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LOW IQ 01の青春時代「音楽人生の中で一番熱い1992年」

Rolling Stone Japan / 2021年10月5日 20時0分

LOW IQ 01

LOW IQ 01のインタビュー連載企画「イッチャンの青春時代」。1991年を振り返った前回に続き、第10回は「1991年編」。イッチャンが過ごした1992年とは? 当時の世相とともに語り尽くします。

ー第10回目は1992年です。何か印象的な出来事はありましたか?

92年って結構いろいろなことがあって大事な年なんだよね。毎回「この年が今の原点である」って言ってきたけど、1992年はかなりでかい。APLLOSには先に入ったアイゴンに誘われて参加していて、自分のバンドという感じでもないし、当時最年少だった。前回話したように、ちょうどミクスチャーブームでAPLLOSのやりたい方向性が変わってきちゃって、メンバーが全員抜けたんだよね。解散はしなくて、ボーカルはそのままAPLLOSを続けて、後にSUPER STUPIDのジャッキーが入ったことで、知り合いになったわけなんだけど。92年はAPLLOSを辞めて、新しいバンドを組んだ。それがアクロバットバンチだったんです。

関連記事:LOW IQ 01の青春時代「市川昌之からLOW IQ 01になった1991年」

ーイチさんにとって、SUPER STUPID序章の年だったんですね。

アクロバットバンチは当時21歳の勢いがある時に、アイゴンとかと「新しいことやらない?」って言って、「ミクスチャーの天下とろう!」みたいな熱い感じで結成したんだよね。92年に初めてアクロバットバンチで『SHAK A MOVE』というオムニバスアルバムに「烏合の衆」という曲で参加して。COOL ACID SUCKERSやABNORMALSだったり、4人時代のHi-STANDARDも参加していて、それがきっかけで知り合った。アクロバットバンチの初ライブが92年の5月で、正式メンバーが4人なんだけど、最初の頃は6人いて。それこそ、EL-MALOの柚木さんがが最初はトロンボーンで参加してた。ベーシストもちゃんといて、俺は結成した当初はボーカルとサックスで。それで、柚木(隆一郎)さん的に俺たちの音楽があまりにも激しすぎたんだろうね。1回目のライブで脱退した。ベースは自分のバンドをやるから辞めて、メンバーがちょっとソリッドになったから、そこで俺がベース・ボーカルをやるんです。

ーレッド・ホット・チリ・ペッパーズやスラップ元年から話がどんどん繋がってきましたね。

アクロバットバンチでベーシストをやることによって、役立つんです。この時、ABNORMALSだったり、COKHEAD HIPSTERS、Hi-STANDARDと一緒にライブをやるようになったから、いろいろな意味で始まりでもある。「AIR JAM」もあるけど、最初は下北沢の屋根裏か、もしくは代々木のチョコレートシティのイメージ。よくよく考えたら、1992年が1番大きな年でした。



ー92年は世の中のニュースで言うと、尾崎豊さんが亡くなった年です。

尾崎豊の件は4月だよね。その時、『SHAKE A MOVE』に参加していた横浜のアフロダイヤモンズっていう大人数のマノ・ネグラみたいなバンドがいて。APPOLOS時代に対バンもよくしてたんだよね。アフロダイヤモンズがABNORMALSと横浜でライブをやるから、それを観に行く時に東横線に乗ったら、新聞を読んでいる人がいて、尾崎豊死亡って一面に書いてあったのを覚えてる。

ーイチさんはリスナーとして尾崎豊は聴いていたんですか?

先輩の家に遊びに行ったりすると、先輩が聴いてたりしてて、「17歳の地図」、「15の夜」とか、80年代の尾崎は自然に耳にしてた。あと、話は変わるけど、新幹線の「のぞみ」。〈のぞみでゆくからね♪〉ってCMがあったんだよね。今まで「こだま」と「ひかり」しかなくて、「ひかり」が1番速かった。それが「のぞみ」で大阪まで2時間半で行けるようになって。でも、92年の時点ではお恥ずかしながら、修学旅行でしか新幹線に乗ったことないんだよね。あと、すごい覚えているのがチェッカーズの解散。92年まるまる活動して、12月31日の紅白で解散するんだよね。アイゴンはその時からギタリストとしていろいろ仕事もしていて。92年だと時代的にもっくん(本木雅弘)とかすごい時代だから「東へ西へ」で紅白に出た時、アイゴンがバックでギターを弾いているんです。あと、ファッションで言うと、ハワイアンジュエリーっていうのがあったんだよね。ちょっといかついロゴで、友だちがハワイに行った時にLOW IQ 01で作ってもらった。チカーノみたいなデザインなんだよ。この頃は『Fine』が全盛期になってきたんじゃないかな。



ー『Fine』や『Boon』を読んでいる時代でしたよね。

この頃、サーフィンからスケートとか、ストリートに流れてきて。『Fine』がフガジとか海外のライブレポートしてたな。時代はストリート系だよね。ファッションもダボダボルックになるんだけど、92年はSTが好きで。ちょうどクロスのバンダナを集め始めたり、上野によくデニムを買いに行った。リーバイスのノンウォッシュでカチカチのやつ。Run-D.M.C.がノンウォッシュで履いてるって、当時どこかで聞いて、それで俺も買って。結局1回洗っちゃうと縮むし、色もノンウォッシュの時の方がすごく濃くてかっこいい。音楽の話に戻ると、この頃ビースティ・ボーイズをすごく聴いてたと思う。3枚目のアルバムで生演奏になって、ハードコアになっていると。あと、アシッドジャズをやってるってなって、当時の俺は大好物だった。夏でもニット帽被ってたな。バスケット関連のシューズ好きなんだけど、俺はバンズのスリッポンかジャズ。ビースティ・ボーイズがプーマでしょ。バスケット関連シューズとなると、ジョーダンだよね。ジョーダンは1と3から5までが好き。92年はバルセロナオリンピックで、ジョーダンは7。ハイテクになっちゃって、手は出さなかったな。3から5がすごいかっこいいと思った。

ージョーダンは今でも復刻版の3から5あたりが1番人気ありますよね。

今でもクラシックのハイテクって感じがして、ハイカットがかっこいいんだよね。当時『SHAKE A MOVE』のアー写で、俺はエア・ジョーダンの1を履いてる。ちょうどその時、ジョーダンとかスニーカーが流行り出してて。たまたま同級生でバスケが好きでエア・ジョーダンを履いてたやつがいて、そいつがもう履かないからもらったやつ。白と黒なんだけど、シューグーで直して履いてたな。世の中のファッションは全然分からないけど、クラブキッズだった人たちがだんだんストリートに以降してきた感じがあるよね。

ースケボーできないのにスケーターの人が結構いましたよね(笑)。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズの映像を当時見倒していて、その時にジョン・フルシアンテだけフィラを履いてたんだよね。それでフィラいいなと思って、俺はあえてフィラを買った覚えがある。スケートと言ったら、下北沢のバイオレントグラインドで俺の友だちが店番してた、よく行ってたな。そこでよく覚えているのが、アイスボックスにポカリスエットを入れる贅沢な食べ方してました。



ー他にヒット商品で印象に残っているものはありますか?

さっきのジョーダンの話から繋がるけど、湾岸戦争からの流れで腕時計のGショック。シンプルで、黒い赤いロゴのやつを持ってた。Gショックってかなりタフなもので、今までにないものだと思ったんだよね。デジタルだしタフでゴツかったし、すごい好きで。Gショックしながらリーバイスの太いやつを履いて、ガチャベルを長めにたらして。92年の俺はそういうファッションでしたね。あとは商品で言うと、MD。こんなに前から出てたんだね。

ー一般に普及したのはもうちょっと後ですよね。

実際に自分でMDを買ったのは1999年だった。今でも覚えているけど、90年代でまだ「バッド・フード・スタッフ」とか、「DEVILOCK NIGHT」があった時、大人数で移動していて。80年代はまだギリギリ、ウォークマンだった。CDウォークマンもあったけど、90年代の後半まではギリカセットだった気がする。しかも、ウォークマンがちょっとかっこよくて、黄色くなってた。プラスチックでできていて、落としても大丈夫なハードケースみたいな。だから、この時代にもうMDできてたんだってびっくり。俺の記憶として、MDは99年だな。99年に1stアルバムを出したけど、「やばい! 良い音でダビングされちゃうんだ」って思ったもん。92年ではMDの存在をまだ知らないかもしれない。

ー他に印象的だった商品はありますか?

日清のラ王かな。ラ王のCMの〈結局好きになる〉ってフレーズをMICROPHONE PAGERのムロくんが言ってるって話を聞いたことある。次に流行語ですね。岩崎恭子の「今まで行きていた中で一番幸せです」。中学生が金メダル獲って、すごいなと思った。今年の東京オリンピックのスケートで10代の子たちがメダルを獲ったりしたけど、92年当時は衝撃だったよね。この時の夏はすごい日焼けしてたから覚えてる。当時、渋谷の東急INっていうホテルで、ベッドメイクのバイトをしてて。シフトが朝から始まって昼過ぎに終わるから、いつも世田谷公園まで自転車で行って芝生で寝てた。LAの音楽とか、レッド・ホット・チリ・ペッパーズとか、『ウェルカム・トゥ・ヴェニス』を見ちゃってるから、肌は黒い方がいいと思って焼きに行ってたんだよね。



ー音楽面ではどうですか?

『SHAKE A MOVE』の発売が10月ぐらいで、リリースパーティーも2Daysで渋谷クアトロと新宿ロフトでやって。ハイスタがロフトで、アクロバットバンチとABNORMALSとCOOL ACID SUCKERSがクアトロだった。俺が人生で初めてクアトロのステージに立った時なんだよね。その時の映像は未だにたまに観るけど、すごくいいライブ。モッシュ、ダイブが自分のバンドで起きたのが初めてだったから。あと、忘れられないライブが92年はいっぱいありますね。フィッシュボーンが来日したんだよ。当時は全盛期で、クラブチッタで4Daysやってる。今でも忘れないんだけど、3日目に同時期に来日してたジャンプ・ウィズ・ジョイっていうLAのスカバンドがいて。ジャズっぽいスカをやっていて、かっこよくて。そのバンドが急にオープニングアクトで出てきて、びっくりした。このフィッシュボーンのライブは人生の中で忘れられないライブだね。後にアクロバットバンチとかですごく影響を受けた。たしか92年の3月かな。『CUTiE』のストリートスナップにクラブチッタの会場で撮られて、俺載ってるもん。



ー他に印象深いライブはありますか?

92年4月ぐらいにクアトロで観たニューキー・パイクスのワンマンかな。今まで観た中で1番好きなライブ。フィッシュボーンもか。でも、今までこの記録を抜かれてない、そのぐらいすごく好きなライブだな。覚えているのがニューキー・パイクスをブラック・フラッグのグレッグ・ギンが観に来ていて。「おーやべー! グレッグ・ギンがいる!」ってなって。その時にニューキーがCDを無料配布してたり。だから、俺がSUPER STUPIDになる前身だよね。ストリートミュージックが世の中にじわじわ来た年かな。

ーJ-POPのヒット曲だといかがですか?

J-POPというものを1番知らない時期だね。ヒット曲の話に繋がるんだけど、結局ドラマなんだよね。ちょうど80年代のトレンディドラマが下火になってきたんじゃないかな。

ーバブルが弾けて、お金が潤沢にある世の中ではなくなった流れとドラマが同期していますよね。

ドラマも元気がなくなってくるよね。80年代のドラマって浮かれてるのよ。だんだん浮かれなくなってきた。米米CLUBの「君がいるだけで」はドラマ『素顔のままで』の主題歌だよね。安田成美と中森明菜がW主演。中森明菜がべらんべえ口調で口が汚くて、「なんだよお前!」みたいにすごい役だった。92年はCDがまだ売れてる時代だよね。次、浜田省吾の「悲しみは雪のように」はドラマ『愛という名のもとに』。これも有名ですよね。江口洋介と鈴木保奈美。唐沢寿明と有名なのはチョロだよね。これも名作ですよ。『ずっとあなたが好きだった』は賀来千香子で。シリーズが2つあるんだよね。佐野史郎、賀来千香子シリーズで、『ずっとあなたが好きだった』。ストーリーはたしか布施博が大学でラグビーかなにかをやっていて、昔は恋仲だったんだけど佐野史郎と結婚しちゃってみたいな感じ。佐野史郎の冬彦さんは世の中的にブームになったよね。マザコンの始まり。あと、吉田栄作の『君のためにできること』。映画『ゴースト』の丸パクリなんですよ。他、ちょー覚えているのは稲垣吾郎の『二十歳の約束』。これも結構名言があった。「ひゅーひゅーだよ」って。俺、当時はすごいさぶいと思って、「ひゅーひゅーだよってなんだよ」って言ってた覚えある。この時、21歳だから、「ひゅーひゅー」は恥ずかしくて言えなかった(笑)。おもしろくてよく観てたのがTBSの『十年愛』。田中美佐子と大江千里とダウンタウンの浜ちゃんが出てる。TBSはこの頃、結構おもしろくて。もう1つ、『愛はどうだ』もおもしろくて緒形拳とか、清水美砂、つみきみほ、渋谷琴乃とかが出ていて、福山雅治がドラマに出始めた時。



ー他、ドラマで記憶に残っている作品はありますか?

92年だと、『北の国から 92巣立ち』でしょ。ここからおかしくなってくるんですよ。五郎さんの演技がもう、やばい。情けなさに拍車をかけてくるというか、すげーいいんだよね。裕木奈江のかぼちゃの回。観てると結構きついんだけど。純と五郎さんが裕木奈江の家に行く前に定食屋にいて、「謝っちゃおうよ」ってずっと話し合っているんだけど、今考えると、恋人を妊娠させちゃって、謝って済む問題じゃない。かぼちゃを渡して、それが正義かよって感じになるよね。その時に長渕剛の曲がかかっていて、「この曲なんだ?」みたいな感じで五郎さんが訊いて、純が「長渕剛の歌」って教えるんだけど、富良野に帰ったら〈やるなら今しかねえ♪〉って五郎さんが歌う。その演技が大好きで、ひっくり返って笑った覚えがある。

ー裕木奈江のお父さん役は菅原文太さんですよね。

菅原さんの「誠意ってなんだね」は名セリフです。「お宅にも娘さんいるんでしょ?」って、痛いところ突かれたなってやつ。他には俺、この時に宮沢りえの大ファンだったんだけど、宮沢りえも『東京エレベーターガール』っていうドラマをやってて、すごい好きで観てたな。赤井英和が、宮沢りえの好きな相手役という、なかなか無理のある設定なんだけどね。ドラマの記憶はこんなものかな。あとはバラエティ。ダウンタウンを1番観てた時だと思う。ゴールデンで『生生生生ダウンタウン』が始まった。『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』と同じ日で、1時間違うんだけど。『生生生生ダウンタウン』がTBSで8時からで。『生だら』が1年前ぐらいに始まって、日テレなんだよね。両方とも結構おもしろかった。『生生生生ダウンタウン』は生でいろいろドタバタしてた気がする。生放送内で賞金をとりに行く感じなのかな。東野幸治とか今田耕司とか出てたんだよね。東京で『ダウンタウンのごっつええ感じ』のメンバーが出てて、すごいドタバタしてたイメージがある。番組の始まる前に30秒ぐらいのコメントコーナーがあって、まっちゃんが「生生生生とんねるず」って言ってたのをすごい覚えてるな。それぐらいから共演は全然なかったと思う。ダウンタウンが完璧に大阪から、東京の番組を成功させたんだよね。

ーダウンタウンはこの時期『笑っていいとも!』にも出てましたよね。

火曜日に出てた。『いいとも!』はダウンタウンから辞めたんだよね。あまりやりたくなくなっちゃったみたいなことが、まっちゃんの本に書いてあったような気がする。あとは『電波少年』。高校生とかが1番笑える世代だよね。バラエティはこの頃、結構めちゃくちゃなことやってたよね。今じゃ絶対できない。

ー最後にまとめると1992年はイチさんにとってどんな年でしょうか?

10代の頃の音楽が好きとはまた違う好きで、なんか熱い92年だった。ストリートミュージックがすごく熱かったし、今の市川昌之の入口じゃないかな。ストリートミュージックが一部の人たちにしか知られてなかったけど、自分の音楽の始まりという感じがする。とにかく熱かった。今でも、「音楽人生で1番やったるぞ!」って思った年だね。前に話した音楽、ミュージシャンになる決意とまた違う、もうちょっと強い意思があった。今もストリートミュージックへの熱い気持ちは続いていて、そのスタートの年ですね。

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