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西岡恭蔵と細野晴臣の関係性、ノンフィクション作家・中部博とたどる

Rolling Stone Japan / 2022年1月21日 7時30分

西岡恭蔵(photo by 北畠健三)

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年1月の特集は「西岡恭蔵」。2021年11月、小学館から書籍『プカプカ 西岡恭蔵伝』という長編伝記が発売された。その著者、ノンフィクション作家・中部博を迎え、今年ソロデビュー50周年を迎える西岡恭蔵の軌跡をたどる。パート2は、西岡恭蔵と細野晴臣との関係性をたどっていく。

田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは西岡恭蔵さん「サーカスにはピエロが」。1972年7月発売、ソロの1枚目のアルバム『ディランにて』の中に入っておりました。恭蔵さんが生前最も大切にしたという1曲です。

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サーカスにはピエロが / 西岡恭蔵

今月2022年1月の特集は西岡恭蔵。1969年4人組のバンド、ザ・ディランの一員として音楽活動を開始して関西フォークを代表するシンガー・ソングライターになりました。1999年50歳の若さでこの世を去ったんですね。去年の11月小学館から『プカプカ 西岡恭蔵伝』という本が発売になりました。彼の生い立ちとか思春期とか、音楽の目覚めとか関西フォークから東京に来てシティ・ポップスに移っていく流れとか、愛妻・作詞家のKUROさんとの暮らし。海外を旅しながらの作詞活動。さらに病魔との戦い。恭蔵さんの生涯を丁寧に追ったノンフィクションです。今月はその著者、ノンフィクション作家・中部博さんをお迎えして曲を選んでいただきながら恭蔵さんの軌跡をたどり直してみようという5週間です。今週はパート2。西岡恭蔵と細野晴臣というテーマであります。こんばんは。よろしくお願いします。

中部博:こんばんは。よろしくお願いします。

田家:先週は大阪での話が中心になりました。喫茶店ディラン。それからザ・ディランⅡを中心にした西岡さんのことを話していただきました。本は全部で12章あるんですけど、生い立ちから大阪での音楽活動が6章あるわけで先週1週間でたどるには到底無理な情報量でしたね。

中部:西岡さんってお名前は非常に有名なんだけど、どういう人だったかは本もなかったし、本人が喋るタイプではないんですよね。あまり知られてなかったので、そこを一生懸命やったのと、子ども時代から音楽の才能に目覚めている。その後の音楽活動のバックボーンになったふるさとの海とか、生まれ育った生活環境が非常におもしろかったので長くなってしまいましたね。

田家:ご実家のご親戚の方とか、遺族の方を丁寧に追って取材されてますよね。

中部:僕自身も実は本当に知りたかったところなんだけど、何も知らなかったからです。

田家:恭蔵さんのファンの方からメールをいただきまして、「今まで知らなかったゾウさんのことが本当にたくさん書かれている本です」と感想があったんですけど、本当に知られてないことがたくさんありますもんね。今週は上京以降になるわけですけど、恭蔵さんにとって東京はどういう場所だったと思われます?

中部:悪い意味ではとらないでほしいんだけど、生き直すために逃げ出してきた場所なんですよ。恋のつらい思い出が大阪には染みついているとかいろいろなことがあって。そこには仲間もものすごくいっぱいいるわけですよね。結婚してから2人で生きていこうと決意を示す形でKUROさんと東京に出てきたと僕は思っていますね。

田家:ベルウッドの三浦光紀さんのところに居候しているときにKUROさんが家出して追っかけて来たというところで先週が終わって。今週は東京が舞台になるわけですが、もう1つのキーワードが細野晴臣さんであります。中部さんが選ばれた今日の1曲目、1974年1月に発売になったソロの2枚目のアルバム『街行き村行き』からタイトル曲「街行き村行き」です。



街行き村行き / 西岡恭蔵

田家:この曲を選ばれているのは?

中部:恭蔵さんの1枚目の『ディランにて』はブルース、ロックっぽいものなんですけど、やっぱりどこか暗いんです。煮詰まっている感じがある。恭蔵さんはそれを1枚目で吐き出して、2枚目に向かったときに自分のサウンドを打ち立てようとするわけですよね。その代表的な曲がタイトル曲そのものですから。当時のファンとしては「街行き村行き」を聴いたときにホッとしました。明るい恭蔵さんがいるんだって。恭蔵さん側もポピュラーミュージック全体、アメリカンポップスにあるような明るい曲調を実は大変やりたかったというのがあったと思うんです。憧れとして細野晴臣さんが恭蔵さんの中にはいたんですよね。細野さんがいたはっぴいえんどは最初のLPはURCから出していて、わりと大阪でも知られてたバンドですよね。

田家:東京のはっぴいえんど、大阪のザ・ディランⅡって感じはありましたからね。

中部:URCで出しているアルバムでしたから、岡林信康さんが1番有名ですけど、はっぴいえんどは、URCの人たちのバックもたくさん引き受けて録音もやっているので。細野さんと西岡さんは面識があったらしいですね。そのサウンドに憧れていた。その後に今度は、西岡さんはベルウッドの仲間にもなるんですね。小室等さんと細野さんが親分みたいな。高田渡さんもいたのか。ちょっと西岡さんよりリードしていた人たちだけど、そこへの憧れもあったんだと思うんです。中でも細野さんが1番大きかったんだと思います。

田家:ザ・ディランⅡの「きのうの思い出に別れを告げるんだもの」のレコーディングの時にベルウッドの創始者・プロデューサーの三浦光紀さんがソロにならないかと言って、ソロアルバムが始まって。はっぴいえんどの解散コンサートが1973年9月21日文京公会堂、僕もいましたけど。あれはメンバー4人の今後の活動をプレゼンするコンサートで、大瀧詠一さんはココナッツバンクとシュガー・ベイブで、松本隆さんは南佳孝とムーンライダーズで。細野さんが恭蔵さんと吉田美奈子さんを紹介しているんですよね。そこで「街行き村行き」も演奏している。

中部:僕らはただのファンですから、細野さんと西岡恭蔵さんがなんで一緒にいるんだっていうのは、はっぴいえんど解散コンサートのアルバムでも分からなかったんです。なんでこんなところにいるんだろうって。

田家:しかもアルバム2枚別でしたしね。はっぴいえんどのライブと西岡さんたちのライブはね。

中部:そうなんですよ。後で聞いてみれば、要するに西岡さんが細野さんの歌を何曲か歌いたいと随分前から申し出ていた。たぶん、手紙を書かれていたと思うんですけど、そういう手紙類で細野さんが非常に感動していたらしいですね。

田家:本の中に三浦光紀さんの取材も丁寧になさっていて、三浦さんが「細野さんは恭蔵のアルバムづくりをべったりとやった。あんなに細野さんがべったりとかかわったアーティストは、僕が知るかぎり恭蔵以外にいない」というコメントが載っていますね。

中部:3枚プロデュース、共同制作というか、アレンジャーも含めて。3枚西岡さんのアルバムを細野さんがプロデュースしているんですよね。

田家:恭蔵さんと細野さんの間の何をお知りになりたかった。

中部:どうしてこの2人が仲良いのかが分からなかったんですよ。たぶんファンの人はみんなそうだったと思います、当時。なんでこの2人が知り合って一緒に音楽をやっているんだろうという感じすらしました。大阪と東京ですからね。だけど、一方的に西岡さんの想いはあったんだけども、細野さんも人柄をものすごく気に入っているとおっしゃっていました。人柄に打たれたと。音楽は技術じゃなくて人そのものが伝えることを西岡さんから学んだって細野さんが言うんです。

田家:その話も伺っていこうと思います。中部さんが選ばれた今日の2曲目、『街行き村行き』の中の「春一番」。



春一番 / 西岡恭蔵

田家:ベースが細野晴臣さん、ギターが鈴木茂さん、ドラムがかしぶち哲郎さん、バイオリンが武川雅寛さん。はっぴいえんどとはちみつぱいが一緒になっているみたいなメンツですね。

中部:レジェンドだらけって感じですよね(笑)。

田家:この曲を選んでいるのは?

中部:関西の人たちにとって春一(ハルイチ)と言ったら、自分たちの音楽の歴史伝統でしょうから。

田家:1971年。

中部:福岡風太さんという人が主宰者として有名なんですけども、西岡さんたちもスタッフなんですよね。その途中にこの歌を村上律さんと一緒に作ってテーマソングにしようとなったらしい曲ですね。

田家:〈ヤスガーズ・ファーム〉という歌詞が出てきますもんね。

中部:ウッドストックに憧れているんですよね。

田家:中部さんがお書きになった『プカプカ 西岡恭蔵伝』は人間・西岡恭蔵のリアルな生涯の本でもありますけど、当時の関西音楽シーンの人間関係をとても分かりやすく読ませてくれた本でもあったんです。今お名前が出た福岡風太さんとか、もう1人阿部登さんという方。お名前は聞いたことあるんだけども、ここまで知らなかったなということがたくさん書かれていて。阿部登さんはこの後の西岡さんのアルバムでもとても重要な人物になってくる方でしょ?

中部:そうですね。いわゆる原盤、最初の音楽を作るプロデューサーになっていって、恭蔵さんの一時期のすごい理解者ですよね。阿部登さんも大変不思議な人だったみたいですね。やりたいことはどんどんやっていっちゃうし、バイタリティに溢れている。関西の人はバイタリティに溢れている人、特に大阪に多いと思いました。追っかけていて。

田家:東京の人間が追っかけていて(笑)。

中部:すごいなっていう人が(笑)。やりたいからやるという感じがものすごく強い人たちですよね。それからカッコつけない。1人の人間として勝負していく感じがしましたね。

田家:恭蔵は「春一番」を自分の音楽のふるさとのように愛し続けたと中部さんはお書きになっています。中部さんが選ばれた今日の3曲目、1975年7月発売、ソロ3枚目のアルバム『ろっかばいまいべいびい』のタイトル曲「ろっかばいまいべいびい」。



ろっかばいまいべいびい / 西岡恭蔵

田家:細野さんの1975年5月に出たソロの1stアルバム『HOSONO HOUSE』の1曲目でもありました。この曲について思われることというのは?

中部:西岡さんが細野さんの1番歌いたかった歌で、これをとにかく歌いたいということが最初にあったみたいですね。

田家:中部さんの本には恭蔵さんの思春期、子どもの頃のお話も丁寧に取材されていて。恭蔵さんが高校生の時に労音の会員で、労音のコンサートの何を見たかということを当時のプログラムを使って克明にお書きになっていましたね。

中部:恭蔵さんは高校1年生からギターを始めるんですけど、当時ポピュラーミュージックのギターを教えてくれる場所ってないんですね。結局みんな何をやっていたかと言うと、プロがやっているのを見て覚える。だから、ステージを食い入れるように見る。コンサートを聞きに行っているんだか、楽器を見に行っているんだか分からないみたいな青春だったみたいですね。それで資料がたまたまた残っていたんです。

田家:これは貴重ですよ。

中部:労音の人たちがずっと冊子を残していて、それが国会図書館にあったんですよ。

田家:すごいな。この取材力(笑)。

中部:恭蔵さんは間違いなく先輩から勧められて労音の会員になって。僕はそういうコンサートに行ったことがなかったので、労音というのを知らなかった。

田家:世代が違いますもんね。1953年生まれだもんな。「な」なんて言っちゃったけど(笑)。

中部:そうなんですよ(笑)。勤労者音楽協議会。労音についても調べ直して、そんなに大きい団体だったんだと。

田家:本の中によく出てくる評論家の田川律さん。あの人は労音ですからね。URCを作った秦(政明)さんもそういう流れですもんね。

中部:中津川のフォークジャンボリーも地元の労音の人たちで。60年代の後半はあらゆるミュージックシーンをリードしていた大きな団体だったらしいですね。

田家:その例会コンサートのプログラム、恭蔵さんが見たであろうコンサートがあって。シンガーだと雪村いづみ、鹿内孝、フランク永井、坂本スミ子、弘田三枝子、武井義明、宮城まり子、岸洋子、金井克子、アントニオ古賀、ペギー葉山、田辺靖雄とか、バンドは薗田憲一とデキシーキングス、東京キューバンボーイズ、和田弘とマヒナスターズとかシャープス&フラッツ。いわゆるビートルズ以前の日本にあったポピュラーミュージックを全部労音でやっている感じですね。

中部:その音楽のシャワーを浴びているに等しいという。恭蔵さんの中でも中学校までは小さい町だったこともあって、コンサートはなかったと思うんですけど、高校の時に浴びるようにそれを聞いているんですよね。それで吸収したものがものすごく大きかったんだと思いますね。

田家:細野さんの原点もビートルズ以前、戦後の50年代、60年代の東京で流れていたアメリカ音楽、ジャズだったりするわけで。あ、2人はここで結びついたのかという、中部さんの本を読んで確認しました。

中部:サウンドが人を結びつけているところがありますよね。

田家:どこかドリーミーなものが残っている。細野さんもそうですし、恭蔵さんもそうなんだなと。

中部:今の若い人から甘いって言われちゃうかもしれないけど、その甘さがいいんですよね。

田家:なぜ恭蔵さんが「ろっかばいまいべいびい」に憧れていたのか、中部さんの本を読んで答えが出た感じです。

中部:ありがとうございます。50年代から60年代のアメリカから進駐軍というか、GHQが駐留して占領軍にいた人たちが持ち込んだ音楽は当時の戦後生まれの団塊の世代のベースになっていることは間違いないと思いますね。

田家:この年代の人たちを語る時にたいていビートルズで括りたがるんですけど、実はその前の音楽を知ってる人がビートルズを聞いて変わった。そこを踏まえなければいけないわけで。

中部:これ突っ込んだらいいか分からないけど、ようするに当時のポピュラーミュージック全盛をビートルズが潰したって怒っている人もいるんですよね(笑)。

田家:いますよ、いますよ。

中部:これもよく分からなかったんだけど、取材して全部聞き直してみて、たしかにその怒りは本当だと思いましたね。

田家:この『ろっかばいまいべいびい』はA面とB面でトーンが違うわけですが、中部さんが選んだ4曲目はA面の曲です。「踊り子ルイーズ」。



踊り子ルイーズ / 西岡恭蔵

中部:これは金子マリさんが一緒に歌われているんですけど、シモキタ(下北沢)のジャニス。この人たちとも繋がっているんだというのは当時はなんとも思わなかったけど、今聞くと驚きですよね。

田家:演奏は鈴木茂とハックルバック、東京のミュージシャン、そこに石田長生さんも入っているわけで。

中部:本当に当時の才能がガーッと集まってきている感じがして、歴史的な曲が多い。曲を選ぶ時に、恭蔵さんのファンから怒られちゃうかもしれない。「他にもっといい曲がいっぱいあるだろう、有名な曲ばかり選ぶな」って言われちゃうかもしれないけど、大変なんですよ、選ぶ方もね(笑)。

田家:実はリスナーの方からメールをいただきまして、「高校生の時に女の子の友達と自転車で「踊り子ルイーズ」を2人で歌いながら走り回っていたんだ」という人から「本を買いました、読みました。知らないゾウさんがいっぱい載っていて、その子への年賀状に1月のLEGEND FORUM必ず聞きやと書いた」と連絡いただきました。

中部:かっこいい高校生ですね(笑)。

田家:今日、この曲を選んでおいてよかったなと思いましたけども(笑)。細野さんと恭蔵さんと言うと、とても大きな共通点が米軍ハウス。『プカプカ 西岡恭蔵伝』のプロローグにも出てくる話がありまして、『HOSONO HOUSE』。細野さんの「ろっかばいまいべいびい」が入ったアルバムも米軍ハウスでレコーディングしている。

中部:東京の衛星都市って当時は言われていて、ベッドタウンとも言われていたんですけど埼玉県の南の方にある入間。そこは陸軍とか航空隊の古い基地があって。そこにアメリカが突然現れる。朝鮮戦争も含めて戦争が拡大していく時に家族を連れてきて宿舎が足りなくなって、民間の業者に米軍用の一軒家を作らせるんですよね。それを駐留が終わってから日本の人たちが借りられるようになるんです。そうすると、ミュージシャンの人たちは音を出せるわけです。でかい一軒家でアメリカサイズの。それで人気があって、東京三多摩の福生派と、埼玉南部の入間と狭山派。細野さんは狭山にいらして、恭蔵さんは入間にいらした。

田家:小坂忠さんもそこにいたという。先週話に出ていたKUROさん。大阪から三浦さんの2DKの部屋に恭蔵さんを追っかけてきた。1972年12月に結婚して、1973年1月に上京、三鷹の6畳一間で暮らしていて、『街行き村行き』の時はそこに住んでいて、『ろっかばいまいべいびい』の時は米軍ハウスに越している。しかも第一子がジャケットに写っている。

中部:恭蔵さんの言葉で言うと風来坊をやめて、お父さんになった話なんだけども。KUROさんの恭蔵さんと一緒に生きていく力は相当大きくて、恭蔵さんもホッとしたんだと思います。風来坊ってつらいですからね。

田家:細野さんにも「風来坊」っていう歌がありますけどもね(笑)。

中部:それで入間でガッチリ根をおろして。後は押しも押されもせぬLPデビューの人ですからね。才能を認められた人として仕事も増えてきただろうし、一家を構えるという感じでしょうかね。

田家:そのアルバム『ろっかばいまいべいびい』からもう1曲聞いていただきます。「夢の時計台」。



夢の時計台 / 西岡恭蔵

田家:これを選ばれているのは?

中部:ちょっと静かな曲がいいなと思ったのももちろんあるんですけれど、恭蔵さんってすごいロマンチストなんですよね。それが広い世界へ繋がっていっているみたいなところが僕はすごい好きです。

田家:これもまた本を読んでそういうことかと思ったことがあって、恭蔵さんのおじいさま西岡新松さんという方が出てきますもんね。重要な役割を果たしていますね。

中部:大変重要ですね。明治か大正の時代に海外の航路に乗っていた船員生活があって、その話を西岡さんは小さい頃に相当聞いていると思うんです。このおじいさんはお兄さんが、東京でメーカーを起こして成功していて、そこの役員でもあって、志摩にいながら毎月のように東京に行き来して恭蔵さんを連れて行ったことが非常に多いらしいんですよね。自分が海外を旅行していた、船員として海外を渡り歩いていた経験が自分を作ったというのと同じように、恭蔵さんにも東京を何度も見せていた。世界の大きさを教えていた。それから、恭蔵さんは大好きだったハーモニカを演奏するんですけど、当時で言う「ミヤタバンド」という一流ブランドのハーモニカを買い与えていたのもおじいさんで、個性を伸ばしていたというのもあると思うんですね。

田家:ハーモニカとエキゾチズムやロマンチシズムみたいなものはおじいさまから受け継いだのかもしれませんね。これは有名な話ですけれども、細野さんのおじいさまはタイタニック号の日本人たった1人のお客さんだった。2人の夢の時計台。夢が似ていたのかもしれないなというのがありましたね。

中部:喋らなくても分かるエキゾチズムと言うんですかね。異国情緒みたいなものはお互い持っていた可能性がありますね。

田家:これは2人の間に何があったのか、大きな答えではないでしょうか。中部さんが選ばれた6曲目、1979年発売、6枚目のアルバム『Yoh-Sollo』からタイトル曲「Yoh-Sollo」。



Yoh-Sollo / 西岡恭蔵

田家:この曲を選んだのは?

中部:「ろっかばいまいべいびい」まで2枚のアルバムを細野さんがプロデュース、共同制作で関わっているんですけど数年してからまた細野さんにアレンジをいっぱい頼んでいるうちの1曲なんです。

田家:『ろっかばいまいべいびい』から4年後のアルバムですもんね。

中部:そう。この『Yoh-Sollo』はほとんど細野さんがアレンジした曲が多いんですけど、1979年ですから細野さんはYMOでワッと人気が出てくるので、よく忙しい最中に恭蔵さんの頼みを飲んだなってちょっと思いました。それぐらい恭蔵さんも真剣に頼んだし、細野さんも断らない人なんですね、きっとね。ちょうどデジタルミュージックを始めた頃で、でもいわゆるテクノの音にはなっていなくて、いい具合でデジタルミュージックが入って、恭蔵さんの音楽の世界が広がった感じがして。このアルバムも、もしかすると細野さんは気に入っているかもしれないですね。

田家:細野さんの「泰安洋行」とか、「トロピカル・ダンディー」の頃の匂いもありながら。アルバムは9曲入っているのですが、細野さんが6曲アレンジしている。YMOは1979年に『イエロー・マジック・オーケストラ』。全米で5月に発売して、9月にもう1枚日本版の『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』が出る年ですから、その合間ですもんね。忙しいですよね。

中部:忙しいと思いますけど、恭蔵さんから言われると、ついやっちゃうんでしょうね。

田家:『ろっかばいまいべいびい』から4年経っているわけですが、恭蔵さんは1976年に『南米旅行』、1977年に『77.9.9京都「磔磔」』ライブアルバムがあったりして、音楽の作り方が激変している。

中部:それは音楽そのものは細野さんの影響が相当大きいのと、音楽をどういうふうに作っていくか、恭蔵さんが悩んでいるところもあるんですよね。海外に旅行するとか、ライブをやることで打ち破っていこうという姿勢があったんだと思うんですけど、そのうちの1つとして、もう一度細野さんにやってもらいたいというのがあったんだと思うんですね、『Yoh-Soll』はね。

田家:『Yoh-Sollo』の曲は海外を旅行しながらスペイン、地中海、モロッコ、バリ島。1978年12月18日から1979年1月30日までの旅。旅日記も中部さんが読まれていて、紹介されているので旅の本としてもおもしろく読めます。「Yoh-Sollo」はマドリード滞在中に書かれている。

中部:刺激を受けるというのと、鼻歌まじりに音楽を作れちゃう人なんですね。恭蔵さんって1日何曲も作っちゃう人ですから、楽器がなくてもどんどん楽譜で採譜していっちゃうタイプなので。相当作曲家として力量があったと思うんです。

田家:スペイン、地中海、バリ島で書いてきた曲はどうしても細野さんにアレンジしてもらいたいというアルバムだったんでしょうね。もう1曲お聞きいただきます。アルバム『Yoh-Sollo』の中の「Moroc」。



Moroc / 西岡恭蔵

中部:これも細野さんの持っていたデジタルサウンドがちょうどよくミックスされている感じがして、西岡さんのぴったりのサウンド、望んだサウンドができた感じがしますよね。

田家:YMOまではいかない感じがありますもんね。

中部:それで西岡さんらしいんですよ。

田家:『Yoh-Sollo』はスペイン、地中海、モロッコ、バリ島で曲が作られたアルバムではあるのですが、中部さんの本の中にこういう小見出しがありまして、「『Yoh-Sollo』に満ちた愛」。

中部:ファンのみなさんもとっくに知っていることなんだけど、いちゃついているくらい仲の良いKUROさんと恋の歌ばかりですよ。見つめ合って曲を作っているんじゃないかというぐらい、まさかそんなことをしてないんだろうけども、聞いているとちょっといい加減にしてくれってくらい愛し合っている感じ。本当に愛に満ちているんです、アルバム自体が。だから絶頂期だったと思います。あらゆる意味で。

田家:『Yoh-Sollo』の話は来週も登場します。来週はこのお2人の話をお聞かせください。ありがとうございました。

中部:どうもありがとうございました。



田家:「J-POP LEGEND FORUM 西岡恭蔵」。今年がソロデビュー50周年、西岡恭蔵さんの軌跡を小学館から発売になった本『プカプカ 西岡恭蔵伝』の著者、ノンフィクション作家・中部博さんをゲストにたどっております。今週は2週目です。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。



再発見シリーズというのは、便宜的につけたサブタイトルではあるんですけど、西岡恭蔵さんは新発見に近いことがたくさんあるんだろうなとあらためて思いながらお送りしております。今まで語られていなかったこと、みんなが想像していなかったこと、それがいろいろな形で明らかになってきているんじゃないでしょうか。例えば、西岡恭蔵さんと細野晴臣さん、2人がこんなふうに親しくて同じようなところに立っていて、同じような音楽観で同じような人生観、ロマンを持っていた2人なんだというのはあまり語られていないような気がします。カテゴライズの弊害でしょうけど、関東と関西は折りに触れ、別なものだった。対立していたかのような書き方。これは人のことを言えないところもあるんですけど、はっぴいえんどは東京のバンドで、ファニー・カンパニーが関西にいてみたいな。でも、実は同じところで繋がっていたんだというのが西岡恭蔵さんと細野晴臣さんの中にも象徴的にあるのではないかと思います。2人を結びつけていたのはエキゾチズムだった。

細野さんの70年代の功績に1975年6月の『トロピカル・ダンディー』、1976年7月の『泰安洋行』、それまでのアメリカ一辺倒、イギリス一辺倒だった日本のポップスの中にアジアとか、中南米とか第三世界的なものを持ち込んだ。そこのロマンチシズムをアルバムにした名作として語られているわけですが、恭蔵さんの『街行き村行き』が1974年1月、『ろっかばいまいべいびい』が1975年7月、ちょっと早いんですよね。で、細野さんのエキゾチズム路線とやっぱり重なり合っている。2人ともおじいさまが外国航路をしていた。恭蔵さんの70年代のアルバムは、細野さんの歴史の中でもとても重要な作品なのではないかと思うと、西岡恭蔵さん、再評価の価値あり、あらためて見直すべきとても大きな根拠になるのではないかと思いながら今週を締めくくろうと思います。来週はさらに夢のある話が待っております。


書籍『プカプカ 西岡恭蔵伝』表紙


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

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