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ラウ・アレハンドロ、レゲトンの未来を拓くゲームチェンジャーの飢餓感

Rolling Stone Japan / 2022年3月22日 18時0分

ラウ・アレハンドロ

ラウ・アレハンドロは、R&Bを基調とした未来的なサウンドで、カリスマ的なショーマンとして稀有な道を切り開いてきた。そこに至ったのは、彼が揺るぎない意志を持ち、悲しみを乗り越えたからだった。ローリングストーンUS版のカバーストーリーを完全翻訳。

何十億回も再生される曲を生み出し、メガショーをソールドアウトするプエルトリコのスター、ラウ・アレハンドロが、物事を中途半端にしないのは当たり前なのかもしれない。それでも、彼の勝利への執着には驚かされるものがある。あの炎天下の朝、マイアミ近郊のディストピア風のペイントボール場で、彼は勲章で着飾った将軍の厳かさをまとっていた。普段は氷のような白い歯を見せて笑い、歯にはめ込んだダイヤモンドを輝かせる29歳のアーティストは、殺気立った表情で私(筆者)と他のチームメイトに一瞥をくれると、個々の能力を見極め、任務を割り振った。

ラウは、リハーサル、パフォーマンス、スタジオセッションが連続する過酷なスケジュールの合間を縫って、ペイントボール場に15人ほどの仲間を集めた。なかには、彼のプロデューサーであるルイス・ジョヌエル・ゴンサレス・マルドナード、通称「ミスター・ナイスガイ」や、終末もののヘルメットを被って待機しているレゲトンアーティストのリャンノもいる。ラウが8年ほど前にSoundCloudにひたむきに曲をアップロードしていた頃から付き合いのある者たちにとって、スポーツとなると極端に競争的になるラウの姿はお馴染みだった。私はといえば、ここまでの真剣勝負になるとは想像していなかった。そう告げるとラウは、少年スポーツの監督のように、そして、おみくじの文言のように、こう応えた。「命懸けでやれ」。


ペイントボール

ラウは、厚手の黒いパーカーの上にライオンの顔が全面に描かれたTシャツを着ていた。ペイントボールの弾があたっても痛くないように、重ね着をしている。私は彼にディフェンスを任されたが、開始数分後に手に弾丸が当たって出血した。指を不甲斐なく手当てしているすきを突いて、私が防御すべきエリアにラウの振り付け師、フェリックス・”フェフェ”・ブルゴスが赤い髪と太い手足を投げ出すように飛び込んできて、相手チームが第1ラウンドを奪った。とはいえ、その勝利もつかの間だった。次の2つのラウンドで、ラウはヘルメットを外すとフィールドを矢のように駆け抜け、すべてが最初から仕組まれていたかのようにチームに勝利をもたらした。

ペイントボールの銃声が鳴り止むと、ラウは友人たちとの冗談へと戻り、まるでボーカルループが喉に引っかかったような短い笑い声を漏らす。スペイン語圏の音楽に旋風を起こすという固い決意をもって天井破りのスターダムに自らを押し上げた彼は、自分のことは「控えめ」だと語る。アメリカの音楽収益を追い越し続けるラテンミュージックの世界にあって、ラウは、3つの脅威を手にした新しいタイプのスターという、かつてない道を切り開いた。カリスマに満ちた挑発的なショーマンにして、スムーズな歌唱、しなやかな振り付け、そして叛逆的な聴覚を持ち合わせたアーティストは、レゲトンの世界――彼の音楽をそう分類したとして――にはかつていなかった。彼の、R&Bに深く影響を受けた未来的なサウンドは、いまや世界中のアリーナを埋め尽くしている。スペインのサラゴサからアメリカのミルウォーキーにまで広がるファンたちは、引き出し一個分のランジェリーを彼に投げつけては、シックス・タイムズ・プラチナ・ヒットを誇る「Todo de Ti」といったヒット曲に悲鳴を上げる。

「とにかくエキサイティングなアーティストです」と語るのは、現代のレゲトンサウンドを築いたメガプロデューサー、テイニーだ。「彼が何をやるのか、何ができるのか、そのメロディ、声のトーン、それらをどう音楽的なアイデアのなかに入れ込むのか、どんな踊りをして、観客にどう反応させようとするのか、一挙手一投足のすべてが特別なんです。彼の成長ぶりは脅威的ですよ」。


本記事が掲載されたローリングストーンUS版1360号の表紙(Photo by Ruvén Afanador for Rolling Stone)


ハングリー

これから有名になろうとする人のオーラと、無駄なくレイドバックしたクールさをまとうラウには、その一方で強烈に勝ち気な一面がある。親友であり、コラボレーターでもあるラッパーのアルバロ・ディアスは「自分を追い込みたいタイプのように見えます」と語る。「『踊れないって言うのか?』OK、やってやろうじゃないか。『これはしちゃいけないって?』OK、やってやろうじゃないか。『これはうまくいかないって言うのか?』OK、やってやろうじゃないか。そうしたことが、彼をより激しく駆り立てるんです」。

ディアスがラウを表現するのに使う言葉は「ハングリー」だ。その飢餓感は、プエルトリコでの無一文の生活のなかでフラストレーションを溜め込み、プロとして次々と壁にぶつかるなかで積み上がった。サッカー選手になるために人生の大半をトレーニングに費やした彼は、セミプロを目指してアメリカに渡ったものの大きな挫折を味わい、戻った故郷では小売業の煉獄をさまよいながら次なる一手を探してもがいた。音楽に答えを見出したものの物事は遅々として進まなかった。SoundCloudにアップロードした初期の楽曲は、1曲あたりせいぜい100回程度しか再生されなかった。「自分のおばあちゃんしか聴いてくれていないような感じでした」と彼は苦笑いする。異端的なサウンドが受け入れられるには時間を要し、ダンスもまるで理解されなかった。そしてようやく地元のファンがつきはじめた矢先の2017年、ハリケーン・マリアの猛襲がプエルトリコ全土を引き裂き、その破壊と荒廃から人びとはいまだに立ち直れずにいる。

プエルトリコの経済的な困窮は、アメリカ政府による植民地化と搾取という残酷な歴史と分かち難く結びついている。ある時期、ラウのキャリアはどこを向いても行き止まりにぶちあたったが、彼にあったのは家族の面倒をみなくてはならないという一心だった。「家族は苦しんでいました。悲しむのを見たくなかったんです。なぜ悲しむのか。お金がないからです。メシが食えない。そういうことですよ」。彼は誰にも頼らずに生きていける道を見いだそうとした。「音楽で、人生で成功したいと思う一番の理由はそれでした」と彼は言う。「家族が政府に頼らざるを得ないのは嫌だったんです。政府なんてクソ食らえです。自分のシステムは自分で作る。そう考えたんです」。

そのシステムは、この数年で姿を見せつつある。2020年11月にデビューアルバム『Afrodisíaco』をリリースし、最高の形で1年を締めくくった。アルバムでは、ラウの十八番のうねる旋律がオールドスクールなレゲトンの鈍い低音の上で全編にわたって披露される。そこから2021年にはコラボ曲の洪水となり、セレーナ・ゴメスとのデュエット曲「Baila Conmigo」は、よりポップなオーディエンスへと門戸を開いた。しかし、彼のキャリアに本当の意味で激震をもたらしたのは、2021年6月の『Vice Versa』だ。これまでのサウンドを突然予告なくひっくり返す、まるで隠された照明のスイッチを点けたような実験的な試みだった。ドラムンベース風のブレイクビーツが轟く「¿Cuándo Fue?」を筆頭に電子音が多用され、ディスコボールのように眩い80s風味の幕開けの曲「Todo de Ti」はSpotifyの「Global 200」で2位を獲得し、YouTubeでの再生回数はオリヴィア・ロドリゴの「drivers license」やビリー・アイリッシュの「Happier Than Ever」よりも多い4億5000万回に達した。




過密

ラウは2021年7月からツアーに出ている。スケジュールは過密だが、その間には、すでに成功したアーティストでさえ羨むキャリアのハイライトが満載されていた。10月には、レゲトンの大スターの通過儀礼ともいえる18500席のコリセオ・デ・プエルトリコ・ホセ・ミゲル・アグレロットで、4日間の公演をソールドアウトした。その約1カ月後には、コロンビアの歌手カミロと組んだ「Tattoo」のリミックスで初のラテン・グラミー賞(ベスト・アーバン・フュージョン/パフォーマンス賞)を受賞した。さらに、その数日後、彼はマネジメントチームから『Afrodisíaco』がアングロ・グラミー賞のベスト・ムジカ・ウルバーナ・アルバム(Best Música Urbana Album)にノミネートされたことを電話で知らされる。

その間ラウはノンストップでリハーサルを続けてきた。11月末に初めて会ったとき、彼の記憶によるとその年63回目となるショーを数日後に控えていた。そのとき彼はメイク用トレイラーのなかにおり、上半身は裸で、胸は一面タトゥーで覆われていた。ヴァージル・アブローを追悼するルイ・ヴィトンの2022年春夏メンズのスピンオフ・ショーに出演するための準備中だった。ファッションを愛し、アブローの大ファンを自称するラウが、カニエ・ウェスト、キム・カーダシアン、ファレル・ウィリアムスといった地球上のほぼすべてのセレブリティを積み込んだ小型船団に乗って、会場となるマイアミ・マリン・スタジアムに向けて出発するまで、あと20分しかなかった。女性がLEDネイルランプを手に彼の前にしゃがみこみ、世界最速のマニキュアとペディキュアを施した。

ラウは物静かに座っていたが、同時に3つのことをしている。私の受け答えをしながら、近くにいるパーソナルアシスタントと雑談し、彼の愛嬌を最大限に引き出すべくメイクアップアーティストが見えるか見えないかの加減で眉毛を細かく調整できるよう顔を上に向ける。だれかのスマホから「Todo de Ti」が大音量で流れ出す。この曲はいまや彼につきまとい、直近の輝かしい成功だけでなく、チャートを席捲するストリーミング界の巨人としての期待の大きさを諸刃の剣のように突きつける。「良い音楽をつくることが、ヒットに次ぐヒットを出すという意味であれば、簡単なことではありません」とラウは言う。「何にでもケチをつけるようになってしまった気がします。音、歌詞、メロディ、すべてにおいて『くそ、もっとちゃんとやらないと』と思ってしまうんです。それがときにストレスになります」。

クオリティ管理と息抜き

ラウは年末までにあと2回ほどライブを行い、その後、トラップとR&Bの上に組み立てたプロジェクトと彼が呼ぶ、アンダーグラウンド時代からのファンであれば馴染み深い『Trap Cake』の続編を仕上げるためにスタジオ入りすることになっていた(編注:このときラウは4月末のリリースを計画していたが、『Trap Cake Vol. 2』は2月25日に発表された)。その後、年内にリリースを予定している別のアルバムのレコーディングに入る。3月には再びツアーが始まる。最大のチャレンジはクオリティ・コントロールだとラウはいう。「ビデオの制作をやって、撮影もやって、音楽制作もやって、ショーもこなさないといけない。どこかできっと破綻します。ほとんど不可能なことをやってるわけですから。でも、やらないといけない」と、疲れを滲ませながら語る。何人かが部屋に入ってきて、ファッションショーへと向かう時間が刻一刻と迫っていることを伝える。

ラウは、息抜きの方法をいくつか挙げている。「できる限り彼女と一緒にいようとしています」と、スペイン人歌手のロザリアについて触れる。「可能なら週末にどこかへ飛んで休みます」。ファンは1年以上もふたりの写真や頻繁なSNSでのやり取りから関係を怪しんできたが、ようやく9月にInstagramで交際を明らかにした。他にも、ペイントボールをしたり、友人とバイクやジェットスキーに乗ったり、多様なアクティビティを時間が許すかぎり楽しんでいる。しかし本当のところ、彼の中には前進し続けようという衝動が強く染み付いている。「楽しもうとは思っているんですが、仕事中毒なんです。数日休んでいると『おれは何をやってるんだ?』と落ち着かなくなるんです」と言いながら、せわしなく周囲を見回すジェスチャーをしてみせる。「働かなきゃって」。

着替えのためにみんなが部屋の外に出され、しばらくすると、全身にルイ・ヴィトンをまとったラウが姿を見せる。2021年のメンズコレクションからのルックだ。小さなLVのロゴが散りばめられたブラウンのタートルネックセーターに、フレアのブラウンパンツ、そして腰にはプロレスのチャンピオンベルトのような巨大なベルト。ほどなくボートに乗り込むと、直接会ったことのないリッキー・マーティンと一緒に会場に向かうことになったのを知る。

ふたりはイベントについて語り合い、ラウは写真を撮るやいなやInstagramのストーリーにポストする。「リッキーはチルしてる。ラウは後ろで日光浴」とスペイン語でナレーションも入れる。マーティンはピースサインをしながら「まったく最悪の時間だね」とジョークを飛ばす。船はスピードを上げ、二世代のラテンポップの代表を乗せてマイアミの泡立つ海を静かに滑っていく。


2021年12月、Vibra Urbana Miami 2021でのライブ写真(Photo by John Parra/Getty Images)


クリスティアーノ・ロナウド

リッキー・マーティンのようなポップアイコンとこんなふうに出会うことは、かつて幼いラウル・アレハンドロ・オカシオ・ルイスが夢見たことだった。子どもの頃から学校のタレントショーで歌い踊ってきた彼は、かつてのパフォーマンスについて解説しながら、2000年代前半にスペイン語圏のラジオで流行った明るくロマンチックな歌を口ずさんでくれた。「スペイン人のダビッド・ビスバルの曲をやったんですけど、どんなふうだったっけか。”Ave María, ¿cuándo serás mía?”。あと、ルイス・フォンシだ。”No te cambio por ninguna”」。音符のひとつひとつを震わせながら歌う。彼のデビューは小学3年生のとき、小さなスーツに小さなギターを抱え、伝統的なプエルトリコのボレロに合わせて口パクしたときだった。その頃から音楽と人前で歌うことに惹かれはしたが、常に頭にあったのはプロとしてサッカーをすることだった。

7歳くらいのとき、ラウは学校の外でサッカーボールを蹴りながら母親の迎えを待っていた。母が到着するとまもなく、リッチー・ロマノという元サッカー選手が、自分の経営する小さなスポーツ・ショップに立ち寄らないかと声をかけてきた。その場で、ラウはロマノがコーチをしているキッズ・チームに入ることを決め、ラウのお母さんは、初めてのスパイクを買ってくれた。その夜、彼はその靴を履いて眠りについた。幼いラウはサッカーが大好きになり、年齢を重ねるに従って、より真剣に取り組むようになった。彼のヒーローは、クリスティアーノ・ロナウドだった。「みんなに愛されているところが好きでした。『彼になりたい』と思ったんです。家族を大切にしているところも好きでした」と回想する。「YouTubeに彼のエピソードをまとめた動画が上がっていて、そこでの彼は母親や家族に家を買えるだけのお金を持っていました。彼のようになりたいと思いました」。

ラウの家族は、プエルトリコの北東部、カノバナスにあるパルマ・ソラという町で、2ベッドルームの小さなアパートに住んでいた。山が多く、木々が生い茂り、近くに小川があるような田舎だった。電気はよく止まり、水は冷たかったが、彼はその静けさを懐かしむ。祖父のアレハンドロが、ギターを持ってポーチに座り、口笛を吹きながらメロディを作っていたのを覚えている。ラウは、その音が潜在意識の奥深くに残っていると考えている。ずっと姉と同じ部屋で育ったが、あるとき、家族が石膏ボードで仕切りを作った。ふたりして朝日と共に起き、サンフアンの東にある最寄りの都市、カロリーナの学校まで通った。同級生にはラッパーのアヌエルAAがいた。「いつも少しだけ都会にいたけれど、家に帰ると周りは農園だった」とラウは言う。


『Afrodisíaco』収録、アヌエルAAをフィーチャーした「Reloj」


疲れ、絶望

ラウが12歳くらいのときに両親が離婚した。母親は彼と妹を連れてカロリーナに引っ越した。彼女は再婚せず、小さなアパートを借りて行政の仕事につき、昼夜厭わず働くことで生計を立てた。このときラウは母親の面倒を見るためにサッカーを突き詰めようと考えはじめた。プエルトリコ大学カロリーナ校に通い、2013年にはセミプロのプレミアデベロップメントリーグ(現USLリーグ2)にドラフトされることを目指してフロリダでトレーニングを開始した。3つの仕事を掛け持ちしながら、何時間も練習する気の抜けない日々が続いた。やがて、夢が叶わないことが明らかになっていった。いくつかのケガが積み重なって諦めたと、過去には語ってきたが、いま思えばサッカー人生を終わらせた主な原因は心理的なものだったという。実現しないことに心血を注ぎ込むことに途方もなく疲れ、絶望してしまったのだ。

「一生懸命やっているのに上手くいかないと、イライラするんです。それに経済的な問題、家族との個人的な問題、いろいろありました」。「私の家族はお金を持っていなかったので、家に帰れば、みんなが『お金がない、お金がない』と喧嘩をしていました。一方でサッカーにはいくら時間を注いでも、光が見えませんでした」。数人のスカウトマンの手引きでヨーロッパに飛んで試合にも出たがうまくいかず、このスポーツが自分に向いていないことをさらに確信した。「『サッカー選手になりたいのはわかるが、お前はなれないぞ』と言われた気がしました」。

ラウは、落胆して島に戻った。前と変わらぬ小売の世界でALDO、Guess、TJマックスなどの仕事を掛け持ちしたほか、結婚式場のウェイターもやった。フロリダにいた頃に趣味で作曲を始めたが、ルームメイトから曲を発表するように勧められてむしろ驚いた。自宅で手作りのざらついたトラップビートに乗せて思いつくままに歌をつくるようになった。ラウはラッパーというよりはシンガーで、その歌声に乗ることで音楽はより一層スムーズなものとなった。

その頃、曲を公開するためにFacebookページを開設したところ、小学校の同級生で後にコラボレーターとなるミスター・ナイスガイの目に留まった。「彼の音楽はまったく違うことを提案していました」とナイスガイは言う。「プエルトリコでみんながレゲトンばかりやっていた頃、ラウはアメリカのノリのR&Bを作っていたんです」。

彼らのシーン

2010年代半ば頃、プエルトリコのアンダーグラウンドで何かが蠢いていた。アルバロ・ディアスやマイク・タワーズといったアーティストが、英語圏のヒップホップやインターネット・カルチャーに影響を受けた曲に新たなニッチを見出し、レーベルを介さずに自分たちで曲をリリースし始めた。

ラウによると、彼らのシーンは、アヌエルAA、ブライアント・マイヤーズ、オズナといったトラップやレゲトンの新たなアーティストたちを擁するもうひとつのシーンと平行して走っていた。「こっちのほうはインディー・アンダーグラウンドといった感じで、もっとヒップスターで、ファッションに入れ込んでいました。リック・オウエンスみたいなね」とラウは言う。「一方で彼らはレゲトン、カーゴパンツ、スナップバックといった感じです」。やがてふたつのグループは合併し、デ・ラ・ゲットー、アルカンヘル、ニッキー・ジャムといったプエルトリコのベテランたちに愛されるようになり、それがプエルトリコ音楽にビッグバンをもたらし、のちに何百万人ものリスナーに届く大規模なコラボレーションにつながっていった。

島を騒がせ始めた一群のアーティストのなかで、メインストリームへと飛び出し、最大級のメガスターの地位をとったのは、地元のスーパーメルカドス・エコノで食料品の袋詰めをしていた、バッド・バニーの名でメガスターとなる25歳の若者だった。ラウとバッド・バニーは、この頃、カロリーナのスタジオで出会い、いつかコラボレーションしようと話していた。バッド・バニーがブレイクしたとき、ラウはそこに大勝利を見た。「誰が最初にブレイクするかは関係なかったんです。彼は新しいムーブメントの扉、開かれた扉をつくったんです」と彼は言う。「誰かがすごい音楽をつくったなら、その周りには同じことをそれぞれのやり方でやっているアーティストがわんさかいるんです」。

それでもラウは再び壁にぶち当たった。2016年に地元でライブをやっていたところ、近所の人がエリック・デュアーズという名のプロデューサーの電話番号を教えてくれた。ザイオン&レノックスやデ・ラ・ゲットーといったレゲトンの大物と仕事をしていた人物だ。連絡してみたが返事はなかった。しかし、その後ふたりは巡り合うことになる。トラップの大規模なコンサートでラウと一緒に出演していたラッパーのラファ・パボンが引き合わせてくれたのだ。「それから、さらに3カ月ほど待ちました」とラウは振り返る。待った甲斐はあった。翌2017年1月にラウはデュアーズのレーベルであるデュアーズ・エンタテインメントと契約した。

ラウは、お金のなかった頃のSoundCloud仲間とコラボレーションを続け、一時は状況が温まってきたかのように見えた。そこに、ハリケーン・マリアがプエルトリコに上陸し、カリブ海史上最悪の自然災害をもたらした。約3000人が死亡し、何千もの家屋が破壊され、多くの場所で1年近く停電が続いた。音楽をつくるなど論外だった。「地元で活動しているローカルなアーティストは、街が止まってしまったら何もできません。動けなくなってしまいます」。バッド・バニーのような注目株であれば海外でのレコーディングの選択肢がありえたことを指摘しながら語る。「でも、私やマイク・タワーズ、ブレイには……届ける相手がいなくなってしまいました。私たちのお客さんはこの島ですが、その島全体がフリーズしてしまったんです」。ラウは小売業に舞い戻ることになった。百貨店のノードストロームで働き始め、どこでもいいから転勤できるよう希望を出した。ニュージャージー州に派遣され、そこでさらに1年が過ぎた。そして2019年、ついにデュアーズは、島に戻ってスタジオで音楽制作に没頭するならわずかだが給料を払うと約束した。ラウは即座にプエルトリコへと戻った。


最初のシングル「La Oportunidad」(2017年)のリミックス、アルバロ・ディアスやマイク・タワーズが参加


ダンス

スタジオで何時間も過ごすことは、ラウが思い描いていたことのほんの一部に過ぎない。彼は、ステージで何か違うことをしたい、他のプエルトリコのアーティストがやっていないことをしたいと思っていた。「『今、ラテン系のアーティストにダンサーはいないな』と考えていました」とラウは言う。

レゲトンの中心にはダンスがある。なにより、ダンスミュージックとしてマーケティングされるジャンルだ。レゲトンのダンスは黒人文化発祥のダンススタイル、ペレオに由来し、学者のカテリーナ・”ガタ”・エクレストンはそれを「服を着たままのセックス」と呼んだが、同時に黒人の抵抗の歴史の象徴でもある。「レゲトンは、ペレオのダンスの動きを転用し、より普遍的なものにした」と彼女は語る。長年にわたってアーティストたちは他の系統のダンスをこのジャンルに織り込んできた。レゲトンの創始者のひとりとされるラッパーのヴィコCは90年代に、Bボーイ的なスタイリッシュさとヒップホップ風の振り付けをショーやミュージックビデオに持ち込んだ。ジョエル&ランディのランディ・オルティスは膝を怪我する前のキャリア初期にはポップやロックの動きを曲中に取り入れていたが、ラウはこれが大好きだった。レニー・タバレスやニオ・ガルシアも踊ってはいたが、ラウのようなグローバルなスケールにはいたっていない。

ラウが子供の頃に憧れたチャヤンやリッキー・マーティンといったプエルトリコのポップアーティストも、エネルギッシュなボーイバンド風のダンスをすることで知られている。しかしラウは、アッシャー、ジャスティン・ティンバーレイク、クリス・ブラウンといった英語圏のショウマンたちのエッセンスも取り入れたいと考えた(「ラウはアメリカ文化に超影響を受けています」とディアスは言う)。彼らがやっていることをやりたいという憧れは強烈なもので、ブラウンと仕事をしたことのあるバックダンサーたちのInstagramアカウントまでフォローするほどだった。

そのなかの一人がブルゴスで、鮮烈な印象のこのプエルトリコ人パフォーマーは、さらさらとした赤茶色の髪を背中まで垂らしていた。バヤモンで生まれ、幼少期の一部をフロリダで過ごしたブルゴスは、過去にブラウンのツアーに6回帯同し、以後プエルトリコでダンスのワークショップを開いていた。2018年のワークショップに、ラウがセサミストリートのカウント伯爵が描かれた黒いTシャツを着て現れたときのことを彼は覚えている。「ニューウェイブ風なのにブレイズヘアのやつが入ってきたんです」とブルゴスは回想する。「ヒップでニュースクールでした」。参加者はみなラウのことは知っていたが、特別なスターというわけではなかった。「あのワークショップはクソほどきつかった」とラウは笑いながら言う。

ブルゴスのダンスは、素早く、エネルギッシュで、流動的で、ヒップホップ、ファンク、サルサなどあらゆるものにインスパイアされている。レゲトンの世界から来た人物に振り付けをすることには、当初不安もあった。「レゲトンのリズムは基本全部一緒なんです。踊りたくなるというより、ずっとペレオをしたくなるんです」と言う。しかし、彼はラウが自分を追い込もうとする姿勢に惹かれた。「彼は『ダンスをするんだ』という感じでした」と、ブルゴスは振り返る。「他の人たちと違ったのは自分のやりたいことが明確にわかっているところです。多くの人は、『ああ、これ、そんなにかっこよくないかも』というプレッシャーに負けてしまうんです」。 

しかし、ラウはアッシャーやティンバーレイクのように、生まれながらにしてダンスの才能があったわけではない。ここにも何時間にもわたる地道な努力があった。「彼を落ち着かせて、これが気持ちいいんだ、ステージ上でも気持ちよくないとダメなんだと伝えて、その感覚を作り上げなければなりませんでした。ステージとセックスして気持ちよくならないとダメなんです」と、ブルゴスは言う。いまや、その過激であられもない挑発的な振り付けはライブの売りとなり、そこでファンの絶叫が上がる。ブルゴスの妻でコラボレーション・パートナーのデニス・ユリ・ディスラは、ドン・オマールやダディ・ヤンキーといったアーティストのために10年以上踊っていたが、彼らが、ほとんどが女性ばかりの10から12人ものバックダンサーを従えた「スーパーショー」をよくやっていたと語る。そして、ラウがそれと違っているのは、彼自身が前面に出て、男性も女性もいるダンサーたちと絡み、自分も同じ振り付けで踊るところだと指摘する。「ラウとフェフェのやっていることは、これまでのものとはまったく違います。ダンサーが観客の目に入らないなんてことはありません。そこには常にストーリーがあって、ダンス自体が語りかけてきます」と彼女は説明する。「まるでブロードウェイのショーのように」。

レゲトンのメジャーアーティストが複雑なダンスを踊るのを、マルマやJ・バルヴィン、バッド・バニーのコンサートやミュージックビデオで観ることは決してできない。ダンスは、ラウを規定する個性となった。ブルゴスは、ラウが他のスタイルの動きをまだまだ取り入れようとしているのが分かる。最近ラウが披露した「Desenfocao」のパフォーマンスで、ブルゴスは、ラウに映画『ジョーカー』のように燃え上がるような演劇的なダンスをするよう勧めた。




アンチ

しかし、ラウのスタイルがこのジャンルに紛れもない新しさを加えた一方で、そのソフトさを批判する声もある。マイアミのサーフサイドにあるフォーシーズンズ・ホテルで、ラウは名が売れることがもたらす複雑さと侵害について語ってくれた。「いまどきのインターネットは有毒です」と彼は言う。「みんな物事をとにかく誇張するし、何につけてもアンチが多い」。懐疑的な意見も落ち着いて受け入れるラウだが、この夏にはレゲトンアーティストのジェイ・コルテスとの確執があった。彼がラウを「ポップスター」呼ばわりし、ダンスを馬鹿にしたのだ。ラウはその軋轢を仄めかしながら「いまはとても落ち着いています。ちょっと前にプエルトリコで少し名が知れているアーティストと一悶着あったんですが」と語った。誰のことかと尋ねると、彼は手を振って否定した。「自分のインタビューに彼の名前を出したくありません。バカげた話ですよ。どうでもいいんです。自分は自分ですし、自分のビジョンを大切にするしかありません」。一方で武闘派の一面も見せる。「基本冷静ですけど、プエルトリコ人ですからナメた真似されたら闘鶏の鶏になります。ビビりませんよ」。

このインタビューの後、クリスマスが迫りつつある頃、ラウはジェイ・コルテスにあてたディストラック「Hunter」をリリースして記念碑的な一年を締めくくった。コルテスはこれに対し、ラウの偽の死亡診断書の画像をツイートし、「虐待者クリス・ブラウン」を支持するラウを罵倒するセリフを含んだ7分の曲「Enterrauw」をリリースした。行きつ戻りつする悶着の最中、コルテスは、流出した「Si Pepe」のリミックスのなかにロザリアに向けた下品なリリックを入れ込んだ。ラウは「JhayConflei」をSoundCloudに投稿し、コルテスのガールフレンド、ミア・カリファのAV女優だった過去について粗野な言及をすることで反撃したが、曲はすぐにサイトから消された。

ダンスが理由で、ラウはクリス・ブラウンととてもよく比較されてきた。「クリス・ブラウンのダンスはクレイジーです。あのレベルにならないといけないので、トレーニングに次ぐトレーニングをしてきました。ようやく自分に自信がもてるようになりました」とラウは言う。それでも彼は、ラテン音楽シーンで折に触れ存在感を示し続けるブラウンのファンであることを公にしつ続けている(クリス・ブラウンはプリンス・ロイスとコラボし、バッド・バニーは2018年の『La Nueva Religion Tour』で彼をステージに上げている)。

不正義

9月、ラウはジャマイカのアーティスト、ロシアンのシングルで、ブラウンをフィーチャリングした「Nostálgico」に飛び乗った。批判もあったが、業界関係者から共演を祝福する手紙が届いたとラウは言う。そこには2009年にリアーナへの暴行が大々的に報道されて以来、何度も暴行で訴えられているブラウンに対する音楽業界の曖昧な態度が見え隠れしている。この数年で、レゲトンでもこうしたトピックが増えている。アヌエルAAのようなラッパーはテカシ・シックスナインとのコラボレーションで批判を浴び、最近ではファルコがR・ケリーのサンプルを使用したことで非難された。「本当にデリケートな問題です」。このことについて尋ねるとラウは慎重にそう答えた。「私は女性と共に育ちました。女性はインスピレーションの源です。女性をリスペクトしています。女性に敵対するものはすべてノーです。同時に、母からは、人を許すこと、気遣うこと、話を聞こうとすること、恨みをもって生きないことを教わりました。辛い感情を持って生きるのはよくありません、毒みたいなものです。誰も庇うつもりはありません。弁護士ではありませんから。でも、人を裁くこともしません」。

ラウの音楽は意図して非政治的である。彼はプエルトリコで経験した不正義について個人的な感情を抱いており、あるとき私にこう言った。「プエルトリコは問題だらけです。その筆頭が政府です。クソみたいな政府です」。しかしながら彼はプエルトリコの制度や政治についての質問には深入りしない。「政治についてはよく知らないんです」と彼は言う。「無知といっていいくらいかもしれません。もともと向いてないんです」。

バッド・バニーやレジデンテが音楽で政府に対する痛烈な批判を行う一方で、ラウは自分は「そういうタイプのアーティストではない」と言う。とはいえ、実際には決めかねており、揺れ動いているようにも見える。「神さまは違うことをさせるために違う仕事をそれぞれの人に与えたのだと思います」と語る一方で、島のために戦うアーティストたちの運動は支持するという。「島と人びとを代表することを求められれば、そのときはやります」。故郷は今でも最大のインスピレーションであり、プエルトリコのために音楽をつくることが自分の仕事なのだと彼は言う。




ロザリア

私生活もまた音楽に影響を与える。ファンは特にロザリアとの関係をどのように音楽に織り込んでいるかを知りたがる。「ドラマチックな恋愛沙汰が好きな人がいますが、そういうのとは違います」とラウは言う。「ポップスターの中にはテレノベラ(編注:スペイン語で「テレビ小説」=メロドラマの意味)みたいなことになる人たちもいますが、そういうのは大嫌いです。本当に嫌いなんです。わたしたちは本気のリアルな関係です。もうだいぶ付き合っていますし」。

「だいぶ」というのがどれくらいの期間なのかを彼は明かさない。ファンたちはふたりが最初に出会ったのは2019年のラテン・グラミー賞だと推測しているが当初人目を忍んでいたので確かなところはわからない。いつ出会ったのかと尋ねると、彼は「えっと、あれは2000....」と言い始めて、すぐにとどまった。「言えないな」と笑いながら言う。眺めの良いウェストハリウッドの高級レストランで手をつないでいるところをパパラッチされ、ようやくふたりは交際を公にした。「何人ものパパラッチを見て『なあ、どうしよう?』と聞いたら、彼女は『ぶっちゃけ、こういうのもううんざり』って言ったんです。それで『もういいや、いまだ』と思ったんです。それでレストランから手をつないで降りていきました。何て言えばいいですか? はい、付き合ってました」。

交際はラウの音楽に密やかにして明確な影響を及ぼした。昨年の冬のローリングストーン誌の取材でロザリアに言及した際、彼は交際していることは伏せながら『Afrodisíaco』の1曲目「Dile a El」で制作を手伝ったとだけ話した。ラウは、その時点で付き合っていたことをきまり悪そうに認める。ロザリアは、アルバムの2曲目「Strawberry Kiwi」にも協力している。「『トップ・ラインが欲しい、ちょっと行き詰まった』と言ったら、彼女は一緒になってクレイジーなトップ・ラインをやってくれた」とラウは回想する。ラウは、彼女のプロジェクトにアイデアを提供することもあるという。「お互いにリスペクトし合っています。それが一番大事なことです」と彼は言う。「一緒に音楽をやることにはこだわっていません。もしそうなったら、もちろんやります。計画もしていますが、すぐにではありません」(彼はロザリアの待望のニューアルバム『MOTOMAMI』に賛辞を送る。「すごい、本当にすごいです。アルバム全曲を聴いたとき、溜め息がでました。彼女は史上最高です。革新的です。新しいサウンドをつくっています」)。

昨年秋にスペインで開催されたLOS40 Music Awardsで受賞した際、ラウは舞台上で彼女にキスをし、彼女を自分の「ミューズ」と呼んだ。しかし、彼の曲がすべて彼女について書かれているという考えはすぐ否定した。「すべての曲で彼女のことを歌っているわけではありません。彼女は私のミューズですが、さまざまな方法でインスピレーションを与えてくれます。音、プロダクション、必ずしも直接的なものとは限りません。よく間違えられます。悲しい曲を出したからといって、私生活とは関係ないんです」。ただしひとつだけ例外を認める。ボレロのエッセンスとロザリアの特徴的な歌声が散りばめられた「Aquel Nap ZzZz」はふたりの関係にインスパイアされたものだ。「あの曲は文字通り、彼女のための曲でした」。


ロザリアのニューアルバム『MOTOMAMI』は3月18日リリース


いつか

『Trap Cake Vol.2』の音楽はこれまでと少し違っている。「新しいデリバリー、歌い方、ラップ、変なメロディやピッチに挑戦しています。アンダーグラウンドで明快だけれども、スウィートさもあります」とラウは言う。プロダクションを自分自身で手がけるようになり、Abletonをいじりながら曲作りをさらに深めている。サウンド・プロデューサーとしてクレジットで使う名義「@akaelzorro」で、最近Instagramのアカウントも始めた。「結局のところ、自分の頭の中は誰にも理解してもらえないから、説明するより自分でやったほうが楽なんです」と彼は言う。


『Trap Cake Vol.2』のリードシングル「Caprichoso」

彼はサウンド・プロダクションがキャリアの次のステップかもしれないと考えている。「引退したら、いや、引退とまではいかなくても一区切りがついたら、もっと多くの人のためにサウンド・プロデュースしたいと思うかもしれません」と彼は言う。とはいえ、引退は遠い話だ。自分がやりたかったことはかなり達成した。音楽は世界中のほぼすべての場所で聞かれるようになった。自分がなりたかったパフォーマーにもなれた。そして母親は一日中働き続ける必要がなくなった。代わりに時間があれば一緒に旅するようになった。

しかし、それでも彼は、自分のキャリアの勢いを維持しなければならないと感じている。「家族がみんな働き者でしたから……自分もそうなんだと思います。常にハードワーカーでいたいんです」と彼は言う。いつか好きなだけ休める日が来ることも想像するらしい。「『丸1年休みたい』と思うときが来るかもしれません。1月1日に天井を見て『今日は何をしよう、12月31日まで何もない』って」。そしてこのバカげた妄想を笑い飛ばす。「いつか、いつかね」。

From Rolling Stone US.



ラウ・アレハンドロ
『Trap Cake Vol.2』
配信中
視聴・購入:https://RauwAlejandrosmji.lnk.to/TRAPCAKEVOL2

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