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「ロックと女性の物語」ベストセラー小説『デイジー・ジョーンズ』はどう生まれた?

Rolling Stone Japan / 2022年3月1日 19時30分

『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』

70年代の西海岸ロックシーンを駆け抜けた架空のロックバンドの物語を、メンバーや関係者による架空の回想インタビュー(オーラルヒストリー)で紡いだ米ベストセラー小説『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』が日本でも話題を集めている。「デイジー・ジョーンズは、女性たちによる芸術に違った角度から光を当てると同時に、自分自身の声で語ることの重要さを訴えている」と語るのは著者のテイラー・ジェンキンス・リード。シスターフッドの物語としても支持を集めている音楽小説は、一体どのようにして生まれたのか?

オーラルヒストリーを仕上げてみようと挑んだことのある者なら、それが決して一筋縄ではいかない作業であることをわかっている。百とまではいわないにせよ、数十の単位には及ぶだろう時間にわたって実施された、それも複数の人間を相手にしたインタビュー素材を適宜編み上げ、一貫した語りの中に落とし込もうとすれば、それこそ頭がおかしくなりそうになる。それゆえ著者のテイラー・ジェンキンス・リードが、70年代の架空のロックバンドを扱った最新作『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』にこのスタイルを採用しようと決めたことは、ほとんどマゾヒスティックな荒行にも見える。

「作品の世界にどっぷり浸かって欲しかったの。ただフィクションを読んでいるのではなく、まさにその場に立ち会っているような手応えにしたかった。そのためには、それも、ロックにまつわる物語を語るのであれば、一番相応しい手法は、そのジャンルのドキュメンタリーに近づけることだろうと考えました」

リードの説明はこうだ。

「たとえば『Behind the Music』(1997年にスタートした、米ケーブルテレビVH1の音楽ドキュメンタリーシリーズ)で、関係者の言葉を本人の口から聞いているような感じです。そこには作為の入り込む余地がない。ですから本書はオーラルヒストリーの体裁にしようと決めたんです」


『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』
70年代のはじめ、カリフォルニア。美貌とカリスマ性、それに天性の歌声を持ち合わせたデイジー・ジョーンズは、LAのライブシーンでまさにその才能を開花させようとしていた。一方、頭角を表し始めたロックバンド「ザ・シックス」は、1stアルバムを作り、全国ツアーを終えたところ。偶然レーベルメイトとなった両者は、ツアーを一緒に回り、共同制作をすることに。デイジーと、「ザ・シックス」のボーカル・ダンという二人の天才が出会うとき、かれらの音楽は大きく花開いていく……。


テイラー・ジェンキンス・リード(Photo by Deborah Feingold)
マサチューセッツ州出身の作家。映画業界、高校などで働いたのち、2013年に『Forever, Interrupted』でデビュー。以降、7冊の小説と1冊の短編集を出版している。6作目の長編である本作をはじめ、複数の作品がベストセラーとなっている。LA在住。

セックスとドラックに象徴される70年代ロックシーンのあの渦を再発見しようという兆候は近年富に顕著ではあるが、必ずしもすべてが上手くいっている訳ではない。ミック・ジャガーとマーティン・スコセッシがプロデューサーに名を連ねたTVシリーズ『ヴァイナル』が失敗に終わったことは記憶に新しい。しかしリードの本書は、才能ある一人の女性に焦点を当てている。何ものにもとらわれない優れたシンガーにしてソングライターでもある彼女は、男性の物語における準主役の地位などはなから受け容れはしないのだ。

300ページにも及ぶこの架空のバンドの物語を読む際もっとも癪に障るのは、どうあがいても彼らの音楽に触れることが叶わない点だ。だがこの状況もほどなく変わる。リース・ウィザースプーンが刊行前からすでに本作の映像化権を獲得しており、Amazon Primeが全13回の連続ドラマ枠を提供しているからだ。脚本には『(500)日のサマー』や『きっと、星のせいじゃない。』を手掛けたスコット・ノイスタッターとマイケル・H・ウェバーのチームが当たるうえ、番組用の音楽も新規に制作されることが決まっている(編注:ドラマ版でデイジー・ジョーンズ役を演じるのはエルヴィス・プレスリーの孫、ライリー・キーオ。音楽はブレイク・ミルズが担当、フィービー・ブリジャーズなども参加しているという)。

「私も早く曲を聴きたくてたまらないの!」リードは言う。

「もちろん私はミュージシャンではありません。頭の中では何かしら鳴ってこそいるけれど、でもそれは、誰かが曲にできるようなものでは決してないんです。だから作品に登場するアルバムを誰かが本当に作ってくれるという話になった時には本当に興奮しました。Amazonで制作チームのメンバーの一人とも会いました。そこで音楽の話をさせてもらったのですが、その彼から、実は自分は「オーロラ」という曲を実際の音楽にするという仕事に相当ビビっているんだとも打ち明けられたの。こんな感じよ。『だって『オーロラ』ってのは70年代でも最高のアルバムなんだろう? あなたがそういうふうに書いちまった』。だから、どうすればそうなるのか、必死で頭を悩ませなくちゃならないんですって。私の仕事じゃなくてよかったわって胸を撫で下ろしちゃった」

リードはまた本誌に対し『アリー/スター誕生』やヨーコ・エフェクトに対する疑義、あるいはイーグルスからの影響などを語ってくれた。

自分自身の声で語ることの重要さ

―あなたの前作にも、相当たくましい女性キャラクターが登場していますが、デイジーを思いつかせたのは誰だったのでしょう? やはりスティーヴィー・ニックス(フリートウッド・マック)が大好きで、自分なりの彼女像というものを創り上げたかったのでしょうか?

リード:本当に徹底的に煎じ詰めれば、あるいはそういうことなのかもしれません。実際はどんな感じだったかというと、本書の前作に当たる『The Seven Husbands of Evelyn Hugo』(編注:7人の夫と結婚した、79歳の元ハリウッドスターの真実に迫る物語)を書き上げた時には、自分でも、著名な女性について書けることはもう書き尽くしたんだろうな、と考えていました。

でもやがて、芸術上の共同作業というものに惹かれている自分がいることに気がつきました。とりわけ実人生と作品との境界さえあやふやにさせてしまうような才能同士によるそれです。こういうのは、音楽の世界にしばしば見つかるかとも思いますが、たとえば男女が一緒に歌っている時、見ている者には、この感情は本物なのか、それとも舞台の上だからこそのものなのか、といった部分がはっきりわからなくなることがある。そしてそれが本物に思えれば思えるほど、惹き込まれ、耳を傾けずにいられなくなることはいうまでもありません。(フリートウッド・マックの)『噂』が傑作なのはそのせいです。だからこそあの作品は、今なお歴史的な輝きを放ち続けているのだと思います。

それからもう一つ、シヴィル・ウォーズ(編注:米カントリーの男女デュオ、2014年解散)のことが頭にありました。彼らが大好きだったんです。二人が袂を分かってしまった時には、理由を知りたくてたまらなくなりました。信じられないくらい親密でロマンティックな作品たちを、力を合わせて創り上げていた二人の間に、そういった関係が実は一切なかったという部分の物語に、すっかり魅せられてしまったんです。解散はまったく出し抜けでした。当時は本当に長い時間ニュースを検索していたものです。何かほんの少しでもわからないかしら、と思って。

そんなふうに、なんだか一切が、共同作業を行う二人、といった発想に回帰していくようでした。はたして二人はお互いに気持ちを抱き合ったりしているのか、それとも全然そんなことはないのか。そこでデイジー・ジョーンズと、その共同作業者であるビリー・ダンという二人のキャラクターの原型が、頭の中で動き始めたんです。




―そのまさに同じ年(2018年)に『アリー/スター誕生』が公開になったんですよね。まさしく宇宙的な偶然くらいには呼べそうな事態にも思えますが――。

リード:まったくね――最初に予告編を目にした時はこんな感じになりましたよ。「どうして私ってば、よりによって音楽のことなんか書いてる訳? これがあればみんなもう十分じゃない」。そして映画を観にいって、半分くらいまで来たところで、隣の席の夫の顔を見ながらこう考えました。「これってまさに『デイジー・ジョーンズ~』がやろうとしていることだわ」

でも映画の方は、ある地点で急に方向転換するんです。そこで私も、デイジー・ジョーンズは、女性たちによる芸術に違った角度から光を当てると同時に、自分自身の声で語ることの重要さを訴えている、と胸を張れるようになったんです。

私は『アリー/スター誕生』も大好きですよ。本当に。劇場にも二回観に行ったし、サントラは今でも聴いています。作品もスタッフも応援していました。けれど、たとえ同じロックの世界の女性を扱っていても、そのベクトルが全然違うことがわかって喜んだこともまた事実だったんです。



―それはそうでしょうね。では、その登場人物たちについて伺わせてください。デイジーというのは、ぶっ壊れていると同時に力強くかつ美しくもあります。こうした複雑なキャラクターを生み出したいと思われた理由について、少しお聞かせいただけますか。

リード:架空の著名人とでもいうべきキャラクターを描く際に私が一番重きを置くのは、いかに彼らを人間臭く見せるか、という部分です。そこがキモなんです。人間ってものはとにかく辻褄が合わない。ひょっとするとこの点が、キャラクターを作り出すという行為を重ねるうちに私自身がたどりついた最大の発見かもしれません。人々は矛盾に満ち、だからこそ、ある誰かが何を言うか、どんな場面でどんな行動を採るかを正確に予測することはとことん難しい。だって私たち、筋なんて本当に通ってませんから。

デイジーはいわば、稀代の傑物にしたかった。美しくて豪勢で、すべてを手に入れている。それでも、もし彼女と一対一で会えば、とても脆くてしかも人間臭いことがすぐにわかる。そういう存在です。その両面を備えさせることは難しかった。相当の大物なのにひどく矮小でもある、ということですから。

それに、これは私見になりますが、ロックスターというのはたぶん、女優とは住んでいる世界が違うんです。現実のロックの女神たちはひどく取っ散らかった人物であることが多い。コートニー・ラヴがまさにそうだし、スティーヴィー・ニックスにしたって、簡単にはつかみきれない部分がある。デイジーもそんな感じにしたかったんです。

―序盤のデイジーのパートで、自分のことをソングライターだと考えている彼女がこんなふうに言われてしまいます。「いや、君はそうではないよ」。なんとも苦々しい場面です。この辺の着想について教えてください。自分に自信を持っている人間が、実はそこまでではない、という。

リード:それこそが実は、私の中で彼女というキャラクターが動き出す、そのきっかけとなった要素かもしれません。こう、カチリとはまったんですね。彼女にはつねに自信に満ちていて欲しかった。「あんたはこっちが言わなきゃならないことに耳を傾けなくちゃならないのよ」と、言葉にできるくらいの自信です。そういうのは実際には簡単ではないですよね。でも彼女はすでに完璧なんです。ところが誰も彼女のことをまだそうは見ていない。けれどやがてある日、誰も彼もが彼女に気づき、彼女もまた報われる――そういう具合になるのであれば、それはそれでいい話だったのでしょうけれど、やや単純に過ぎますよね。

そしてまた、これも明け透けに言ってしまいますが、デイジーというのはお金持ちの家に生まれ、美貌と声にも恵まれているんです。その彼女が一生懸命になるとしたら、いったいなんのためでしょう。そもそも何かを手に入れるために努力するという考え方を持つのでしょうか? この点は真剣に、それこそ徹底的に考えました。

彼女はそのまま優れたソングライターにまで成れるものなのか? 答えはノーです。何かのために努力するということはもちろん、やってみるということさえよく知らないのですから。どうすれば、歌おうとしてみて失敗して、それでもなお続けて自分を磨いていくということができるでしょう。ですから彼女が学ばなければならないのはそこなんです。

多くの人々が人生のもっと早い段階でそういうことを身に着ける訳ですが、デイジーの手にはすでに何もかもがあった。だから、彼女が再び何かに自信を持てるようになり、それでも再び鏡を見た時に、自分にはまだまださらに成長できる余地があることに気づくんだとわかった時、彼女のキャラクターができあがったんです。

―今のメッセージは、いろんな意味で、現在「ミレニアル」と呼ばれている世代や、さらにその下の若い人々にも響きそうですね。そういう若い人たちに対してしばしば口にされる批判というのは、大体はこういうことになるのではないかと思います。つまり 「ちゃんと顔を出したんだからそれなりの報償が欲しい」とか「自分には権利がある」とかばかり主張している、というものです。

リード:それは面白いですね。あるいはそこは「見せかけと実体」といった部分の問題なのかもしれません。その要素こそは、今私自身が、名声というものを題材とすることにひどく興味を惹かれている理由の一つでもあります。私はいわば著名人という、ある意味で台座の上に載せられているような人々を描いています。でも、同時に誰もがそれぞれの日々を生きてもいるのです。今有名な人たちだってそうなんですよ。今の時代にはInstagramやTwitterというものがあります。自分をブランド化して見せることも容易い。自分の毎日を「こう見えたらいい」という形に整えてやることが可能なんです。

こうした行為は、広く文化と呼ばれる領域の人々がずっとやってきたことでもありました。なにがしかの理由で彼らが有名で、人々の注視が自身に集まってきていたからです。ですから、よく見えるものと、本当によいものとを隔てる違いをきちんと理解する必要があるといった部分では、デイジーと現代の若い男女の間にも、ひょっとして通じるものがあるのかもしれません。

オーラルヒストリーを選んだ背景

―個人的にすごく魅了されたのは、あなたが小説をオーラルヒストリーのスタイルで描くという、いわば荊の道を選択されたことです。実際にすべてのインタビューをやり、その素材を適した場所に配して編纂していくという作業は、本当に手間がかかります。あえてそういう形式を選んだのはどうしてでしょう。どのようにして全体を構築されたのか。そして、そういう荒行を御自身に課したのは何故だったんですか?

リード:(笑)ええと、すごくいい質問だわ。ああいう形にしたのは、音楽を扱う本を書こうとしてみて、音を描写するということが信じられないくらい難しいと気づいたからよ。何かを読むことと、そこに書いてあるものを聴いてみたくてたまらなくなるといったことの関係についてもじっくり考えてみました。

もし実在の人物を扱った伝記であれば、コンピューターの前に座り、見つかってきた70年代の音楽に耳を傾けることもすぐにできる。誰でもやったことがあるんじゃないかしら。でもフィクションの場合にはそうはいかない。だって全部、私がでっちあげたものなんですから。

それでも私は、この本をできるだけリアルにしたかった。作品の世界にどっぷり浸かって欲しかったの。ただフィクションを読んでいるのではなく、まさにその場に立ち会っているような手応えにしたかった。そのためには、それも、ロックにまつわる物語を語るのであれば、一番相応しい手法は、そのジャンルのドキュメンタリーに近づけることだろうと考えました。

―ご自身はドキュメンタリー浸けみたいになったりされたんですか?

リード:それ、いいかもですね。一番参考にさせてもらったのは『駆け足の人生~ヒストリー・オブ・イーグルス』です。女性っていろんな場所で、口さがなくて、ちょっと意地悪く描かれがちだと思いません? 実に興味深いわ。でも実際、過去そういう人たちもきっと少なからずいたんでしょうね。私は「女にはできないことがある」とか言いたいつもりは毛頭ないですよ。むしろ女性には何でもできると思ってます。でも、こと音楽のジャンルにおいては、そういう存在がある種の典型で、私はそれはまったく間違っているな、とずっと思っていたんです。

あと『駆け足の人生〜』を観ていると、陰で相手のことをクソミソに言い合っている関係性というのがかなり出てきますよね。あれがいいんです。口さがなくて涎出そう、みたいな感じになります。互いに気に食わないことを抱えている。あの張り詰め具合こそバンドですよ。

でも、バンドを扱った映像作品では大抵、その辺まではなかなか見えてこないようになっています。少なくとも私の知る限りはそうでした。だけど緊張感って絶対ありますよ。必ずしも必要という訳でもないのかもしれないけれど。狭量さも同じですね。「そりゃあ確かにもう30年も前の出来事だ。でも俺ゃあまだ腹を立ててるんだ――」なんというか、この感じです。私、これが大好きなんです。

それから『Behind the Music』の各話も遡って何本も観ました。フリートウッド・マックの回も観たし、1977年を扱ったものも。当時の各バンドの様々な状況を他とったうえで1977年というのがロックにとってどのように節目の一年となっていったかを扱っている回です。こちらもすごく参考にしました。デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスというバンドが観客にとってどういう存在だったかだけでなく、当時のミュージックシーンにおいてどんな位置を占めていたのかも、考えておかなければならなかったものですから。



―ところで、あなたがこの作品で提示されているもう一つの要素は、いわゆる「ヨーコ・エフェクト」ではないかと思うのです。バンドに入り込んできた女性が、男性だけのグループにあった完結性を損なってしまう、というやつです。リンダやヨーコのことはどこかで頭にありましたか?

リード:ここは念を押しておきますが、女性がかかわることで、男性だけで構成されていたバンドがダメになるという考え方には、私自身はまったく同意していません。断言します。発想そのものを真っ向から否定したいくらい。確か、つい最近もポール・マッカートニーがこう言っていたはずですよ。「いや、ヨーコ・オノはまったく関係ない」。そもそもが、問題を抱え込んでいないバンドを引っ掻き回すことなんて、誰にもできないんです。

ですから、そういったつもりはまったくありませんでした。ただ、そこには与しないとしても、こういうことは確かに頭にありましたね。「このバンドの中にも外にも強い女性が複数いて、みんなが自力で進んでいるんだわ」。書き終えて自分の書いたものを改めて眺めてみて、私自身が胸を張れました。デイジーにビリーの妻のカミラ、キーボーディストのカレンと、それからデイジーの親友のシモーヌ。この、ほとんど男性だけのバンドの物語の中にこれだけのたくましい女性たちが登場している。しかも彼女たちはそれぞれに違ったキャラクターを持ちながらも、誰一人ただ周囲に振り回されたり、誰かに追従したりは決してしてはいないんです。

―私が気に入っている場面の一つが、カレンが自分は性別とか、性的魅力といったものを超えなくてはならないんだと感じていることを、自ら認める箇所なんです。そうでないと前に進めない、と。そして、だからこそデイジーに圧倒され、遠ざけてしまいたくなってもいく。

リード:ひょっとして私自身も、女性が身一つでやっていくには唯一の道しかないとでもいった考え方に、どこかの段階まではずっと囚われていたかもしれません。でも、実際にはそんなことは全然ないの。彼女たちのように、基本男の世界である場所に自分が身を置いているとして、カレンのやり方に倣うことは一つの手段です。こんな感じですね。

「私はだから、できるかぎり性別なんて超越しているように振る舞うの。そうすれば女であることはなんの問題にもならない」

でも一方でデイジーみたいにすることも可能なんです。こう言うのよ。

「私はただ自分がなりたいと思う自分になる。この体だって、私がそうしたいように装うだけ。で、それが困るっていうんだったら、それはあんたの方の問題でしょ」

私たちは、物事に対処するのにやり方が一つあり、そのほかにはない、みたいな二分法的な考え方にしばしば陥りがちです。でも、どんなやり方も実は間違ってなんていないんです。むしろ仕組みの方がおかしいんです。だから、その仕組みに挑む解決法であればどれだって、私からすればとても素晴らしいものなんです。



『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』
テイラー・ジェンキンス・リード/浅倉卓弥訳
発売中
詳細:http://sayusha.com/catalog/books/pdaisyjonesandthesix

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