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泉谷しげる、90年代以降から「阿蘇ロック」に至るまでを振り返る

Rolling Stone Japan / 2021年10月8日 18時0分

泉谷しげる

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年9月は70年代から80年代にかけた時代を代表するシンガー・ソングライター。俳優、画家、音楽にはとどまらない表現活動を続けるアーティスト。さらに、様々なイベントを企画して、先頭で実行する戦うプロデューサー。「泉谷しげる50周年、俺をレジェンドと呼ぶな」特集。第4週は、1990年代以降から現在に至るまでを「救済阿蘇ロック編」として振り返る。

田家秀樹(以下、田家):こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは泉谷しげるさん。1987年に出たシングル「野性のバラッド」。今月の前テーマはこの曲です。

関連記事:「泉谷しげるデビュー50周年」本人と振り返る、ワーナーとビクター時代



今月2021年9月の特集は泉谷しげる。70年代から80年代にかけてを代表するシンガー・ソングライター。その一方で俳優、画家、音楽にとどまらない表現活動を続けるアーティスト。さらに、様々なイベントを企画して、先頭で実行する戦うプロデューサー。2015年に立ち上げた熊本の「阿蘇ロックフェスフェスティバル」は今年で勇退を表明されております。10月23日、24日、今年のライブであります。デビューが1971年、今年が50周年。題して「泉谷しげる 50周年 俺をレジェンドと呼ぶな」本人に4週間登場していただいております。こんばんは。



泉谷しげる(以下、泉谷):はい、こんばんはー。どうも4週間目でーす!

田家:最終週です。90年代以降、現在に至る話を伺いたいと思うのですが、題して「救済阿蘇ロック編」。「阿蘇ロックフェスティバル」は今のところどういう状況ですか?

泉谷:俺としては本当は辞めたいんだけど、せっかく準備してきてもいるし、ひとつのバカな野外フェスで問題になったんだけど、ちゃんと対策やルールを守ってやっているところもあるんでね。

田家:そうですよ。声を大にして、妙な煽りを受けなければいいなと本当に心から思いますね。先週はLOSERの話で終わりました。ロック史に残る屈指の豪華な顔ぶれのロックバンド。今週はまた違う顔を泉谷さんは見せてくれます。ずっと同じことをやってないですよね。

泉谷:まあ、飽きっぽいんでしょうね(笑)。すみません、本当に。

田家:飽きっぽいということはもちろんあるんでしょうが……。

泉谷:1個1個でフルに使っちゃうんで、燃え尽きちゃうんですね。だから、いつ終わってもいいというか、いつ引退しても辞めてもいいつもりなのかもしれないですね。いつも覚悟をしているんです。

田家:それはデビューの時からそうなんですか?

泉谷:かもしれないですね。とにかくやったら燃え尽きて、さっさといなくなろうというスタンスなので。いつまでも過去を自慢する人間にはなりたくない。

田家:思いがけない形でデビューすることになって。その時はまだ俺は泉谷しげるになる自信がない。体も弱いし、1年間待ってくれ。で、その間に泉谷しげるになる準備をした。

泉谷:鍛えたんですけどね。

田家:それがすごいなと思いました。

泉谷:みなさんもそうだろうけど、基本的に人は何もないでしょ。だけど、どういう人になるかイメージ力を持った人間が進めるのであって、みなさん、何もないからって腐らないで、どういう人間になるんだってイメージしてくれると楽しいかもしれないですね。

田家:デビューする前の1年間にイメージした泉谷しげるは今のような泉谷しげるさんでした?

泉谷:そうですよ。もう、孫悟空のようにハチャメチャで、とにかく無礼で態度が悪くて、口は悪いけど憎めませんみたいな。1番憧れたのは孫悟空ですね。

田家:その時にイメージしてたんだ(笑)。

泉谷:孫悟空が大好きで。自分の中では理想を満たしてます。やったなという感じはします。

田家:そういう人の今日の1曲目なのですが、この曲の自身の印税は全額奥尻島に寄付されました。1993年9月発売「なぜ、こんな時代に・・・」。



なぜ、こんな時代に・・・ / 泉谷しげる

田家:この曲はいろいろ思い出すことがありそうですね。

泉谷:これは救済というほとんどやったことがないことに手をつけたわけですから、非常にみなさんに迷惑をかけるなと思ったんで。

田家:迷惑かけるな(笑)。

泉谷:下手したら政治的利用かもしれないじゃないですか。だから、ビクターにもこの曲は「インディレーベルからださせてくれ」というお願いとかね、全部寄付しちゃうんで事務所も辞めさせてくれとか、全部断ち切って、オレ一人でやらせてほしい、みなさんに迷惑をかけないようにという意志を持ってやったんですよね。こういうのって分からないじゃないですか、慈善活動なんだから。慈善活動って言うけど、偽善ですよ(笑)。1日1偽善ですよ。だけど、それでもなんとか被災した人たちの役に立ちたいという気持ちが勝っていたので、たった一人で座り込むみたいなものですね。

田家:1993年に「北海道南西沖地震奥尻島救済キャンペーン 一人フォークゲリラ お前ら募金しろ」を始めたわけですもんね。

泉谷:募金は集まったし、成功もしたし、賛同者がどんどん増えて。だから、ありがたかったんだけど、これが1番怖いことで自分の味方を作ってしまうことは1つの勢力を持っちゃうことでしょ。うれしかったんだけど、まあ、2、3回やったか(笑)。やって、その手法は一旦終わりにして。その後、考えたのはとにかく地域活性化と目指した「阿蘇ロックフェスティバル」とかああいうものだったんだけど、結局それは、意図して募金とか寄付とか、救済の看板を背負わないんですね。その時は熊本地震の時に、なんで熊本救済という看板を背負わないんだって、随分と言われたんだけど。そこで、フェスの入場料を払ったやつが、また募金もしなきゃいけないってなったらよ、ライブや音楽に集中できねえだろ! と。

田家:阿蘇ロックに至るまでの過程がありまして、1992年に雲仙普賢岳大噴火、1993年に北海道南西沖地震、1995年阪神淡路大震災。日本が立て続けに自然災害を被った時期でして。泉谷さんは奥尻島の地震・津波被害の時にフォークゲリラを東京で始められた。その時、ゴールは見えていたんですか?

泉谷:ゴールというより、これはもしかしたらなんとなくいろいろ災害が起きるかもしれないと思ったんですね。

田家:立て続けにこういうことが?

泉谷:立て続けにかは別にして、その前に雲仙普賢もあったし、良からぬものを感じたんですよ。信じる信じないは別として、ノストラダムスの大予言は1999年に的中するって騒がれているし、そんな空気もあって、ちょっとやばいのかもしれないって自分の中で勝手に思っていたんですね。ただ、人には言わない。もう1つはストリートに戻りたい、路上に帰りたかった。

田家:先週の最後はLOSERでしたからね。

泉谷:あれは大名豪華ですからね。贅沢な行列ですからね。

田家:スターミュージシャンのね。

泉谷:やっぱり息苦しくなってきます。一人になりたくなりますよね。

田家:1993年11月15日に北海道・厚生年金会館で奥尻島のチャリティコンサートがあって、そこにいろいろな人たちが駆けつけてきた。

泉谷:そうなんですよ。別に誘ったわけじゃないんですよ。

田家:小田和正さん、忌野清志郎さん、桑田佳祐さん、白井貴子さん、他にもいらっしゃいましたけどね。

泉谷:そう。別に説得したわけじゃなくて「泉谷、よくやったな」ということでみんな感心してくれて。

田家:東京のフォークゲリラから始まって、北海道まで行ったわけですもんね。

泉谷:そうですね。だからうれしかったですよ。でも、これはこれでまた繰り返していくとどうなのかなという不安感はそのうち生まれるんですけどね。

田家:これが次に繋がっちゃったわけですもんね。どんなふうに繋がったかはこの曲の後にまたお聞きいただこうと思うのですが、1995年5月に出た17枚目のアルバム『メッセージ・ソングス』の中の「黒い波」。





田家:あらためてこの曲ではどんなことを思われますか?

泉谷:後半とにかくずっとマスコミ攻撃をやっていたぐらい、自分は地獄絵を見たと思ってますね。あの現場に行って、そこで泣いてください的な悲しみの演出をしているカメラを見て、「卑劣だな、こいつらは」ってすごい怒りましたね。そこは演出するところじゃねえだろうというつもりでこの曲も書きました。怒りを込めてますね。だから、バンドでもやってないんです。これは全部俺の感覚でやって、巻き添えは作りたくない。俺一人の怒り。

田家:一人フォークゲリラってことですからね。アルバムが『メッセージ・ソングス』。メッセージ・ソングって言葉を使ってますもんね。

泉谷:そうです。意図的にやってます。これで世間的なこととか、ニュースに手を出しちゃったから終わりだなと思いましたけどね(笑)。完全終わりだな、これはって思った。

田家:それは覚悟してたんだ。

泉谷:してましたね。全部断ち切ってるわけですからね。言いたいことを言って、マスコミ攻撃をやっています。マスコミの1番いけないところは、そもそも破壊されたすごいところから撮って、大丈夫なところを紹介してくれないんだよね。助けに行けないだろうっていう。どこの道が大丈夫で、どこの道がダメかぐらいなことはしてくれないと。それでお父さんとか家族を失ったやつに「夕陽をバックに泣いてください」っという演出をやってるわけで。

田家:不幸と悲惨を演出して。

泉谷:そうそう。あれってどうなの? っていうことは散々言いましたね。

田家:で、札幌にいろいろな方たちが集まったことが広まっていって、翌年1994年3月には長崎公会堂で雲仙普賢岳チャリティコンサートが行われるわけで、ここに吉田拓郎さん、小田和正さん、井上陽水さん、伊勢正三さん、さだまさしさん、忌野清志郎さん、浜田省吾さん、大友康平さん。他にもまだまだたくさん集まったわけで、その話もまた伺います。





田家:1995年のアルバム『追憶のエイトビート』の中の「Its gonna be ALRIGHT」。この曲も自身の印税を寄付されたんですよね?

泉谷:うん、そうだね。これは自分の気持ちの中ではみんなが当然のように言っていた言葉で、被害に遭った人たちの大変な災害を忘れないようにやり続けていこうって言ったんだけど、俺は「それは違うだろう」ってよく言っていて。「忘れさせてやれよ」とさ。やっぱり、いつまでも考えてるのってつらい。だから、俺たちの音楽はそういうためのものだから、いかに逃避させてあげるかですよ。

田家:大丈夫なんだからって言ってあげる。

泉谷:大丈夫なんだからって、そういうことにしていかないと。むしろ忘れちゃいけないのは、そういう被害に遭わなかった外側の人間だよ。お前らこそ忘れるんじゃねえよってことよ。

田家:このアルバム『メッセージ・ソングス』は1995年1月17日の阪神淡路大震災の後に出たアルバムなわけで、阪神淡路大震災の後、震災のその日から泉谷さんはフォークゲリラを新宿で始められました。

泉谷:うん。何の用意もなく。

田家:それはどういう状況で始められたんですか?

泉谷:さすがにびっくりして、夜マネージャーに電話したら、「何をやるんですか?」ってノッてないんで、「お前なんかどうでもいいや」ってなって。一人で新宿のアルタ前に行きましたね。

田家:さっきの話の続きになるのですが、1994年3月に長崎の普賢岳チャリティコンサートの後に、さっきあげたようなものすごい人たちがスーパーバンドとして集まったわけで、それが1994年8月に武道館で、1996年9月15日ワールド記念ホールに行って、「阪神淡路大震災復興支援コンサート 日本をすくえ 96 IN神戸」に繋がっていったわけですね。

泉谷:スーパーバンドは吉田拓郎のアイデアです。

田家:拓郎さんのネーミングだったんだ。

泉谷:彼と電話で話してて、「どういう形が1番いいかね」って。「ボーカリストがみんなで楽器を持ってやるんだ」って言い始めて、「それはおもしろいな」と思ったんだけど、小田さんが「いや、ドラムとベースだけはちゃんとしたやつを押さえよう」とかさ(笑)。あの人は音楽的な人だから、そこで言い合いになっちゃって、なんか大変だったんですけどね(笑)。

田家:長崎では浜田さんと大友さんのツインドラムでしたもんね(笑)。

泉谷:結果的には拓郎のアイデアの方がおもしろかったですね。頑としてあいつも譲らないんで、絶対全員で覚えるんだと。1週間練習して、いや、もっとかなあ……。 たった7曲のためにみんな頑張りましたね。

田家:あれだけのことをやってしまうと、冒頭でおっしゃった燃え尽きた、やり尽くしたっていう感じになるでしょうね。

泉谷:なります、なります。それはもう金メダル獲ったようなものですよ。

田家:誰もやったことないことをやったわけですもんね。

泉谷:それをまた味をしめて、やろうっていうのも気持ち悪いことだし、やってくれとは随分言われて、何人かは一緒にやろうと思った人もいたんだけどそれは甘えすぎだなと。





田家:1994年のアルバム『メッセージ・ソングス』の中の「東京の翼」。町とか都会ではなく、東京でしたね。

泉谷:1回はやってみたかった(笑)。「東京砂漠」って歌が好きで。

田家:あークール・ファイブ。

泉谷:「東京砂漠」って見事だなと思って。だから、これは演歌ですよ。はっきり言えば。

田家:フォークゲリラは全国回ったんでしょ?

泉谷:そうですね。相当な田舎まで行きました。だけど、20代の時に行ったツアーよりも、救済で行った田舎の良さを知ることになって、初めて旅した気になったなあ。

田家:エレックで200本行っても?

泉谷:そう、あれは何の記憶も残ってないんだけど、次から次へとやってた、歌う機械だったような気がするし、早く東京に帰りたかった。だけど、この頃から地方ってこんなにおいしいもの食ってるの? って思って、ショックでしたね。

田家:東京の食生活はなんだと(笑)。

泉谷:なんだこれと思って、俺たち東京に騙されてるじゃんって。ただ、もう1個考えると、おいしいと思うようになったのは歳のせいもあるけど、これを全ておいしいって感じるってことはもうすぐ死ぬなって思ったこともあるけどね(笑)。

田家:それは覚悟というよりも、悟りかもしれない(笑)。

泉谷:やばい、俺! どれもおいしいっていうのはまずいこれって(笑)。

田家:そういう中で自分でレーベルを始めたり、ドラマにもたくさん出たり、『Dr.コトー診療所』、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』とか、メジャーな作品にも出て。2008年に還暦記念で60曲のコンサートもやって、60代に入るわけですね。

泉谷:そうですね。これもわざと意識して、60代を売りものにして。歳のことをあえて話題にしました。50代にいろいろな疲れからなのか腕が上がらなくなったり、変な痛みが。ある種の更年期障害だよな。

田家:そうでしょうね。五十肩みたいなのがね。

泉谷:ずしっとくるし、キレが悪くなるし、肩が上がらなくてしょうがないから鍼治療したり、やっぱり来るんだと思って。俺にとっての50代は恐怖の50代でしたね。

田家:老いと戦った。で、60歳で60曲やっちゃえと。

泉谷:それでいろいろやって、60歳になってタバコも辞めて、つまり健康に気をつけることにして、もう1回軽くしようと体重も絞ったり、いろいろやって。みんながやっているようなことをあえてやって、ちゃんとした音楽をやるかのような(笑)。逆らわないでちゃんと自分を恐れて、60に入ったら今度は風邪を引かなくなっちゃって、健康になりましたね。タバコ辞めたとか、酒の付き合いをしなくなったのも大きいですけどね。

田家:60代のアルバムからお聴きいただきます。2009年12月に出た23枚目のアルバム『愛と憎しみのバラッド』から「生まれ落ちた者へ」。



生まれ落ちた者へ / 泉谷しげる

田家:細かい話なんですけど、泉谷さんは「バラッド」という言葉に思い入れがあるんですか?

泉谷:ありますね。「バラッド」は自分の最終的にやりたかったものなんだろうなと。もちろんロックも大好きだけど、やっぱり向こうのアーティストを見ながらバラッドを歌える人って本当にかっこいいなって。

田家:『80のバラッド』、『90sバラッド』、「野性のバラッド」、『愛と憎しみのバラッド』。

泉谷:そうですね。あくまでも自分なりのバラッドなんだけど、テーマは歌詞で歌っている通り。

田家:生き延びる力を。

泉谷:そう。かっこつけの人生ですよ(笑)。馬鹿言ってんじゃねえよな、本当に(笑)。

田家:果てしない夢の続きを見ようと。果てしない夢の続きが「阿蘇ロック」に繋がる。

泉谷:それもそうだし、イメージ力ですよね。やっぱり、現実が先にあるのではなくて、イメージ先ありきじゃないですか。そう思い描くことが人の進化に繋がるというか。だから、やっぱり後退しないぞという意味だよね。だけど、かっこつけて好きな女と別れたくはないね(笑)。

田家:それはそうです(笑)。

泉谷:ちょっとそれは無理してるなみたいな(笑)。



阿蘇ロックフェス・ステージ

田家:2017年の「阿蘇ロック」の最後の(取る)ステージの模様をお聴きいただいております。「野性のバラッド」を1番最後に歌っている。

泉谷:もう帰れですからね(笑)。まじで疲れてるんだから。ひどい地形なんで。

田家:阿蘇高原ね。1987年、ビートチャイルドをやった。高原の斜面ですからね。

泉谷:そういう上ではフェス独特の不便さを体現しましたね(笑)。

田家:2017年はウルフルズ、サンボマスター、WAINMA、電気グルーヴ、いろいろな人たちが出て。2018年も行って、2019年は北九州、2020年は中止で今年10月23日、24日勇退を発表されて。

泉谷:そうです、勇退ですよ! もっと静かにフェードアウトしたいんだけど、静かな人じゃないんで(笑)。

田家:今年もOKAMOTOS、KEYTALK、Creepy Nuts、スチャダラパー、never young beach、ももいろクローバーZ、GLIM SPANKY、くるり、ゴールデンボンバー、サンボマスター、いろいろな人たちが出ますけども。今お聴きいただいている2017年と決定的に違うのはお客さんが「いえーい!」とか「わー!」とか、一緒になって歌えない。

泉谷:この時点で言っているんだけど、お前ら、もう帰れよ、とか言いながら客席に乱入する卑怯な手がもう使えないという。音楽のみだけで勝負しなきゃいけない。ある意味では健全かなって感じですよね。お客さんに頼ったところがやっぱりあるので、逆に言えば、こういう時こそパフォーマンスの精度を上げて、自分の歌力(ウタヂカラ)とか、そういうものをやるべきなんじゃないかなとは思いますね。

田家:今年は先日愛知県の常滑市で思ってもみなかったようなとんでもないイベントが行われてしまって。日本中の業界関係者が怒り狂っていると思うのですが。

泉谷:怒り狂うなんてものじゃないですね。

田家:せっかく感染症対策をきちんとやって、ノウハウが見つかり始めたところに何してくれるんだっていうね。

泉谷:全くそうで、テレビでも言いましたけど、野外フェスは昔と違って反体制ロックフェスではないんで。地方の行政からお金もらってやっているんですから。行政と一緒にやって、医師会や地元の了解を得て成立しているものなので、地域活性イベントでしょ。

田家:「阿蘇ロックフェスティバル」開催に向けてということで、感染症対策の細かいところを発表されています。

泉谷:相当うるさくてすみません。

田家:全員に抗原検査を実施します。そして、ふしょふく……。

泉谷:不織布マスク。俺もようやく言えるようになった(笑)。

田家:不織布マスクを使ってくれと。飲酒およびアルコール類の持ち込みは禁止。声を大にして言わないといけないですね。

泉谷:もし関係者がゆるい態度でいたら、私はマイクの前に立って、はい休止とはっきりと叫びます。気になって集中できないかもしれないけど、かえってそれによって冷静にステージを観れるんだったら、ミュージシャンの精度を観れるかもしれないので。ちょっと冷静に観ようよ。この人たちがどういう音楽をやっていて、雰囲気に飲まれるのではなく、何を歌って、どういう演奏テクニックを持っているのかをじーっと見たらどうでしょうか。

田家:音楽をきちんと聴く。

泉谷:そう。自分らも寂しいけど、手拍子、拍手はいりませんので。いつかできるためにも、しっかりやって、できなくなるよりはいいじゃない? 今が窮屈でも。ここであえて騒いじゃうと、できなくなっちゃうわけで。いつかできるようになるから、そのためにも今は我慢というか、冷静になっていただいて今後もフェスをやっていけるような道しるべを作ろうよ。

田家:そうやって音楽を聴いた時に風のそよぎとか、違って聴こえるかもしれないし。

泉谷:そうそう。意外とこいつらいい男じゃないかとか、分かるかもしれないじゃん。

田家:今まで経験しなかったような野外イベントができますね。

泉谷:そういうことです。

田家:最後は新曲をお届けしようと思います。1週目の最初におかけしましたが、新曲です。「風の時代」。



風の時代 / 泉谷しげる with ワハハ本舗

田家:1週目におかけした時にまだ出来上がってほかほかなので、発売日とか決まってないんだとおっしゃってましたけど。

泉谷:まあ、決まりかけてはいるんじゃないですかね。

田家:一緒に歌っているのはワハハ本舗の人たちで、ワハハ本舗の公演「王と花魁」。これは東京は10月28日からなんですが、大阪公演も決まりました。12月3日から5日クールジャパンパーク大阪WWホールというところで行われます。こうやってみんなで歌える日が来るように、「阿蘇ロックフェスティバル」は静かに迎えるということになりそうですね。



泉谷:今ほどみんなと会って、あーよかったなと思う時期はないな。「よー! 元気で会えてるね」という。この歌を作っている時もそうだったんだけど、生きるって言葉がこれほど来るとは思わなかったですね。自分の中で「え? そうだよな。単純に生きることがこんなに大変だと思わなかった」みたいなさ。だから、自分でどこにいても生き抜く力をというのが1番来ますね。どこにも行きたくないんだけど、でも行かざるをえない状態じゃないですか。だから、業界の人たちにも仲間にも、映画やってるやつでも、音楽やってるやつでも現場で会える時は本当に感激しちゃうんだよね。

田家:「阿蘇ロックフェスティバル」もそういう場になるでしょうね。

泉谷:そうなればいいなと思う。だから、手拍子と拍手じゃないのよ。いることがうれしいわけですよ、マスクしてようが歓声を上げなくたって、ここに来た。いる。やれている。それだけで俺は感動だと思う。

田家:熊本にぜひお越しください。熊本でお会いしたいです。

泉谷:ぜひお会いしましょう。よろしくお願いします。来るんでしょ?

田家:行きますよ。言っちゃった(笑)。

泉谷:ありがとうございます(笑)。





田家:1993年、1994年、1995年、1996年。泉谷さんが救済という形で旗を上げて、そこにいろいろなミュージシャンが集まりました。長崎公会堂、武道館。1996年神戸ワールド記念ホール、3箇所とも僕もいましたけど、自分のいろいろなライブの思い出の中で宝物のような3回のライブでもありました。どこかでああいうライブをまたやらないのかなとか、泉谷さんがああいう音頭をまたとらないのかなという気持ちもあったりして。それは泉谷さんの言葉を借りれば、不純だという。あの夢をもう一度みたいなものなわけで、そういうものではなかった。あれはあの時にみんなの気持ちが一致したんだよ。その思いで出来上がったんだよ。それはあの時のものだったんだ。彼はそうやって生きてきた人ですね。この特集を放送してから、泉谷さんはシンガー・ソングライターだったんですねというお便りをいただきました。あ、やってよかったなとあらためて思っています。

「阿蘇ロックフェスティバル」は本当にどうなるんだろうと思います。プロデューサー泉谷しげるさんは愛知県のあの出来事があった時に、「出演者に謝らせるというのはどういうことなんだ」と怒っておりましたけども、「俺だったらすぐ辞める」と言っていました。今、73歳ですからね。さっきお聴きいただいた「野性のバラッド」は69歳です。20分以上、ああやって飛んだり跳ねたり、お客さんをいじったりしながら、お客さんを送り出す、そういうシーンでありました。どういう形で今年の「阿蘇ロックフェスティバル」が終わるか。今後のコンサートの在り方、音楽の楽しみ方みたいなところまで波及していくのではないかと思ったりもしていて今年最大の注目イベントだと思っています。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
OFFICIAL Facebook : @FMCOCOLO
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cocolo.jp/i/radiko

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