1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. 音楽

甲斐バンド、デジタルとアナログの狭間でもがく80年代初頭を振り返る

Rolling Stone Japan / 2021年7月2日 7時30分

甲斐バンドのデビュー45周年のライブベストアルバム『サーカス&サーカス2019』

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年6月は甲斐バンド特集。第3週は、音楽取り巻く環境にデジタルが取り入れられ始めた当時の、1980年から1982年までの甲斐バンドを振り返る。

田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、甲斐バンドで「破れたハートを売り物に」。1981年11月に発売のアルバム『破れたハートを売り物に』のタイトル曲です。2019年に出た45周年ベスト『HEROES -45th ANNIVERSARY BEST-』からお聞きいただいております。

破れたハートを売り物に / 甲斐バンド

音楽、変わりましたでしょう? イントロとか歌のバックで乱舞しているアフリカン・パーカッション、そしてエコーのかかった太いドラム。生きることを素晴らしいと思いたいという、生きることへの真正面からの肯定。1980年代の新しい世界がここから始まった、そんな1曲です。

今月2021年6月の特集は、甲斐バンド。1974年のデビューで、1986年に解散公演としては当時史上最大だった武道館5日間公演で解散しました。あの解散公演から35年ということで、改めて軌跡を辿ってみようと思いました。1970年代のはっぴいえんどから、1980年代のBOØWYに至る過程での最重要バンド。まだロックバンド不遇の時代に、不退転の活動を続けたロックバンド・甲斐バンド。栄光の十二年間、を辿ってみようという1ヶ月。

今週はPart3。1970年代から1980年代、「HERO(ヒーローになる時、それは今)」以降ですね。世界の音楽状況が激変する中で、メジャーシーンに躍り出た不屈のロックバンドがどう1980年代を迎えたか? その一つが野外イベントですね。1980年に箱根芦ノ湖畔、1981年に花園ラグビー場、1983年新宿西口新都心。全部野外でした。1985年には、両国国技館を初めてコンサートに使いました。誰もやったことのない場所でやるというのが、彼らの旗印でした。

この「破れたハートを売り物に」が最初に歌われたのが、1981年の伝説の花園ラグビー場ライブの1曲目だったんですね。打ち込みの曲なので、ドラマーの松藤さんがドラムセットのところにいなくていい。松藤さんと甲斐さんがステージのフロントで並んで歌って、2曲目が1978年のアルバム『誘惑』の中の「翼あるもの」だった。始まった途端に、2万人のお客さんが一斉にステージに押し寄せてきたんです。その時のライブバージョンを、2019年の45周年記念ベスト『サーカス&サーカス2019』からお聞きください。

翼あるもの [Live] / 甲斐バンド

どのライブもあの時にあそこにいたということで何か分かち合えたりするものですけど、このライブの会場にいらっしゃった方が今、何をしているのかなっていうのは、しばらく頭の中にありましたね。

「翼あるもの」はどのライブでもお客さんの大合唱が起きましたけど、今お聞きいただいたように合唱が聞こえず悲鳴のような声が記録されております。イントロが始まった途端にお客さんが押し寄せてきたんです。ステージは、当時日本で使われていた野外ステージの中で一番大きく、ザ・ローリング・ストーンズの公演と同じものでした。そこに2万人の客席のお客さんが殺到した。1981年当時には、野外イベントのノウハウはまだなかった。芝生の上に座布団を敷いて座席を示していた。お客さんが興奮して、自分の足元の座布団を一斉に投げて前に押し寄せてきた。投げた座布団が空に乱舞していて、何枚かの座布団がステージで歌っている松藤さんと甲斐さんの胸に当たったりする光景が繰り広げられました。もちろん一番前に鉄柵はあったんですが、その鉄柵がズルズルとステージの方に動いていく。

撮影していたカメラマンの井出情児が真っ青になってました。6曲目の「嵐の季節」がうたわれた時に、甲斐さんが「怪我人が出そうなんだ。一歩下がってくれ」と言って空気が変わりました。甲斐さんは打ち上げで、「あの時はオルタモント(ザ・ローリング・ストーンズの1969年のオルタモント・フリーコンサート)にしたくなかったんだ」と言われてました。花園ラグビー場の「翼あるもの」は、まさにライブ伝説そのもののような曲です。1981年9月13日の花園ラグビー場でのライブバージョンがCDになったのはこれが初めてだと思います。

ビューティフル・エネルギー [Live] / 甲斐バンド

1980年3月発売、1980年代最初のシングル。作曲とボーカルが甲斐さんではなくて、ドラムの松藤英男さんで、カネボウ化粧品のCMソングにも使われました。1980年8月の箱根・芦ノ湖畔で行われた野外ライブバージョンです。1979年に『HERO(ヒーローになる時、それは今)』がCMソングでミリオンセラーになって、その次のCMソングですから、やっぱり周りはどこかその第二弾を期待するわけですが、そこに全く違うアプローチで、ドラムの松藤さんをクローズアップした。これは当時のバンドの一つの戦い方でしょうね。つまり、バンドの勢いを使って、外部の力とどう拮抗していくか。相手に流されずにそれを自分たちのものにしていく戦略的な意図が見えますね。しかも、1979年にはベースの長岡さんが辞めて3人になったわけで、バンドの再出発の旗も掲げなければいけなかった。その中で、俺たちはこういうバンドなんだと見せた1曲でした。

1980年代の始まりの曲ということでもう1曲紹介しなければならないのが、1980年7月に出た「漂泊者(アウトロー)」です。これはテレビドラマ『土曜ナナハン学園危機一髪』の主題歌です。1980年代初頭の世相、"荒れる学校"というのが問題になってました。警察白書が当時の校内暴力発生件数を記録していますが、1980年、1981年は中学校で校内暴力が起こった件数が一番多い。そういう背景を舞台にドラマ『金八先生』が大ヒットするわけですが、この『土曜ナナハン学園危機一髪』はよりドキュメンタリーチックなドラマでした。第一話が「ガラスの動物園」というタイトルで、全曲が甲斐バンドだった。テレビドラマの中で、全曲が主題歌を歌ったバンドやミュージシャンの曲というのもあまりそれまでは例がなかった記憶がありますね。しかも、1970年代に全くテレビに出なかったロックバンドをそういう風にフィーチャーしたという意味でも画期的なドラマでした。その主題歌「漂泊者(アウトロー)」は、今日の最後にライブバージョンでお届けしようと思います。この「漂泊者(アウトロー)」の入ったアルバムのタイトル曲を次に紹介します。1980年10月発売の「地下室のメロディー」。



同じタイトルのフランス映画がありました。でもこの曲の舞台はフランスではないです。地下室というのは、福岡・博多のライブ喫茶、フォーク喫茶・照和が舞台だったという話を聞いたことがあります。よく骨太のロックバンドという言い方をしますが、骨太とはなんでしょう? 時代の新しいリズムや要素を取り入れながらも、バンドの骨格が揺るがない。その都度実験的な要素を取り入れながら、時代を疾走する。甲斐バンドの12年間はそういう時間だったと思います。

1970年代後半から1980年代初頭にかけて、レゲエとかスカのリズムが台頭してきたわけで、日本のCMソングでもイギリスのスカのバンドが登場する時代が来ました。でも、この「地下室のメロディー」のようにスカを取り入れながらも、バンドらしさがガッチリあるというケリの付け方。一つ一つ、時代に対峙しながら答えを出していくという例だったと思います。

1980年に『ビューティフル・エネルギー』、『漂泊者(アウトロー)』というシングルを出し、初の武道館ライブアルバム『100万$ナイト』を出しました。1980年末には、体育館ツアーというものがありましたが、体育館をツアーとして結んだロックバンドは、甲斐バンドが初めてだったと思います。当時はこれをスタジアムツアーと呼んでいたんですね。もちろんドームができる前ですし、球場コンサートを経験しているのは矢沢永吉さんと西城秀樹さんしかいなかった。順番は西城さんが先ですね。1980年12月の武道館で逝ってしまったジョン・レノンのためにと言って、「100万$ナイト」を披露して1980年にケリをつけて1981年に入りました。

1981年9月、花園ラグビー場での公演がありました。1981年11月に8枚目のアルバム『破れたハートを売り物に』が出ました。この1981年の武道館二日間コンサートのあと、ライブ活動を半年間休止してレコーディングに専念して新しい扉を開けます。そういう最も劇的に1980年代を迎えたバンドが甲斐バンドだったと言い切っていいでしょう。彼らは1982年2月に、トラックダウンのためにニューヨークへ向かったんですね。1982年11月発売のアルバム『虜-TORIKO-』から、「ナイト・ウェイブ」。

ナイト・ウェイブ / 甲斐バンド

2019年に出た45周年ベストアルバム『HEROES -45th ANNIVERSARY BEST-』からお聴きいただいていますが、これは12インチシングルとして発売されたものです。打ち込みで、オリジナルの曲よりもちょっと違う音やサイズのダンスバージョン。12インチシングルという新しいスタイルがイギリスあたりから入ってきて、色々なアーテイスト、バンドが試みてました。この曲の入った「虜-TORIKO-」は、1982年2月にニューヨークでトラックダウンされました。エンジニアは、ボブ・クリアマウンテン、ニューヨーク3部作の1作目でした。

BLUE LETTER / 甲斐バンド

1982年11月発売のアルバム『虜-TORIKO-』から「BLUE LETTER」。この曲は、当時放送局が放送を見合わせるということがありました。なぜかというと、孕ませるという言葉が問題なのではないかと言われて、なんだそれ? と皆で話した記憶があります。当時書かれたものを読んだり、音源を改めて聞いたりしていたんですが、この番組は、そういう時間が楽しいんです。

当時、作家の亀和田武さんがこの「BLUE LETTER」とロバート・B・パーカーの『愛と名誉のために』を比較した文章を書いてました。『愛と名誉のために』は、アル中で浮浪者になってしまった男の贖罪、死と再生のために海に入っていくという話なんです。亀和田さんは、これと「BLUE LETTER」を比較して甲斐よしひろが求めたものという記事を書いてまましたが、それがいい文章だったんですね。甲斐バンドについては、色々な人が書いた文章が残されてます。亀和田さんは、コンサート見に行った時に、甲斐さんと大阪駅で待ち合わせたんだそうです。新幹線から降りてきた甲斐さんが読んでいたのが、ロバート・B・パーカーの『愛と名誉のために』だった。移動中も甲斐さんは小説を読んでいたとのことでした。

この『虜-TORIKO-』のトラックダウンのためにニューヨークに向かった時に、甲斐さんが読んでいた小説が3冊ありました。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、『エデンの東』、『約束の地』。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、ジェームズ・M. ケインの有名な小説で1981年には映画化されています。『エデンの東』は、ジョン・スタインベッグの小説でジェームズ・ディーン主演で映画になりました。『約束の地』は、1980年代初めにブームになったハードボイルド作家・ロバート・B・パーカーの代表作です。「BLUE LETTER」の中の、ちょっと暗い文学的で大人の叙情性というのは、そういう小説からの流れでもあったんでしょうね。当時一番日本で流行っていた小説は、田中康夫さんの『なんとなくクリスタル』ですからね。そういう軽薄短小の対極にいたのが甲斐バンドだったんだなと改めて思いました。こういう小説のようなロックは誰もやっていませんでした。『虜-TORIKO-』からもう一曲、「観覧車 82」。

観覧車 82 / 甲斐バンド

この曲は、1981年11月発売のアルバム『破れたハートを売り物に』の中にも収録されているんですけども、機会があったら2曲聴き比べていただけると面白いと思います。音像が全然違いますね。この映像感、広がり方、エコー感。ボブ・クリアマウンテンは当時ロキシー・ミュージック、デヴィッド・ボウイ、ザ・ローリング・ストーンズらにを手掛けて世界のロックファンから注目の的でした。ロキシー・ミュージックの『アヴァロン』、デヴィッド・ボウイの『レッス・ダンス』とか、それまでのロック・アルバムとは全然違う音が聞こえてきたアルバムでした。

甲斐バンドがニューヨークに行ってボブ・クリアマウンテンと一緒にやる前に、ボブ・クリアマウンテンが手掛けていたのがザ・ローリング・ストーンズの『スティル・ライフ』でした。1981年の夏からずっと連絡をとってトラックダウンをお願いしていて、結局1982年になってしまったのはそういうスケジュールが詰まっていたからなんですね。

きっかけになったのが1曲目にお聴きいただいた「破れたハートを売り物に」。パーカッションの音の響き方や広がり方は、当時の日本のエンジニアではなかなか思うようにできなかった。あのアルバムではエンジニアが三人変わってます。どうしても本物の、ロックの音にしたいということでボブの元にたどり着いたわけです。甲斐さんは「俺たちはニューヨークに行くんじゃない、ボブ・クリアマウンテンと仕事しに行くんだ」とずっと言っていましたね。幸い、私も取材でスタジオにいたんですが、トラックダウンの1曲目がこの「観覧車 82」だったんです。松藤英男さんが呆然とした表情でロビーに来て、「わしのドラムがロキシー・ミュージックになってしまった」と言っていたのを今でも思い出します。

1980年代、エンジニアの時代が訪れた。1980年にオフコースが、ボズ・スキャッグスと一緒にやっていたビル・シュネーと組んで『We are』というアルバムを作ったんですけど、あれを聴いた時もなんだこれは! と思ったんですが、この『虜-TORIKO-』の驚きはその比ではありません。エポック・メイキングだったニューヨーク三部作の話は来週もお聞きいただこうと思うんですが、今日最後の曲は、先ほどお話した1980年のアルバム『地下室のメロディー』から「漂泊者(アウトロー)」の1985年の国技館ライブ音源。2019年の45周年記念ベスト『サーカス&サーカス2019』からお聴きください。

漂泊者 (アウトロー) [Live] / 甲斐バンド

これぞライブバージョンという1曲ですね。ギターは田中一郎。両国国技館をコンサートに使った最初のバンドが甲斐バンドですが、NHKホール、武道館二日間、花園ラグビー場なども甲斐バンドが初めてコンサートに使った例です。1982年のアルバム『虜-TORIKO-』、1983年の『GOLD/黄金』、1985年の『ラヴ・マイナス・ゼロ』。その間に、1983年の野外ライブ「BIG GIG」もありましたが、その話はまた来週です。



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」、甲斐バンド栄光の軌跡Part3。1970~1980年代にかけての新しい時代を切り開いた栄光のロックバンド・甲斐バンドの12年間を辿っております。今週は1980年から1982年までお話しました。今流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

1980年代というのは音楽を取り巻く環境も激変した年でした。1978年、1979年くらいかな? デジタルという方法がレコーディングの現場で取り入れられるようになった。演奏の中でもコンピューターが占めるようになってきた。1980年の年間総合アーティストセールスの一位はどなただったか覚えていらっしゃいますか? YMOですよ。2位が引退で日本中を沸かせた山口百恵さんです。彼女を抑えてYMOが年間アーティストセールス1位なんです。YMOは、コンピューターやデジタルを使って一番アナログと思われていたダンス・ミュージックをやろうとした人たちでした。甲斐バンドは、デジタルを使いながらそれをもっと肉体的な音楽にしようとした。これがYMOとの決定的な違いだったと言っていいでしょう。その舞台がニューヨークでした。色々な形で時代なりの格闘があったと思いますけど、デジタルとアナログ、ロックと肉体という最も困難な闘いを挑んだのがこの時期の甲斐バンドだったと改めて思いました。最前線にいて誰も踏み入れたことがない道を進んでいたバンドでありました。今週で今までの12年間のうち、9年間を辿ったことになります。来週は1983年から1986年、最終章です。


現在は入手困難な「甲斐バンド写真集」と甲斐バンド花園ラグビー場野外ライヴのステージを写したブックレットを手にした田家秀樹


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください