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1960年代後半のカレッジフォークを仕掛け人とともに振り返る

Rolling Stone Japan / 2021年8月31日 6時30分

田家秀樹と本城和治

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年8月は元日本フィリップス・レコードのプロデューサー、ディレクターである本城和治の50曲特集。第3週は、彼が手掛けたカレッジフォークシンガーについて振り返る。

田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのはザ・スパイダースで「あの時君は若かった」。1968年3月発売、今月の前テーマはこの曲です。夏休み真っ盛り、お盆休み。若かったあの頃を思い出しながらの1ヶ月であります。

関連記事: 日本最初のバンドブームとなったGS仕掛け人・本城和治とともに振り返る

あの時君は若かった / ザ・スパイダース

今月2021年8月の特集は、本城和治さんの50曲。元日本フィリップス・レコードのプロデューサー、ディレクター。1939年生まれ、もし彼がいなかったらその後の日本のポップミュージックはどうなっていただろう? あの曲、そしてあの人は生まれていなかったんではないか? と思わせてくれる重要な方であります。何よりもグループサウンズとキャンパスフォークに関して彼の右に出る人はいない。ザ・スパイダースはじめ、当時手掛けていたバンドは十数組。一人のプロデューサー、ディレクターがこれだけたくさんの数を手掛けたの方はいらっしゃらなかったでしょうね。先週はザ・スパイダースについていろいろ伺いましたが、今週はキャンパスフォークについて語っていただこうと思います。こんばんは。



本城和治(以下、本城):こんばんは、本城です。

田家:キャンパスフォークと言ってしまいましたが……。

本城:キャンパスフォークというのは抵抗がありますね。僕はカレッジフォークという言葉を使いました。森山良子を担当していたのですが、彼女のアルバムにカレッジフォークという言葉を当て嵌めたんですね。なので、カレッジフォークという言葉を使っているのはフィリップスだけなんです。

田家:なるほど。

本城:会社によってキャンパスフォークとか独自の言い方をしていましたね。

田家:GSという言葉はかまやつさんか本城さんがお付けになったんだと思っていたら「週刊明星」でしたが、このカレッジフォークというのは本城さんがお付けになった。すごいな。こういう歴史の真実が明かされていきます。本城さんは元々ビクターの洋楽部にいらして、GSは作家が専属作家ではないのでビクター本体ではできないから洋楽系のフィリップスレコードでやったと。

本城:たまたま私がフィリップスにいたからということもあるんですけど、ビクターの文芸部にいたらやってなかったかもしれないですね。

田家:カレッジフォークの方にも、レコード会社の事情はあったんですか?

本城:やっぱり専属じゃなくてフリーの作家でしたね。フォークならシンガーソングライターということになりますね。

田家:そういう人たちは古いビクター本体では仕事ができない時代だった。何はともあれ今週も10曲お聞きください。まずは1966年4月発売、マイク眞木さんで「バラが咲いた」。





田家:やっぱりこの曲から始まりますか。

本城:そうですね。私が初めてフォークのレコードを手掛けたのはこれが最初だったので。

田家:フォークソングという言葉は既にご存知だったんですよね?

本城:もちろん、洋楽のモダンフォークはもっと前からありましたし、日本でもキングストン・トリオとか大学生の間でもてはやされていましたからね。それがきっかけで日本の大学生が皆ギターを持つようになっていって。当時はあまりオリジナルがなくて、皆コピーだったんですよね。当時の東京には、ジュニア・ジャンボリーとスチューデント・フェスティバルという二つのフォークの学生団体がありまして。マイク眞木もそこから出てきた人です。

田家:この曲は浜口庫之助さんが作詞・作曲されて、テレビなどで流れるフォークの第一号と紹介されていました。

本城:この曲はマイク眞木のために作られた曲じゃないんです。浜口庫之助さんとしては、この数年前に「涙くんさよなら」という曲をジョニー・ティロットソンのために作って大ヒットするんですね。たぶん浜口庫之助さんは、それに次ぐジョニー・ティロットソンのための曲としてこの曲を作ったんじゃないかと思うんです。それをシンコーミュージックに提供して。ジョニー・ティロットソンをレコード会社で担当していたのが、のちの筒美京平だった。だからこの曲は筒美京平の仕事の中の一部だったと思うんですけど、この曲ができて出版社の方からデモテープを作ろうという時に、のちに出てくるザ・ブロードサイド・フォーと人気を二分していたモダン・フォーク・カルテットからマイク眞木が独立してソロシンガーになるんです。彼の最初のレコードを作るにあたって、この曲が合うんじゃないかということで、デモテープがてらこの曲をレコーディングしたんです。そうしたらすごくぴったりなので、この曲がデビュー曲になりました。本当はジョニー・ティロットソンの曲になる予定だったんですよね。のちに彼が日本語と英語でこの曲を歌ったんですけど、マイク眞木の方がヒットしてそっちは隠れちゃいました(笑)。

田家:なるほど。もしジョニー・ティロットソンがアメリカで歌ってヒットしたら、日本のフォークの歴史は変わっていたかもしれないですね。



ランブリン・マン / マイク眞木とザ・マイクス

田家:本日2曲目「ランブリン・マン」。1967年10月発売ですね、この曲は知らなかったです。

本城:これはマイク眞木が結成した、おそらく日本初のフォークロックのグループなんですよ。曲は村井邦彦さんなんです。

田家:これ村井さんなんだ。シタールみたいな音も入ってますね。

本城:本物のシタールです。シタール奏者を連れてきて一緒にやったんです。

田家:マイク眞木さんがこういうことをやろうとしたんですか?

本城:そうですね。彼もソロだけに拘ってませんでしたから。このグループはそんなに長続きしなかったんですけどね。初代のボーカルも女性なんですが、2代目が高田恭子さんなんです。高田恭子さんボーカルでもシングル作って、合計二枚で解散しちゃったんですけどね。この曲のベーシストはザ・ブロードサイド・フォーのベースの横田くんなんです、ロビー和田も参加していますね。2枚目には山内テツが参加していて。

田家:皆すごく有名な方々ですね。GSもフォークも一緒になっていた時代があったということですね。さっき話にも出ましたが、マイク眞木さんは1960年に結成された学生フォークの創世記のスター、モダン・フォーク・カルテット(MFQ)。麻田浩さんなんかも参加しておりました。そういう意味では、GSよりもフォークの方が日本に入ってきたのが早かったということですね。

本城:そうですね。アマチュア活動で終わる人も多かったですけど。たまたまザ・ブロードサイド・フォーはレコードを残してますね。

田家:ザ・マイクスについて調べたら、1967年10月に出た「野ばらの小径」も村井邦彦さん作曲だったんですね。

本城:そうなんです。B面がこの「ランブリン・マン」なんですよ。

田家:シングルAB面が村井さん。GSとフォークが張り合っていた時期はあるんですか?

本城:張り合っていたということもないんじゃないですかね。フォークはそんなにグループとかないですし、活動の場所が一緒ということもなかった。GSはジャズ喫茶がメインの活動場所でしたからね。ザ・マイクスなんかはジャズ喫茶に出てませんでしたし。

田家:それでは学生がやっていたカレッジフォークのスターの曲をご紹介いたします。1966年7月発売、ザ・ブロードサイド・フォーで「若者たち」。



若者たち / ザ・ブロードサイド・フォー

田家:2014年に森山直太朗さんがカバーしておりました。

本城:これはフォークの古典ですよね。フジテレビの「若者たち」というドラマの主題歌にアマチュアだった彼らが起用されたんです。黒澤明監督の息子・黒澤久雄がリーダーだったんですけど、黒澤明監督の映画の音楽は佐藤勝さんが担当していて、この曲も佐藤さんが作られたんです。たまたま黒澤監督が息子が音楽グループやってるからよろしくって言っていて、佐藤さんもそれが頭にあったんでしょうね。

田家:お父さんから息子が音楽をやっているという話はあったんでしょうね。

本城:ドラマは1966年2月にスタートしたんですが、あまり視聴率が良くなくて3話くらいで打ち切りになりそうだったんですけど主題歌の人気がどんどん上がって曲のリクエストが殺到したんですね。ドラマも結局9月まで続いてヒットしたんです。実を言うと私はザ・ブロードサイド・フォーもステージで見ていたんですが、レコード作るつもりはなかったんです。森山良子が彼らとよく一緒に出ていて、彼女は芸能界の仕事を嫌がっていて。私は彼女と契約したかったので、ステージ終わったタイミングで彼女を口説きに行ったんです。彼女は当時高校生だったので、代理人として出てきたのが、ザ・ブロードサイド・フォーの黒澤くんだったですね。

田家:なるほど。

本城:それで話してるうちに僕らも大学4年生で解散なんだと。だったら解散記念にレコード作ろうと。森山良子さんの話そっちのけでザ・ブロードサイド・フォーのレコードを作ることになって。この「若者たち」のドラマがヒットしているということを耳にしていて、急遽レコーディングして大ヒットしたんです。

田家:大ヒットしてから次に出たのがこの曲です。1966年9月発売の2枚目シングル「星に祈りを」。





田家:ロマンチックな曲ですね。作詞作曲は佐々木勉さんです。佐々木勉は成城大学の先輩だったんですね。

本城:そうです。ザ・ブロードサイド・フォーは森山良子の先輩で。この「星に祈りを」という曲は、ロカビリー歌手の清原タケシさんが「夜空の星」というタイトルでビクターからレコード出したんですけど、全然ヒットしなかったんです。でも学生の間では広まっていて、私も従兄弟がギターで弾き語りしているのを聞いたこともあって。この曲は「バラが咲いた」以前に東京の学生の間でヒットしていたカレッジフォークの一番最初の曲じゃないかと思いますね。たまたまザ・ブロードサイド・フォーがレコーディングした曲の中に入っていたので2枚目のシングルとしてカットしたんです。

田家:清原タケシさんはロカビリーの歌手ですよね。ギター弾きながら歌ってたんですか? 想像つかないですね。

本城:私もちゃんと音源を聞いたことはないんですけど、フォークとかそういう意識はなくて歌謡ポップスみたいな形で歌ってたんですかね。あるいはカントリー的な意識はあったかもしれないですね。

田家:佐々木勉さんはフォークの意識で作られたんでしょうか。

本城:微妙なところですね。佐々木さんはこの曲の前にザ・サベージの「いつまでもいつまでも」を手掛けていて、GSというよりもフォーク寄りなポップスみたいな曲を作っていましたからね。

田家:このあと森山良子さんの話もお伺いしますが、黒澤久雄さんやザ・ブロードサイド・フォーと出会った時に、日本の歌謡曲とは違うものを作ろうという意識はおありだったんですか?

本城:私は最初から脱・歌謡曲という意識で新しいポップスを作るつもりで邦楽製作を始めて、それがGSやフォークであって。私としては日本のポピュラーソングという意識で作っていました。

田家:日本語のポップスの生みの親の一人であるという所以がこういうことです。この佐々木勉さんが自分で歌っているヒット曲もあります。1967年5月発売「あなたのすべてを」。



あなたのすべてを / 佐々木勉

田家:これも色々な人がカバーしてますよね。

本城:これはすごいですね。布施明から尾崎紀世彦、美空ひばりさんとか昭和の大歌手皆が歌ってますよね。それぞれ歌い方が違うのも面白いですね。

田家:でも、オリジナルを聴く機会はあまりないですよ。

本城:これは日本の昭和カラオケ文化の代表的な曲になりましたもんね。この曲自体はそんなにヒットしなかったけど、皆に歌われて日本の歌謡ポップス的なもののスタンダードになったんでしょうね。

田家:オリジナルのレコーディングも本城さんがやっていらしたんでしょう? その時はこうなると思われましたか?

本城:あまり思わなかったんですね。これは徳永芽里という新人歌手のために作った曲で、自分でも歌いたくなって作家自身と新人の共作になりました。

田家:それがこんなに歌われる曲になったと。





田家:1967年1月発売、森山良子さんのデビュー曲「この広い野原いっぱい」。作詞が小薗江圭子さんで作曲が森山良子さん自身。小薗江圭子さんという方を調べると、1967年にヴィッキーの「待ちくたびれた日曜日」、村井邦彦さんが作曲デビューした曲の作詞もされていました。

本城:この2曲くらいしかないでしょうね。小薗江圭子さんは作詞家として無名の人だったんですけど、森山良子が当時ラジオ日本でやっていたレギュラー番組の中で、本人が曲を作るコーナーがあって。彼女は作曲が得意じゃなかったんですけど、なかなかいい歌詞はないかしらって探していた時に、局内にあったスケッチブックにこの詞がのってたんですね。これはいい詞だな、いい曲をつけれると思って作り始めたんですね。レコーディングの時、彼女はそんなにオリジナルの持ち歌が少なかったんですけど、この曲だけ光ったんですよ。歌詞もいいし。レコード化した方がいいけど、誰が作詞か分からない。調べたら銀座の月光荘という画材屋さんで発売しているスケッチブックだった。最初はそこのご主人の高橋兵蔵の作詞で出したんです。でも、何ヶ月か経って、そのスケッチブックを制作したスタッフの中に小薗江圭子さんがいらして、その方の詞だということが分かったんです。小薗江圭子さんは作詞家じゃないんですけど、当時のNHK「みんなのうた」のアニメーションを作ったりする方で。せっかくいい詞なので、他の詞も見せてもらったんです。その中に「待ちくたびれた日曜日」といういい歌詞があった。たまたまその頃ヴィッキーの「恋はみずいろ」もヒットして日本でオリジナルを作る話も出たので、それがヴィッキーに合いそうだということで、当時学生だった村井邦彦に曲をつけてもらったんですね。

田家:森山良子さん、村井邦彦さん、小薗江圭子さんの全員のデビュー曲に本城さんが関わっていたんですね。森山良子さんはお父様がジャズミュージシャンでお母様が歌い手だったのですが、その話は後ほどお伺いします。次の曲は1968年5月発売「雨あがりのサンバ」。作曲が村井邦彦さんです。





田家:森山良子さんの5枚目のシングル『小さな貝がら』のカップリング「雨あがりのサンバ」。作詞が山上路夫さんで、作曲・アレンジが村井邦彦さんです。森山良子さんはオリジナルがほとんどなかったんですね。「この広い野原いっぱい」でデビューして以降、2枚目「ふたつの手の想い出」は鈴木邦彦さん、3枚目「恋はみずいろ」はヴィッキーさんのカバー。4枚目は森田公一さん、5枚目「小さな貝がら」は筒美京平さん、カップリングが村井邦彦さんの作曲だった。

本城:この曲は当時、村井邦彦がポップスの作曲家としてデビューして山上路夫さんと新しい日本のポップスを作っていきたいということで。森山良子という素晴らしい歌手がいるので、これからは自分達が作る曲を良子さんに歌ってもらえればありがたい。気に入ったらレコーディングしてほしいと山上・村井コンビで作り始めた一曲目がこの曲でした。

田家:これが名コンビの一曲目だった。すごいですね。森山良子さんはデビューした時に、日本のジョーン・バエズっていうキャッチコピーがついちゃったわけでしょう。

本城:本人は嫌がってましたけどね。本人はジャズ・シンガーとかポピュラー・シンガーとかバーブラ・ストライサンドみたいになりたかったんですよね

田家:でも世の中の流れやメディア、聞き手としては、日本のジョーン・バエズという方が彼女らしいと思ったんですかね。

本城:わかりやすいですからね。透明感のある声だし。彼女をフォークシンガーにするというつもりは元々なかったし、シンガーソングライターという意識も僕はあまりなかったし。ですから山上・村井コンビの曲とか新しい日本のポップスでいい曲を歌わせていけたらいいなと思ったんです。当時のアメリカの曲でもいい曲はありましたから、そういうのも歌って欲しかったし。

田家:でも森山良子さんのデビューにカレッジフォークという言葉が使われたということもあります。良子さんの話は最終週にまた伺いましょう。本城さんと言えば、この人のこともお伺いしないといけません。長谷川きよしさん。デビュー曲です、「別れのサンバ」。



別れのサンバ / 長谷川きよし

田家:1969年7月発売、長谷川きよしさんのデビュー曲です。この曲はどういう流れの中の曲だったんですか?

本城:彼を発掘したのは、森山良子から話を聞いてですね。なんかのコンサートで一緒になったらしいんですよ。良子ちゃんがすごい新人と今日一緒になったのよって言っていて。それで興味を持って、どこに出てるのかなと思ったらシャンソン喫茶「銀巴里」に出てたんですよ。それで聞きに行って。歌っているのはシャンソンばかりじゃなかったんですけどね。デモテープを録った時からこの曲のギターはすごいなと思ったし、こういうサンバ的な曲も新鮮だったし。面白いなと思ってそのままアルバムを作り始めて、その中からシングルカットという形になったんですね。この曲は村井邦彦にアレンジしてもらって。最初はそんなにヒットしなかったんですけど、深夜放送で人気出始めてあれよあれよという間に半年後くらいに売れて。当時、ビクターのディレクターの親しい人たちも「よくこの曲ヒットさせたね」って言うんですよ。ビクターの編成管理だったらこの曲は通らないよってびっくりしてました。

田家:聞いたことのない曲だったからでしょうね。本城さんだったからシングルにできたのかもしれません。長谷川きよしさんでもう一曲お聞きください。「黒の舟唄」。

黒の舟唄 / 長谷川きよし

田家:1971年2月発売、作詞が能吉利人さん、作曲が桜井順さん。歌っていたオリジナルは野坂昭如さんで、シングル『マリリン・モンロー・ノー・リターン』のB面でした。

本城:この曲の作詞の能吉利人さんは、桜井潤さんが野坂さんの曲を作る時にペンネームとして使っていた名前なんです。『マリリン・モンロー・ノー・リターン』のB面でしたけどすごくヒットしたわけでもないんですけどね。どういうきっかけできよし君がこの曲を見つけてきたのか分からないんですが、彼のレパートリーとして取り入れてライブで歌うようになったんです。結局彼が歌った方が有名になったんだけど。

田家:こういう曲を歌いたいんだと言われた時はどう思われました?

本城:これはアルバムで歌ったんですよ。なので、歌いたいもなにも彼のライブをそのままレコーディングしたような感じで。その時はシングルカットしておらずアルバム曲だったんですが、これはシングル用にロックバージョンとして、ドラムにつのだ☆ひろと成毛滋のエレキギターと玉木宏樹さんのバイオリンで。

田家:つのだ☆ひろさんと成毛滋さん? バンド・フライドエッグを組む前ですか?

本城:その前だったかな?

田家:ストロベリー・パスの時代ですか。この話はまた来週ですね。でもこれは、長谷川きよしさんの一面がよく出ている曲なんでしょうね。次の曲は本日最後、思いがけないカバーです。「ひこうき雲」。



ひこうき雲 / 長谷川きよし

田家:長谷川きよしさんの「ひこうき雲」は1974年4月。荒井由実さんがこの曲を発表したのは1973年11月。すぐですね。

本城:どういう機会でユーミンのアルバムを聴いたのかは分かりませんが、この曲を気に入って。ユーミンが最初にコラボしたのは長谷川きよしなんです。ユーミンが歌詞を書いて彼が曲をつけた「ダンサー」という曲も同じアルバムに入れてるんですね。

田家:なるほどね。

本城:彼がシンガーソングライターで共演する人はそんなにいないんですけど、あとは南正人の曲をよく歌ってました。南正人の「横須賀ブルース」みたいにブルース調の曲を彼は得意としていましたから。そういう意味では共感もあったでしょうね。最近だと椎名林檎さんと共作して共演されていますよね。そういう数少ない共演アーティストの中でもユーミンの歌詞の世界が好きだったみたいですね。

田家:「ひこうき雲」について、ユーミンは他の人にカバーさせないって言ってたそうです。異例のカバーですね。本城さんに今週改めてお訊きしたいのが、関西フォークについてどう思われていたか? ということなんです。

本城:はっきり言えばあまり興味はなかったですね。私は日本の上質なポップスを作りたいという欲がありましたけど、関西フォークはそれとは異質なものだったので。存在は素晴らしいものですけど、私がタッチする音楽じゃないという意識がありました。ただね、マイク眞木をヒットさせたちょっと後くらいに、大阪のラジオ局の人から高石ともやを売り込まれたんです。それはお断りしてしまったんですけどね。マイク眞木やってて、高石ともやはないだろうという感覚もあったので。

田家:この話の続きは、来週も再来週も続きます。





田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」。本城和治さんの50曲。1970年を境にしたJ-POPシーンの立役者、日本語ポップスの生みの親の一人。元日本フィリップス・レコード、日本フォノグラムのプロデューサー、ディレクターである本城和治を迎えた5週間。今週は彼がネーミングしたカレッジフォークというくくりでお送りしました。今流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

「若者たち」の話が出ましたが、あのドラマが4,5年前にCSで流れているのを見ちゃったんです。僕も10代後半、20代になった頃にリアルタイムで見ていたわけですが、こんなに登場人物が泡を飛ばして議論していたんだな、これが当時のヒットドラマだったんだな、世の中はこんなに変わったんだなと思いました。

そういう1960年代後半のフォークソングには関西と関東の二つあったという話はこの番組の中でもよく出てきますね。この番組はどちらかというと関西よりだった気もします。つまり、メッセージフォークの岡林信康さんとか高石ともやさん、五つの赤い風船たちの関西ですね。関東が今日ご紹介したようなザ・ブロードサイド・フォーや森山良子さん、マイク眞木さんだった。今思うと、そこの間にあったものはアマチュアとプロの違いだったのかなと思ったりもするんです。関西は、アマチュアリズムを重視していた。関東は新しい世代のプロの人たちも加わって新しい良質な音楽を作ろうとしていた。本城さんはそこの一番の立役者だったと思ったりもしました。その中に村井邦彦さんやユーミンがいたりするわけです。来週は名曲編として紹介しようと思います。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE :  https://cocolo.jp/
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