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西岡恭蔵「病と闘いながら生み出した名曲の軌跡をたどる」

Rolling Stone Japan / 2022年2月15日 7時30分

西岡恭蔵(photo by 北畠健三)

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年1月の特集は「西岡恭蔵」。2021年11月、小学館から書籍『プカプカ 西岡恭蔵伝』という長編伝記が発売された。その著者、ノンフィクション作家・中部博を迎え、今年ソロデビュー50周年を迎える西岡恭蔵の軌跡をたどる。パート4のテーマは「病魔」、病と闘いながら仲間たちと制作した名曲をたどっていく。

田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは西岡恭蔵さんの「プカプカ」。1972年7月に発売になったソロの1枚目のアルバム『ディランにて』の中の曲なのですが、お聴きいただいているのは1991年に出たライブアルバム『ハーフムーンにラブコラージュ』の中のものです。西岡恭蔵さんのバンドHalf Moonと大塚まさじさんのバンドであるラブコラージュが一緒に行ったライブの模様です。今週と来週はこの曲を前テーマにお送りします。バージョンは違います。

関連記事:西岡恭蔵とKURO、世界旅行をしながら生み出した楽曲をたどる

プカプカ / 西岡恭蔵とHalf Moon

2022年1月の特集は西岡恭蔵。1969年4人組のバンド、ザ・ディランの一員として音楽活動を開始して関西フォークを代表するシンガー・ソングライターになりました。亡くなったのは1999年、50歳の若さでした。去年の11月小学館から『プカプカ 西岡恭蔵伝』という本が発売になりました。彼の生い立ちや思春期、関西フォークからシティ・ポップ。愛妻・KUROさんとの暮らし、海外を旅しながらの創作活動。そして、病魔との闘い。恭蔵さんの生涯を丁寧に追ったノンフィクションです。今月はその著者、ノンフィクション作家・中部博さんをお迎えして曲を選んでいただきながら恭蔵さんの軌跡をたどり直してみようという5週間です。今週はパート4、題して「病魔」。こんばんは。よろしくおねがいします。

中部博:こんばんは。

田家:先週はアルバム『南米旅行』、『Yoh-Sollo』、『NEW YORK TO JAMAICA』。このアルバムを中心に海外旅行をしていた頃の話を伺いました。先週も触れましたが、1971年から81年の10年間、いろいろなアーティストがいろいろな新しい活動をしてきましたけど、こんなに行動的だったカップルはいなかったんじゃないかとあらためて思っています。

中部:やっぱり控えめな人たちなので、自分で俺が私がって言わないからあまり目立ってはいないけど、たしかにおっしゃる通り、ものすごい活動量ですよね。海外旅行に行ってアルバムを作るとか、ライブも作るとか、非常にすごい活動をしたと思います。

田家:しかも夫婦ですもんね。今日はその中の中部さんの本の第10章を中心に話を進めていきたいと思うのですが、第10章のタイトルが「病魔」。

中部:西岡さんが1981年ぐらい、30歳過ぎた頃からですね。正確な記録がなかったので病名は分からないんです。病気のことは非常に慎重に語らなければいけないので、症状を言うと、例えば朝、寝床から起き上がれないくらいの倦怠感が1、2週間続く。鬱と言われているような状態とか、朝起きた途端にギターを2~3時間弾きまくるようなこととか、世の中、宇宙の構造が分かったと書いたりするような、言わば躁な状態が続くんですね。これはやっぱり精神的に(肉体的にも)苦しい病気ですから、活動ができなくなっていく時期が10年くらい続いてしまうんですよ。この間、音楽がなければ西岡さんの生き生きした状態はありえないということは西岡さんもKUROさんも分かっているので、何度かチャレンジをしていく。そのときにバンドを作るんですね。仲間を頼る、という。

田家:今お聴きいただいた「プカプカ」は、そういう状態の1983年12月の六本木ピットインでのライブなんですけど、このライブについても後ほど話を伺っていこうと思います。今日の中部さんが選んだ1曲目、CDになったのは2012年に発売になったベストアルバム『ゴールデン ベスト』なのですが、この曲が書かれたのは1980年でした。「バナナ・スピリット」。



バナナ・スピリット / 西岡恭蔵

田家:これは1980年に書かれた曲。

中部:はい。ただ、これはNHKの「みんなのうた」で放送された歌なんですよ。NHKの「みんなのうた」って言うと、田家さんの方が位置付けは詳しいと思うんですけど、国民的な音楽番組って言っていいんですよね?

田家:はい、アルバムも出てますからね、「みんなのうた」の。名曲が結構ありますよ。

中部:毎日、毎日短い枠で流れていくわけで、恭蔵さんとKUROさんの音楽活動がそこまで来てたということなんですよね。音楽の世界とか放送の世界、テレビの世界で実力が認められる存在になっていたんですね。

田家:これが1980年なわけですけども、先週もお話をした3度目の長期旅行を7月から8月にかけて行って、1981年3月に『NEW YORK TO JAMAICA 』というアルバムを発売して。さっき中部さんがおっしゃった体調不良はこのときには自覚して、訴えられていたんですかね。

中部:いろいろな記録を読むと、1981年ぐらいからそのことを書かれていて。家庭内新聞を恭蔵さんが作るんですよ、息子さんお2人に向かって。それは不定期なんですけれど、手書きの新聞を月に何回か書いて、息子たちの成長の記録とか、お小遣いの事情、学校の行事のことがずっと書いてある。その中にご自分のことも、ところどころ書いていて。調子がいいとか悪いとか、作詞作曲ができなくなっちゃったということを書いているんですけど、1981年ぐらいからそういう記述が見えてくる。

田家:家庭新聞はどうやってお借りしたんですか?

中部:実家に残っていたんです。奇跡的に残っていたいくつかの資料のうちの1つだったので、それをお借りできたということだったんですね。

田家:家庭新聞の1回目は1982年2月28日の創刊号で、「旅行シリーズにピリオドを打ち、新しいテーマを求めている」と書いてあったと本の中にありましたね。

中部:これは要するに、海外を旅行して1枚のアルバムを作るっていうことを3回繰り返したので、これはひとついいだろうということで。次の新しいテーマはバンドなんですよね。

田家:体調の問題ということよりも音楽を作る方法論としての旅行シリーズは一度打ち止めにして、という意味でそれを書いていたんですか?

中部:だと思いますね。満足いったか分からないですけど、とにかく3回きっちりやったという感じですね。恭蔵さんはかなり真面目な人で、きちっと自分はやった。じゃあ、次の段階へ行こうというところはあったと思うんですよ。しかし、体調不良が起きて、にっちもさっちもいかなくなりつつあるんですよ、この時期は。

田家:そういう中で恭蔵さんが組んだバンドの曲をもう1曲お聴きいただこうと思います。今日の2曲目、西岡恭蔵とHalf Moon「プエルトリコ宅急便」。アルバムは先程の「プカプカ」が入っていた「ハーフムーンにラブコラージュ』です。



プエルトリコ特急便 / 西岡恭蔵とHalf Moon

田家:1991年に発売になったアルバム『ハーフムーンにラブコラージュ』の中の「プエルトリコ宅急便」。歌と演奏は西岡恭蔵とHalf Moon。そしてアルバムはもう1組大塚まさじとラブコラージュ。この2組のライブアルバムとして発売されました。これはいいですねー。

中部:すごくいい。1983年にライブをやって、ちょっとお蔵入りになっていて、1991年にようやくアルバムになったというちょっといわくつきのアルバムなんですけれど。

田家:1983年12月だった。

中部:ちょっと遅れてしまったんですよね。

田家:なんでですかね?

中部:恭蔵さんが不調だったので、リーダーとしてどんどん前へ進んでいくことができなくなっていく時期に絡んでしまったんだと思うんです。ただ、このHalf Moonというバンドは僕も大好きなバンドのうちの1つなんですけど、残っているものはこのアルバムしかないんです。これはギターが井上憲一さんという方で、久保田麻琴と夕焼け楽団にいた……その頃からあのギターいいなと思っていて、(その井上さんが)恭蔵さんとやるんだという感じだったこともあるし。それから10ホールズのハーモニカを吹いている松田幸一さんは赤い鳥とか愚にいた人ですよね。

田家:瀬尾一三さんと一緒ですからね(笑)。

中部:そうそう、そういうことで。エポックメイキングな活動をずっとしてきている人なんですよね。

田家:で、松田さんも、米軍ハウスの仲間だったと。

中部:そうなんです、入間の仲間だったんです。そしてベースが当時売り出し中の岡嶋善文さん、BUNさんですね。だから、すごくいいバンドだったんですけど、とにかく実質1年ぐらいしかやっていない。

田家:もう1組のラブコラージュは大塚まさじさんのバンドで、大塚さんも1982年に大阪から東京の方に拠点を移して音楽活動をするようになっていた。

中部:旧ザ・ディランの人たちにとってはバンドの時代が始まったということなんでしょうね。

田家:本ではいろいろな方の証言の中でも大塚さんの証言が重いですね。

中部:大塚さんは1番親しい人だし、KUROさんとも電話で愚痴を聞くような仲だったので、いろいろな経験をしている。朝起きられない、一日中ベッドの中にいざるをえないのが数週間続くみたいなことを聞いて、「これは……」って思ったらしいですけどね。

田家:本の中に、中部さんがお書きになったこういう言葉もあります。「大塚は、ことあるごとに恭蔵と一緒にすごす時間をつくっては励まし、気遣った」。そして、「このライブ録音以後……恭蔵は完全に落ち込んでしまったようだ」ともお書きになっています。

中部さんが選ばれた3曲目、1986年に出たKYOZO & BUNのカセットブック『パラダイス・カフェ』から、タイトル曲「パラダイス・カフェ」。



パラダイス・カフェ / KYOZO & BUN

田家:KYOZO & BUN。西岡恭蔵さんと岡嶋善文さんですね。

中部:これは1985年くらいにできたバンドなんですけど、恭蔵さんが健康を取り戻してきて、やろうと。本当はバンドをやりたかったらしいんですけど、今度はデュエットでベースを入れてやろうと。後にANNSAN(アンさん=安藤政廣)というパーカスの方が入って3人組になるんですけど、KYOZO & BUNという1つのユニットができて5年ほど活躍するんです。これは日本中のライブハウスとかコンサート、フェスを回るバンドで。そのとき既に日本中に西岡恭蔵ファンがいて、そこら中から声がかかっていて忙しかったみたいですよ。

田家:なるほどね。でも、さっきのHalf Moonの曲に比べると、いわゆる中南米度、トロピカル度はちょっと薄くなってきている感じですね。

中部:そう、落ち着いてきていますよね。ポピュラーミュージックの方にまた寄り始めるんですけど、岡嶋善文さん、5歳若いベーシストを入れたというのも、またちょっと違ってきたんだと思うんですよね、彼と組んでやることで。

田家:岡嶋さんは1953年生まれで、中部さんと同い年ですよね。

中部:同い年です。だから彼も、恭蔵さんのLPアルバムを何枚か聴いて、感動していた。

田家:「ろっか・ばい・まい・べいびい」を聴いて感動したって本にありましたよね。面白かったのが、細野さんがどうして恭蔵さんをプロデュースしたのか興味をそそられた、と。で、中部さんの興味の持ち方と全く同じ興味を持った(5歳年下の)ミュージシャンが一緒にユニットを組んだんだと思ったんですよ。

中部:全くそうなんですよ。その頃は岡嶋さんもただの学生ですから、音楽業界に詳しいわけでもないし、不思議だなと思っていたんだと思うんですよね。それは僕も、岡嶋さんと会って話を聞いたときには、同じだなと思いました。

田家:次は、KYOZO & BUNカセットブック『パラダイス・カフェ』の中から、「コーヒー・ルンバ」。



コーヒー・ルンバ / KYOZO & BUN

田家:ご存知、西田佐知子さんの大ヒットとなりますけども。

中部:これはやっぱり、恭蔵さんがスタンダードミュージックというのを自分で目指すんですよね。他のスタンダードミュージックを初めて取り入れていこうとしている時期の曲なんですけれど、こういう歌を作りたかったんだろうな、と。

田家:先週の話の中に、恭蔵さんは高校生のとき伊勢の労音の会員で、労音の例会に来た当時の日本のミュージシャンバンド、歌手などの音楽をシャワーで浴びるように聴いていたという中部さんのお話がありましたけど、この「コーヒー・ルンバ」なんかは、ビートルズ以前の日本のちょっと中南米がかった歌謡曲の代表ですもんね。

中部:本当にいい曲だなと思うし(外国のスタンダードナンバーを取り入れる)日本の歌謡史の分厚さを感じますよね。恭蔵さんはこういうものを手掛けていこうとしていた。「プカプカ」がみんなに歌われる歌になったというのもあって、スタンダードミュージックを目指すというところに行ったんだと思います。でも、それはとても大変なことですよね。みんなに歌ってもらわないといけないし、消費されることによって生き残るという、すごい音楽だから。それを目指していった。この時ちょうどレコードからコンパクト・ディスク、CDにメディアが移る間に、カセットテープで売るというアルバムで。車のカーステレオもカセットだった時代ですから、カセットで音楽を売る時代がちょっとあって、それはレコード店ではなくて本屋さんで、例えば小さな本、薄い本をブックレットとして入れて。カセットブックというのがちょっと流行った時期があるんですよ。

田家:小学館でも作ってましたからね(笑)。

中部:このカセットブックは、ちょっと深い話を……60代、70代の人はご存知だと思うんだけど、『プレイガイドジャーナル』という、若者の文化を一気に進めた関西発の情報誌があったのですが。

田家:東京の『ぴあ』、大阪の『プレイガイドジャーナル』。

中部:その前にURCの『フォークリポート』という、フォーク専門の機関誌があったんだけど、その編集長だった村元(武)さんが、このカセットブックを作ろうと行って、恭蔵さんを誘いに来るんですね。『プレイガイドジャーナル』は、普通の東京の人は知らなかったんじゃないですか。

田家:僕は『新宿プレイマップ』だから(笑)。

中部:今の話が分かるっていうのも、ちょっと若い人には無理かもしれない(笑)。

田家:東京に『ぴあ』があって、大阪に『プレイガイドジャーナル』があったというのは西と東の情報誌の草分けですからね。その村元さんがカセットブックをお作りになった。

中部:そうなんですよ。恭蔵さんは久しぶりにアルバムができるというんで、ものすごい張り切ったみたいですね。毎日手紙が来たって言ってましたよ、村元さんが。

田家:何が書いてあったんですかね。

中部:録音が始まったら、毎日今日は何をやってどうしたってことを報告してたんです、手紙で。メールの時代じゃないですから。

田家:先週も名前が出ていた関西人脈、大阪人脈のある種の連帯感の強さでもあると思うんですけど、阿部登さんがこのカセットブックの共同プロデュースだった。大阪の人たちにとっての恭蔵さんというのは、応援したい人の代表みたいなところがあったのかなと思ったんですよね。

中部:それはそうだと思います。まぎれもなく大阪以外から生まれてこない人だというふうに、自分たちで思っていたんじゃないですかね、西岡恭蔵さんのことを。だから完全な仲間だし、本当に自分たちの存在を高らかに表す1人のシンガー・ソングライターであったことは間違いないと思います。

田家:そのカセットブックからもう1曲お聴きいただきます。KYOZO & BUNで「4月のサンタクロース」。



4月のサンタクロース / KYOZO & BUN

中部:これを選んだのは、恭蔵さんってクリスマスコンサートが大好きだったんですよ。東京と大阪で必ず毎年クリスマスコンサートをやっていて、その度に新曲、クリスマスの曲を作るんですよ。それはなんでかなと思って調べたけど、理由が分からなかったんです。ただ、KUROさんがわりとクリスマスが好きだったというのがあるのと、クリスマスソングってスタンダートになりやすい。だから、そこを狙っていたのかもしれないですね。

田家:あれだけ海外長期旅行をすると、海外のクリスマスのスペシャル感みたいなものが忘れられないのかもしれないですしね。

中部:暑い地方の「12月のクリスマス」って歌も書いていて、これは「4月のサンタクロース」もそうなんだけれど、ちょっと季節外れのクリスマスも書くんですよね。最後の最後まで、クリスマスソングはずっと作っていますね。

田家:なるほどね。で、第10章「病魔」であらためて思ったことに、KUROさんの存在感が日増しに強くなってくる。

中部:ガッチリ支えて生きるパートナーということになると思うんですけれど、このときのKYOZO & BUNはファンクラブまでKUROさんが作るんですよ。ファンクラブの会報も作って配るんです。KUROさんは大阪で雑誌の編集者をやっていた時代があるので、お手の物だったと思いますけれど、そういうものを作って恭蔵さんを応援するんですね。陰から、目立たないようにね。それは非常にあの、夫婦愛というかね……。一緒にやっていた岡嶋善文さんは「本当に仲の良い夫婦だなと思っていた」と言っていましたね。

田家:KYOZO & BUNもHalf Moonも、KUROさんがマネージャー兼スタイストみたいなところがあったという。

中部:そうなんです。髪の毛を編んだりとか、恭蔵さんもかなり奇抜な格好をして歌っていたらしいんだけれども、楽しいステージなんで全国各地から仕事が来てたって言っていましたね。

田家:『プカプカ 西岡恭蔵伝』は愛情物語でもあります。

中部さんが選ばれた6曲目、1986年に発売になったKYOZO & BUNのカセットブック『パラダイス・カフェ』から「星降る夜には」。



星降る夜には / KYOZO & BUN

田家:さっき中部さんがおっしゃったKYOZO & BUNは全国ツアーを回っていた。KUROさんは一緒についていけないときは、戻ってきて必ずBUNさんに「変わったことなかった? 大丈夫だった?」と確かめられている。そういう心身の不調を抱えながらの旅だったりしたわけでしょ?

中部:そうですね。このときはまだ身動きがとれなくなるようなことはなかったんですけど、KUROさんは常に見守っていますよね。ずっと見守って、ちょっとでも変なことがあれば、その対処を考えていたんだと思うんですね。

田家:そういう時期にも関わらず、この曲なんかも、幸せとか夢を歌っているんですよね。

中部:そう。本当に愛された人ですよね。恭蔵さんはものすごく愛された人なんだと思う、KUROさんに。それが痛いほど分かるので、具合が悪くなっていく自分を責めたりもするんですよね。こんなことじゃいけないんだと自分を責めたり、申し訳ないなという気持ちになっていって、不調の泥沼に精神的に落っこちてしまうところもあるんだけれども、必死にそれに堪えている時期じゃないかなと思います。後半はね。

田家:この『パラダイス・カフェ』の曲も、詞はKUROさんなんでしょ?

中部:そうなんです。KUROさんがほとんど詞を書いているんだけれど、恭蔵はそのこともちょっと申し訳ないなと思っていた節がある。

田家:なるほどね。で、これもこの本で知ったんですけど、恭蔵さんが詐欺師に騙されたと。

中部:ギタリストだったらしいんですけど、詐欺をした人が。

田家:500万円騙されたという。

中部:ギタリストとしては腕はいいとみんな言ってましたけど、詐欺を働いていて、後に捕まって有罪判決を受けちゃう人なんですけど、騙されて500万円盗られちゃう。

田家:恭蔵さんはそのことでも自分を責めたんじゃないかという。

中部:ええ、責めていたんですよね。しかも、その人に騙されてバンドやるってことになっちゃって、KYOZO & BUNを解散しちゃうんですよ。

田家:解散しちゃったんだ!

中部:しちゃったんです。だから、本当に精神の不調とか体の不調に付け込まれたとしか言いようがない。

田家:で、この時期にもう1人、登場人物がいまして、KYOZO & BUNのファンクラブ「パラダイス・カフェ」の会長さんMABO(マーボ)さんという、KUROさんの幼稚園のママ友。この方が会長さんとしていろいろな形で支えていた1人で、KUROさんがMABOさんに話した言葉が紹介されていて、「ピーカンで晴れていた家なのに、土砂降りの家になった」と。

中部:そう言っていたというふうにMABOさんはおっしゃっていましたね。MABOさんは最後の最後まで恭蔵さんの面倒を見る、あたたかい人ですね。

田家:そんな中で作られたアルバムです。1990年12月に発売になったKYOZO & BUN『トラベリン・バンド』からタイトル曲をお聴きいただきます。



トラベリン・バンド / KYOZO & BUN

中部:この『トラベリン・バンド』というアルバムはちょっと不思議で、恭蔵さんは生きているときに12~13枚アルバムを出していますけど、これだけは、いわゆるインディーズなんですね。自分でZO RECORD(ゾーレコード)というのをつくって、そこから出しているんです。

田家:西岡恭蔵オフィスって自分の事務所なんですね。

中部:そうなんです。この頃はかなり健康を害されてきて、つらい状態になっていって、アルバムを出すということで自分の存在感を確かめていたんじゃないかなと思うんですよね。

田家:なるほどね。普通のレコード会社だと契約があったりして、いつまでに作らなきゃいけないみたいな縛りがありますからね。

中部:どうしてもこの時期にこのアルバムを出したいということで、自分で自分を鼓舞していたところもあるんだと思いますね。

田家:でも、この時期の恭蔵さんの日記は壮絶ですね。

中部:そう、この時期のものが、たまたま残っていたので読ませていただいたんだけれど、やっぱり命の危険みたいなことを自分で感じているところがあるので、読んでいてちょっと怖かったですね。

田家:ああ、怖かったですか。例えば、〈はたして唄が唄える様に、書ける様になるかどうか?〉とか、〈夕方、ベッドに横になり肺ガンになって死ねばいいと考える〉〈KUROに対して悪いなあと思う〉とか、そういうのがずっと並んでいるんですね。

中部:何百曲も作ってきた人が、作れないって言うんですよ。これはもうその心とか体を思うと、本当につらかったんだろうなと思います。

田家:中部さんはこの章をこういうふうに締めくくっています。「恭蔵は音楽活動を休止した。いまはもう、生きるために休まなければならなかった」。続きは来週ですね。ありがとうございました。


書籍『プカプカ 西岡恭蔵伝』表紙





田家:「J-POP LEGEND FORUM」今年がソロデビュー50周年、西岡恭蔵さんの軌跡を小学館から発売になった『プカプカ 西岡恭蔵伝』の著者、ノンフィクション作家・中部博さんをゲストにたどり直してみようという5週間。今週はパート4。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

中部さんがお書きになった本『プカプカ 西岡恭蔵伝』は、シンガー・ソングライターの伝記なんですね。そういう意味で言うと、例えば本屋さんに置かれている場所は音楽というところにあると思うんです。でも、音楽本という枠では括れない本だなと思ったので、今月のこういう特集に繋がったということでもあるんですね。なぜかと言うと、人の死と向き合っている本なんですよ。その人がなぜ死ななければいけなかったのかというのを、ずっとたどっているんです。なぜ死を選んでしまったのか。音楽を中心に語っているだけでは踏み込まないところ、見なくていいところ、むしろ見ようとしないところに入っていって、それを自分で受け止めようとしている。それを受け止めながら書いている。亡くなった人のことを、いろいろな友人の方、遺族の方、息子さん、それからごきょうだい(姉)まで、ずっと話を取材でたどっていっているんですね。その誠実さみたいなものにですね、読んでいてかなり胸を打たれたところがあります。自分の心身の不調と闘っている中で、最も献身的に関わってくれた人に先立たれる、しかも自分の創作のパートナーが先に逝ってしまうということがどういうことなのか。そういうことを本の後半では書いてあるわけで、この話は来週なんですけれども、KUROさんは1997年にガンで亡くなるんですね。亡くなったときの恭蔵さんの様子とか、その後のお友だち、関係者がどんなふうに支えていったのかということも、来週の話の中に出てくると思います。


左から中部博、田家秀樹


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
OFFICIAL Facebook : @FMCOCOLO
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