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『風街とデラシネ』松本隆の作詞家50年を名曲の詞とともに振り返る

Rolling Stone Japan / 2021年10月12日 11時30分

書籍『風街とデラシネ〜作詞家・松本隆の50年』

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年10月の特集は「松本隆特集 第3弾 風街とデラシネ~作詞家・松本隆の50年」。第1週は70年代前半から、75年にかけて作詞家・松本隆が手がけた名曲の詞に着目し、その軌跡を辿る。

こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのははっぴいえんどの「風をあつめて」。1971年のアルバム『風街ろまん』の曲ですね。今月の前テーマはこの曲です。

関連記事:泉谷しげる、90年代以降から「阿蘇ロック」に至るまでを振り返る



今月2021年10月の特集は「松本隆特集第3弾 風街とデラシネ~作詞家・松本隆の50年」。既に今年の7月に「松本隆 50周年」という特集はお送りしました。あの時はトリビュートアルバム『風街に連れてって!』をアルバムの全曲紹介を松本さんご本人を迎えてお送りしたんですが、今月は題して「風街とデラシネ~作詞家・松本隆の50年」。風街というのは言うまでもなく、この曲の入ったアルバム『風街ろまん』のタイトルからですね。デラシネというのは2017年に発売になったクミコさんのアルバム『デラシネ』のタイトル。松本さんが全曲書き下ろしたオリジナルアルバムとしては最新ということになります。デラシネというのは漂泊、漂流、根無し草。松本さんが自分の生き方を例えた言葉でもあるんですね。

10月27日に『風街とデラシネ~作詞家・松本隆の50年』という本が出るんです。書いたのは私です。それに合わせたCDも発売になります。そのCDを使って、松本さんの50年をあらためて辿ってみようというのが、今月の趣旨であります。「それ、自分の本の宣伝でしょ?」と言われてしまうと、まあそうなのですが。でもそもそも、その本はこの番組から始まっているんですね。3回目の松本さんの特集と申し上げましたが、1回目は2018年1月、ご本人をお迎えして5週間、松本さんのキャリアを辿りました。その時のインタビューがとても充実していたので、「このインタビューを使って、松本さんのことをどこかに書いていいですか?」って言ったら、松本さんが「ああいいよ、いいよ」と言ってくれて、雑誌の連載が始まりました。スタジオジブリの『熱風』という月刊の機関誌があって、2019年1月から、2021年4月まで毎月10ページ以上の連載でした。連載の記事の中に何度もFM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」が出てくる。単行本にする時に、角川の編集者から「毎回出てくる番組のタイトル、少し少なくしていいですか?」って言われて、途中から僕の番組みたいな形になりましたが、この番組があっての本ということで、こういう特集を組ませていただきました。

本人にあらためてインタビューしたものもありますし、関係者にいろいろな話も訊いて書いております。松本さんは常々「僕はアルバム作家」と言ってこられたんですね。「シングルだけではなくて、アルバムに僕の本質がある。シングルヒットでは見えてこない、いろいろな面がアルバムの中に歌われている」。じゃあ、どんなアルバムを書いてきたのかというのを辿ってみようということで、アルバムを軸にしながら50年を綴った本なんです。500ページあります。同時発売されるCDはその本の中で題材になったアルバムの曲を中心に1アーティスト1曲を選んだ2枚組33曲。その曲をご紹介しながら、史上最強の作詞家の全体像を感じていただこうという…… 前置きが長いでしょう(笑)。4週間でこのアルバムの全曲をご紹介したい、そんな1ヶ月です。アルバムの1曲目、作詞家・松本隆の始まりの曲。エイプリルフールの「暗い日曜日」。



暗い日曜日 / エイプリル・フール

作詞・松本隆というクレジットが初めてレコード盤に刻まれたのがこのアルバム。1969年に出たエイプリルフールのアルバム『エイプリルフール』の中の「暗い日曜日」。エイプリルフールはボーカル・小坂忠、ベース・細野晴臣、ギター・菊地英二、キーボード・柳田ヒロ、ドラム・松本隆(零)ですね。アルバムはこの『エイプリルフール』1枚だけで、音楽的な方向性の違いで解散しました。松本さんは細野さんから「日本語の詞を書けば? 君はいつも小説を読んだりしているし、詞を書けば?」ということで、勧められて書くようになった。それがこのアルバムです。この時の経緯も本の中には書いてあります。

でも、細野さんを音楽の道、バンドの道に引っ張り込んだのは松本さんなんですね。そんな話も後ほどお話をしていこうと思うんですけども、エイプリルフールは解散してしまって。細野さんは小坂忠さんをボーカルにして次のバンドを構想していたのですが、それが形にならなかった。で、はっぴいえんどが違う形になるのがこの後の話ですね。



田家:1971年11月に発売になりました。はっぴいえんど2枚目のアルバム『風街ろまん』から「風をあつめて」。『風街ろまん』はロック史上に残る金字塔ですね。ちょうど50年前の曲になるわけですけど、全然古くないとあらためて思ったりもしています。理由は2つだと思いますね。余計な音が入っていない、加工された音がない、1番必要なもの、本質的な音だけがあるのが、時代に流されない最大の理由でもあるんでしょう。それともう1つは言葉です。時代の流行語とか、時代をなぞったような作為的な言葉が全くない。〈防波堤ごしに緋色の帆を掲げた都市が碇泊している〉みたいな。当時、聴いた時に「これはなんだろう?」と思ったんですね。こんな歌詞は聴いたことない。でも、詞として情景が浮かんでくる。「かっこいいなあ、この歌」はという、50年前と今で全く同じような感想を持つのは驚くべきことだなと思ったりしています。

作詞家・松本隆は知っているけど、はっぴいえんどは聴いたことがない。そういう方がもう8割ぐらいになったんでしょうね。50周年でトリビュートアルバムのインタビューもやらせてもらったのですが、関係者は「松田聖子さんからですよ」という人が多くて、やっぱりそうなんだなと思ったのですが、そういう人たちが松田聖子さんから入って、はっぴいえんどまで遡る。そういう聴き方がこれから行われるのではないかということで、今回10月27日に出る2枚組の『風街とデラシネ』もそんなアルバムになればと思っております。

はっぴえんどのメンバーの話をしますね。ギター、ボーカル・大滝詠一さん、ベース、ボーカル・細野晴臣さん。ギター、ボーカル・鈴木茂さん、ドラム・松本隆さん。オリジナルアルバムが3枚で解散してしまったんですね。はっぴいえんどがどんなバンドでなぜ解散したのかも今度の本に書いてあります。松本さんは作詞家になる前にプロデューサーとして生きようとしたんですね。このへんがあまり語られていないということで、次の曲をお聴きいただきます。1973年の南佳孝さんのデビューアルバム『摩天楼のヒロイン』から「勝手にしやがれ」。





10月27日に発売になります2枚組アルバム『風街とデラシネ~作詞家・松本隆の50年』3曲目ですね。1973年9月に発売になった南佳孝さんのアルバム『摩天楼のヒロイン』の中の「勝手にしやがれ」。ジャズロックみたいな曲でしょ。南佳孝さんはもともとジャスをやりたかった人なんですね。このアルバムは松本さんが初めてのプロデュースのアルバムですね。詞も自分で書いている。「勝手にしやがれ」の中には〈風のナイフ〉という言葉がありました。”松本印”とも言える言葉ですね。ジャズロックなんだけども、歌詞の内容は日本。このへんが松本さんが当時から洋楽と邦楽について考えていた1つの証でしょうね。

はっぴえんどの解散コンサートが文京公会堂、1973年9月21日にありました。あのコンサートはメンバー4人が次に何をするか、お披露目のコンサートだったんですね。全員がプロデューサーとして1人のアーティストを育てていくんだというのが、当時の事務所、石浦信三さんというはっぴえんどのマネージャーがいて。『風街ろまん』に写真が載っている人なんですけど、彼がみんなに「そういうふうにしようよ」と言って、このコンサートに臨んだ。松本さんは鈴木慶一さんとは別のオリジナルムーンライダーズ、メンバー、プロデューサーでドラムも叩いているんです。南佳孝さんは彼がプロデュースするアーティストとして、この文京公会堂でデビューした。はっぴえんどの後をそれぞれどう生きていくかという解散コンサートがあったのですが、1973年は松本さんが作詞家になるとまだ決めていなかったんですね。迷っていた。その中で生まれたのがこのヒット曲、1973年10月発売チューリップの「夏色のおもいで」。



夏色のおもいで / チューリップ

1973年10月に発売になりました、チューリップの「夏色のおもいで」。7月に発売になったトリビュートアルバム『風街に連れてって!』ではいきものがかりの吉岡聖恵さんがみずみずしい歌として再生してましたね。亀田誠治さんのアレンジも素晴らしかったです。この「夏色のおもいで」はチューリップの大ヒット「心の旅」の次の曲。「心の旅」は、もしこれが売れなかったら、俺たちは福岡に帰ると決めた最後の覚悟のシングルで、これが売れて。次のシングルをどうするんだという、スタッフもレコード会社も含めて、「さあどうする?」となった時に他の人に書いてもらおうということで、松本さんに話が来た。チューリップのシングルで唯一、外部の作詞家が書いているので、チューリップはこの曲を当時ライブで歌わなかった。松本さんは「財津さんには今でも申し訳ないことをしたと思っている」というふうに話をしておりました。この「夏色のおもいで」を評価していたのが、筒美京平さんでありました。

次は1974年3月発売、あがた森魚さんのアルバム『噫無情(レ・ミゼラブル)』から、「組曲「噫無常」嘆きの舞姫~イカリの水夫」のメドレー。松本さんは前半の詞を書いて、後半はあがた森魚さんの詞であります。



組曲「噫無常」嘆きの舞姫(バレリーナ)~イカリの水夫 / あがた森魚

松本隆さんのプロデュースした第2作目のアルバム。あがた森魚さんのアルバム『噫無常』から、「組曲「噫無常」嘆きの舞姫(バレリーナ)~イカリの水夫」お聴きいただきました。前半の詞が松本さんで、後半があがた森魚さんなんですね。松本さんはこのアルバムをプロデュース、作詞、演奏、ミュージシャンの選択、リズムアレンジまでやっているんです。あがた森魚さん、松本隆さんのお互いのセンスがどこで一緒になったかというのが、この曲でお分かりいただけるかなと思ったりもするのですが、このアルバムを取り上げないと、松本さんの50年を語れないというところがありまして。なぜかと言うと、理由は2つ。1つはこの中に「最后のダンスステップ(昭和柔侠伝の唄)」って曲が入っているんです。「昭和柔侠伝の唄」というサブタイトルがついているのですが、これをクミコさんがカバーしたんですね。それを松本さんが聴いて、クミコさんのプロデュースに繋がるという、2000年前後の話ですね。

松本さんがプロデュースしたアルバムが4枚ありました。順番に言うと、南佳孝さんの『摩天楼のヒロイン』、岡林信康さんの『金色のライオン』。そして、あがた森魚さんの『噫無常』。1974年に岡林さんでもう1枚、『誰ぞこの子に愛の手を』というアルバムのプロデュースをしているのですが、プロデューサーとして生活ができなかったと本人も言っております。風都市という事務所があったのですが、閉鎖してしまって。プロデューサーとしては暮らせない。だから、作詞家に専念することを決めたんだと言われてましたね。プロデューサーとして食べられなかったから、作詞家になった。こういう言い方をすると、身も蓋もないですけどね。こういうことが1年足らずの間に起こっているというのが、1973年当時の世の中の出来事としても象徴的でした。

作詞家としての軌跡をこの後に辿っていくのですが、その前に紹介したい曲があるんです。こんな曲、絶対ラジオでは流れなかった。柳田ヒロさんの1972年9月のアルバム『HIRO』の中の「乱れ髪」です。



乱れ髪 / 柳田ヒロ

柳田ヒロさんは先程お話をしたエイプリルフールのキーボーディストですね。70年代前半の売れっ子キーボーディストでありました。柳田ヒロさんのソロアルバム『HIRO』の中にこの「乱れ髪」という曲が入っていたんですね。1972年11月は、はっぴいえんどが解散する前。同じ時に大滝詠一さんの1stソロアルバム『大滝詠一』という作品が出ているのですが、その中にも「乱れ髪」という曲があるんです。曲は大滝さんの方は大滝さんが曲をつけて歌っているわけで、違った曲に聴こえるのですが、実は詞は同じ。なぜそうなったか、今回あらためて探ってみました。松本さんはまだ作詞家として生きることを決める前で、いっぱい詞が溜まっていた。大滝さんにも頼まれて、柳田ヒロさんにも頼まれて、間違って2人に同じ詞を渡してしまった。渡した詞の中に両方入っていたというのが真実でありました。そのへんの経緯も柳田ヒロさんに話を訊いて、書いております。

柳田ヒロさんは1972年にサンズ・オブ・サンというバンドも組んでいるんです。これは今回の取材であらためて知って、アルバムを聴いたんですけど。そのアルバムも松本さんが作詞メインだったんですよ。ただ、全曲じゃなかった。そういう意味では松本さんが、はっぴいえんど以外にほとんどのアルバムの詞を書いたということで言うと、柳田ヒロさんの『HIRO』とサンズ・オブ・サンというのはとても重要になってくるんだなと、あらためて思ったりしました。このへんの話はほとんど松本さんについての記事とか、はっぴいえんどの話の中でもあまり出てこない。このCD盤「風街とデラシネ・作詞家松本隆の50年」は、ベスト10ヒット150曲、ナンバーワンヒット50曲という作詞家のキャリアを辿るアルバムにしては知らない曲ばかりと思われる方もおいででしょうが、こういう時代も経て、売れっ子作家になっていくんですね。

柳田ヒロさんは「だってそんなこと簡単に頼めるの、松本しかいなかったもん」と言っておりました。そういう時代の1曲だと思って、この曲もお聴きいただけると幸いです。1974年のアグネス・チャンのアルバム『アグネスの小さな日記』から「想い出の散歩道」。



想い出の散歩道 / アグネス・チャン

1974年3月発売。アグネス・チャンのアルバム『アグネスの小さな日記』の中の「想い出の散歩道」。このアルバムの中で、もう1曲松本さんが詞を書いていたのが「ポケットいっぱいの秘密」で、これがシングルになったわけですね。そちらがヒットして、作詞家・松本隆が歌謡界、芸能界側にも知られていくという曲です。でも、松本さんらしいという意味では「想い出の散歩道」の方じゃないか。これは矢野顕子さんがカバーしてます。当時、松本さんはアグネス・チャンに書いたことで、「友だちをなくした」。この話はあちこちでされてましたね。当時はあっち側、こっち側というのがあった。この番組でもしょっちゅうこの話が出てきますけどね(笑)。芸能界と音楽界、演歌、歌謡曲とフォークロック。職業作家とシンガーソングライターと言っていいでしょうね。あっち側の世界とこっち側の世界があって、アグネス・チャンが所属していた渡辺プロダクションはあっち側の牙城だった。松本さんがアグネス・チャンを書いたことで、「松本は歌謡曲に寝返った。芸能界に身を売った。あっち側に行ってしまった」というふうに言われていたんですね。

私もはっぴいえんどで松本さんという名前を知った人間としては、「え!? 松本隆どうしちゃったの!?」と思っていた1人ではありますが、そのことを誰よりも理解していたのが筒美京平さんだったんですね。筒美京平さんが「夏色のおもいで」をどう思ったか。その話も本の中には出てきます。1974年11月発売、太田裕美さんのデビューシングル「雨だれ」。





田家:1974年11月発売になりました、太田裕美さんのデビュー曲「雨だれ」。作曲が筒美京平さんですね。松本隆、筒美京平コンビの実質的なデビュー曲です。太田裕美さんはナベプロでした。音楽・芸能学校、東京音楽学院の出身で、ピアノの弾き語りをしていた。太田裕美さんもご自分で書いているエッセイに70年代は芸能界とフォーク界の区別がわりとはっきりありましたと書かれていたりもします。彼女はピアノの弾き語りもやってましたから、アイドルでもないし、フォークでもないところにいたんですね。松本隆さんの起用を推薦したのが、「夏色のおもいで」で、この新しい作詞家はいいなと思った筒美京平さんでした。

1974年にスリー・ディグリーズのシングルがありました。『ミッドナイト・トレイン』、『にがい涙』の2作が日本盤のシングルでした。1作が細野さんと松本さんで、もう1作が筒美さんと安井かずみさんなんです。その時に筒美さんが「松本くんいいね」というふうに、その時ディレクターの白川隆三さんに言ったという話も、今回あらためて知りました。白川隆三さんが太田裕美さんのディレクターで、3人のトライアングルで太田裕美さんが作られていくわけです。デビューアルバム『まごころ』は作詞というクレジットだけではなくて、構成・松本隆。アルバム全体の構成をしている、トータルアルバムなんですね。アルバム作家としても始まりが太田裕美さんだったんだなと、思ったりもしました。でも、手がけたアルバム2枚があまり売れなくて、「次は好きなように書かせてくれ、もう口は出さないでくれ、それが嫌だったら僕を切ってくれ」というふうに白川隆三さんに言ってできたのが、3枚目のアルバム『心が風邪をひいた日』。その中に入っていた「木綿のハンカチーフ」が、大ヒットして作詞家・松本隆が世の中にも認められていく、知られていくようになるわけです。松本隆さんと太田裕美さんのコンビで言うと、「木綿のハンカチーフ」を誰もが思い出して、曲が流れるのですが、この番組は流れない(笑)。1アーティスト1曲なので、始まりの唄をお聴きいただきました。

でも、この1975年、1976年は、音楽シーンもそうだったんですけど、松本さんにとってもいろいろな転機になった。そういうこともかなり本の方には書いております。1976年の鈴木茂さんのアルバム『LAGOON』の中の曲をお聴きいただきます。





1976年12月に発売になった鈴木茂さんのアルバム『LAGOON』の中の最後の曲ですね。「8分音符の詩」。70年代前半から、75、6年にかけての曲をお届けしておりますが、普通はこういう音楽番組は曲メインで選曲されるわけですけど、今月は詞を中心で選んでいるので、曲を聴くよりも詞を聴いていただけたらという1ヶ月でもあります。作詞家としての序章がこの頃までということになる。この頃の曲には当時の松本さんの心境が伺えるものがいくつもあるんです。「8分音符の詩」もそんな1曲じゃないでしょうか。まだ商業的には新人です。まだ海の者とも山の者とも分からない長髪の若者。太田裕美さんが初めて松本隆さんに会った時に、「え! こんな若い人!」って言った。これは有名な話ですけども。でも、届く人には届いていたのがこの時代でもあります。「8分音符の詩」は竹内まりやさんが歌っていたんですね。それが彼女のデビューに繋がっている。そんな話も来週していけたらと思っております。





「J-POP LEGEND FORUM 松本隆特集第3弾 風街とデラシネ~作詞家・松本隆の50年 パート1」。10月27日に発売になる私の本、KADOKAWAから出る『風街とデラシネ~作詞家・松本隆の50年』。本と連動した2枚組のアルバムがソニーから同じ日に発売になる。そのCDを全曲お聴きいただいております。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」。彼女のデビューのきっかけとなったのが、さっきの「8分音符の詩」を歌っていたことなんですね。まりやさんの3枚目のアルバム『LOVE SONGS』の中に「五線紙」という松本隆さんが書いたオリジナルがあるのですが、これは松本さんからまりやさんへのアンサーソングでもありました。

冒頭で10月27日に出る私の本が「J-POP LEGEND FORUM」の2018年1月の特集がきっかけで始まったと申し上げましたけども、連載を始めてみて実は後悔したんですね。今だから言えますが、とんでもないことを始めてしまったと思った。番組のインタビューは5時間で50年を辿ったんですけども、連載に取り掛かってみたらあまりにも膨大で、全体像が大きすぎて、それはもう、想像を遥かに超えていて。この曲もあったとか、あの曲は知らなかったとか、このアルバムも松本さんが書いているんだという連続でありまして。その中からアルバムを中心に興味深い詞、印象深い詞、これは知ってほしい詞というものを本の中で紹介して、その中の曲を選んだのが今回CDなんですね。ですから、あのヒット曲もこのヒット曲も入っていないのですが、松本隆という作詞家がどんなキャリアを辿ったのかというのは今まで語られていない、知られていない面を知ることになるのではないかと思ったりしています。来週は70年代後半からの曲をご紹介しようと思うのですが、1アーティスト1曲なので涙を飲んで諦めた曲ばかりという、そんなコンピレーションアルバムでもあります。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
OFFICIAL Facebook : @FMCOCOLO
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