西岡恭蔵の軌跡、『プカプカ 西岡恭蔵伝』著者・中部博とたどる
Rolling Stone Japan / 2022年1月20日 11時30分
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年1月の特集は「西岡恭蔵」。2021年11月、小学館から書籍『プカプカ 西岡恭蔵伝』という長編伝記が発売された。その著者、ノンフィクション作家・中部博を迎え、今年ソロデビュー50周年を迎える西岡恭蔵の軌跡をたどる。パート1は、デビューアルバム前後の時期をたどっていく。
田家秀樹:あけましておめでとうございます。 FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今年もよろしくお願いします。
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サーカスにはピエロが / 西岡恭蔵
今流れているのは西岡恭蔵さんの「サーカスにはピエロが」。1972年7月に発売になったソロの1枚目のアルバム『ディランにて』の中の曲です。恭蔵さんが、生前最も大切にしたという1曲。今月の前テーマはこの曲です。 今月2022年1月の特集は西岡恭蔵。1969年、4人組のバンド、ザ・ディランの一員として音楽活動を開始し、関西方向を代表するシンガー・ソングライター、1999年に50歳の若さでこの世を去りました。71年に書かれた代表曲「プカプカ」は、シングルヒットの実績がないにもかかわらず、ジャンルや世代を超えた50名以上のアーティストにカバーされているスタンダードになってます。去年の11月、小学館から『プカプカ 西岡恭蔵伝』という本が発売になりました。彼の生い立ちから思春期、関西フォークからシティポップ、さらに愛妻・KUROさんとの暮らし、海外を旅をしながらの創作活動、そして病魔との闘い、恭蔵さんの生涯を丁寧に追った伝記ノンフィクションです。今月はその著者、ノンフィクション作家の中部博さんをお迎えして、彼に曲を選んでいただきながら恭蔵さんの軌跡をたどり直してみようという5週間です。今週はパート1、デビューアルバム前後です。
あけましておめでとうございます。あの本は取材ノートを2012年に作り始めた。9年間かかって書いたとあとがきにありましたけど、出来上がった心境はどういうものですか。
中部博:ほっとしたっていうのが一番大きいですね。肩の荷がおりた。
田家:中部さんは1953年生まれ。そもそも恭蔵さんの曲を聞いたのは19歳。
中部:友達がLPを貸してくれて、それはザ・ディランIIのLPだったんですけど、その中に4曲恭蔵さんが作詞作曲した歌が、象狂象っていうペンネームで入っていた。
田家:アルバム『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』。
中部:そうですね。それを聞いたんですよ。
田家:中部さんが24歳の時に初めて書いたルポルタージュに、恭蔵さんの曲の歌詞が引用されていた。
中部:そうなんですよ。自分の名前を出して書いた最初のルポルタージュで街の中をさまよう子供たちのことを書いたんですけれど、恭蔵さんの「子供達の朝」という詞があるんです。永山則夫さんってピストルで4人を射殺してしまった人がいて、獄中で『無知の涙』という本を書いたり、『裸の十九才』という映画にもなったりしてる人なんですけど。恭蔵さんがその人にインスパイアされて書いた歌なんですね。
田家:誰かが恭蔵さんにふさわしい伝記を書いてくれるのを待ってたとあとがきにお書きになってましたね。
中部:それはね、恭蔵さんは50歳で1999年に亡くなられたんですけど、僕ね、新聞を読み逃しちゃってて。かなりの数出てるんですよ、亡くなった記事が。でも知らなくてね。それから1年間かちょっとした後にインターネットで見てびっくりしちゃった。で、誰か書いてくんないかなっていうことはずっと思ってましたね。
田家:それをご自分がやるようになったという経緯もおいおい伺っていこうと思います。中部さんに選んでいただいた曲の1曲目、この曲からお聞きいただきます。本のタイトルにもなっている曲ですね。「プカプカ」。1971年、ザ・ディランⅡのデビューシングル『男らしいってわかるかい』の B 面「プカプカ」、世に初めて出たその曲をお聞きいただこうと思います。恭蔵さんは歌ってないです。しかも、アナログ盤です。
田家:1971年7月発売、ザ・ディランⅡの「プカプカ」アナログのシングル盤です。恭蔵さんは参加してなくて。大塚まさじさんが歌ってます。
中部:アナログ盤、僕も取材を始めてから初めて聞いたんですけれど、細野晴臣さんがベース弾いてるっていう噂ですね。なんかね、別の名前でクレジットしたそうで。
田家:細野さんと恭蔵さんの関係は来週のテーマでもあるんですけど、ってことは大塚まさじさんもこれを持ってないかもしれないのかな。
中部:持ってないかもしれないですね。
田家:大塚さんはFM COCOLO でも長くレギュラーをやってらっしゃいましたが、そんな話をいつか聞いてみたいなと思いました。で、これを聞いたときにどう思われたんですか。
中部:やっぱり人間ここまで優しく生きなければ生きられないのかなと。19歳ですからね。これから大人になっていくこともあるし、いろんな意味でのエネルギーもすごいし、女の子をすぐ好きになっちゃうし、当時『性と文化の革命』という本があって。
田家:岡林さんが曲のタイトルにもしましたね
中部:フロイトの弟子のライヒが、性の問題を自分の問題として解放していかなきゃいけないって話を書いていて。「プカプカ」ってまさにそういう歌なわけですよね。嫉妬とかはもちろん、女性を所有することとか。そういういろいろなことに対してどうなのかって疑問を突きつけられてる男の歌だから。それは同時代の中にもあったわけですよね。その辺でもここまで男はいかないと優しい人だと言われない、つまり平等ではなくなるみたいなことを、本当に若いから考えてたんだと思うんですよ。
田家:なるほどね。かなりカルチャーショック的な歌だったんだ(笑)。
中部:相当ショックを受けましたね。
田家:ディランⅡというグループ名は、大阪の難波元町にあった喫茶店ディランに集まっていた仲間が作ったから、こういうグループ名になった。バンドの名前を大塚さんがおつけになったっていうのは割と知られている話ですけど。開店した店のオーナーが、石村洋子さん。当時、23歳の方、その方にお会いになったんですよね。
中部:もちろん会いました。彼女が開店資金を持ってて、大塚さんはそれに何か喫茶店の学校に通っていた。
田家:喫茶学園ってお書きになってましたね。
中部:クラスメイトなんですよね。2人で始めたようなものなんでしょうけど。オーナーは洋子さんで、大塚さんは苦労なされたけれど楽しくなっちゃって、ディランという名前をつけて、フォークとかロックの人を集めようとしたんですね。それが当たったんですよね。だけど、だんだん壁を真っ黒に塗り、髪の毛の長い、ベルボトムジーンズをはいたが人たちが集まるような喫茶店になっちゃったって言ってましたね。最初はかわいらしい23歳の女性が作った喫茶店だったらしいんですよ。
田家:いつの間にか変わってしまったんだ。開店の日にちが1969年8月15日、この日にちは意味を持ってくるので、後ほど改めて伺おうとと思うんですが。喫茶店ディランに対して一番知りたかったことはどういうことだったんですか。
中部:やっぱりなんでそういう髪の毛の長い人たちが集まってきちゃうのかということがあって。それはまさに関西フォークっていう、当時関西フォークだって誰も思ってなかったって言ってましたけど、そういうすごいバックボーンがあったんですね。時代の流れで。
田家:中部さんが選ばれた今日の2曲目を聞いていただこうと思います。「俺達に明日はない」。この曲は知らなかったですが、今残っている最も古い恭蔵さんの音源なんだそうです。1969年、京都で行われた U R C の京都フォーク・キャンプでのライブです。
俺達に明日はない / ザ・ディラン
田家:お聞きいただいているのは西岡恭蔵さんの「俺たちに明日はない」。1969年10月にURC の会員向けのアルバム、『第4回フォーク・キャンプ・コンサート』というライブアルバムが配布されまして、その中にこの曲ともう1曲「明日なき世界」が入っておりました。「明日なき世界」というのはバリー・マクガイアが原曲で、高石ともやさんが日本詞をつけて、清志郎さんがアルバム『カバーズ』でも歌っておりました。ベトナム戦争への反戦歌ですね。これを中部さんが選んできたのはすごいもの選んだと思いました。
中部:いや、田家さん今おっしゃったことを訂正したいんですけど、この曲は1969年10月の最初のアルバムに入ってないんです。
田家:あ、そうだ。書いてましたね。
中部:入ってなくて、このアルバムを復刻したときに入れたみたいなんですよ。その意味では大変貴重なんですね。恭蔵さんは、そのころ無名の大学生ですから。フォーク・キャンプってとこで歌ってた無名の大学生の1人にすぎなかった。それが残っていたんで、復刻した人が入れたんだと思うんですよ。西岡恭蔵がいたんだっていうことを残したんだと思うんですね。その意味で貴重なんです。
田家:貴重ですね。URCは元々商業主義に乗らない歌を自分たちの手でということで69年2月に始まった自主販売組織なわけですけど、第4回京都のフォーク・キャンプは8月15日。ディランの開店と同じです。その辺も中部さんが全部詳しく時系列を追ってたどってらっしゃいます。
中部:僕も「あれ?」と思ったんだけど、その日にディランが開店するんですけど、恭蔵さんはまだそこに行ってないんですよね。その頃、フォーク・スクールという集まりを大阪のプロテスタントの教会の方がやってて。大塚さんと西岡さんはそこで出会うんですね。それから恭蔵さんがディランに通うようになるっていう。
田家:なるほどね。大塚さんと西岡さんはディランで会ったわけではなくて、フォーク・スクールで会って、誘われてディランに行くようになったんだ。中部さんは1953年生まれで、これもあとがきでお書きになってたんですが、恭蔵さんと5年、歳が違っていて、その5年の大きさ、この差というのを取材を始めてから痛感するようになった。
中部:それは僕も背伸びした10代だったから、団塊の世代ですよ恭蔵さんたちは。多少お兄ちゃんたちの世代を分かっているつもりではいたんですよ。だけど、やっぱり全然わかってない。こっちが15歳、中学か高校行くぐらいの年で、向こうは20歳ですからね、やっぱり世界が全然違う。経験も違う。それから知識も違うし、持ってるものが全然違うんだなっていうのと。同じような状況の中にはいたんだろうけど、やっぱり15歳と20歳で差が大きすぎるなっていうのは調べれば調べるほどわかるんですよ。
田家:「俺たちに明日はない」を聞いて、恭蔵さん、「ピエロ」という言葉はこのときから使ってたんだと思いましたけど。
中部:そうなんです。しかもこの歌は、後にオリジナル・ザ・ディランというバンドをわざわざ作って歌うんですけど、それとも歌詞が違うんですよ。だから本当に最初の頃のザラザラな恭蔵さんの生の気持ちがこっちの歌詞の方には含まれているんです。だから洗練されてないけど、何かこうザラザラした感じがすごくいいんですよ。
田家:69年だなって感じがありましたね。
悲しみを抱いた汽車 / オリジナル・ザ・ディラン
田家:流れてるのは、「悲しみを抱いた汽車」。1974年に発売になったオリジナル・ザ・ディラン『悲しみの街』の中に入ってました。これも歌ってるのは大塚まさじさんですね。
中部:このアルバムは西岡恭蔵さんもデビューをして、ザ・ディランII、大塚さんたちもデビューした後に作られてるんですね。昔ザ・ディランといったバンドで西岡さんが作って大塚さんが歌ってた歌をもう一度再生させようというので、オール大阪みたいな形で作ったアルバムなんですね。スタジオもそれまでは東京に録音しに行ってた。それ以外は放送局のスタジオを使って録音したこともあったらしいんですけど。ようやく大阪にデカいスタジオができて、そこでしかも大阪ミュージシャン全部やってるんですよね。ちょっとブルースっぽいんで、その後の憂歌団とか、スターキング・デリシャスの根っこになったんだと思う。石田長生さんもこの中に入ってるわけですから。その意味では大阪の音楽シーンの中では画期的なアルバムですね。
田家:このアルバムはプロデューサーが、恭蔵さん。
中部:恭蔵さんは大阪から東京へ、埼玉の入間へ来ちゃっているからしゃしゃり出てないんですよね。割とそういう人柄の人ですから。大阪の人たちが好きにやるっていうことを応援してる立場だったんじゃないですかね。
田家:さっき話に出た関西フォークですけど、中部さんは東京の出身なわけで、関西フォークに対してはどんなふうにご覧になってたんですか?
中部:これは岡林信康さんに全て集約されると思うんだけど、やっぱり得体の知れない大きな波が起きてるということですよね。東京では新宿西口のフォークの反戦集会が有名なんですけど、これは大阪スタートなんですよね。大阪のベトナム反戦運動やっている人たちが始めた。だからあの頃の若い人のカウンターカルチャーと言うか、独自のカルチャーはほとんどが大阪、西からやってきたんですよね。さっき話に出た URCは有名な関西方面の若者の音楽の本家みたいな、元祖みたいなところなんだけど、実は、西岡さんとか大塚さんのいたディランの喫茶店のグループとちょっと外れてるんですよ。
田家:五つの赤い風船とかじゃないですもんね。
中部:岡林さんとか高石ともやさんとかちょっと違うんですよ。そういう意味では最初からブルースっぽいっていうところがたぶん違うとこなんじゃないですかね。
田家:ひょっとして大塚まさじさんはこの放送をお聞きになってらっしゃるのかなと思いながらなんですけど、大塚さんと西岡さんの関係ってのはどんなふうに思われました?
中部:大塚さんから見れば先生ですよね、西岡さんが先生。先輩と先生一緒みたいで、ほとんど音楽のことは西岡さんから習ったって言ってますからね。西岡さんは非常に高校時代、むちゃくちゃ音楽に熱中して、ギターも相当上手かったらしいですね。だから、大塚さんは全部習った感じ。恭蔵さんは小学校のときから楽譜に慣れてる人なんで、高校時代には自分で楽譜を書いていた人で。それだけでも尊敬されちゃうって言ってますね。
田家:書く詞や曲も自分には書けないものがあるんで、それを歌うっていうことで始まったのがザ・ディランというバンドだったっていうことなんでしょうかね
中部:西岡さんは大塚さんの歌を非常に気に入ってたらしくて。だから大塚さんに歌わせる歌っていう意味もあったみたいですね。
田家:1972年4月発売ディランⅡの『きのうの思い出に別れを告げるんだもの』。このアルバムに入っておりました「子供達の朝」。中部さんが最初に聞いた4曲の中の1曲で、初めて書いたルポルタージュにこの曲の詞を引用した、そういう曲ですね。
中部:これはね、すごく複雑な曲の作り方をする西岡さんらしい曲で、さっき少し話しましたけど、永山則夫っていう要するに「ピストル殺人鬼」と言われた人、この人は非常に複雑な人生、過酷な人生ですね。5歳の時に冬の北海道で親に捨てられる経験があったり、ずっと極貧の中で差別されて蔑まれて生きてきて、事件を起こした後に留置場で『無知の涙』という本を書きます。象徴的に言えば、人を殺してはいけないんだってことが、自分の人生にはなかったという社会を告発する本を獄中で書くわけですけれど、西岡さんは、つまり運命が自分ではなく社会や他の者によって歪められて定められてしまう過酷な生き方があるっていうのを、彼を通して知るんですよ。西岡さんは志摩の真珠養殖の大手の息子さんですから、長男で跡継ぎなんですよ。これは背負わされてるわけですよね。一度は大学卒業をする頃に音楽を諦めて自分の実家へ帰って跡を継ごうかなという気になるんですけど、そこから家出するんですね。
田家:大阪には家出同然で行って。
中部:その前にこの歌を作るんですよ。つまり運命を背負わされてる人たち、若者たちとして自分もいるんだと。もちろん恭蔵さんの場合は、差別されたり蔑まされたり、きつい体験はしてないですけど、やっぱり家族とか、そういうものによって定められてしまう運命をこの歌で歌ってるんですよね。だから西岡さんの歌の作り方ってものすごい複雑です。そういう意味では複雑に考えて、簡単にぽっと出してくるんだけれど、だからこの歌を西岡さんご本人は歌ってないんです、ご本人は。
田家:ザ・ディランIIのバージョンしかないんだ。
中部:ライブでもディランⅡが歌ってますけど、西岡さんの歌は僕は少なくとも聞いてない。どこかで歌ったかもしれないけど録音盤としては残ってないと思います。
田家:恭蔵さんは、志摩の真珠養殖で有名な”さきしま”で養殖の旧家だった、地元でも有名な立派なお家だった。
中部:だから、背負ってるものは大きかったですよね。自分の住む家を建てられちゃって、そこでご両親が後継になるのを待たれているわけですから。それから逃げ出すっていうのは並大抵の覚悟ではないし、そこから逃げちゃうんですけどね。
田家:跡継ぎを拒否して。
中部:裏切ってしまう。そういう生き方みたいなところもかなり真剣に考えてたんだと思うんですよ。突き詰めて考えてたんだと思う。
田家:これも中部さんがお書きになった言葉なんですが、恭蔵さんにとって喫茶店のディランはようやく見つけた居場所だった。
中部:そうなんですよ。大学に行ってフォーク・キャンプなんかの活動をしたり学生運動、ベトナム反戦運動をしたりするんですけど、どこも自分の居場所じゃなかったらしいんですね。ところがディランは心の居場所になった。常連になって毎日ようようにディランへ通った。ただ恭蔵さんってベラベラ喋る人じゃないですよね。黙ってみんなの話を聞いてるタイプなんだけれど、そこでは、お兄さん格だったんだと思うんですね。音楽の理論も詳しいし、何でここはこういうコード進行になるのかっていうのをみんなにちゃんと分析して教えてた。
田家:で、恭蔵さんのソロのファーストアルバムタイトルが『ディランにて』、「下町のディラン」。
下町のディラン / 西岡恭蔵
田家:ディランという居場所を見つけられなかったら、西岡恭蔵はシンガー・ソングライターになっただろうかって書いてましたね。
中部:本当にそう思います。つまり、受け止める人たちが他ではいなかったということだと思うんですね。あんたはいいと言ってくれる人がここにはいたんだと思うんですね。「下町のディラン」って歌は、すごい単純な言葉なんですよ。恭蔵さんの歌にしては凝った比喩がない。比喩がいらないぐらい楽しかったんだろうなと。この「下町のディラン」と歌ってるディランはミナミのすぐそばですから、それが下町かどうかっていうのを僕は実は全然わかんなくて。大阪も取材に行ったり知ってる人もいたからよく知ってるつもりだったんだけど、あの辺も歩き回りましたね。大阪中を歩いていた。
BGM(プカプカ / 西岡恭蔵)~
田家:流れてますのは、「プカプカ」です。先ほどお聞きいただいたのは、ザ・ディランIIのものだったんですが、これはソロのファーストアルバム『ディランにて』の中に入っている「プカプカ」ですね。中部博さんがお書きになった『プカプカ 西岡恭蔵伝』。この本の第一章が「プカプカの謎」でありました。どんな謎だったんですか?
中部:ファンの方はよくご存知だと思うけど、バースが途中でついたりとか、サブタイトルが変わったりという、西岡さんの心の成長とか心境の変化で、細かいところが変わる歌なんですよね。
田家:ザ・ディランIIの方は、「みなみのブルース」っていうまたサブタイトルがついてまして、ソロになってからは「赤い屋根の女の子に」に変わってますね。
中部:それはなぜかっていうのが疑問だったのと、バースっていうのかな、レチタティーポっていうのかな、前歌がつくんですよ。バースで「冬の雨の相合い傘」って突然歌われるんだけど、それがなんだか全く説明されてない。これ何かあるなとは思ってたんですよ。それを調べに行ったら何かあったんです、本当に。
田家:この「赤い屋根の女の子に」にはですね、近大時代の下宿の母屋が赤い屋根の家だったという。
中部:そう。母屋が黒い屋根で、その女の子の部屋が赤い屋根だったんですね。この下宿の建物は壊されてしまったんですけど、取り壊される前に僕は見せていただきましたよ。本当に赤い屋根でした。
田家:それ、どうやってたどっていったんですか。
中部:大塚さんが、昔恋人がいたって言うんですよ。ブログをやってらっしゃって、パリにいる人なんです。それで「会いたい」と言って「パリまで行きます」って言ってたんだけど、日本へ帰ってこられることが何度かあって、幸い日本で3回ぐらいお会いして、お話をして。
田家:房子さんという恋人で、婚約までしていた。
中部:他の人とね(笑)。西岡さんは房子さんのことが好きで好きでしょうがなかったんだけど、相手にされてないっていう。まさに「プカプカ」は西岡さんの体験だったんですね。一般には安田南さんというジャズシンガーがモデルだと言われて。
田家:「みなみのブル―ス」の「みなみ」は、安田「南」であると。
中部:これはインスパイアされたっていう意味では本当だと思うんですよ。一緒に劇団活動をやってるときに、西岡さんはベースを弾いて、安田南さんが演技をしてるの見てるわけですからインスパイアされてるんだと思うんですよ。でも中身はやっぱり自分の体験だったっていう。そういう二重構造を持った歌なんですよね。だから当時の西岡さんデビューアルバムにしても、それからさっき言った「オリジナル・ザ・ディラン」にしても、ああいう歌ってみんな房子さんとの恋の歌ですよ。実らない恋というか失恋の歌ばかりです。だから明るくないっちゃ明るくない。
街の君 / 西岡恭蔵
田家:西岡恭蔵さんのソロのファーストアルバム『ディランにて』から「街の君」。
中部:西岡さんの古くからのファンで、この歌が好きだって人がすごく多いんですよ。当時の西岡さんの人気というか歌の本質は、こういうふうに多くの人を惹きつけたんじゃないかと思う歌ですね。
田家:ソロのファーストアルバムはベルウッド・レコードの三浦光紀さんが声をかけられたところで始まった。
中部:三浦さんが西岡さんの噂を聞きつけていて、ザ・ディランIIの録音をやってるところに行って、西岡恭蔵さんにベルウッドで出さないかって声をかけて。その時は忙しくてそんなこと考えられないっておっしゃったらしいですけど、その後すぐに三浦さんへ連絡があって、やりたいということで、このアルバムができるんですけど、ものすごく当時のボブ・ディランに影響されているシンプルな作り方ですよね。
田家:ザ・ディランIIの「きのうの思い出に別れを告げるんだもの」は、恭蔵さんはディレクター兼アレンジャーだったんですね。
中部:そうなんです。途中でディレクターの人が怒って帰っちゃったとか、いろんなことがあったらしくて、アレンジもちゃんとできてなくて、中川イサトさんが少しやったらしいんですけど、残ったものを全部恭蔵さんがまとめたという。並々ならぬサウンドクリエイターの実力はあるんですよね。だって、やったことない仕事をそこでやったわけですから。
田家:初めてのディレクターみたいなものでしょうからね。
中部:それから編曲もスタジオアレンジというかヘッドアレンジって言うんですか。ああいうことだったかもしれないけれど、少なくとも一つの曲を作り上げて、それをどういう順番で並べて、っていうことを作り上げたわけですかね。
田家:これも当時気がつかなかったんですけど、アルバムのクレジットに大塚まさじ、永井ようっていうザ・ディランIIのメンバーと西岡恭蔵、3人になっている。
中部:僕は遠くで聴いているファンですから当時の事情は知りませんから、ザ・ディランIIって2人組なのに、3人目に西岡恭蔵って書いてあるんですよ。それは彼らにとっては当たり前の話なんですね。でも、よく知らない人は、なんだろうこれっていう疑問になってましたね。
田家:そういうことが本の中で明らかになったりしているわけですが、三浦さんに声をかけられて、恭蔵さんは東京に来て半年間三浦さんの部屋に居候していたそうで(笑)。
中部:そう(笑)。西岡さんはご自身で風来坊生活って言ったけど、要するに現住所を持たずに、友達のところを転々として。大阪でも友達のところを転々としてるんですよ。居候させやすい人なんでしょうね、真面目な人だから。大阪は、村上律さんのところで、東京では及川恒平さんのところにも居候してたらしいですよ。
田家:立派な生家があるのにそこを出てきちゃったわけですからね。やはりアルバム「ディランにて」から「サーカスにはピエロが」。
サーカスにはピエロが / 西岡恭蔵
中部:これは、女の子に振られた男の子の恋の傷跡に塗り込む薬のような歌だと思うんですよ。当時、女の子に振られた男の子はみんなこれを聞いて涙しながら頑張るぞって、やさしい男になるぞと思って聞いていたんだと思うんだけど。その意味で西岡さんって失恋のマイスターみたいなところがあって、振られた男の歌ってうまいですよね。
田家:確かにね。アルバムの『ディランにて』の中でこの曲の位置、意味はどんなものだと思います?
中部:これは、もう終わったということだと思うんですね。つまり青春が一つ終わって、次の段階に自分が行くぞっていうことだと思うんだけど、そのメッセージがちょっとまだ伝わりきれてなかったんで、次のアルバムを聞いたときに、あまにりも明るいので、みんな騒然、びっくりするわけですよ。だからそこのところ新しい2枚目聞いて今度1枚目を聞くと、やっぱりちゃんと予告はなされているんだと思えるという。
田家:『街行き村行き』を聞いたときにね。
中部:自分が恋で悩んだり、いろいろ青春で風来坊になってフラフラしてたけど、自分のやりたいことはこういうことなんだって決着をつけるためにファーストアルバムを出したって感じがわかるんで、そう言う意味で非常に考えてものを作っていく人ですよね。
田家:やっぱりザ・ディランIIの『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』と、この『ディランにて』が一つになっている。
中部:そうですね。一つになっていてスタートラインを切ったときと総括っていうんですかね。まとめて次の段階に行くっていうことかな。それをちゃんとやってきている。段階的成長みたいなことを西岡さんはちゃんとやるんですよね。
田家:さっき話に出た三浦光紀さんの部屋、恭蔵さんが居候しているその部屋にですね、1人の少女が訪ねてくるんですね。KUROさん。
中部:KUROさんなんです。これは結婚をする相手なんですけど、恭蔵さんが相当惚れられてたってことですね。KUROさんは大阪から訪ねてきますから。大阪で村上律さんの部屋に転がり込んでるときに、同じアパートにKUROさんも住んでるんです。そこはみんな仲間ですから、そこで知り合ったみたいなんですね。で、KUROさんが恭蔵さんのことを好きになる。
田家:恭蔵さんの伝記ではあるんですが、KUROさんとの愛情物語みたいな本でもあるなと思いましたよ。
中部:僕もちょっと意外だったんだけど、そこに行き着いていくんですね。KUROさんとの愛のことっていうのは、本当に Love and Peace だね。Love and Peace ってどこか恥ずかしくてちょっと言いづらくて照れちゃうんですけどね。恭蔵さんは自分ではLove and Peaceって真正面からおっしゃってないけど、まさにそういう人だった。
田家:来週からそんな話が続いていきます。よろしくお願いします。
今年がソロデビュー50周年、西岡恭蔵さんの軌跡を『プカプカ 西岡恭蔵伝』の著者、ノンフィクション作家・中部博さんをゲストにたどり直してみようという5週間です。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」。
恭蔵さんの伝記を誰か書かないかなと思っていた、と中部さんがおっしゃってましたけども、私もそう思ってたことがありました。私事ですが、松本隆さんの本を出したときに、時期がかなり近かったんですね。ある日、本屋さんに行ったら、この『プカプカ 西岡恭蔵伝』というのがドンと並んでまして、今度来たときに買おうと思ってたら、 FM 802の東京支社のこの番組宛に本が送られてきておりました。で、番組に取り上げようとすぐ決めたんです。ただ、いわゆる業界的な知名度ということでは、先月の清志郎さんとか岡林さんとかそういう人たちに比べると、ちょっと足りないかなっていう多少の懸念はあったりしたんですね。編成の方にお伺いを立てるわけですけど、全然問題なくて、会長もぜひということだったんで喜んで特集にしました。 FM COCOLOで番組をやっててよかったなと思いました。
書籍『プカプカ 西岡恭蔵伝』表紙
大阪のディランという喫茶店は一度行ってみたかったお店ではあるんです。でも、ちょっと音楽が好きですっていうような東京の人間には、かなり敷居の高いお店に思えてたんですね。中部さんも関東の人間なわけで、関東の人間が恭蔵さんのことをこんなふうに書いたっていうことに意味があるのかもしれないなと思ったりもしました。ミュージシャンの中でも恭蔵さんに誰よりも興味を示したのが東京そのもののような細野晴臣さんだったわけで、来週はそんな話になると思います。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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月 21:00-22:00
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