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死と崩壊が支配するハリコフから逃れる、ひとりのアメリカ人ジャーナリスト

Rolling Stone Japan / 2022年3月8日 6時45分

2022年3月1日、ロシア軍の砲撃により破壊されたハリコフの地方市庁舎外の広場の様子。 (Photo by Jack Crosbie)

ウクライナ東部ハリコフでは、はやくも空襲が日常の一部となりつつある。街の中心部も例外ではない。だが、現地時間2月28日の朝、襲撃はさらにエスカレートした。

【写真を見る】雪の上に横たわるロシア兵士の遺体

ウクライナ東部ドニプロ——ハリコフで大虐殺が起きた28日の朝、私(アメリカ出身の写真家およびジャーナリストのジャック・クロスビー)は心地よいベッドの上で目を覚ました。27日の夜は、ロシア軍の空爆は思っていたほどの脅威ではなかったと自分に言い聞かせながら、7階にあるホテルの客室に置かれたマットレスの上で羽毛布団をかぶって眠りについた。目を覚ますと、数日前から私のドライバーを務めているヴラドにメールを送った。「今日は静かそうですね。これなら無事ドニプロに行けるのでは?」

「そうですね」とヴラドから返信がきた。何通かメールをやり取りし、「OK、準備してください」とゴーサインが出た。私は大急ぎでシャワーを浴び、着替えを済ませた。当面は手の届かない贅沢品となる物たちとの別れを惜しみながら。

荷造りをして、ホテルのロビーに向かった。その途中で、ホテルが無償で提供してくれるミネラルウォーターのペットボトルを2本手にとる。ルームキーを返却するため、フロントに立ち寄った。「昨夜は静かでしたね」と、フロント係のイゴールに尋ねると、彼はうなずいた。家族のことを訊くと、無事だという答えが返ってきた。ハリコフを発つことを伝え、これまでの力添えに感謝した。ヴラドが到着した。私たちは、同僚が来るのを待った。時刻は午前9時半。私たちの計画も街も、すべてが崩れ去った。

この数日間と変わらず、最初のロケット弾は離れた場所に着弾した。突如として、ロビーが騒然とした。米ワシントンポスト紙のチームが戦闘服姿でキャリーバッグを引きながら降りてきた。「もう行かないと」と彼らは言った。「もしよければ、空席もあります」と、英テレグラフ紙とザ・サン紙のチームが相乗りを申し出てくれたので、私たちは同意した。ホテルには、移動手段のない若いフリーランスのジャーナリストたちが数人残されていたため、私たちの代わりに彼らを乗せてほしいとヴラドに頼んだ。彼は首を縦に振ってくれたが、少し困惑しているようだった。「はやく荷造りをするんだ」と、私はふたりの若者に言った。「行こう。あと5分で出発だ」。これが最後のチャンスであることを誰もが疑わなかった。脱出の道は、刻一刻と失われていく。爆発音が徐々に大きくなっていた。

若いジャーナリストたちがヴラドの車に飛び乗るや否や、車は発進した。隣の車に私たちが乗り込もうとすると、駐車場が爆風に包まれた。数ブロック先で爆弾が落ちたのだ。誰もがよろめきながら、身をかがめた。駐車場から一目散に逃げ出し、どうしていいかわからないまま、ホテルのロビーに戻った。ホテルのスタッフは動揺していた。10分ほど前は、この数日間でもっとも平和な日だったというのに。

遠くでまた爆音が響いた。「行け! はやく行くんだ!」。私たちは車内に舞い戻り、身振りでテレグラフ紙のチームに先導を委ねた。道路に空いた穴を避けながら、遅すぎるとも速すぎるとも感じられるスピードで私たちは彼らの後を追って街を出た。道中で、平然と通りを歩く人々を追い越した。日常生活を続ける以外の選択肢がない彼らは、爆弾に慣れてしまったのだ。私たち欧米メディアとともに崩壊間近と見られるハリコフの街から逃げることはできない。


Photo by Jack Crosbie



ハリコフ郊外で見た現実

戦時下では、我が身の安全を最優先させることはごく自然なことだ。車を飛ばしてハリコフの街から遠ざかるにつれて、爆発音は聞こえなくなった。だが、安堵感を抱くことはできなかった。この4日間は、私の人生でもっとも緊張感に満ちた期間だった。たとえるならば、恐怖という拘束衣を着せられて身動きがとれない状態だ。道中でいくつかの検問所を通過した。兵士たちは防御体勢をとり、市民たちは塹壕づくりを手伝っていた。道路は、泥の塊のせいで頻繁に遮断された。舗装が盛り上がってしまった高速道路を横断しようと、通れる場所を求めて近隣の畑を突っ切ったキャタピラから飛んできたのだ。一般の志願者からなる民兵たちを乗せた、不揃いの普通車の巨大な隊列が数百メートルにわたって高速道路に伸びていた。古びたブーツを履いた人もいれば、スニーカーを履いた人もいる。ラーダ、フォルクスワーゲン、シトロエン……どの車もオンボロだ。ウクライナ政府の訴えに対する富裕層の反応は鈍いようだ。

誰もが神経過敏になっていた。ハリコフ郊外の打ち捨てられたガソリンスタンドで、私たちの一団の車が一時的に民兵から銃口を突きつけられた。タンクが空であることを示すサインボードを撮影したからだ。だが、徐々に危険は去っていった。渋滞も解消された。New Moscowという町では、正常に機能している清潔なガソリンスタンドに立ち寄った。棚にはキャンディーやコーヒーが並び、タンクは満タンでしっかり稼働していた。私は、クマの形をしたグミ、チョコレートバー、カロリーゼロのコーラを買い、人懐っこい数匹の野良犬たちと写真を撮った。私たちが後にした場所では、人命が失われようとしていた。

ウクライナ侵攻が始まってからの4日間、ロシア軍はウクライナ第2の都市ハリコフ郊外を攻撃しつづけてきた。ミサイルやロケット弾の音は、はやくも日常の一部となってしまった。街の中心部も例外ではない。だが、28日の朝に暴力行為はエスカレートした。数日前にウクライナ軍がロシア軍を撃退した場所にほど近いSaltivkaという地区は、少なくとも3回にわたってロシア軍によるMLRS(多連装ロケットシステム)攻撃を受けた。ロケット弾は、高速道路沿いに掘られた塹壕の中の兵士たちには命中しなかったものの、民間の建物に着弾した。地元当局の報道によると、11名が命を落とした。その中には、車の中で生きながら焼かれた5人家族も含まれる。


破壊兵器の恐怖

これは大虐殺の序章に過ぎなかった。私がこの記事の執筆に取り組みはじめてから、攻撃は日に日に激化している。3月1日、ロシア軍は私たちが宿泊していたホテルの隣のブロックにある建物を巡航ミサイルで攻撃した。その日の夕方には、飛行機で街の中心部に爆弾を落としはじめた。その夜に撮影された動画には、真っ暗な空がロケット弾の閃光や炎によって赤く染まる様子が映されている。2日には、巡航ミサイルが増えた。ハリコフは、一つひとつの被害を特定することができる場所から、ひとつの大きな暴力行為の現場と化した。

この時点で、いくつかの動画をすでにご覧になった人も多いはずだ。こうした動画は、あらゆる大手メディアが繰り返し放送している。だが、世間の人々がこうした兵器の威力を理解しているかどうかは疑わしい。MLRSは、精密誘導兵器などではない。標的を破壊し、人々を恐怖に陥れ、深く傷つけ、燃やし、引き裂き、殺すために設計された兵器だ。なかでも、ロシア軍が保持する最大のものは「SMERCH」と呼ばれている。SMERCHとは、ロシア語で「旋風」や「竜巻」を意味する。後部には12本の筒状のロケット弾発射機が装備され、重量約1800ポンド(約816キロ)のロケット弾(弾頭の重量は550ポンド[約250キロ])が発射できる。それだけでなく、クラスター状の4ポンド(約1.8キロ)の「子弾」を72個内蔵することもでき、ひとつの子弾は最大96の金属片となって降り注ぐ。その名の通り、一瞬で人を死に至らしめることができるのだ。たいていの場合、子弾だけでは爆発しないため、攻撃が終わったあとも十数ないし数百もの恐ろしい小型爆弾が被害現場に残る。好奇心旺盛な子供が子弾を拾い、命を落とすことも決して珍しくはない(クラスター爆弾の使用は国際条約で禁止されているものの、アメリカとロシアの両国はこの条約に署名していない)。

戦争に使われる一つひとつの兵器に焦点を当てることは、概して馬鹿げている。すべての兵器は、死という目的のためにつくられているのだから。私たちがハリコフに残してきた死を目的とする暴力行為のレベルは、あまりに恐ろしい。手っ取り早くウクライナ政権を転覆させる、という目的を達成できなかったロシア指導部は、苛立ちとともに戦術を変えた。ハリコフや首都キエフをはじめ、報道されることのない小さな町は、思いつく限り残虐な手段で痛めつけられるだろう。いまでは、ロケット弾やミサイルによる無差別攻撃が民間人の居住地区を襲っている。地元当局が報じたところによると、ハリコフでは少なくとも21名が死亡し、100名以上が負傷した。2月28日、アムネスティ・インターナショナルは最初の攻撃を対象とした調査を開始した。調査団がハリコフに到着した頃には、最初の攻撃とその後の十数もの攻撃との区別ができないほど、街は荒廃しているに違いない。


ジャーナリストとしての葛藤

私自身、こうした現場を訪れることは二度とないだろう。私はハリコフを去り、戻るつもりはない。そこでの危険と痛みは、あまりに凄まじいものだった。こうしたものに私の人生が支配されるのは、耐えられない。だが、ひとりのジャーナリストとして、始まったばかりの出来事を世に発信しつづけるという責務を放棄してしまった気もする。自らの意思でハリコフを去ることができる私は、この街がすべてである住民たちを見捨てたのだ。2日前に最初のクラスター爆弾が着弾した地区を車で走っていると、市民がスーパーの前で列をなしていた。私は、ドライバーのヴラドに住まいはどこかと尋ねた。「ここから、そう遠くはないです」と彼は答えた。戦争が始まる前、ヴラドはツアーガイドだった。

ドニプロで同僚たちを降ろしたあと、しばらくヴラドと連絡がとれなかった。頭の中では、彼が無事である可能性が高いことはわかっている。ひょっとしたら、携帯の通信が切断されているのかもしれないし、携帯の電源が切れているのかもしれない。だが、いまは戦時下で、死は至るところに存在する。私は、何度もメッセージを送った。ようやく返事が来た。ヴラドの母と姉妹は、西側に向かって出発したという。息子と彼は、ハリコフに残るそうだ。「どうか無事で」と彼に伝えた。この空虚な言葉は、立ち去るという選択をした私ひとりに向けられている。

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from Rolling Stone US


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