アレサ・フランクリン伝記映画『リスペクト』事実検証
Rolling Stone Japan / 2021年11月13日 13時20分
映画『リスペクト』はどこまで真実に忠実か? ローリングストーン誌がアレサ・フランクリンの伝記映画を事実検証。第1子の父親は?ソウルの女王と名付けたのは? など、8つのエピソードの真偽が明らかになった。
伝記映画はウィキペディアの記事ではない。人生だって、すっきりとした筋立ての物語ではない。アレサ・フランクリンの生涯ほどドラマチックなものでも例外ではないのだ。脚本家のトレイシー・スコット・ウィルソンとリーズル・トミー監督は、11月5日公開の映画『リスペクト』を通してソウルの女王が歩んだ波瀾万丈の20年間をたった2時間半の映画に見事にまとめ上げた。素晴らしいリサーチとフランクリン役を演じたジェニファー・ハドソンの魅惑的なパフォーマンスのおかげで、『リスペクト』はフランクリンの人生のもっとも重要な数々の転機を描くことで観客を楽しませてくれる。彼女がマディソン・スクエア・ガーデンで「リスペクト」を歌い上げるとき、最前列にいるのはあなただ。フランクリン史上最多セールスを記録したライブアルバム『史上の愛(アメイジング・グレイス)』(1972)のレコーディング準備をしているとき、バックステージにいるのもあなただ。彼女のキャリアのハイライトはすべて盛り込まれている……だが当然ながら、現実から離れてしまった点がいくつかあるのも事実だ。時系列が歪められ、登場人物がカットされ、リスペクトとともに嘘が語られていることも……ローリングストーン誌が映画の真偽を検証していく。【注:文中にネタバレを想起させる箇所が登場します】
1.フランクリンの第1子の父親の正体は、いまだに謎に包まれている
映画『リスペクト』は、10歳のフランクリン(スカイ・ダコタ・ターナー)がベッドで寝ているところを起こされ、父で牧師のC・Lことクラレンス・ラボーン・フランクリンが主催するホームパーティーで歌うようにと下の階に連れていかれるシーンで幕を開ける。「百万ドルの声を持つ男」と呼ばれたフランクリン師は、熱狂的な説教によってミシガン州デトロイトで名を馳せていた。デューク・エリントン、エラ・フィッツジェラルド、アート・テイタム、サム・クックなどの招待客たちがタバコを吸い、罵り合い、文字通り大騒ぎするなか、少女は彼らの見せ物として音楽を披露する。このシーンはフランクリンの成熟した才能を確立すると同時に、彼女が育った大人たちの世界を垣間見せてくれる(放蕩と縁が深いレイ・チャールズは、説教師として各地の教会を回るフランクリン師の一行を「セックス・サーカス」と表現した)。その後、別のパーティーでフランクリンは部屋に入ってきた成人男性に起こされる。男は、彼女の「ボーイフレンド」になりたいと申し出る。一連のフラッシュバックとともに、フランクリンが犯され、その結果妊娠することがほのめかされる。
実際のところ、フランクリンは12歳で第1子を産んでいる。クラレンスと名付けられた子どもの父親が誰かは、いまだにわかっていない。父親は家族の友人の成人男性であるという憶測が長年飛び交ってきたが、フランクリンの家族はこれを何度も否定している。フランクリン本人も公の場で息子の父親の正体を明かしたことはないが、1999年の回顧録『From These Roots』のなかでフランクリンは、地元のスケート場で出会った少年だと明かしている(フランクリンはただロミオと言及している)。『From These Roots』の共同執筆者であり、2014年に非公式のフランクリンの伝記『アレサ・フランクリン リスペクト』(2016年 発行:シンコーミュージックエンタテイメント)を上梓したジャーナリストのデイヴィッド・リッツは、クラレンスの父親はドナルドというフランクリンのクラスメイトだと記している。フランクリンの死後、手書きと言われる遺書が発見されたことによってこうした事情はさらにうやむやになってしまう。遺書には、クラレンスの父としてエドワード・ジョーダン・シニアという別の地元の少年の名前が記載されていたのだ。この人物は、フランクリンが15歳のときに生まれた第2子エドワードの父親である。だが、この遺書の信ぴょう性はいまだに議論されている。
『リスペクト』のタイタス・バージェスとジェニファー・ハドソン(Photo by Quantrell D. Colbert/MGM Pictures)
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2.フランクリンのデビューレコードは、コロムビア・レコードから出されたものではない
映画『リスペクト』は、1960年にフランクリンがコロムビア・レコードと交わした契約を彼女の人生とキャリアの重要な転機として正当に扱っている。だが興味深いことに、当時18歳だったフランクリンは、コロムビア・レコードと契約する前からすでにレコードを出していたのだ。1956年、父親が牧師を務めていたデトロイトのニュー・べセル・バプテスト教会で当時14歳だったフランクリンが生歌を披露したときの音源が地元のインディーズレーベル、J-V-Bレコードによって収録されている。
デビューシングルは、フランクリン本人がピアノを弾く圧巻の「Never Grow Old」(カップリングは「You Grow Closer」)だった。その後もキャリアを通してこの楽曲を何度も披露しているが、そのなかでも1972年の歴史的なライブアルバム『アメイジング・グレイス(Live at New Temple Missionary Baptist Church)』の最後を飾ったことは有名だ。
J-V-Bレコードは、教会でのライブレコーディングから2枚目のシングル「プレシャス・ロード(パート1&2)」を1959年にリリースした。1956年にJ-V-Bレコードからリリースされたコンピレーションレコード『スピリチュアルズ』には、これらの4曲に加えてフランクリンが歌う「There Is a Fountain Filled with Blood」も収録された。劇中では、ジェニファー・ハドソン扮するフランクリンが父の説教壇のとなりでこの楽曲を披露している——この時代の彼女のキャリアに対する慎ましやかな賛同のしるしとして。
3.ダイナ・ワシントンがテーブルを蹴り倒したのは、フランクリンがナイトクラブでワシントンの十八番を披露したからではない。
歌手ダイナ・ワシントンを演じたメアリー・J・ブライジは、その見事な存在感で観客の記憶に残る。ワシントンは、1950年代に一連のジャズヒットナンバーによって当時もっとも人気のアフリカ系アメリカ人のレコーディングアーティストとしての地位を確立していた。ワシントンとフランクリンの関係は、デトロイトでの少女時代にミス・Dことワシントンが父のホームパーティーの常連だった頃にさかのぼる。家族の古い友人がニューヨーク・シティのナイトクラブの観客席にいることを知ったフランクリンは、ワシントンの十八番「アンフォゲッタブル」を披露して敬意の念を表そうとする。しかし、残念なことに彼女の試みは派手に失敗する。ワシントンは若手歌手が実力を見せびらかそうとしていると思い込み、テーブルを蹴り倒したのだ。そして「ビッチ、女王が目の前にいるときは、女王の歌を二度と歌わないで!」と、傷ついたフランクリンを叱責した。
ドラマチックなこのシーンは、ほぼ真実にもとづいている。だが、ワシントンの怒りの矛先はフランクリンに向けられてはいなかった。この事件が起きたのは、ワシントンが別の新進気鋭の歌手、エタ・ジェイムズのコンサートを訪れたときのことだ。大胆にもジェイムズは、ワシントンの前で彼女の楽曲を披露したのだ。フランクリンとワシントンの関係はこれより若干友好的ではあったものの、常におおらかなものだったとは限らない。デヴィッド・リッツは著書『アレサ・フランクリン リスペクト』のなかで、デトロイトで行われた駆け出し時代のフランクリンのコンサートについて詳しく述べている。そのとき、ワシントンはバックステージを訪れてフランクリンの楽屋が散らかっていることに苦言を呈した。「アレサはその発言にひどく腹を立て、ダイナが歌姫風を吹かせていると思いました」とリッツは記す。
4.フランクリンがテッド・ホワイトと結婚したのは失敗作が続いた時期ではなく、駆け出しのレコーディングアーティスト時代である
映画にもあるように、フランクリンが最初の夫となるテッド・ホワイト(マーロン・ウェイアンズ)というデトロイト出身の男性と父のホームパーティーで出会ったのは事実だ。だが、この束の間の出会いは1954年——フランクリンがまだ十代の頃——のことで、1960年のコロムビア・レコードと契約を交わす前ではない。後にフランクリンは、ホワイトがダイナ・ワシントンと一緒に自宅を訪れたと振り返っている。そのときのホワイトは、パーティーが終わる頃には抱えられた状態で家を後にしなければならないほど泥酔していたという。
『リスペクト』のマーロン・ウェイアンズとジェニファー・ハドソン(中央)(Photo by Quantrell D. Colbert/MGM Pictures)
映画は、素早く時系列順にふたりの関係を大まかにたどり、フランクリンがレコーディングアーティストとしてのキャリアを確立する1960年代半ばにふたりが一緒になったかのような印象を与える。実際には、ふたりは1961年に付き合いはじめている。フランクリンが最初のアルバムをリリースした年だ。数カ月後には結婚し、まもなくしてホワイトはフランクリンのマネージャーになる。2枚目のスタジオアルバム『ジ・エレクトリファイング』後にコロムビア・レコードのプロデューサー、ジョン・H・ハモンド(テイト・ドノヴァン)と手を切るようフランクリンを説得することがマネージャーとしての初仕事のひとつだった。
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「ひも」や「詐欺師」、さらには「デトロイト屈指のやり手」とフランクリンの友人から呼ばれたホワイトは、妻のキャリアをコントロールしていた人物として悪名が高い。劇中では、フランクリンに対して感情的に悪口を言い、たびたび暴力を振るう人物として描かれている。こうした描写が事実であることは、伝記や略歴における異様なまでに大量な報告によって裏付けられている。波乱に満ちたふたりの関係は、1969年に終わりを迎えた。伝記作家のマーク・ビーゴによると、それ以来、ふたりはたった2回しか言葉を交わしていない。
5. フランクリンを「ソウルの女王」と命名したのは、プロデューサーのジェリー・ウェクスラーではない
シングル「リスペクト」とともにフランクリンがスーパースターの道を駆け上がるなか、アトランティック・レコードのプロデューサーであるジェリー・ウェクスラーはカメラマンの集団の前で彼女を「ソウルの女王」と宣言する。このシーンは、ウェクスラーがこの称号の生みの親であることを暗示しているものの、実際の名付け親はイリノイ州シカゴのふたりのDJである。1967年4月にフランクリンがシカゴのリーガル・シアターのステージに立つと、ザ・ブルースマンことパーヴィス・スパンとE・ロドニー・ジョーンズというふたりのDJがステージに登場し、ソウルの女王のために冗談混じりの戴冠式を行ったのだ。宝石を散りばめた王冠も用意されていた。「とてもうれしくて、ワクワクしました」とフランクリンは振り返る。「それ以来、ジャーナリストや世間の人々が私をこう呼ぶようになりました」
6.「エイント・ノー・ウェイ」のフランクリンのデュエット相手は妹キャロリンではなく、シシー・ヒューストンである
『リスペクト』は、フランクリンの人生とキャリアに欠かせない数名の人物を割愛している。そこには、トム・ダウドとアリフ・マーディンも含まれる。多彩な才能の持ち主であるふたりがプロダクション・編曲・エンジニアリングを手がけた作品は、1960年代後半のアトランティック・レコードでのフランクリンの黄金時代に欠かせないものだった。だが、ザ・スウィート・インスピレイションズの不在はもっとも強く感じられる。この伝説的R&Bグループは、フランクリンの多くのヒットと数えきれないほどのツアーでバック・シンガーを務めている。グループを率いたゴスペルシンガーのシシー・ヒューストン(ホイットニー・ヒューストンの母)は、フランクリンの伸びやかなバラード「エイント・ノー・ウェイ」に美しいコントラルトのヴォーカルを添えた。この瞬間はヒューストンの名高いキャリアのハイライトであるにもかかわらず、劇中で洗練された対旋律を披露しているのはフランクリンの妹キャロリン(公平を期すために言うと、キャロリンはこの曲の作曲者である)ということになっている。
ヒューストンが間接的にフランクリン屈指の人気作のインスピレーションを与えたことは、特筆に値する。1968年のスタジオアルバム『アレサ・ナウ』のレコーディングの休憩中にザ・スウィート・インスピレイションズはバート・バカラックの「小さな願い」のメロディーで遊びはじめた。この楽曲は、ヒューストンのいとこであるディオンヌ・ワーウィックがレコーディングしたばかりだった。フランクリンはそれを気に入り、ザ・スウィート・インスピレイションズはその場で編曲に取り掛かったのだ。
7.フランクリンは、ビートルズの名曲を却下おらず、それを利用したわけでもない
映画の終盤で、フランクリンとウェクスラーは次のレコーディングセッションで取り組むべき楽曲について緊迫した議論を交わす。ウェクスラーは、ビートルズが候補として新曲のデモを送ってきたことを念押しし、最初にレコーディングする機会を与える。劇中ではタイトルは伏せてあるものの、この楽曲こそがソウルフルな現代のゴスペル「レット・イット・ビー」である。フランクリンは、楽曲のカトリック的な歌詞が自身の宗教観に合わないと言って却下する。劇中で彼女は、「私はバプテストよ(訳注:キリスト教プロテスタント最大の教派のひとつ)」とウェクスラーに憤慨している。
実際、フランクリンは「レット・イット・ビー」をレコーディングしている。ウェクスラーは(いささか疑わしいものの)、この楽曲が彼女のために作曲されたものであると断言した。だが、そんな甘い言葉だけでは足りなかったのだ。「彼女は数年間保留にしていました」と、ウェクスラーは、自伝『私はリズム&ブルースを創った』(2014年 発行:みすず書房)に記す。ひょっとしたらフランクリンは、歌詞の「マザー・メアリー」が聖母マリアではなく、ポール・マッカートニーの亡くなった母へのオマージュであることを知って心を動かされたのかもしれない。いずれにせよ、フランクリンの「レット・イット・ビー」は1970年1月にリリースされたスタジオアルバム『This Girls in Love with You』に収録される結果となった——ビートルズ版に2カ月先行する形で。だが不思議なことに、彼女は当時未発表だったレノン/マッカートニーの楽曲ではなく、「エリナー・リグビー」というビートルズの別の楽曲のカバーをシングルとしてリリースした。
この時点でビートルズはやきもきしていた。「ポールとジョンはヒット曲ができたと確信していて、待ちくたびれてしまいました」とウェクスラーは伝記作家のデイヴィッド・リッツに語った。ビートルズが「レット・イット・ビー」をシングルとして3月にリリースすると、この曲は瞬く間に音楽チャートを駆け抜け、「レット・イット・ビー」とビートルズの名は歴史に永遠に刻まれた。ウェクスラーはフランクリンの「レット・イット・ビー」を「最高傑作」と絶賛し、リッツに「もうひとつのシグネチャーナンバーになるはずでした。ですが、彼女のあいまいな態度が仇となってしまいました」と語っている。
>>関連記事:アレサ・フランクリン死去 RS誌が選ぶ「歴史上最も偉大なシンガー」評を全訳
8. 伝説のライブアルバム『アメイジング・グレイス』のレコーディング前、父クラレンスはフランクリンに激励の言葉をかけていない
映画は、カリフォルニア州ロサンゼルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプテスト教会で行われた数々の熱狂的かつ伝説的なゴスペルライブ——1972年の歴史的なライブアルバム『アメイジング・グレイス』に収録されている——を通じてフランクリンが音楽家としてのルーツをふたたび見出すところでクライマックスを迎える。『リスペクト』では、ライブ前に父と娘が分かち合う感動的なひとときを通じて天上の父と地上の父との結合が描かれる。「今日歌う歌は、全部パパが教えてくれたものよ」と、涙ながらにフランクリンは父に語る。
残念ながら、ライブ前の心温まる和解が行われることはなかった。フランクリン師が到着したのは、ライブの2日目、2枚組のレコードに収録される説教のレコーディングの直前だった。指揮者のジェームズ・クリーヴランド師によると、なんとフランクリンはライブに父親を招待することをすっかり忘れており、直前になって思い出したそうだ。それでも、フランクリン師は壇上から娘にいくつか優しい言葉をかけている。「この音楽は、彼女が6〜7歳だった頃の自宅のリビングルームに私を連れ戻してくれました」と、師は信者たちに語った。「胸がいっぱいでした。心から感動していたからです——理由は、アレサが私の娘だからというだけではありません。彼女が特別なシンガーだからです」。
From Rolling Stone US.
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