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映画『ブラック・ウィドウ』映画評 スカーレット・ヨハンソン遂にMCUで輝く

Rolling Stone Japan / 2021年7月21日 20時30分

マーベル作品『ブラック・ウィドウ』のブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)とタスクマスター(Photo by Jay Maidment/© Marvel Studios 2021)

フローレンス・ピューとヨハンソンが敵から味方へと変化する関係性の振り幅がこの作品の満足度を支えているといっても過言ではない。

ブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフは2010年からMCU(マーベル・シネマ・ユニバース)の常連で、記憶に残るキャラクターではあってもスターとは言えなかった。ロマノフがスクリーンに初登場したのが『アイアンマン2』での脇役として。このときもスカーレット・ヨハンソンがこのキャラクターを演じ、それ以前もアントマンが独自のキャラクターとしてブラック・ウィドウ的立ち位置で登場していた。これは文句ではない。マーベル作品にはハズレがないし、気分転換にもってこいだし、世界を破壊する衝突満載だし、呆れるほどのナンセンスも少ない。

しかし、ヨハンソンが演じるとなるとその程度では収まらない。ときとしてブラック・ウィドウというキャラクター自体が身の丈に合わない派手さを備えたサイドストーリーのように思えても、ヨハンソンというスターが演じることでその魅力が増し、要所要所に感動ポイントが散りばめられることになる。例えば、過去に体験したトラウマを認める場面。彼女が幼少期に極秘プログラムを受けてブラック・ウィドウになること、ハルクなどの人々への痛々しい哀悼など、ファンがキャラクターへ感情移入できる場面が登場する。これはフランチャイズ作品ではしばしば見過ごされる要素である。ブラック・ウィドウは訓練を受けた接近戦が得意なロシア人暗殺者だ。アントマンのように縮むこともできず、ハルクのように巨大化するのも無理だ。ましてや、トニー・スタークのように大富豪の超天才でもないし、スパイダーマン、スカーレット・ウィッチ、キャプテン・アメリカなどのように肉体が変化する見世物小屋系モンスターでもない。彼女はスパイなのだ。それも忌まわしい過去を持っている。

その忌まわしい過去とは……。最新作の『ブラック・ウィドウ』の監督ケイト・ショートランドは、すでに我々が知っているナターシャ・ロマノフというキャラクターの断片を複雑に組み合わせ、2時間という尺の長さも気にならないストーリーを紡いでる。始まりは1995年のオハイオ。子どものナターシャは家族と一緒に暮らしている。詳細は映画で観てもらうとして、とにかく、彼女の子ども時代は暗殺者育成プログラムの一環であり、一緒に暮らす父母のアレクセイ(デヴィッド・ハーバー)とメリーナ(レイチェル・ワイズ)は偽の両親だし、一緒に暮らす妹ももちろん偽者だ。そう、スパイ作品のお約束の設定。つまり、逃亡中の家族、偽の家族、中西部出身のアメリカ人家族という体で、ある目的を持ったロシア人たちという設定なのだ。

そして現在へと一気に時が進むのだが、MCU作品では『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』以降に恒例となった手法「薬品による服従」が登場して、時間が現在へと移動する。このブラック・ウィドウ・プログラムの詳細と首謀者であるドレイコフ将軍(レイ・ウィンストン)、ミステリアスなタスクマスター、他の登場キャラクターが霞むほど魅力的なエレーナ(フローレンス・ピュー)がここで登場する。この作品は少し奇妙だ。一見すると、最高のアクション、勢いのある脚本、タイミングよく挟み込まれる楽しさが際立つのだが、そういう要素はわかり易すぎて、本来の物語のガス抜き程度の効果しかなく、ストーリーに深みを与えるに至っていない。つまり、この映画の本質は巨大勢力の要求に屈するブラック・ウィドウの物語である。


『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』に登場したナターシャが暴露したとおり、このミステリアスなプログラムのせいで、子ども時代のナターシャは想像を絶する行為で自分自身をいたぶったことを、私たち観客は知っている。その一例が強制的な子宮摘出だ。『ブラック・ウィドウ』でもこの概念が引き継がれている。そして、偽の家業、冷戦時代を彷彿させるナショナリズム、幼少期からスパイ教育を施すスパイたちの心理戦なども取り入れつつ、これらすべてを過去の出来事として扱っているのだ。ちなみに、このような過去は子どもの頃のトラウマ以上の影をナターシャに落としている。突き詰めれば、ありふれた古い物語にたくさんの装飾を施しているだけなのだが、ありがたいことにMCUの他の作品とのつながりを過剰に意識してはいない。とは言え、ストーリー自体は表面をなぞるだけのものという印象だ。

物語の核心に触れないので話しても差し支えないと思うが、劇中に児童売買が登場する。これはこれまで知られていないナターシャの過去であり、ソビエトならあり得ると思える出来事だ。要するに、この映画は2つの相対する感情のぶつかり合いといえる。ブラック・ウィドウと呼ばれる暗殺者たちには感情がない。しかし、感情を持つ日がやってくる。彼らは無慈悲だ。しかし、慈悲を持つ日がやってくる。彼らには名前がない。ドレイコフの言葉を借りると、彼らは「ゴミ」なのだ。ピュー演じるエレーナ・ベローバは自分たちを「顔のない武器」と言う。きっと、組織を離脱して、アベンジャーになって初めて顔を持つのだろう。ナターシャとエレーナはアベンジャー予備軍なのかもしれない。

この映画は、世界中を逃げ回るスパイ家族(キューバ、モロッコ、ノルウェー、ブダベスト、そしてオハイオ)が登場し、雪に覆われた刑務所からの脱走劇があり、建物の屋根から滑り落ちそうになったり、一瞬ボンド映画をストリーミングするすましたナターシャが登場したりと、スパイ映画ならではの要素が目白押しだ。ただし、元ネタを知らない人にとっては大した意味を持たないのも確かである。そういった要素を見せただけで、ストーリーに織り込むことはしてないのだから当然だろう。MCU作品は「楽しい」点が評価されることが多いのだが、観客が作品中の「出来事が何かを知っている」「それがどんなふうに展開するのか予測できる」「ジョークを理解できる」から「楽しい」のだ。その点を踏まえれば、この作品も楽しいと言える。じゃあ、それ以外に何があるのだろう?

ピューとヨハンソンの演技によるところが大きいのだが、オープニングでこの二人が敵から味方へと変化する関係性の振り幅の大きさが、何にも増してこの映画全体を支えていると言える。ここでのピューが本当に素晴らしい。彼女が映画自体のわざとらしさをからかうとき、ヒーロー崇拝的な要素が少々陳腐に見える。さらに滑稽なのは、フランチャイズ映画が自らをからかいのネタにすることを覚え、それを必死にやろうとする姿だ。言葉による説明を最小限に抑えてアクションが主役の場面、決着がつくまで殴り合う場面、銃撃戦がナイフでの戦いになり、それがカーテン越しの奇妙な首絞めエクササイズになる場面など、文字で読むと陳腐だが、実際に見ると納得の楽しさなのだ。無駄がなく、少々意地悪だが、ほとんどの場面で的を射ている。ヨハンソンとその敵たちが戦う姿だけでいい。それだけで私はもう一度観たいと思う。今後MCUがこの続編を作るか否かは神のみぞ知るのだが。


ブラック・ウィドウ

7月8日(木)映画館&7月9日(金)ディズニープラス プレミア アクセスにて公開中
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン

From Rolling Stone US.

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