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R&Bの名盤、メアリー・J・ブライジの2ndアルバムに隠された物語

Rolling Stone Japan / 2021年7月7日 19時45分

メアリー・J・ブライジの2ndアルバム制作をテーマにした最新ドキュメンタリー『My Life』(Amazon Studios)

トップ10ヒット曲やミリオンセラーのアルバム、グラミー賞にアカデミー賞ノミネーションと、長きにわたる輝かしいキャリアを誇るメアリー・J・ブライジ。だが、彼女にとってとくに重要な意味を持つものが一つある。「アルバムは13枚出したけど、2ndアルバム『マイ・ライフ』が私にとっては一番大事」。1994年にリリースされた作品を称える最新ドキュメンタリーの中で、彼女はこう語っている。

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『マイ・ライフ』は「初めてファンに語りかけた」瞬間であるだけでなく、「苦悩を乗り越えた時期」というのがブライジの見方だ。炎の中を潜り抜け、より一層強くなって生まれ変わった克服の物語こそ、その後の彼女のキャリアを形作ってきたものだ。彼女のように、自らの葛藤と心理的重圧を赤裸々に語るパフォーマーはそういない。

1992年のデビューアルバム『ホワッツ・ザ・411?』が成功を収めた後、ブライジは製作陣を絞り込み、主にP・ディディやチャック・トンプソンらプロデューサーとの作業をメインに『マイ・ライフ』の17曲を制作した。ソウルへのオマージュは以前にも増し――心和ませるR&Bのサンプリングがアルバムのあちこちにちりばめられ、年配リスナーを優しく誘う――曲の内容はさらに鋭く、単刀直入になった。『マイ・ライフ』の大半は、さながらセラピーセッションだ。ブライジは深刻な依存症であることを告白し、健全な考え方を身に着けようと努力する。アルバムの最後を飾る「ビー・ハッピー」で歌っているように、”自分を愛することができないのに、他の誰かを愛することなんかできる? 自分をちゃんと好きになれなきゃ、旅立ちの時はわからない”

Amazon Studios制作のドキュメンタリー『Mary J. Bliges My Life』にはブライジの家族やかつてのコラボレーター(トンプソン、P・ディディ)、レコード会社の大御所(アンドレ・ハレル、ジミー・アイオヴィン)、有名俳優や女優(タイラー・ペリー、タラジ・P・ヘンソン)、アーティスト仲間(メソッド・マン、ナズ、アリシア・キーズ)らが登場し、彼女がプロジェクト(訳注:低所得者用の公共団地)から音楽業界の頂点に立つまでの経緯について語っている。だが、映画の山場は何といってもブライジ本人だ。曲の中と同じように、カメラの前でも自らの苦悩を率直に語っている。





「10代のころはニコリともしなかった」

1. 幼少期のブライジは暴力やアルコール、薬物に囲まれていた

ブライジは長いキャリアを通じて、障壁を乗り越え、トラウマを克服することについて再三歌ってきた。ドキュメンタリーはそうした心理的苦悩を前面に押し出している。「10代のころはニコリともしなかった」とブライジは説明する。「多分みんな、プロジェクトで暮らす家庭のことをわかってないんじゃないかしら。まるで刑務所……みんなひたすら苦しんでいる……よく女性が殴られる音が聞こえた。私の母もそうした女性の1人だった。私には母の苦しみが痛いほどわかった。お隣さんの苦しみも。あそこで暮らす人々みんなの痛みも。そして私自身の痛みもね」

歌が将来の選択肢として見えてくる以前は、薬物やアルコール依存が主な現実逃避の手段だったと本人は言う。「悲しみや憂鬱、憎しみ、自己嫌悪を感じずに済むものなら、人は何にでも手を出すものよ」と、ブライジはカメラに向かってこう語る。「それで薬物依存だとか、気分がよくなるものに走るの……私たちもよく桟橋に行って……つらさを忘れるまで飲んだくれたわ」


2. 光を与えてくれた70年代ソウル

『マイ・ライフ』の大部分は、1970年代から1980年代初期の名作R&Bのサンプリングや引用で形成されている。バリー・ホワイトの「エクスタシー」、カーティス・メイフィールドの「ギヴ・ミー・ユア・ラヴ」、アル・グリーンの「フリー・アット・ラスト」、メリー・ジェーン・ガールズの「オール・ナイト・ロング」。とりわけロイ・エアーズの「エヴリバディ・ラヴズ・ザ・サンシャイン」は、幼いブライジの胸にとくに響いた。「私にはあの曲が、すべてを白日のもとに晒すような感じだった」と本人。「子供のころ音楽に感銘を受けたのはあれが初めてだった。自分たちの生活を忘れさせてくれた。あのサウンドに夢中になったわ……my life in the sunshineっていうフレーズが、自分にも何か成し遂げられるかもしれない、と感じさせてくれた」。結果的にエアーズの曲は、『マイ・ライフ』のタイトルトラックのベースとして使われた。


3. 最初のブレイクのきっかけはジェフ・レッド

親戚の1人によれば、ブライジは「ものおじせずに歌っていた」という。10代の時に、自腹を切って地元のショッピングモールでデモを収録。1980年代にシングルチャート・トップ10入りしたアニタ・ベイカーのクワイエット・ストーム時代の名曲「Caught Up in the Rapture」のカバーだった。家に持ち帰って家族に聴かせたところ、それをいたく気に入った継父が、1990年代初頭にニュー・ジャック・スウィングの「ユー・コールド・アンド・トールド・ミー」をヒットさせて一時有名になったジェフ・レッドに渡した(ブライジの継父とレッドはジェネラル・モーターズの工場の組み立てラインで働いていた)。「デモを聴いたとき、時代の痛みが伝わってきた」とレッドは当時を振り返る。

彼はそのテープをUptown Recordsに送りつけることに成功。当時トップを務めていたアンドレ・ハレルはデモを聴いて驚き、翌日ヨンカースまで車を走らせてブライジに会いに行った。オーディションとしてブライジは、彼の前でベイカーのアルバム『Rapture』を全曲歌って聞かせた。



「私の人生は、自分に起きたことを忘れられずにいる人生」

4. ブライジはR&Bのサウンドとスタイルの転換を担った

数十年にわたる全盛期の後、R&Bは1980年代末に危機を迎えた。ヒップホップがアメリカでは台頭した。R&Bは時代の流れに合わせるべく、こじゃれた若者のジャンルからサウンドを拝借し、そこからニュー・ジャック・スウィングやヒップホップ・ソウルといったフュージョンが生まれた。「メアリーは男性中心のラップシーンに、R&Bをベースにした独自のヒップホップ・テイストを持ち込んだ先駆けだった」と言うのは、ヴァイブ誌の元編集長ダニエル・スミス氏。当時は「ヒップホップをバックにR&Bを歌うシンガーは多くなかった」と、ラッパーのメソッド・マンも言う。彼はまた、ブライジの音楽は「曲に合わせて踊れるし、ノれるし、おふくろ世代の音楽とは全然違う。でも(ブライジは)おふくろも気に入るように歌うんだ」とも語っている。


5. ブライジは業界のトレンドを一刀両断した

「あの当時、黒人女性アーティストは大声で滑らかに歌い上げるのが鉄則だった」とスミス氏。だがブライジはアニタ・ベイカーが好きだったにも関わらず、音楽業界で同じ轍を踏む気はさらさらなかった。Uptown Recordsでブライジと一緒に仕事をしたP・ディディは、彼女の「ハスキーで腹の底に響く」声に圧倒された。それは女優タラジ・P・ヘンソンも同じだった。「今まで見たことはないけれど、そこにあることは知っている。(ブライジには)そういうところがあったわ」と彼女は振り返る。「彼女は私たちに顔を与え、名前と物語を与えてくれた。私たちに人格を与えてくれたの」

同じように、若かりし日のアリシア・キーズもブライジの姿勢に触発された。「自分らしくいてもいいんだ、と思えるようになったわ。ちょっとばかり角が立っていても、気が強くてもいいんだって」とキーズ。「本当の自分をさらけ出しても構わないんだ、という気分だった。最高だったわ」「当時そういうのは(あまり)見られなかった」とも彼女は言う。残念ながら「今でもあまりお目にかかれないけれどね」


6. ジョデシーのシンガー、ケイシー・ヘイリーとの関係は、『マイ・ライフ』収録中に破綻していた

Uptown Recordsと契約し、1993年の春にはデビューアルバム『ホワッツ・ザ・411?』が200万枚以上のセールスを記録すると、ブライジはたちまちR&Bの寵児となった。それはゴスペルの力強さを前面に押し出した同じレーベルのヒップホップ・ソウル・グループ、ジョデシーも同じだった。ブライジはやがてジョデシーのケイシーと恋仲になるが、「2人とも人生の成功に対処できなかった」と本人は言う。

「すべてが最悪で、荒んで行った」と彼女はさらに続ける。「相手を自分の思い通りにさせようとすることが多くなり」、しまいには「余計なことは言わないようにしよう、出しゃばらないようにしよう、そうすれば自分は特別じゃないと思わなくて済むし、あなたと一緒にいられる」とまで考えるようになった。ブライジの友人の話によれば、ある日姿を見せたケイシーが「ものすごく怒りをたぎらせて……彼女に暴力を振るい始めた」という(ケイシーはドキュメンタリーには登場しない)。「生きるために、私は体を張って戦わなくちゃいけなかった」とブライジも言う。

恋愛関係が破綻したことで薬物依存が悪化し、ブライジは負のスパイラルに陥っていった。「あの恋愛で鬱になって、人生が巻き戻された。子供のころ、少女時代の出来事が全部全部よみがえってきた」と彼女は説明する。

「私の人生には日は当たらない」 シンガーはこうも語っている。「私の人生は地獄。私の人生は、自分に起きたことを忘れられずにいる人生。凌辱されたことが頭から離れない。詳しくは語らないけれど――子供のころは他にもいろんなことがあったのよ」



「人生を選ぶか、死を選ぶか」

7. 『マイ・ライフ』収録中、自殺願望を抱えていた

はた目にはブライジは成功者に見えた――大手レーベルと契約を結び、デビュー曲はダブルプラチナムを記録、2ndアルバムも目前だった。だが彼女の悩みは積もり積もって、2枚目のアルバム収録中には自殺を考えるところまで行っていたという。「酔いつぶれて死ぬとか、限界までドラッグをやるとか、何でもやった」と彼女は振り返る。「私はいつもふさぎ込んでいて、生きているのが嫌になった」。それゆえ彼女は、『マイ・ライフ』を「おそらく私の中で一番暗いアルバム」ととらえている。「あの後も暗い出来事は山ほどあったけど」と彼女は続ける。「でもあれがターニングポイントだった。生きるか死ぬかの決断に迫られた時期だった」

ドキュメンタリーではブライジのファン数名が登場し、彼女おかげで人生の辛い局面を乗り越えることができた、と語っているが、彼女自身はファンとの関係を真逆にとらえている。本人いわく、ファンのおかげで「つらい思いをしているのは自分だけじゃないんだ、と思い出させてくれたのよ」


8. スピリチュアルな経験が、ブライジに自殺を思いとどまらせた

「この世界から完全にいなくなる」のを思いとどまった瞬間を、ブライジは今も覚えている。「私はリビングルームに座っていた。夜通しずっと起きていた」と振り返る。「開いた窓から、雲がぞくぞく入り込んでくるような感じだった。私はすっかりハイになっていた。心臓がバクバク鳴り始めた。その日は日曜の朝だったんだけど、日曜の朝はいつも不思議な気分になるのよ。自分のやっていることが、神様にはすべてお見通しのような気分になるの。それで思ったわ、『自分はこんなこと望んでない、こんなのおしまいにしなくちゃ』って。人生を選ぶか、死を選ぶか。私は人生を選んだの」



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