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泉谷しげるデビュー50周年、エレックからフォーライフへの変遷を本人と振り返る

Rolling Stone Japan / 2021年9月22日 6時30分

泉谷しげる

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年9月は70年代から80年代にかけた時代を代表するシンガー・ソングライター。俳優、画家、音楽にはとどまらない表現活動を続けるアーティスト。さらに、様々なイベントを企画して、先頭で実行する戦うプロデューサー。「泉谷しげる50周年、俺をレジェンドと呼ぶな」特集。第2週は、エレックレコードからフォーライフ・レコードに移籍した変遷について振り返る。

田家秀樹(以下、田家):こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは泉谷しげるさん1987年のシングル「野生のバラッド」。今月の前テーマはこれです。

関連記事:「泉谷しげる50周年 俺をレジェンドと呼ぶな」本人と振り返るエレックレコードの名盤



「J-POP LEGEND FORUM」今月2021年9月の特集は泉谷しげる。70年代から80年代にかけた時代を代表するシンガー・ソングライター。その一方で俳優、画家、音楽にとどまらない表現活動を続けるアーティスト。さらに様々なイベントを企画して、先頭で実行する戦うプロデューサー。2015年に立ち上げた熊本の「阿蘇ロックフェス」は今年で勇退を声明されて、10月23日、24日にそのライブも行われます。デビューが1971年。今年がデビュー50周年。唯一無二の50年。どんな音楽を残してきたのか。題して「泉谷しげる 50周年 俺をレジェンドと呼ぶな」。本人に4週間登場していただいています。こんばんは。



泉谷しげる(以下、泉谷):どうもー!

田家:今週もよろしくおねがいします。2週目ですが、先週はデビュー当時のエレックレコードのお話を伺いました。エレックレコードと言えば、拓郎、泉谷です。

泉谷:そうみたいですね。吉田拓郎は旋風児で、アイドル的なものがあって、本人はアイドルになりたかったんじゃないかなって未だに思ってるね。

田家:ありますよね、そういう面。

泉谷:あるよな。だから、よく怒鳴り散らしてましたね(笑)。「何アイドルなんて言ってるんだ、この野郎!」みたいな。要するにあの時代は男たるものぶすっとしていて、女にチャラチャラしない。世の中どんどん変わっていくんだけどな。そっちの方にね。

田家:男は黙っての時代ですもんね。三船敏郎さんの。

泉谷:そう。俺はもちろんハチャメチャを目指しているんだけど、本当に彼はかわいかったですね。

田家:エレックの黄金期を支えた二人。

泉谷:ある意味でそうですね。

田家:泉谷さんが23歳から25歳。年間200本のコンサートをやっていた。

泉谷:そうですよ。ひどいでしょ。記憶がないんだから。「広島のみなさんこんにちは!」、「長崎だよ! 馬鹿野郎!」って返ってくる。

田家:しかも夜行列車でね。

泉谷:でも、結果的には良かったんじゃないかな。体を強くさせました。

田家:決して体が強い方ではなかったんですよね。

泉谷:全然弱かったです。こう言っちゃなんだけど、エレックに受かった時に「ちょっと待ってくれ」って言ったのは、実は電車も車も酔うし、船もダメだし。まだ泉谷しげる(というキャラクター)になれねえなっていうのがあって。「待ってくれ」はそういう意味なんだよね。だから、これじゃまずいな、弱ったなあと思って。飛行機に乗った時は脂汗が出ましたね。でも、とにかく虚勢を張ってるから、なんとか。それからですよ、とにかく船に乗って、波バシャーンって浴びたり、ジェットコースターに乗ったり。私、頑張りました、泉谷しげるになるために。

田家:200本のコンサートを続けた、その先というのが今週のテーマです。1974年からなのですが、まず今日の1曲目。74年10月発売、5枚目のアルバム『黄金狂時代』から「眠れない夜」。



眠れない夜 / 泉谷しげる

田家:北から南まで旅をしたのが伺えます。

泉谷:疲れ果てたということでもあるんだけど、経験だけのソングにするのではなくて、ポップという言い方は変だけど、イエローというバンドと知り合って音楽的レベルを上げたくて。ドラムの打ち方なんかも「こういうふうにやって」って言って、このフレーズをすぐに出したので、こいつらやっぱりすごいなと。

田家:ドラムはジョニー吉長さん。

泉谷:そうですよ。素晴らしい。

田家:ジョニー・ルイス&チャーに繋がります。

泉谷:自分はもう3枚目も4枚目も作っているわけで、ある程度音楽レベルを上げないと、アドリブだけではやっていけねえぞ、みたいな追い込まれ方ですよね。

田家:このアルバム『黄金狂時代』はイエローとラストショウ。アコースティックの名手が集まっている。かたや、ロックバンド、イエロー。泉谷さんはこの人たちとやりたかったんですか?

泉谷:そうですね。自分でイエローを見つけてきて。情報を聞いて見に行って。ムゲンで対バンをやっていたんです。ディスコにおいておくのはもったいないなと思って。

田家:泉谷さんはもともとローリング・ストーンズが憧れのバンドだったんでしょう。

泉谷:そうですね。だから、はっきり言えば、フォークよりはロックだなってことに目覚めちゃったってことですよね。

田家:エレックに入って、周りにはフォークだって言っている人たちがいる中で、ですよね。

泉谷:はっきり言えば、フォークあまり好きじゃないんで。ベトベト歌いやがってさ。リズムのあるものが大好きで。

田家:そういう中にいたから、強く出ようと思ったというのもあったのかもしれませんね。こいつらと一緒にされたくないみたいな。

泉谷:そこまで生意気ではないし、今思うとどれも良い曲だなって思うんだけど、当時は張り合っているから。生ギターの限界を感じたところもあるんじゃないかと思うんだよね。

田家:しかも加藤さんのプロデュースで『光と影』があって。

泉谷:あのポップさにちょっとびっくりしちゃって、自分自身が精度を上げていかなかったらダメかなって、そういうところに差し掛かっちゃったんだね。オリンピックに出るんだったら、もうちょっと頑張って練習し直せみたいに。

田家:アルバム『黄金狂時代』からもう1曲お聴きいただきます。「Dのロック」。



Dのロック / 泉谷しげる

田家:これもある意味普遍的な歌ですね。

泉谷:いや、まあテレビは大好きなんですけどね。当時、テレビは相手にしてくれなかったんで、ラジオのおかげですよ。芸能界は強かったから、我らみたいに無礼なやつらは相手にされなかったんだよね。

田家:そういうフォークブームを作ったエレックレコードは75年に倒産してしまうわけですね。

泉谷:やっぱり、売れた、天狗になった、権力持っちゃったなという失敗。土地買わされて、騙されたんでしょ。著作権は払わないし、しょうがないかなって感じかな。

田家:印税がなかったんですもんね。

泉谷:ひどい話でさ。フォークのムーブメントをやってきた俺たちは「お金のことを言うな」って言うわけですよ。本当にお金のこと言いづらくて、随分と踏み倒されましたね。もう1つ言えば、我らも無知だった。

田家:歌うことに精一杯。

泉谷:著作権がなんだかんだってよく分からなかったし、そういう意味では良い勉強になりましたね。

田家: 1975年6月に発足したのが、フォーライフ・レコード。小室等さん、吉田拓郎さん、井上陽水さん、一番年下が泉谷しげるさん。最初の発売がこの曲の入ったライブアルバム『ライブ!!泉谷~王様たちの夜~』でした。その中から「寒い国から来た手紙」。



寒い国から来た手紙 / 泉谷しげる

田家:フォーライフ・レコード第1弾発売アルバム、8月に出た2枚組『ライブ!!泉谷~王様たちの夜』から、「寒い国から来た手紙」。こちらのバックはラストショウですね。

泉谷:そうです。カントリーはあまり好きではなかったんだけど、バカテクだよね。なんでこんなに上手いんだろうってアメリカで観て、ちょっと驚いたんです。

田家:これは後楽園ホールのライブ。

泉谷:そうですね。8時間ライブというやつです。

田家:フォーライフで出すというのが決まる前ですもんね。

泉谷:決まる前。録ってあって、フォーライフのやつが聴いて、「みんなの新譜が間に合わないから、泉谷のこれ出させてくれ」って言われて。

田家:もう1回言いますね。「みんなの新譜が間に合わないから出させてくれ」って(笑)。それで第1弾が発売になった。

泉谷:様子見を俺にさせやがってみたいな(笑)。

田家:フォーライフはいろいろな言われ方もされていますが、僕らは革命だと思ったりしたんですけど、当事者の意識はどんなものだったんですか?

泉谷:おそらく、すごいことやろうという気はあったでしょうね。ただ、どこを真剣になるかを組み間違えたんじゃないかな。音楽のところで、あるいはステージのところでもっとやろうと思ったけど、会社を大きくすることで経営学の方に行ってしまった。遊びじゃなくなっちゃったんですよ。それはダメですよね。

田家:先に小室さん、拓郎さん、陽水さんが決まっていて、泉谷さんのところには後から電話が来て。その時はアメリカにいたんですよね。

泉谷:そう、アメリカにいたんですよ。エレックの借金取りから逃げよう的なところがあって(笑)。

田家:エレックが潰れそうで(笑)。

泉谷:いなくなろうって、巻き添えさせられると大変だって。それ自体は素晴らしいなと思いましたよ。発想自体は。

田家:で、フォーライフからオリジナルアルバムが出ているんですが、これも泉谷さんのアルバムの傑作の1枚です。76年に4月に出たアルバム『家族』から「野良犬」。



野良犬 / 泉谷しげる

田家:1976年4月発売6枚目のアルバム『家族』から「野良犬」。これは良い曲ですね。

泉谷:これはサウス・トゥ・サウスの影響もありましたね。

田家:ピアノ、中西康晴さん。バックはサウス・トゥ・サウスですもんね。

泉谷:ギターは有山じゅんじ。つまり、サウス・トゥ・サウスのユニットの中にアコースティックのパターンがある。ライブもソウルバンドでバーっと始まって、途中でアコースティックになる、「俺の借金全部でなんぼや」とか、素晴らしいんですよ。あの影響でこういった曲を作れないだろうかって、カントリーから得たテクニックも混ぜて、アコースティックで。あと、歌だけが上手くなればみたいなつもりで。これはこれで精度を上げたかったんです。

田家:「野良犬」というテーマ、モチーフはこれを歌いたかったというのがはっきりあった歌に聴こえますもんね。

泉谷:全くその通りです。自分は野良犬がうろついている時代にいて、黒澤明映画『野良犬』が大好きで。戦後間もない頃のエネルギッシュな連中たちの映画なんですね、結局これは。

田家:情景がたしかにね。フォーライフはいろいろな扱われ方はしましたけども、一種のスーパースター集団みたいに扱われた面もあって。それに対して、違和感とまでは言わないんですけど、え、そうなの、 という気分もあった時に『家族』が出てこの「野良犬」があった。このアルバムはインパクトありました。

泉谷:みんなが思うように、マスコミ的にはインパクトがあったにせよ、音楽ファンにはどうだったんだろうかというのはありますよね。スターが早めに集まっちゃって、終着点を見つけちゃうとどうなの? という。居心地の悪さはやっぱりありましたね。

田家:1番あったのが泉谷さんでしょうからね。

泉谷:自分はとにかく経営の方に行くんじゃなくて、良い曲を作ろうよと。アーティスト同士の競争をしないかと何度も言ってたんだけど、うーん…… ね。

田家:なかなか言えないこともたくさんあるんだろうなと。

泉谷:ありますねー。本当に飲み会ばかりで嫌になっちゃいましたよ(笑)。

田家:『光と影』の中に「ひとりあるき」という曲がありました。団塊の世代が親になり始めた時代でもあったので、「家族」にはそういう背景もあるのかなと思ったりもしたんですよ。

泉谷:ベースに直接家族的なテーマを上手くまぶしてはいるんだけど、正直言えば、団塊の世代は家族を作るのが下手くそというか。家族が重い、みたいな。おそらく、お父さんたち、戦争をやってきた人間をものすごく恨んでいるところもある。だから、古い親父たちが大嫌い。で、断絶の世代を生むわけじゃないですか。陽水がその断絶を歌うんだけど、よく分かる。だから、自分は家族の重みが嫌だっていう。家族、めんどくせえなっていう。

田家:アルバムのタイトル曲をお聴きいただきます。「家族」。



家族 / 泉谷しげる

田家:この〈古いものを怖がらない家族にまだお目にかかったことがない〉すごいですね。

泉谷:そこが肝だね。やっぱり、自分たちの世代は歴史がないんで、なんとか作りたがる歪な状態になっていく。

田家:ニューファミリーとかね。

泉谷:そうそう、ニューファミリーですよね。あれは完全断絶じゃないですか。姑、祖父と一緒に住みたくないってことの宣言でしょ。お前、そんなことやって家族できるのかってところじゃないですか。

田家:はい、だから壊れていったわけで。人のこと言えないんですけど、僕も(笑)。

泉谷:つまり、核家族になるってことは責任が半端ないわけよ。おじいちゃん、おばあちゃんがいた時は責任を分けられるというか。子どもの面倒を見てくれたり、孫の面倒を見てくれたりね。良いところもあったわけじゃないですか。だけど、核家族になっちゃうと秘密が増えちゃって、個室が増えていくから余計会話がなくなる。

田家:袋小路に入っていく。

泉谷:袋小路ですよね。団塊の世代ってろくなことやってないね。申し訳ございません!

田家:で、今でも威張ったりしているという、厄介な(笑)。

泉谷:申し訳ございません、本当に(笑)。



ねどこのせれなあで / 泉谷しげる

田家:76年10月発売、ライブアルバム『イーストからの熱い風』の中からの「ねどこのせれなあで」。2枚目のアルバム『春夏秋冬』の中の曲でありました。ライブはロサンゼルスの名門ライブハウス、トルバドール。

泉谷:これはやりたくてやったんだけど、あらためて聴いてみると自惚れてますね。ダメです。自信過剰ですよね。精度を上げたいつもりでやってはいるんだけど、謙虚さがない。

田家:ははは! 76年7月28日。トルバドールはボブ・ディラン、ニール・ヤング、エルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、ジャニス・ジョプリン。西海岸の老舗中の老舗。『家族』のテープを向こうに送って聴いてもらって、いいよ、になったという。

泉谷:俺はすごいぞってものを見せたくてやったんだろうね。もう歌で分かりますね。声の出し方で分かる。

田家:何が違いますか?

泉谷:やっぱり、品を作っているというか、表現をやりすぎてる。ちゃんと曲に向き合ってるとあまりこねくり回さないんです。ストーンっと歌ってるのにこれは低くしたり、高くしたりとか小技をいっぱい使ってる。まさしく自信過剰です。

田家:でも、他の曲では叫んだりしているところがありましたよ。

泉谷:それは単なる脅してやろうですよね。そういうこと1個1個に対して、ちゃんと反省しないとダメです。

田家:ロスの名門に殴り込んでやろうみたいな意識はあったんじゃないですか?

泉谷:ありますよ。だからもちろん、この後もいろいろな人と知り合いになったし、他の店で3年間やってくれねえかとか言われたんだけど。やっぱりどこか自分の中では調子乗ってんじゃねえぞっていうのがあったんだろうね。

田家:アメリカの人たちがお客さんにいて、当然、日本のライブと違うものはいっぱいあったわけでしょ?

泉谷:アメリカというのはなんでもわ―となると思ったら大間違いで、厳しいんです。ぶすっとしてますよね。

田家:聴いてやろうじゃないかみたいな。

泉谷:そうそう。おもしろくなかったら帰るぞみたいな人たちですから、すごいやりがいはあったんだけど。なんでこの曲で受けてるかって言ったら、黒い壁があったんだけど、そこに転写したり、英語の歌詞を作ったんです。アートにしてるんですよ。

田家:歌詞は伝わっているんだ。

泉谷:言っていることは伝わってるんですよ。だから、笑ったりしているんですね。まあ、日本人かもしれないんだけど。そういう意味では日本語で自信過剰に突きつけたかったというのも含めてそうだけど、アメリカの音楽の深さとか、客の深さを目の当たりできてよかったなと思います。すごく厳しい客に会えて、よかったなって思いますね。

田家:そういうことが影響したのかどうかをこの後、お訊きしたいと思っているのですが、泉谷さんの路線が激変します。



電光石火に銀の靴 / 泉谷しげる

田家:77年6月発売アルバム『光石の巨人』の1曲目「電光石火に銀の靴」。すごいですね。1年後にこれになっちゃったんですか(笑)。『家族』から。

泉谷:すみません(笑)。SFなんですね。ポップアートでもあり。この頃からSF映画も出てきて、テクノの走りみたいなものも出てくるんです。それで、単純に流行に乗っちゃえみたいな。本当にエンターテインメントの自覚がようやくできてきて。これからもいろいろな歌を歌っていくんだけど、エンターテインメントはこういう馬鹿みたいなことも、政治をやっつけることも全部できるわけじゃないですか。思想を言うのではなく、エンターテインメントに入れれば、国家の首相だって馬鹿にしてもいいし、恋愛をやったっていいわけじゃない? このすごさに目覚めちゃったみたいな。

田家:もうピカピカのラメをまとって。サーチライトがついているヘルメット姿で跳んだり跳ねたり。いやーもう野音で見てひっくり返りましたからね(笑)。

泉谷:まあ、だからお調子に乗ってるだけです、はい。だけど、「電光石火に銀の靴」っていうタイトルが好きで(笑)。

田家:光が見えますもんね(笑)。

泉谷:そうそう(笑)。SFであり、漫画なんですよ。ちょうどSF映画のもととなる素晴らしいのが現れた頃で、インパクト、ただの漫画を超えちゃっている。だから、後々『スター・ウォーズ』とか、『ブレードランナー』、『エイリアン』とか向こうで、発売した『ヘビーメタル』という紙媒体の影響ですよね。

田家:こういう音楽をやっている人たちは日本にはいないだろうなという感じがあったんでしょうね。俺にしかできねえだろうみたいな気負い方はあったんですか?

泉谷:どうですかねー。自分の中では絵を描いているのと一緒なので、ボディペインティングですよね。

田家:ボディペインティングみたいなライブだったんだ。

泉谷:ポップの形を作りたかった。ポップアートですよね。

田家:ポップアートをライブでやりたかった、衝撃のアルバムから、もう1曲お聴きいただきます。「旅立て女房」。

泉谷:だはははは……。



旅立て女房 / 泉谷しげる

田家:一人クレイジー・キャッツのようでもありますが(笑)。

泉谷:私のハチャメチャさがよく出てるかなという。おふざけも大好きなんで。

田家:「旅立て女房」とさっきの「家族」はテーマ的に繋がってるとは言えるわけですが(笑)。

泉谷:まあ、旅立てって言わなくたって、旅立っちゃってる女多いですけどね(笑)。

田家:「決定!ホンキー・ふりかけ・トンク」というタイトルもおもしろかった。

泉谷:ハチャメチャですよね。音楽の世界って二枚目になりがちじゃないですか。いやー照れくさいですよね。自分の中ではやっぱりぶっ壊したいというか、常に破壊がある。

田家:だからレジェントと呼ぶななんですね(笑)。アルバムの中に「巨人はゆりかごで眠るTO80S」という曲があって。72年の『地球はお祭り騒ぎ』の中に「巨人はゆりかごで眠る」という曲があります。

泉谷:あれはもっとコンピューター的というか、新しい方ね。詞の意味を押し付けるのではなく、リズムを押したかった。だから、おそらくこのアルバムは特にそうだけど、詞はひどいですよ(笑)。遊んじゃってますでしょ。人の願望や意味付けや、人生の苦味みたいなものを感じさせない真逆の世界。だけど、俺は例えばコロナで大変な時にこういう曲が必要なんじゃないかなって思うけどね。

田家:楽しいだろうって。

泉谷:だって、ここで「家族」歌われても、コロナの時に重くなっちゃうじゃん。

田家:阿蘇ではこれをやるかもしれないな(笑)。「決定!ホンキー・ふりかけ・トンク」が聴きたいなみたいな。

泉谷:そうそう、そういう方がいいじゃない? エンターテインメントの良いところっていうのは痛みを忘れさせてあげるものだと思うんだよね。


左から、泉谷しげる、田家秀樹

田家:巨人という言葉は「巨人はゆりかごで眠る」。泉谷さんのその後のペインティング、イラストレーションのイメージにかなり出てますよね。それはこの頃のイメージが絵の方に繋がっていくということですか?

泉谷:それもそうだし、ペインティングだけではなく、エンターテインメント自体が巨大化していくだろうなと。例えば、自分が襲われちゃうんじゃないかという恐怖感ですね。

田家:いろいろな意味の巨人があるんだ。

泉谷:自分たちは手作業でやってきたのに今やAIが全部やっちゃっているようなもので。でも、それは文句言って止められるかって言ったら、止められないと思うのよ。エンターテインメントは流行でもあるので、新しいものを生み出す。すぐ前のものなんて古くさせられちゃうものなのよ。必死になってこっちが対抗したって操作はできない。だから、自分だけは納得する普遍なものは作っておこうかなみたいな。自分だってiPadを買ってもらったらハマるしな(笑)。やっぱり、流行とか先端っておもしろいんだという部分でもあって、でも手作業には敵わないんで。いくらパソコンで使っても、手の感触は出ないんですよね。

田家:今も手で描き続けている。このアルバムの後に30歳になる。20代最後がこの『光石の巨人』でありました。来週は30代の話ですね。

泉谷:いやいや! まだ30歳なの!?

田家:来週もよろしくおねがいします。

泉谷:はい。





田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM 泉谷しげる 50周年 俺をレジェンドと呼ぶな」今週はパート2、エレック、フォーライフ編をお送りしました。今年がデビュー50周年、泉谷しげるさんをお迎えしての4週間です。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」。

キャリアの長いアーティストの軌跡を見た時に、ざっくりと分けてしまうと、変わり続けた人と変わらなかった人になると思うんです。泉谷さんはそういう意味では変わり続けた人の典型と言っていいでしょうね。新しいことを怖がらない。新しいことを求めていく。後ろに振り返っていったりしないで、常に自分の好奇心に導かれながら、誰もやったことがないことに向かっていく。

今週で言うと、フォーライフ・レコードのアルバム『家族』とライブアルバム『イーストからの熱い風』、『光石の巨人』。この3枚は象徴的です。とってもシリアスな『家族』とアメリカに殴り込んでやれとロスに渡ってライブを行った『イーストからの熱い風』。さらに、ポップアートのようなライブをやってみたくなった『光石の巨人』。どこに共通点があるんだろうかと思うんですが、ずっと聴いていくと、やっぱり流れているものがある。フォーライフ・レコードが居心地が悪くなった。フォーライフはスター集団になってしまいましたから、そこから俺は抜けてやるということで辞めるわけですね。

今月のサブタイトルに「俺をレジェンドと呼ぶな」とつけているんですけど、彼はずっとそうやって生きてきた。当然、ファンから反発もされるし、相手にもされなくなる。そういう中で彼が新しい戦場に求めていったのが演技と絵画だったりしたわけで、それが80年代の活動に繋がっていくんですね。それが来週のテーマということになります。泉谷しげる30代です。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
OFFICIAL Facebook : @FMCOCOLO
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cocolo.jp/i/radiko

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