちのスタンスを崩さなかった。

1979年から1982年まで、年間のコンサート動員数は1位ですよ。チューリップとかアリスとか代表的なライブバンドはあったんですが、チューリップもメンバーが交代する時期で、アリスは1981年に活動休止してしまいましたからね。甲斐バンドはずっと年間コンサートの記録を持っていた。それでいて、シーンに流されないで誰もやってこなかったこと、誰も行かなかった道を歩き続けた、メジャーの中のカルトヒーローと言っていいでしょう。1986年に解散したときには、テレビでドキュメンタリーが放送されたんですが、そのタイトルが「十二年戦争」。自分たちのキャリアを戦争に喩えたのがカッコよかったですね。ただ、あまり語られてきていないのではないか? この番組のディレクターは1960年代生まれで洋楽マニアなんですが、甲斐バンドは通っていなかった。「僕みたいな初心者にも分かるような番組にしてください」ということで、長年のファンの方には今更になってしまうような話も織り交ぜながら、当時割と近いところで見させてもらっていた一人として、自分の見てきたことを振り返りながら話ができたらと思っております。

好きだった曲、改めていいと思った曲、知ってほしい曲のオンパレードです。この「吟遊詩人の唄」が入ったデビューアルバム『らいむらいと』から、デビューシングル「バス通り」をお聞きいただこうと思います。2019年の『サーカス&サーカス2019』では、2010年に行われたツアーで歌ったバージョンが入ってます。その曲をお聞きください。

バス通り [Live] / 甲斐バンド

学生だった僕に愛が語れなかった。甲斐さんの高校時代の恋愛を歌った曲なんでしょうね。この曲の入ったデビューアルバム『らいむらいと』はアマチュア時代に書いた曲がメインだったので、当時も自分たちのキャリアの中ではこれはとりあえず置いておいて、という感じでした。そして、この後に出た『英雄と悪漢』からが僕らの本格的なスタートだ、と話していました。なので、この「バス通り」もライブであまり歌われていなかったと思いますね。

今お聞きいただいたのは2010年のライブアルバム『マイ・リトル・タウン』に収録されていて、2010年の4月に福岡のライブ喫茶「照和」で収録したものです。これは映画にもなりました。里帰りということでこのライブをやった、5日間のライブ・アット・照和というアコースティック・ギグの中のバージョンがこれでした。



1975年11月発売2枚目のアルバム『英雄と悪漢』の中から一曲目「ポップコーンをほおばって」。気持ちを落ち着かせながら話をしていこう、という感じですね。すでに血が騒いでおります。

なぜこの曲で始めないといけないのか? これには理由があります。1974年8月31日、甲斐バンドが上京する直前に福岡電気ホールでの旅立ちコンサートが行われました。収容人数1200人なのに2000人が集まったコンサートのアンコールの最後に歌われた曲です。これを歌って、彼らは東京に来た。この曲は、甲斐バンドがデビューするきっかけになった文化放送の「ハッピーフォークコンサート」で優勝した曲。そういう歴史的な位置づけもありますし、この曲の持つ若さ、青さ、未熟さのポエジー、青春のヒロイズムと言いましょうか。フランス映画、教会の鐘、天使の声。大都会の中の飛べない若者、飛ぶということと飛べないということをこんなにも分かりやすく歌ったと言うのは、当時本当に鮮烈に響きましたね。「ポップコーンをほおばって」は、この後バージョン違いでも出てきますが、先にオリジナルをお聞きいただきました。

甲斐バンドは福岡から上京しているわけですが、彼らを事務所のシンコーミュージックに紹介したのが、先輩、チューリップの財津和夫さんだったんですね。財津さんは当時、東京は外国よりも遠いと思っていたと話していました。甲斐バンドのデビューコンサートは神田共立講堂。でも、ゲストがチューリップで、チューリップが先に出番を終えるとお客さんがゾロゾロ帰ってしまった。そんな屈辱の始まりでした。さて、1975年と1976年の二枚のアルバムから本日お送りしようと思いますが、当時の東京との葛藤が鮮烈に歌われてます。1975年のアルバム『英雄と悪漢』から「東京の冷たい壁にもたれて」。



ちょっとクールな感じが、冷たい壁にもたれている感覚が出ているんではないでしょうか。甲斐バンドは今3人で活動しています。甲斐よしひろさん、松藤英男さん、田中一郎さん。田中一郎さんは当時リンドンというバンドに在籍していて、その後にARBに行って1983年から甲斐バンドに加入しました。オリジナルメンバーは、甲斐よしひろさん、ギターが大森信和さん、ベースが長岡和弘さん、ドラムが松藤英男さん。長岡さんは1979年に脱退して、キャニオンレコードに入ってヒットディレクターになります。大森さんは2004年に52歳で亡くなってしまうんです。そして今の形になります。

全員が福岡出身でライブハウス、当時はフォーク喫茶「照和」で活動しておりました。皆それぞれ自分たちのバンドを持っていたんですね。甲斐さんは高校生の時にノーマン・ホイットフィールドというカントリーバンドをやっていました。これは今改めてお伝えしないといけないことなのですが、ノーマン・ホイットフィールドはモータウンレコードのソングライター、プロデューサーで、マーヴィン・ゲイの「悲しいうわさ」を作った人ですね。そして、カントリーバンドだった。これが甲斐バンドを考える時の一つの入り口になりますね。

甲斐さんは高校生の時に「照和」で歌っていて、一度旅行代理店に務めます。そこを辞めて、「照和」のウェイターに戻ってまた歌い出すんですね。それでさっき話した、文化放送のコンテストでソロで優勝してプロになって、その時にこのメンバーになりました。すでに大森さんと長岡さんとは一緒にやっていて、そこにピエロというバンドでギターを弾いていた松藤さんをドラマーとしてバンドに迎え入れる、そんな成り立ちです。

結成が1974年5月。当時のキャッチフレーズが、九州最後のスーパースター。これは事務所が考えたものですね。「照和」というのはチューリップや海援隊、甲斐バンドを生んでます。いま、井上陽水さんもその中に括られることが多いんですが、実は、陽水さんはアマチュア時代に「照和」で歌ったことがない。陽水さんはアンドレ・カンドレでまず東京に来てしまいましたから、福岡でライブをやったことがないんです。陽水さんが「照和」でライブをしたのはデビュー後です。これは付け加えておきましょう。

当時の福岡のバンド人脈というのは、東京で言うと細野晴臣さんとか小坂忠さん、鈴木茂さん、柳田ヒロさんとか、ああいう人たちを中心に蠢いていた。それに匹敵して、更に街全体がそんな感じだったと思うと当時の福岡は本当に凄いと思いました。続いて、甲斐バンド最初のヒット曲で、1975年6月発売の2枚目のシングル『裏切りの街角』をお聞きください。



この曲はシングルチャート7位。本人たちか希望したわけではないでしょうけど、有線放送大賞の新人賞をもらったりしてます。甲斐さんのエピソードは伝説的にいろいろあって、小学校の頃に紅白歌合戦に出場している曲の歌詞を全部暗記していたという歌謡少年でもありました。その一方で、その何倍か洋楽を聴く洋楽少年でした。高校生の時に、ノーマン・ホイットフィールドでCCRのカバーもやったりしていた話もこの後に出てきます。



1975年10月発売のシングル『かりそめのスウィング』。ロックとか歌謡曲ではない、レトロなジャジーさは当時新鮮でしたがヒットしませんでしたね。この時、一番ヒットしていたのがダウンタウン・ブギウギバンドの「スモーキンブギ」ですからね。あの3コードのわかりやすさに比べると、この曲はなかなかカテゴライズできなかったということは今ならよく分かりますね。「裏切りの街角」は、誰もが歌える歌謡曲的な一面で、対極的に大人っぽいことをしようとしたのが「かりそめのスウィング 」でしょうね。

冒頭で、甲斐バンドをはっぴいえんどからBOØWYまでの過程の最重要バンドであると話しました。はっぴいえんどは1970年から実質2年半の活動でアルバムも3枚しかない。その中の『風街ろまん』は、あまりにも傑作で史上に残る金字塔だったわけで、あのアルバムがずっと語り継がれるのは当然だと思います。ですが、バンドという集合体の歴史でいうと、その後のロック史で語られるべきものがどのくらいあるんだろうか、と思ったりするんです。どのくらいの期間活動して、何を残したのか? と考えた時に、甲斐バンドは、違う形でもっと語られるべきだろうというのが今月の趣旨でもある。ちょっと偉そうですね。

何が違うかというと、たとえば、『風街ろまん』は松本隆さんの都市幻想みたいなものが彼の言葉によって作り上げられてましたが、甲斐バンドはもっと生々しかった。1970年代の東京とか当時の都会の光と影が、特に2枚目と3枚目のアルバムが脈々と歌われている。そして劇的だった。そこには時代の青春みたいなものがあったことも付け加えなければなりません。例えば次の曲をお聞きいただこうと思います。1976年10月に出た3枚目のアルバム『ガラスの動物園』から「新宿」。



ルー・リードがニューヨークを歌ったように、甲斐バンドは新宿を、そして東京を2枚のアルバム『英雄と悪漢』、『ガラスの動物園』で歌いました。『ガラスの動物園』には、「東京の一夜」という曲もあって、これはメロディの覚えやすさや、”東京の一夜はこの町で過ごす一年のよう”というフレーズの鮮烈さから、いまだに支持の高い曲です。

『ガラスの動物園』の中には、「男と女のいる舗道」という曲もありました。ジャン・リュック=ゴダール監督の作品に『女と男のいる舗道』という名作があります。そして、アルバムのタイトルは、テネシー・ウィリアムズの有名な戯曲ですね。2枚目のアルバム『英雄と悪漢』は、ビーチ・ボーイズにそういう曲があります。その曲は、作曲がブライアン・ウィルソンとヴァン・ダイク・パークスの共作です。ヴァン・ダイク・パークスと言えばはっぴいえんど、彼らの3枚目のアルバムにも加わっていますし、細野晴臣さんは今だに付き合いがあるという、ロックファンの中で忘れてはいけない一人の名前なんですが、甲斐バンドの流れの中でこういう名前が出てきたことはあまりないと思います。当時の音楽ライターの力量不足だった。甲斐バンドをそういう風に見てきた人がどのくらいただろうと。その辺にちゃんと反応したのは萩原健太さんぐらいだったんではないかと改めて思ったりします。

そういう甲斐バンドの文化性、映画や小説が作品の中に反映されていることも特徴として見ないといけないです。でも、お客さんはほとんど女の子だった。先程の「吟遊詩人の唄」の間奏の女の子の歓声、合唱。女の子が反応したんですね。これはいつの時代もそうなんだと思いますが、ビートルズやエルヴィス・プレスリーも最初は女の子からだった。甲斐バンドも、甲斐さんのステージでの声やパフォーマンスが入り口となって、女の子がかっこいい、素敵だというところから入っていった。

1976年、1977年というのは、甲斐バンドのライブ伝説の始まりの年でした。例えば、女子大の学園祭でお客さんが折り重なって負傷者が出たとか、ライブハウスのチケットは4日間徹夜しないと買えない。大阪のサンケイホールのオケピットが落ちた。極めつけには1977年5月8日の渋谷公会堂の公演。渋谷公会堂の伝説というと、1987年12月24日のBOØWYの最後のライブがありますが、甲斐バンドのこの日の公演では会場から駅までお客さんが辿り着けず倒れて、何度も救急車が出動したという証言があります。

今日は最後に、最初に流したライブアルバム『サーカス&サーカス2019』の中の、「吟遊詩人の唄」と同じ1977年12月の中野サンプラザ公演での「悪いうわさ」と「ダニーボーイに耳をふさいで」のメドレーをお聞きいただこうと思います。

悪いうわさ Live] / 甲斐バンド

ダニーボーイに耳をふさいで [Live] / 甲斐バンド

田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」、甲斐バンド栄光の軌跡Part1。1970~1980年代にかけての新しい時代を切り開いたロックバンドの12年間を辿っております。1974~1977年の半ば頃まで今週はお話しました。今流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。



音楽の語り方というのは色々な切り口があると思います。でも、その時代には語りきれなかったことや、その時代にあまり評価されなかったことが、時間が経つにつれて見えてきたり、改めて評価されたりということがあります。甲斐バンドが1986年に解散して35年経つわけですが、その後に彼らがどのように語られてきたのかなと思ったりしながら、この選曲のためにアルバムを聴き直してました。

私事ですが、1985年に『ポップコーンをほおばって』という本を出してるんですね。これはファンクラブの機関紙、ビートニクという新聞に連載していたものでした。「アナザーサイド・オブ・甲斐バンド」という、なぜその人は甲斐バンドに当時惹かれたのか? という動機や背景を追った連載が本になった。今改めて読み返してみると、やっぱり力足らずと言いますか一面的。もっと書くことがあったんじゃないかとか色々なことを考えなら、来週以降の放送にも臨もうと思っています。

今の音楽ライターや今の音楽を聴いている人たち、洋楽に詳しい人たちが改めて甲斐バンドを聞き直して、評価するきっかけになればいいなと思う1ヶ月。来週は1977年から1979年までの話を辿ってみようと。作風や時代、いろいろなことが劇的に変わっていく三年間をお送りしようと思います。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

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