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チェット・フェイカーが語る巨大な成功とその後の人生、イーノに通じる音楽創作論

Rolling Stone Japan / 2021年7月16日 18時0分

チェット・フェイカー(Photo by Chet Faker)

ニューアルバム『Hotel Surrender』を発表したチェット・フェイカーにインタビュー。6年ぶりにこの名義を復活させた彼の新境地とは?

いまから振り返って2010年代初頭は、アンダーグラウンドのエレクトロニック・ミュージックからの影響がソウルやR&Bと結びつき、ワールドワイドに新しい展開を迎えている時期だった。そんななか、オーストラリアはメルボルンから現れたチェット・フェイカーを名乗るシンガーソングライター/プロデューサーであるニック・マーフィーは、簡素ながら細やかな工夫のあるダウンテンポ・トラック、独特の粘り気のある歌声とメランコリーを孕みつつ耳に残るメロディーを個性として、一躍注目されることとなった存在である。まだ活動初期の2013年、スーパーボウル放送時のCMにデビューEPからの楽曲でR&Bグループのブラックストリートのカバー「No Diggity」が使用されたことで、インディ・シーンの注目株からメインストリームにまで話題は飛び火。デビュー・アルバム『Built on Glass』(2014年)をリリースする頃には、当時から視覚的に強力なインパクトを与える映像を得意としていた気鋭の映像作家ヒロ・ムライがシングル「Gold」の鮮烈なミュージック・ヴィデオを手がけたことも拍車をかけ、大ヒットを収めることになる。

ただ、そこからのマーフィーのキャリアはやや複雑さを帯びていくことになる。名義を本名のニック・マーフィーに変え、より実験的なサウンドにトライすることになるのだ。プロダクションのギミックを増やしアレンジメントを多彩にした『Run Fast Sleep Naked』(2019年)、ささやかなアンビエント作品『Music for Silence』(2020年)といった近作は、ある意味、彼が音楽性の幅を広げるための苦闘の跡だったようにも見て取れる。いまから思うと、デビューから間もない巨大な成功に対する戸惑いをどうにか乗り越えようとしていたのではないだろうか。

『Hotel Surrender』はマーフィーにとってチェット・フェイカー名義としては『Built on Glass』以来となるアルバムで、彼の道のりを思うと、気持ちのいい驚きをもたらしてくれる作品となっている。初期からの特徴であるベッドルーム感覚のシンプルなトラック作りやメランコリックなメロディーは残しつつも、ストリングスを要所に差しこんだアレンジは洗練され、何よりも全体のトーンが明るいものになっているのだ。ゆるやかなファンクネスを感じさせるトラック群が醸すダンサブルな印象もあり、とにかく風通しがいい。パンデミック禍のニューヨークで制作を続けながら、どのような心境の変化が彼のなかに起こり、本作が生まれたのか。率直に語ってもらった。



―こんにちは。調子はどうですか。

ニック・マーフィー:調子はいい。きみは?

―調子はいいです。今日はお時間ありがとうございます。いまはニューヨークにいらっしゃるのでしょうか? 

ニック:そうだよ。めちゃくちゃ暑いよ。

―今日は少しキャリアを振り返りつつお話を聞きたいと思っています。ニックさんは、チェット・フェイカー名義のデビュー作『Built on Glass』でいきなり大成功を収めたわけですが、現在から振り返って、当時の状況はどんなものでしたか? 急激な変化に戸惑いもあったのでしょうか。

ニック:間違いなくあったね。外向的な面もあるにはあるけど、どちらかというと内向的なほうだからストレスも多かった。それまでずっと、家のガレージで自分ひとりで趣味で音楽を作っていたわけで、レコーディング・スタジオに入ったり、バンド・メンバーがいたわけじゃない。だから実家のガレージから、いきなり世界中を音楽で旅することになって(笑)、コーチェラといった大きなステージにも立って。生活が一転したよ。「間違ったことをしたらどうしよう」とばかり考えていた。音楽を作りたいという思いだけでやってて、そのチャンスが到来したものの、会うひと会うひと全員に「こうしたほうがいい」と言われているようで、それがストレスになっちゃって(笑)。いまは全然平気なんだけどね。10年経ってようやく楽しむことができるようになった。



―ヒロ・ムライが手がけた「Gold」の鮮烈なミュージック・ヴィデオによってチェット・フェイカーの存在はより知られるようになったわけですが、同時に、あのヴィデオはヒロ・ムライの名も広めることになったと思います。チャイルディッシュ・ガンビーノの「This Is America」のヴィデオが代表的ですが、その後の彼の活躍に対して何か感じることはありましたか?

ニック:素晴らしいと思うよ。ちょうどヒロにメッセージを送ったばかりだ。新作を彼にも送ったんだ。彼が評価されるのを見るのは嬉しいよ。低予算のローラースケートのミュージック・ヴィデオから、『アトランタ』のような受賞歴のある作品を手がける、業界トップの監督になったわけで、本当にクールだ。思わず「俺の知り合いだよ」って言いたくなる感じだね(笑)。

ニック・マーフィー名義での実験

―ニック・マーフィー名義での『Run Fast Sleep Naked』はプロダクションの実験が目立った作品でしたが、あなた自身は、あの作品で達成したことは何だったと思いますか?

ニック:あの作品は、まさに実験をいろいろしたくて作った作品だった。チェット・フェイカー名義のプロジェクトはシンプルでわかりやすく、完成された世界感がある。いい意味でね。どういうことがしたいか明確にあった。22歳のころに始めて、24、5歳のときに作品が世に出て、自分でも自分がどんな人間かわからないのに、周りのひとたちは「こうあるべきだ」ってわかっているようだった。だから、他を探求する必要があった。自分がどんなものが好きで、好きじゃないのかって。誰にも邪魔されずにそれができる受け皿が必要だった。当時は、チェット・フェイカーのプロジェクトに自分がやりたいことを見出すことができなかった。なぜなら、プロジェクトがいつの間にかひとり歩きして、いろんなひとが「チェット・フェイカーがどうあるべきか」って考えを持っていて、そのなかで、違うことをあれこれ探るのは難しいんじゃないかと感じた。すでに骨組みが出来上がってしまってたから。本名で作品を出せば、何でもできるんだと思えて、ワクワクした。で、それを実践した。

『Missing Link』EP(2017年)は、ダンス寄りで、エレクトロニックだったし、『Run Fast Sleep Naked』ではあらゆることを試した。加えて『Music for Silence』は1時間にも及ぶ即興のピアノ音楽だ。深く考えずに、本能の赴くままに、どんな方向にだっていける自由があった。自分本位だったかもしれないけど、聴き手に要求する音楽もあれば、聴き手に与える音楽もあると思う。しばらくの間、聴き手に要求をする音楽を作る必要があったんだ。


『Run Fast Sleep Naked』収録曲「Sanity」

―いまちょうど話が出ましたが、瞑想のためのアプリ「Calm」で発表されたアンビエント作品『Music for Silence』もあなたの音楽性の幅の広さを示すものでした。あの作品はどのようにして生まれ、あなたに何をもたらしたと思いますか?

ニック:あのアルバムは、検討を重ねて作ったものではない。当初は世に出すつもりもなかった。音楽をプレイしたいという欲求はあったから、いろんなものと距離を置いて、自分だけの空間が必要だった。ニューヨーク州北部にある古い教会を見つけて、いまそこは教会としては使われてないんだけど、その持ち主の女性が500ドルで1週間滞在させてくれたんだ。そこに寝泊まりをして、一日中ひたすらピアノを弾いて過ごした。朝起きて、昼まで弾いて、ランチを食べたら、また夕暮れまで弾いて、そこからさらに弾くこともあった。そこで何時間にも及ぶ音楽を録音した。5日分の音楽だ。浄化作用のようだった。本当に久しぶりに、自分のなかから湧き出てきたものをそのまま音楽にした。音楽に概念的なものを焼きつけるのではなくてね。ある意味、自分が得た一番大きな音楽的な教訓は、肉体性と臨場性に身を完全に委ねて、自分がやっていることを考えない、分析しないことだった。面白いことに、音楽的には全然違うけど、『Music for Silence』があったからこそ、『Hotel Surrender』が生まれた。構想を駆使するのではなく、「起こるべくして起こるものを大切にする」という意味でね。

―あなた自身は瞑想することの重要性を感じますか?

ニック:そうだね。瞑想は毎日している。2019年以来、瞑想をしなかった日は2日だけで、その2日はあまりいい日ではなかった(笑)。始めたきっかけは、『Built on Glass』が成功したころにまで遡る。生活がひっくり返されたようなものだったからね。



―あなたの楽曲は各種のストリーミング・サービスにおいて、チルアウト系のプレイリストでとても人気があります。ただ、あなた自身は、現在のプレイリスト文化にどのような意見を持っていますか?

ニック:いまの時代がそういう時代だってことだよね。自分の気持ちを反映する形で音楽が聴けるのはいいことだと思う。でも僕は、昔からアルバム派だ。アーティストがアルバムを発表したら、それを聴きこんで、その作品の世界観に没頭できるのが好きだった。さっきの話に戻るんだけど、聴き手に要求する作品と、聞きたいものを与えてくれる作品があるわけで。プレイリストは、本質的にはラジオのようなものだ。音楽が、ある時間だったり、ある場所やシーンと密接に関係していることを我々が理解し始めているのは興味深い。ただ「これはいい音楽、これはダメな音楽」という線引きではなく、「これはこういうときにリラックスさせてくれる」「これは元気にしてくれる」「これは運動する時にいい」という。そんなプレイリストのチルアウト系に入れてもらえることは光栄だ。ひとをリラックスする役に立っているってことだからね(笑)。

シンプルでハッピーな新境地

―では、ニューアルバム『Hotel Surrender』について聞かせてください。パンデミック以前からアルバム制作をしていたとのことですが、それではこのアルバムのスタートのきっかけとなった出来事やアイデアはありますか? どのようなことがこのアルバムに影響を与えたのでしょうか。

ニック:パンデミック前からほぼ完成していたわけではないね。その前から取りかかってはいたけど、パンデミック中にも作っていた。半々、といったところかな。じつは、自分が住んでる家と違う場所にスタジオがあるのは『Built on Glass』以来はじめてのことだった。ニューヨークに移って以来ずっと、毎朝起きて出かける場所がなかった。2020年1月にマネージャーが見つけてきてくれた狭い空間でね。何かタガが外れたみたいに、毎日欠かさずそこに通うようになった。週末も。ときには1日3曲書くこともあった。音楽が滝のように流れ出した感じだった。何が出てくるか見てみる、という姿勢を貫いた。シンプルに聞こえるかもしれないし、実際そうなのかもしれない。長い間音楽を作る楽しみを忘れていた。アルバムが念頭にあったわけでもない。作品を作るつもりもなかった。ただ、毎日そこに通い、歌が自然と溢れ出た。そしたらパンデミックになって、自分とスタジオ以外すべてが奪われたんだ。スタジオは家の近くにあったから、たいていの日は家から歩いて行くことができた。外は誰も歩いていないし、安全だった。このアルバムを作るのに、完全に人通りが無くなったマンハッタンの街を歩いた記憶がいまでも甦るよ。いま思うと、本当に異常だった。ある意味、パンデミックによって、すでに向かっていたアルバムの方向性がより明確になった。不思議だけど、喜びに満ちたアルバムなんだ。ある意味、周りで起きていることから逃避して、音楽を通して喜びを見出すことができた。制作はパンデミックをまたいでいたわけだけど、パンデミックのおかげでより焦点を絞ることができたと感じるね。



―先行して発表された「Low」と「Get High」がアルバムの見事な導入になっていると同時に、「Low」はアップリフティングなフィーリングがあるのに対し、「Get High」がややメロウなトーンになっていて、タイトルと曲調にひねりがあるように感じます。何か、気分の極端な上下について考えるきっかけがあったのでしょうか?

ニック:あの順番でリリースするのは必然だったんだ。「Low」を出して、「Get High」を出さない手はないと思った。意図的ではないけど、双対性は自分がやることすべてにあると思っている。ふたつの名義、プロジェクトを持っているところからしてそうだね(笑)。矛盾するものを同時に抱えるのは、非常に人間的だと思う。自分がもっとも好きなジャンルであるソウル・ミュージックの多くは歌詞が物悲しいけど、音楽的には高揚感がある。それが自分にとってはもっとも人間らしく、人間のありのままの姿に思えた。何かを感じながら、同時に他の何かを求めて手を伸ばすことほど人間臭いものはないと思うから。経験があって、そこから教訓やメッセージ、結論がある。自分の気持ちにただ振り回されるのではなく、それを昇華する選択肢もある。まとまりのない答えになってしまってごめん。

―いえ、わかります。本作もそうですが、あなたの音楽ではつねに精神的な問いや内面的な探究が主題になっているように思います。そんななかで、本作で言えば「Peace of Mind」や「In Too Far」など、初期よりも落ち着いたトーンやフィーリングの楽曲が増えたように思いますが、このような変化はどうして訪れたのでしょうか。

ニック:初期よりも、落ち着いてると思うの?

―はい。

ニック:そう聴こえたなら嬉しいよ! ニューヨークに住んでると、昔やった音楽よりリラックスしたものが作れないんじゃないかって、いつも心配だったんだ(笑)。どうだろう……。人生で学んだことや、歳を重ねたことで、物事を抱え込み過ぎずにいられるのかもしれない。

―ちなみに新作に影響を与えた音楽は何かありますか。

ニック:2020年に一番聴いたアルバムはスライ&ザ・ファミリー・ストーンの『Theres a Riot Going On』だ。あれを繰り返し聴いていた。もう一枚よく聴いたアルバムがあって、2020年最も再生した回数の多いアルバムがT・レックスの一番有名なアルバム(註:『Electric Warrior』のことだと思われる)だね。

―アルバムにどんな影響を与えたと思いますか。

ニック:その辺はあまり考えないようにしているから、わからない。とくに今回は、余計なことを考えずに曲を書くことに集中したかったから。でも、どちらもハッピーなアルバムだと思う。シンプルでハッピーだ。『Hotel Surrender』も大半はシンプルでハッピーなアルバムだと思う。だから何らかの形で原型となっているのかもしれない。T・レックスにしても、スライ・ストーンにしても、どちらも少し気の利いたユーモアがある。少しふざけた感じというのか。自分のそういう面を少し引き出しているかもしれない。普段は見せていても、音楽では自分のそういう面を出したことがなかったからね。

「身を委ねること」タイトルに込められたもの

―本作は、たとえば「Feel Good」で聴けるように、『Run Fast Sleep Naked』でも見られたようなストリングスのアレンジメントがさらに洗練されていますね。アレンジメントやプロダクションの面でもっとも意識したのはどのようなポイントですか?

ニック:今回のストリングスのアレンジをしてくれたのは、『Run Fast Sleep Naked』と同じジェイク・ファルビー(Jake Falby)だ。『Run Fast Sleep Naked』では、はじめてストリングスを使った。ニック・マーフィー名義のプロジェクトに関して言えることは、こっちからあえて指示を出さず、他のひとのエネルギーや影響をそのまま受け入れる。あのプロジェクトでは、ひとに「こう弾いてくれ」といったことを言わないようにしている。それに対して本作では、メロディーを口ずさんだものをジェイクに送って、それを演奏したものを返してもらう、というやり方をとった。それに加えて、コロナ禍もあって、ほとんどがメールでのやりとりだったから、その場の思いつきやノリを大事にするというよりも、やることを明確にして臨んだというのもあった。その違いはある。『Built on Glass』以来はじめて、自分がエンジニア、プロデュース、作詞作曲、レコーディング、演奏のすべてを行なったことで、アレンジといった部分でも、より意識を向けて取り組んだんだ。



―その「Feel Good」はちょっとディスコ的なところもありますし、この曲や「Get High」におけるグルーヴやスローなファンクネスはどこから来たものなのでしょうか?

ニック:今回のブルースっぽい、ファンキーなピアノは昔からずっと弾いていたんだけど、曲にしたことがなかった。なぜかはわからないけど、これまでやったことがなかった。ベーシックというか、あまりにシンプルで、ピアノを弾くと自然に出てくるものだからこそ、避けたのかもしれない。複雑じゃない、というんでね。初期の頃は、複雑なものが質の高いものだと思っていた。だから複雑さや濃度を求めた。でも『Hotel Surrender』というタイトルからもわかるように、本作では何も求めていない。「これ、気持ちいいな」と思えば、それに従うだけ。そこから来てるんだと思う。影響に関して言うと、さっきも話したようにスライ&ザ・ファミリー・ストーンをひたすら聴いていたからね。スライ・ストーンは最も好きなヴォーカリストのひとりで、大好きだ。彼の音楽は本当に最高だ。制作中にたくさん聴いていたのは間違いないから、いまきみが挙げた曲ができたのも納得だよね。

―アルバム・タイトルの話が出ましたね。「Surrender」というのは、ブライアン・イーノもよく口にする言葉ですよね。「身を委ねること」はあなたにとってどのような状態を指すものでしょうか?

ニック:うん、「人間は身を委ねることを求めている」と語っているイーノのインタビューを読んだことがある。いつの間にか、自分もそれに倣っていたのには気づいていなかったよ。自分にとっては、創作する過程で思考力に頼らないことを指している。始めた頃は深く考えたりしていなかった。自分でも何をしているのかわかっていなかったから。好きに組み立てていき、それが気持ちよかったんだ。そこから自分のやっていることを少し把握できると、思考が間に入ってくる。さらに、少しでも成功しようものなら、周りから「最高だ」「素晴らしい」と言われ、インタビューの中でも自分がやったことを言葉で説明しなきゃいけない。すると、自分がどうやって音楽を作っているのかを把握して、わかって作ってたんだって思いこむようになる。でも実際のところは、人間というのは、自分自身を理解するために作品を創るわけで、理解できているから創るわけじゃない。何か腑に落ちないものがあって、その未知のものをもとに創作をする。あとになって「なるほど、そういうことだったのか」とわかるわけだ。

いま、こうして話をして、ようやく『Hotel Surrender』でやろうとしたことが見えてきている。創っている最中に、壮大な構想があったわけじゃない。創ることにただただ夢中だった。ひらめきと意識的に何かをやるのは別物だ。何かに身を任せるしかないんだ。少なくとも創作過程においては、そういう状態を指す言葉だと思っている。自我や自分のアイデンティティを放棄して、「この音楽のために自分は何ができるだろう」「この曲をあるべき姿にするには何をしてあげられるだろう」という向き合い方をするわけだ。「自分が何を作りたいか」「自分がどうしたいか」ではなく、「その曲がどうしたいか」「そのために自分に何ができるか」が重要なんだ。そういうふうに考えられれば、あとは簡単だ。曲が自然と形になっていく。難しいのは、降伏し(surrender)、身を任せる部分だ。面白いことに、それは音楽だけに当てはまることじゃない。生き方や目の前の現実との向き合い方にも言えることで、「ときどきこんな気持ちになる」といったことを受け入れることだったりする。例えばフラストレーションを感じた時、それをそのまま受け入れることで、余計なフラストレーションをさらに抱え込まなくて済む。どんなときでも、目の前の現実に身を委ねることで、喜びや音楽や光が自分に届く隙間を作ることができた。結局は、受け入れることが大事なんだ。それが難しいときだってある。自分の思い通りにならないことだってあるからね。それを受け入れるのは難しい。でも、何が言いたいかというと、目の前の現実を拒むのではなく、受け入れることで、はじめて状況を良くすることができるんだ。そして音楽だとそれを実践しやすいことがわかった。ニューヨークの街中で実践しようとしてもなかなか難しいからね(笑)。


Photo by Willy Lukaitis

―結果としてあなたは名義をふたつ持つことになりましたが、どれが何というのは自分のなかでわかるのでしょうか。

ニック:本作に関して言うと、そもそもアルバムを作ろうとは思っていなかったからね。去年の5月頃だと思う。できた曲をすべてコンピュータのプレイリストに入れておくんだけど、それを見て「これ、アルバムじゃん」と驚いたのを覚えている。穴埋めの曲が一切なく、どの曲も伝えたいことが明確だ。と同時に、「これはチェット・フェイカーのアルバムだ」ってことにも気づいた。ソウルやR&Bの影響が出ていて、レコーディング/プロダクションがきちんとされた作品だ。比較的自由な楽器編制や作風とは違ってね。だから、自分で決めたやったことではなく、音楽が代わりに決めてくれたんだ。僕が唯一下した決断は、これを世に出すかどうかだ。これまで僕が下してきた決断の根底にあるのは、「できる限り多くみんなと分かち合う」という考えだ。だから決断を下すまでもなく、「チェット・フェイカーのアルバムができた。自分にとってはつらい時期を乗り越えるのに、元気をくれた作品だ。もしかしたら同じように、ひとに元気を与えられるかもしれないから、みんなにも聴かせる責任がある」と感じたんだ。自然な成り行きでこうなったね。

―そのことが今後のキャリアや創作に影響を与えることはありますか?

ニック:まったく別のプロジェクトだと思っている。じつはもうひとつ別のプロジェクトも今年の後半に発表する予定だ。自分的には、ブルース・ウェインとバットマンのようなものだと思っているんだ。それぞれに存在意義がある。でもって、陰と陽のように、重複することはなく、どちらか一方になる。さっきも話したように、ニック・マーフィー名義の作品というのは、チェット・フェイカーではできないと感じたことをやるためのものだった。いまのところはそれで上手くいってる。お互い影響し合っているしね。『Hotel Surrender』は『Music for Silence』がなければ生まれなかった。でも、『Music for Silence』をチェット・フェイカー名義で出すことは考えられなかった。誰も納得しなかっただろう。複雑で、濃密な音楽を人びとに聴いてほしいと思ったら、それはニック・マーフィー名義で出すだろう。シンプルで自由に作る音楽にしてもそう。一方で、「出来上がった世界感があって、それをみんなにも聴いてもらいたい」と思ったら、それはチェット・フェイカー名義で出すだろう。チェット・フェイカーは、聴き手に何も要求せず、与える音楽だ。聴き手がいることを意識していて、「これを聴いていてほしい。きっと気に入ってくれるだろう」という音楽で、「1時間即興で演奏するピアノを我慢して聴いてくれ」という音楽ではないんだ。

―パンデミックによって、アルバムを出してワールド・ツアーやフェス出演を行う……というような、ミュージシャンの決まったルーティンもいったんリセットされました。そんななかで、音楽家として、いま自分が心からもっとも望んでいること、やりたいことは何ですか?

ニック:ツアーから離れた生活に慣れ過ぎて、いまやツアーにまた出られるのか不安なくらいだね(笑)。どうすればいいのか忘れてしまったくらいだ。一方で、世界を旅できることが恋しいのも事実で。そのどっちもある。ツアーに出たい自分もいるし、ひたすら音楽作りに専念してそれをみんなに聴かせたいと思う自分もいる。1本ライヴをしたら、すぐに勘を取り戻すと思う。でも、いまは正直不安でいっぱいだ。チェット・フェイカーのライブとなると、5年以上やってないわけだから、盛り上がるだろうね。歌詞を忘れがちだから気をつけないと(笑)。



チェット・フェイカー
『Hotel Surrender』
発売中
配信・購入:https://silentrade.lnk.to/hotelsurrender09

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