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ホレス・アンディ レゲエ界の伝説が振り返る50年の歩み、マッシヴ・アタックとの邂逅

Rolling Stone Japan / 2022年4月11日 18時15分

ホレス・アンディ(Photo by Micheal Moodie)

マッシヴ・アタックとの活動などでも知られる、ルーツ・レゲエ・シンガー、ホレス・アンディ。70年代初頭から、約50年にわたって歌い続ける彼がこのたびエイドリアン・シャーウッドのON-U SOUNDから新作『Midnight Rocker』をリリースした。

彼のキャリアは70年代初頭のジャマイカはキングストンでスタートする。現在のレゲエまで続く、ジャマイカ音楽の基礎を作ったプロデューサー、故コクソン・ドッド率いる名門レーベル、スタジオ・ワンからのリリースでまずは高い評価を受け、その後はプロデューサーのバニー・リーなどともに、70年代中頃のルーツ・レゲエの黄金期に数々の作品を残していく。70年代後半以降、活動拠点をNYやロンドンへと移しつつも、ここでもジャマイカ系アーティストを中心とした現地のレゲエ・プロデューサーと作品を多く残している。特にNY時代のワッキーズとの作品など、80年代においてもその長いキャリアを彩る傑作は存在する。 
 
現在に連なるひとつの転機は間違いなくブリストルの巨星、マッシヴ・アタックのコラボだろう。1991年の『Blue Lines』の参加以降、彼らとの活動は多くの人もよく知る通りではないだろうか。

UKの多くのレゲエ・プロデューサーとも作品は残しているが、意外なことにON-Uとのタッグは初。ここでも発声一発で彼の声とわかる伸びやかなハイトーン・ボイスは健在で、リディム・トラックはもちろんON-Uらしくタイトにしてヘビー。どちらかと言えばON-Uのなかではシンプルなスタイルで、ホレスの歌を聴かすことに徹している感覚がある。恐らくルーツ・レゲエ歌手としてのホレス・アンディを、いま考えられうる、最も良い状態でパッキングした作品ではないだろうか。



─UKのレゲエ・プロデューサーとの作品は多いですが、エイドリアン・シャーウッドとのタッグは初ですよね?

ホレス:彼と仕事をするのは初めてだ。実は一緒にアルバムを作りたいと10年以上言われてはいたんだけど。だけど2021年に再会したときにやっとピンと来たんだ。

─レコーディングはエイドリアンのスタジオで?

ホレス:イギリスの田舎、海の近くにあるエイドリアンのスタジオでレコーディングしたよ。とにかく寒かった(笑)。It was cold, it was cold ♪(歌い出す)。でもいい時間をすごせたよ、美味しいご飯を食べて、近くのパブに行ってビール飲んで、またスタジオに戻ってレコーディングして、また翌日レコーディングするという感じでね。いいバイブスだったよ。

─新作は数曲のセルフカバー曲で構成されています。レゲエ・ファンとしては、やはり初期のあなたの代表曲でもある「Mr Bassie」に耳がいきます。「Mr Bassie」は、当時スタジオワンのレコーディグ・セッションのリーダーとも言えるリロイ・シブルス(※)の、そのベースプレイヤーとしての側面を称えた曲と言われていますが、彼のベースラインはどの点で優れていたと言えますか?

※60年代後半より、ジャマイカで活躍する3人組のボーカル・グループ、ザ・ヘプトーンズのリード・ボーカリスト。60年代末から70年代にかけて、スタジオ・ワンのセッションにおいては、重要なベーシストでありアレンジャーとしても活躍。彼が作り出したベースラインの多くは、レゲエにおいて”ファンデーション・リディム”と呼ばれる定番リズム・トラックの原型となり、現在にいたるまで幾度も引用されている。

ホレス:素晴らしいのひとことだね。リロイは最高のベースラインを一発で弾くことができた。授かった才能だと思ってる。僕が一番好きなベースプレイヤーだから、リロイのことを歌った曲を作ったんだ。




─あなたの初期のキャリアを語る上で重要な作品はさきの「Mr Bassie」など、70年代初頭のスタジオ・ワンからのリリースではないかと思いますが、例えば当時、プロデューサーのコクソンに言われて印象的だったことはありますか?

ホレス:コクソンから直接アドバイスというものはなかったかな。それよりもキャリアを振り返れば、スタジオ・ワンでの作業そのものから色々と学んだんだ。とにかくコクソンはいい人だった。惜しまれる人だよ。今も冥福を祈ってる。

─当時のスタジオ・ワンにはさきほどのリロイ・シブルスなど、ジャマイカ音楽の基礎を作った、多くのミュージシャンたちがバッキング・バンドとして働いていました。もちろんシンガーも多くいたと思います。彼らミュージシャンのなかで最も印象的なひとはだれでしたか?

ホレス:当時すでにスタジオ・ワンにジャッキ-・ミットーはいなかったけど、へプトーンズがいて、アルトン・エリスがいて、フレディー・マクレガー、アル・キャンベルなんかがいたんだ。当時の僕はまだそのなかではまだ若いほうだったかな。その後、僕はスタジオ・ワンを出たというわけではないけど、バニー・リーや他のいろいろなプロデューサーとも仕事を始めるようになっていく時期でもあったんだ。当時のスタジオ・ワンは、僕と入れかわるようにシュガー・マイノットが来るようになったんだ。だからシュガーの素晴らしい名曲がレコーディングされたころには、時期的に僕はもうスタジオ・ワンにはいなかったという感じかな。みんなそれぞれすごい才能を持ったアーティストだったと思うよ。でも、やっぱりそうしたアーティストのなかにあってもデニス・ブラウンが僕はナンバーワンだと思う。

マッシヴ・アタックとの邂逅

─今回の作品ではマッシヴ・アタックの「Safe from harm」をカバーしていますね。マッシヴ・アタックとの最初の仕事は、当初どのような形でオファーがきたんでしょうか? ダディー・Gがスタジオワンのコレクターであなたの大ファンだったという話をきいたことがありますが。

ホレス:そのとおりだよ。あの曲は僕が大好きな曲なんだ。エイドリアンには、今回収録されているのとは違ったバージョンを最初送ったんだけど、エイドリアンは気に入らなかったみたいなんだ。だからマッシヴ・アタックと同じオリジナルのベースラインを使ったバージョンが収録されている。問題ないけどね。マッシヴ・アタックとの最初の出会いは、オファーが来たとかではなく、ある日、僕の友だちが「シンガーを探してる友人のグループがいる」というぐらいで、それで友だちが僕のことを彼らに話したら、リディムを送ってきて、それで聴いて、歌ってみてほしいって、それでそのリディムに乗せて歌った。それがマッシヴ・アタックとの最初のリリースになった「One Love」(1991年『Blue Lines』収録)だったんだ。(しばらく「One Love」を熱唱)それですぐに大波が来た(笑)。これまでのマッシヴ・アタックとの曲でナンバーワンは「Angel」(1998年『Mezzanine』収録)だけどね。

─彼らのサウンドをはじめて聴いたときはどのような感想をもちましたか?

ホレス:もちろん気に入ったよ。だから今日までずっと一緒に活動してる。





─あなたの代表曲でもある「Skylarking」(※)をはじめ、今回収録されている「Materialist」、新曲「Easy Money」など、あなたの曲には、まるでジャーナリストのような、社会を切り取ったリリックが多数存在します。こうした目線、リリックを作るセンスはどのように養われたのだと思いますか?

※1972年の1stアルバムのタイトルともなったスタジオ・ワン時代の代表曲、ストリートに巣くう根無し草の若者たちに「まじめに仕事をしないとやがて刑務所行きだ」と説くなど、その社会への眼差しは、その後のルーツ・レゲエのコンシャスな歌詞へと結実していく。

ホレス:いわば授かり物だよ。母のお腹にいたときからもうすでに備わってたんだ。恵みのギフトだね。さらに僕は歴史の本、例えばマーカス・ガーベイ(※1)の本などたくさん読んでるし、マーカス・ガーベイの国際連盟でのスピーチを何度も聞いたり、ボブ・マーリーの曲もたくさん聞いてきた。僕は若いときから、自然とラスタマンの言う言葉を聞いていた。コンシャス・ミュージックを聞けって言われたことはないけど、コンシャス・ミュージックばかり聞いていた。母はいつも「そんなの音楽じゃない! 毎日ラスタの音楽ばかり!」って言ってたよ(笑)。母はデリック・モーガンとかドン・ドラモンド(※2)とかが好きだったから、ラスタの音楽は好きじゃなかった。でもそのうちラジオで自分の息子の曲が毎日かかるようになったら、「これわたしの息子が歌ってるのよ!」ってよく自慢して、ラスタの音楽も好きになったんだ(笑)。

※1:1887年生~1940年没。ジャマイカ出身でアメリカ~カリブ地域で活動したブラックナショナリズムの先駆的活動家。後のジャマイカのラスタファリアニズムに強い影響を与え、ルーツ・レゲエの歌詞のモチーフに頻出する。アメリカのネイション・オブ・イスラムなどブラック・パワー系の運動にも強い影響を与えた。

※2:ラスタファリアニズムに影響されたコンシャスな歌詞が主なモチーフとなるルーツ・レゲエが流行する以前、60年代ジャマイカの代表的アーティスト。前者はスカ~ロックステディのシンガー、後者はザ・スカタライツのトロンボーン・プレイヤー。ちなみに後者はラスタファリアニズムに傾倒していたと呼ばれているが、ここでは当時の過去のアーティストの例ということだろう。



─コロナ禍の世界は、あなたのそのジャーナリストのような視点から見て、どのように見えますか?

ホレス:僕は預言はなにできないよ。でも今の時点だと、コロナが消え去るようには思えない。エイズが今もあるように、そうやって何年かかっても、存在し続けるんじゃないだろうか。とにかく、まったくわからないな。でも悪魔が冒してはいけない自然の領域を冒してしまうとこうやって手に負えないことになるんだ。神を愛する人たちがこんな事態を引き起こすわけがないからね。悪魔の仕業だよ。核兵器だってそうだ。世界にはお腹をすかせた人が大勢いるのに、まだ武器を作ってる奴らがいるんだ。そんなことをしているくせに、そんなやつらが、僕たちに神について語ってくる(笑)。

美声を保つための秘訣

─あなたに影響を与えたシンガーで最も影響が強い方は? もしいればその理由もおしえてください。

ホレス:ボブ・マーリー、ウェイリング・ウェイラーズ、バーニング・スピアー。コンシャス・ミュージックを歌うシンガーみんなだよ。毎日コンシャス・ミュージックを聞く。

─あなたは70年代後半にはアメリカに行ったり、イギリスで活動をしたり、ジャマイカのシンガーのなかでも特に早く海外に移住、海外とのコネクションが強い印象があります。70年代当時、ジャマイカを出ようと思った理由はあるんでしょうか?

ホレス:あまりそれについては語りたくないけど、とにかく政治だよ。当時ジャマイカでは色々なことが起きてて、怖くなってジャマイカを出てアメリカに行ったんだ。アメリカに行って、本当に色んな種類の音楽をラジオで聞くようになった。それは僕の耳にとってすごく良かった。ジャマイカのラジオは同じような音楽がいつもかかってることが多いから、アメリカのラジオ局のジャンルの多さはとにかく楽しかった。

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─同世代のジャマイカのシンガーのなかには、一世を風靡するヒットを飛ばすも、健康状態も含めてさまざまな不幸な理由で第一線から退いているシンガーも多いと思いますが、あなたがいまでも第一線で活躍できている理由はどこにあるのだと思いますか?

ホレス:イギリスで音楽活動ができたからだ。僕はもう26、7年ものあいだ、ジャマイカでレコーディングをしていない。マッシヴ・アタックと出会って、音楽活動を続けてることが最大の理由でもある。あとは昔、若い時に出したアルバムが今もあちこちでフレッシュにプレイされ続けてるのも理由のひとつだね。

─変わらぬ美声を保つためにしていることはありますか?

ホレス:蜂蜜とニンニク。潰したニンニクに蜂蜜をかけて置いておくと、上澄みにニンニクのオイルが浮いてくる。寝る前にかならずスプーン1杯それを飲むんだ。そうすると風邪も引かない。(チャリスを吸いながら、大きな声で歌い始める)チャリスは声のためでなく、メディテーションのためだよ。落ち着くし、ポジティブな気持ちになる。特にスタジオに入る前はね。日本では絶対にダメだよ(笑)。



ホレス・アンディ
『Midnight Rocker』
発売中
国内盤CD:ボーナストラック追加収録
Tシャツセットも販売
詳細:https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=12365

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