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moonriders特集、鈴木慶一の自薦22曲と共にデビューから現在まで46年の歴史を語る

Rolling Stone Japan / 2022年6月20日 7時0分

moonriders

音楽評論家、田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年5月の特集は「moonriders」。パート3からはゲストに鈴木慶一を迎え11年振り新アルバム『Its the moooonriders』を契機に鈴木慶一がmoonridersの楽曲を22曲自薦し、その歴史を紐解いていく。

田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのはmoonridersの「monorail」。4月20日に発売になった新作アルバム『Its the moooonriders』の1曲目、今週の前テーマはこの曲です。何が始まったんだろうと思っていただけるのではないか、意外性の1曲、moonridersならではの始まりだと思います。

関連記事:moonridersが持つ徹底的な民主主義性、鈴木慶一らと新アルバムを全曲語る



田家:今月2022年5月の特集は「moonriders」。デビューが1976年、その前の1971年にデビューした前進のバンド・はちみつぱいから考えると、51年。現在のメンバーは鈴木慶一さん、岡田徹さん、武川雅寛さん、鈴木博文さん、白井良明さん、夏秋文尚さん。それぞれがソロアーティスト、プロデューサー、作詞家、作曲家、ミュージシャン。時代に流されず、自分たちの音楽を追求し続ける史上最強趣味的職人バンドであります。日本のロックの生きた伝説。今月は新作アルバムを入口に彼らの歩みを辿ってみようという1ヶ月。先週までの2週は11年振り新作の全曲紹介をお送りしましたが、今週から3週間に渡ってゲストの鈴木慶一さんに選んでいただいた22曲を使ったヒストリー、鈴木慶一自薦22曲。貴重な選曲と言うしかありませんね。永久保存版です。こんばんは。

鈴木慶一:どうも! こんばんは。

田家:よろしくお願いします。プロモーションをいろいろやってらっしゃいますね。

鈴木:そうですね。たくさんラジオに出ています。

田家:あらためていろいろな番組に出ると、アルバムの1曲目「monorail」はどんな反応が多いですか?

鈴木:とても意外であるけども、これが1曲目にあることによってすごく吸い込まれるような感じがすると。そういうご意見が多いです。

田家:最初聴いたときびっくりしましたけど、その後からこれがおもしろくなってくる。

鈴木:私も今かかっているのを何度も聴いていますけども、毎回目眩がして、とてもおもしろい出来上がりだと思います。こんな客観的なことを言うのは、演奏には鈴木博文と佐藤優介以外参加してないからです。

田家:今週から3週間に渡ってアーカイブということで22曲選んでいただいたのですが、これはみなさんメンバー6人の方が選ぶと、全く違うものになる?

鈴木:全然違うでしょうね。メンバーが選んだらみんな自分の曲になっちゃうんじゃないですかー。私はバランスをとるのが任務なので、いろいろとってみましたけどね。

田家:鈴木慶一さん版のヒストリーということになるのですが、moonridersの歩みはどういうものだったのか、何を追い求めてきたのか聞けるのではないかということで、今日は第一期編。この曲からお聴きいただきます。1976年発売「火の玉ボーイ」。





田家:ブルージーな曲だなという感じですが、やっぱりこの曲から始められますか?

鈴木:アルバム『火の玉ボーイ』自体が、私のmoonridersの歴史の中で唯一リーダーシップをとったアルバムだと思うんです。

田家:鈴木慶一とムーンライダースというバンド名ですからね。

鈴木:当初はソロアルバムの予定で作っていたので、演奏はティン・パン・アレイ+徳武弘文+ペダル・スティールの駒沢裕城になっていますけどね。曲も全部自分で選び、そしてスタジオに行き、常に自分が動いていくんです。だから、唯一リーダーだったなと思えた。本当に不思議な話なんですけど、レコードが出来上がってアルバムのジャケットを見た瞬間「とムーンライダース」がなんでついているんだろうなと。

田家:あ、逆に鈴木慶一のアルバムではなくて。

鈴木:そうそう。鈴木慶一のアルバムで作っていたので。そのときに抗議をしたわけでもないんですね。moonridersに凄く助けてもらったし、まあいいかなっていう、いい加減な判断で始まってしまった。moonridersのスタートは曖昧になりますけど、ここを起点として考えていますね。言い方を換えれば、moonridersのアルバムにゲストが多数参加したアルバムであると。

田家:曖昧ということで言うと、moonridersには前の歴史がありまして、はちみつぱいが1971年に結成して、1974年に解散しているわけですが、その間にオリジナルムーンライダースというのがあった。

鈴木:ここもややこしくなってくるんです。そのムーンライダースというグループ名を私がつけたので、はっぴいえんど解散コンサート、1973年9月21日が4人のメンバーが次に何をするか、提示しなくてはいけなかった。そこで松本隆さんはソウルフルなバンドをやろうということでmoonridersという名前を私がつけましたが、メンバーを集めて、そこに鈴木博文はベースで参加していたり。私の高校の友人の山本浩美というのが参加していたりするわけです。矢野誠さんもキーボードでいます。ライブを何度かやって、何度も観に行きましたけど、数回でみんな仕事が忙しくなって。それが矢野誠さんと松本隆さんです。

田家:松本さんは作詞が忙しくなった。

鈴木:そうです。この2人が忙しくなっちゃって、名前だけがそのまま放り出されていた。1975年にはちみつぱい解散後にアグネス・チャンのバックをやるんです。そのときに火の玉ボーイズという名前を提示した。そしたら渡辺プロダクションが「これはボーイズのお笑いっぽい」と。「コメディアンのバンドじゃないんだから、明日までに考えろ」って言われて、そう言えばmoonridersっていうのが余っていたなと。当時のメンバー全員に私が電話して許諾を得て、moonridersにしたんです。





田家:今日の2曲目1972年2月発売、アルバム『moonriders』から「シナ海」。

田家:この曲は?

鈴木:これを歌っているのは鈴木博文ですね。

田家:詞曲も博文さん。

鈴木:鈴木博文さんが18歳のときに作った「大寒町」という曲がありまして、それがあがた森魚さんの2枚目『噫無情(レ・ミゼラブル)』でカバーされて。カバーというか、自分たちのは出てないからカバーとは言わないね、曲提供になってしまいますが。1975年にアグネス・チャンのバックもしながら、moonridersとしてライブもやってました。主に荻窪ロフトですね。そこでやっているときに、みんな曲を書いていたんです。かしぶちくんも曲を書いていたし、鈴木博文も「月の酒場」とか書いていたりするわけで。それが『火の玉ボーイ』には反映されていないんです。『火の玉ボーイ』に1番反映されているのはキーボードの岡田さんの曲で、他は私です。それが終わって、じゃあ次に行こうというときに、このアルバムは先着順だったんです。曲ができた人から録音していくと。かしぶちくんも例えばはちみつぱいで作った「釣り糸」以外の「紡ぎ歌」って曲を書いたり。当然ライブでは散々やってましたけどね。鈴木博文も録音物としては18歳で作った曲以来の「シナ海」を書き下ろしました。すごく無国籍感が漂っています。ストリングスアレンジは矢野誠さん。さっきかけた「火の玉ボーイ」のホーンアレンジも矢野誠さんです。

田家:その無国籍感ということで言うと、はっぴいえんどの細野さんのソロアルバム『泰安洋行』が出たのも1975年でちょうど同じ頃でしょう?

鈴木:あと、あがた森魚『日本少年』も1976年のたぶん『火の玉ボーイ』と同じ日に出ているという感じですね。

田家:細野さんプロデュースでmoonridersの演奏。

鈴木:かなり演奏していますね。

田家:あの『日本少年』はmoonridersがなかったらできなかったでしょうね。

鈴木:そうでしょうね。そして、細野さんのプロデュースの隙間をついて、私がプロデュースしたりして。あと、矢野誠さんもプロデュースしたり。

田家:さっき話に出た、オリジナルのムーンライダースがはっぴいえんどの文京公会堂の解散コンサートでステージに出て。そのときにはっぴいえんど自体の演奏に慶一さんがピアノで参加している。

鈴木:そうですね。

田家:客席で観てましたけども。

鈴木:あのとき、「この4人でしかできない演奏をします」って大滝さんが言ったんです。やはり、4人の結束が固い。私はゲストとしてキーボードで参加しているんだなと、ステージ上で自覚しましたね。はっぴいえんどの場合、日比谷野音の1970年9月のコンサート。そのときにコーラスとギターでサポートするんです。そのときは19歳ですから、はっぴいえんどに入るのかなと、漠然と思うわけです。その後連絡がなくて(笑)。これは入れないんだな、じゃあ自分のバンドを作ろうというような動きになっていく。入っていたら大変なことになってました(笑)。

田家:大変なことになってましたね(笑)。そういう意味では70年代の特にこの頃はmoonridersとはっぴいえんどはどこかで見え隠れしながら、ずっと動いている感じがありました。

鈴木:はっぴいえんどが解散した後の方々ね。

田家:『火の玉ボーイ』っていうタイトルは細野さんのことだという説がどこかにありましたよ。

鈴木:「あいつは」とか言ってますけど、細野さんなんです。細野さんはそのお返しなのかもしれないけども、「東京Shyness Boy」というのを作ってくれる。それは私のことらしいです。

田家:おー! 「火の玉ボーイ」と「東京Shyness Boy」。この話は貴重な話だなー! 慶一さんが選んだ3曲目です。1977年10月発売、アルバム『イスタンブール・マンボ』から「ハバロフスクを訪ねて」。





田家:シナ海からイスタンブールでハバロフスクって、そういう流れですね(笑)。

鈴木:まさに無国籍ですねー。これは詞曲がかしぶちくんです。ボーカルは武川くじら雅寛です。当時からボーカリストをどんどん変えていたんです。とあるときに鈴木慶一っていう人が全曲を歌った方がいいというのもありましたけども、見え方として分かりやすいのではないかと。私はそれに対してどうも不安と反感を持っていたので。

田家:かしぶちさんが詞曲を持ってこられたときには誰が歌うかってことをご自分では言わないんですか?

鈴木:決まってないです。本当は自分で歌いたかったでしょう。しかしこの曲に合うのは武川の低い声だよということでこうなった。

田家:それは慶一さんがお決めになった?

鈴木:うん、言ったと思います。余裕綽々でかしぶちくんは受け入れた。そして、シンセサイザーを大量に導入しておりますね。要するにこの曲の持っているロシア民謡、スカンジナビアのギターインストバンドのような感じ。この感じはかしぶちくんじゃないと書けないですね。

田家:まあ、1977年にはですね。

鈴木:ギタリストが変わるんだ! 白井良明が加入。

田家:はい。1977年にアルバム『moonriders』が出て、『イスタンブール・マンボ』と2枚出るわけですが、その間に良明さんがギタリストになって。

鈴木:白井良明はジャズから始めて、シタールも弾くという不思議な人で。所謂速弾きができる。当然ながらそれによってサウンドがガラッと変わりましたね。

田家:みなさんが慶一さんの家で練習していたというのもどこかにありましたけども。

鈴木:それは『火の玉ボーイ』の録音をするときに、私の家の2階でアレンジをするんです。それは白井が入る前ですね。やっぱり人がはみ出ちゃうんですよ。岡田くんはアコーディオンを屋根の上で弾いてた(笑)。屋根の上のアコーディオン弾き。

田家:慶一さんが選ばれた4曲目です。1978年12月発売のアルバム『ヌーベル・バーグ』から「いとこ同士」。





田家:3枚目までの無国籍オリエンタリズムがちょっと変わってきました。

鈴木:この曲は全てシンセサイザーでプログラミングされていますね。ちょうどこの頃イエロー・マジック・オーケストラが登場するんですね。我々も全部シンセサイザーで曲をやってみようじゃないかと。そして、あえてスティールパンで細野さんに来ていただく。

田家:それはあえて(笑)?

鈴木:あえて。このねじれた感じ(笑)。スティールパンという非常にややこしい生楽器を。楽器も持ってて演奏出来るのは細野さんしかいなかったし。

田家:中南米風なというか(笑)。

鈴木:ご本人はYMOを作っているのにね。

田家:生で叩いた?

鈴木:そうです。それが組み合わせとしておもしろいんじゃないかと、話題性もあるんじゃないかと思ったんですね。

田家:テクノをやろうと思ったのはどういう?

鈴木:シンセサイザーは本当にギリギリ『火の玉ボーイ』で間に合うんですよね。自分で買ったシンセサイザーは2、3曲入ってます。『moonriders』あたりからはYMOのプログラミングをその後するようになる松武秀樹さんに来てもらう。それが何曲かアルバムの中に必ずあった。そういう繋がりがあって、シンセサイザーとの親和性は、我々は高かったと思いますよ。他にもキーボードに関してはいろんな機種を積極的に使ってました。

田家:一番積極的だったのはどなたですか?

鈴木:岡田くんですね。やっぱりキーボードプレイヤーなので。あと、かしぶちくんですね。なぜか必ず自分の曲にシンセサイザーを入れる。それもポカーンという一発だったり、さっきの「ハバロフスクを訪ねて」にも入ってますけどね。

田家:このアルバム『ヌーベル・バーグ』のエグゼクティブプロデューサーがいた、朝妻一郎さんだった。

鈴木:そうですね。クラウンレコードとしては何かヒットを出したいということで、朝妻さんをエグゼクティブにして時々観に来てもらって、路線を整えてもらおうと思ったんじゃないですか。でも、私たちはあまり言うことを聞かなかったからねー。

田家:はははは! 聞かないでしょうねー(笑)。

鈴木:今は他人の意見聞きますけど(笑)。朝妻さんのおかげでこのアルバムでジョン・サイモンの「My name is jack」をカバーできたと思ってます。カバー曲に勝手に日本語をつけちゃって、本来日本語詞を認めてもらうには本国に送って、本人が確認しなきゃいけないんです。なんかそのへんを上手くすり抜けたかなっていうことですね。「トラベシア」もそうです。

田家:それは朝妻さんだったからできたということですね。次は1979年のアルバム『MODERN MUSIC』から「ヴィデオ・ボーイ」。





田家:本格的テクノニューウェーブ。

鈴木:1976年の『火の玉ボーイ』から3年でこうなってしまった(笑)。

田家:今その話をしようと思ってた(笑)。

鈴木:すごい変わり身だと思います。1個前の『ヌーベル・バーグ』。これってニューウェーブでしょ。その頃からニューウェーブは聴いていた。でも影響受けた曲をあまり出さずにタイトルだけに込めた。『ヌーベル・バーグ』というタイトルは1980年に『カメラ=万年筆』というアルバムが出ます。それに対する予兆も込められていますね。いつか映画音楽のタイトルだけでアルバムを作りたいなと、『ヌーベル・バーグ』の頃から思っていたんですよ。この3年間鈴木博文が「シナ海」以降、『ヌーベル・バーグ』まで曲を書かなくなる。歌詞に専念しますね。武川雅寛も「頬うつ雨」以降、曲を書かない。白井良明の曲がこの『MODERN MUSIC』で登場する。「ディスコ・ボーイ」という曲ですね。だから、私と岡田徹、かしぶち哲郎っていうこのへんが初期の頃は作っていたんだなと思います。

田家:「ヴィデオ・ボーイ」は慶一さんの詞曲ですね。

鈴木:『MODERN MUSIC』というアルバムはかしぶちくんの「バック・シート」という曲が最初にできて、この曲悔しいほどいい曲だなと思った。これを超える曲を作らないといけないなというライバル心が生まれた。リハーサル・スタジオでテープを回しっぱなしにしながら曲を作ったりアレンジしたり。

田家:例えば、博文さんが詞を書くようになって、曲を書かなくなったというのは。

鈴木:詞をメンバーから頼まれるんですね。そうすると、曲までおっつかなくなっちゃうと。まあ、共作ではありますよね。「ジャブ・アップ・ファミリー」って曲は『ヌーベル・バーグ』ですし、『MODERN MUSIC』には「モダーン・ラヴァーズ」っていう曲が入っているけど、単独で曲を書いていないんですね。

田家:バンドの中の役割バランスが変わってきた。

鈴木:そうですね。最初に言いましたけど、『火の玉ボーイ』は岡田くんと私のが多いとか、そういうバランスが時代、時代によってあるんですね。

田家:3年間でこれだけ大きく変わると、メンバーの中には変わり方に対してあまり同調できないとか、俺はそういうのあまり好きじゃないんだよっていうことで意見が分かれたりする場面ってないんですか?

鈴木:なかったです。

田家:なかったんだ!

鈴木:うん。みんな一斉に髪の毛短くして、ヒゲは残ってる人もいたけど剃っちゃったり、ビニールのパンツになったりね。

田家:それはみんなで同じことをおもしろがれた。

鈴木:そうですね。だから長い歴史の中で最後ですよ。みんなで同じ店に行って、同じ音楽を聴くというのは。はちみつぱいの頃は、ロック喫茶に行って、あの曲いいよな、あのアルバムリクエストしようっていうのはありました。この頃はナイロン100%というお店が渋谷にありまして、そこに行ってかかっている曲が最新のニューウェーブだから何だか分からないんですよ。これ誰のだか聞いてきてよ、じゃんけんで負けた人が聞きに行こうと(笑)。

田家:え、みんなで聞きに行くんだ(笑)。

鈴木:全員揃ってお店に行って聴くわけ。だから、最初にして最後に浴びたムーブメントでしょうね。

田家:ロック少年みたいなことでありつつ、やっぱりみんなで新しい波を俺たちのものにしようぜみたいな感じがあった。

鈴木:そうです。それ以前は違う音楽をやっていたわけだから、『火の玉ボーイ』を聴けば分かりますけども、アメリカンなグッド・タイム・ミュージックだったわけですよ。そういう友人が多かったんだけど、「火の玉ボーイ」から「ヴィデオ・ボーイ」になったことによって、そういう友人たちが離れていきました。

田家:離れましたか。あいつらなんだみんなでって。

鈴木:なんだビニールのパンツ履いてって。

田家:みんなで同じように(笑)。

鈴木:髪の毛短くなっちゃってとかね。で、ニューウェーブシーンに入っていくわけですね。ニューウェーブのバンドがたくさん集まったフェスとか、学園祭とか出ます。そうすると、帰れって言われたりする(笑)。

田家:あ、帰れって言われた!

鈴木:お前らオールドウェーブだろみたいな感じで。

田家:すごいなー。YMOに対してはどう思われていたんですか?

鈴木:凄くおもしろいバンドが出てきたなって思いました。ジョークにたけているし、こんなメガヒットになるとは思わなかったけど、良い結果だった。おかげでいろいろいい面がたくさんありましたもん。

田家:いい面もあった?

鈴木:要するにそういうニューウェーブがどこか注目される。歌謡界から注目されるっていうことは、当然誤解もあるわけですよね。YMOのメンバーが言ってましたけど、「君に、胸キュン。」を出したとき、歌謡界から「はあ、やっと歌謡界に戻ってきたな」と言われたようなんですね。意図的にやっているのになーっていうことなんですよ。誤解を利用するしかない。

田家:でもYMOの3人は同じようにみんなで同じロック喫茶に行って、同じ音楽を聴いたりしないでしょうからね。

鈴木:でもありましたよ。深夜の所謂カフェバーの走りとかで3人とばったり会ったりしました。

田家:そうですか。なるほどねー同じ流れの中にいたということで。

鈴木:東京シーンってことですね。

田家:80年代東京シーン。このアルバムもそういう象徴的な1枚ではないでしょうか。6曲目、1980年8月発売『カメラ=万年筆』から「無防備都市」。





田家:内在する不在感。

鈴木:内在する不在感はたまげましたよ。

田家:いいですね、これね(笑)。

鈴木:あんな歌詞、歌に乗るの!? って思いましたけど歌い方を変えればいい。詞曲が鈴木博文。ニューウェーブを聞きまくって、完全にニューウェーブになってしまった。この1個前はニューウェーブ的ではあった。そして鈴木博文、白井良明、みんな曲を書き出す。それは初期衝動が重要だと、ニューウェーブを聴いて思うわけです。ギター持った瞬間を思い出してみようかとか、曲をどんどん書こうという方向になったんですね。それまで俺は歌詞を書いている立場だなとか、俺はギターを弾いている立場だなとかがどこかにあったと思います。ニューウェーブが解放してくれたんですよ。

田家:YMOと比較してもしょうがないんでしょうけど、そういう意味では80年代始めの東京の空気感はYMOよりもmoonridersのこの頃の方が凝縮されている感じがしましたね。

鈴木:YMOはオールジャパンな感じ。東京ローカルな感じはmoonridersでしょ(笑)。

田家:ありましたね。この「無防備都市」はまさにそうだなと思ったりしましたけども。

鈴木:白井の考えたリフで、このイントロでこれはいけるぞ、いい曲だと思いましたね。

田家:みんながおもしろがっていたっていうのはすごいですねー。

鈴木:とにかくおもしろがってた。で、いろいろな実験をしたこのアルバムでは。バケツに水を入れて、それを人力でリズムを取ったり。パチャッポッチャってね。隣でボコボコストローで吹かす人はずーっと吹いてないといけない。

田家:それメンバーがやっているわけでしょ(笑)?

鈴木:そうです。武川ですけどね。アウトテイクを聴いたら、10分くらいやっているんですよ。よくあんな長い間やったなと思いました。これを出した後、ツアーに出て全国9ヶ所最大規模でしたね。その後、このアルバムから1曲もやらなくなる。なぜかと言うと、コンセプチュアルすぎて映画のタイトルを使って、アルバムを1枚作ろうで。

田家:曲のタイトルも映画のタイトルですからね。

鈴木:そうするとね、曲の内容を思い出せない(笑)。

田家:タイトルのイメージが(笑)。

鈴木:そういう弊害を生みましたね。

田家:なるほどねー。でも80年代のmoonridersってニューウェーブが決定した、テクノも決定したってことになるんでしょうかね。

鈴木:そうです。それとコンピューターを自分らでいじるということですね。それは次になりますけどね。ここまでは本当に人力です。

田家:1982年12月のアルバム『マニア・マニエラ』から「スカーレットの誓い」。慶一さんが選ばれた7曲目です。





鈴木:この曲がその後、コンサートの最後の曲になることが多くて、みんな手をかざしてくれる。そういう曲でもないんだけども(笑)。これはかしぶちくんの詞曲ですけどもね。このアルバムはかしぶちくんがドラムを叩くのにシークエンサーと言って、それに合わせて叩くんです。機械との対決ですね。

田家:このアルバム『マニア・マニエラ』はエピソードがいっぱいある?

鈴木:ありますね。失われたアルバム。

田家:出なかったわけですね、最初。

鈴木:出来上がって聴いてもらったら、レコード会社の本当に偉い方が食事に行こうと言って、食事に行きました。「これを求めてたんじゃないんだよ」って、「そうか、じゃあ出さないでおきましょうか」って。

田家:って慶一さんがおっしゃった?

鈴木:私と当時のマネージャー。3人で会いました。出さないでおいて、すぐ次の作り直しを。で、『青空百景』に突入するわけです。

田家:バンドにしては自信作だったんでしょう?

鈴木:そうですね。moonridersというバンドサウンドが確立されたなと思いました。

田家:テクノも経験して。

鈴木:ニューウェーブも浴び、無国籍もやり、いろいろなことをやってきたけど、これは独自のものがここで生まれたなと思いましたね。

田家:みんなで歌おう的なものもあり。

鈴木:暗い曲もあり、テープループと言ってテープを円形にして、ずっとぐるぐる回す。現代音楽の手法ですね。それも多用し、しかもそれはズレていくんです。テープで<って>アナログだから。コンピューターと対決させて、しかも生身の演奏も対決させるというようなアルバムだったんです。

田家:デジタルとアナログがここで激突している、でもポップなアルバム。

鈴木:マスタリングという作業が最終的にあるんですけど、『マニア・マニエラ』が初デジタルマスタリングですね。という、いろいろいわくがたくさんあるアルバムなんですけども、しかも1982年に出ているのはCDだけですから、アルバムを出さない。でもレコード会社としては何かの形で出しておきたい。

田家:CDとしての最初のアルバムみたいな。

鈴木:そうですね。1番最初はたしか大滝さんですね。

田家:ロンバケですね。

鈴木:その後2年ぐらい経ってますけど、メンバー誰もCDプレイヤー持ってないのにとりあえず出したということですね。

田家:次にお聴きいただくのが1982年9月に発売になった『青空百景』の中の曲なのですが、作ったのは『マニア・マニエラ』の方が先だった。次の曲は慶一さんがデモテープもおかけしたいということで。

鈴木:そうですね。「くれない埠頭」という曲なんですけど、デモから聴いてみましょう。



くれない埠頭(1st DEMO)/ moonriders

田家:これがデモですね。

鈴木:デモのテンポは本当に速いです。そういう曲を鈴木博文が作った。当時のマネージャーが「これ遅くした方がいい曲になるんじゃない?」って言ったんですよ。ジョージ・マーティンみたいですけど、遅くしてみようかと。遅くしたデモを今度はメンバーでもう1回録るんです。この頃は家庭用の自宅用のカセットの4chのレコードが出た。マルチですからね。みんな買うんです。自宅でデモを作るときにそれで録音する。それを持ち寄って聴いたりする。もちろん2chにミックスするわけですけど、だから自分の家でデモがちゃんとできるようになった。生ギター一本だけじゃなくてね。そんなことがあって、これは鈴木博文が歌っていましたけども、次に私が歌っている方はバンドのメンバーが演奏にも入っている。でも、テンポが速い。

田家:ボーカルも変えた。

鈴木:はい。最終的には正規版の「くれない埠頭」のテンポに落ち着くわけですね。



田家:〈吹きっさらしの夕陽のドック〉。

鈴木:こうやってテンポを落としたおかげで名曲となって、アンコールの定番になるわけです。

田家:「くれない埠頭」というイメージは何かあったんですか?

鈴木:冒頭に「monorail」がかかってます。モノレールが見えるところが堤防なんです。そこの左側に埠頭があって、言ってみればドックですね。船の工事現場みたいな。それが長いクレーンで吊ったりして、船を修繕しているんですね。それがすごく「くれない埠頭」だろお前って弟に言いました。「ここだろ? ここのこと作ったんだろ?」って(笑)。

田家:イメージはこれだろ? って(笑)。

鈴木:今はもうなくなってしまいましたけど。

田家:あー失われた風景ですね。で、『マニア・マニエラ』と『青空百景』を対の2枚ということで、今週はここまでということになりますね。

鈴木:ツイン・ピークスですね、これは。「くれない埠頭」はあらためて聴くと、無駄な音が一切入ってない。ここがよくできているなと。今回は分析的にmoonridersを語るということで(笑)。

田家:70年代から駆け抜けた、そしてここに来たという感じがありますね。今週は1976年から1982年ということで、この後にまたレコード会社が変わるわけですね。どんな時期に突入するんでしょう?

鈴木:ポストニューウェーブですよね。ニューウェーブの勢いが消えていっちゃって、次何やるかってときにニューウェーブで出てきたバンドが変化していく。1番顕著なのはXTCでしょうね。あのへんが素晴らしいアルバムを作っていく。そういうイギリスの音楽ばかりを聴いている感じですね。

田家:さあどんなアルバム、どんな曲が選ばれるでしょう。来週もよろしくお願いします!

鈴木:はい! こちらこそ。

田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」。4月20日に11年振りのアルバム『Its the moooonriders』を発売したmoonridersの軌跡を辿る1ヶ月。今週はパート3。今週から3週続けて鈴木慶一さん自薦22曲で辿る46年をお送りしようと思います。今日は1976年から1982年でした。流れているのはこの番組の後テーマ竹内まりやさんの「静かな伝説」です。





1973年のはっぴいえんど、文京公会堂の解散コンサートというのがmoonridersの第一歩であったわけです。そのときはオリジナルのmoonridersで松本隆さんがプロデュースでドラムを叩いていた。命名したのがはちみつぱいをやっていた鈴木慶一さんで、慶一さんははっぴいえんどのステージでピアノを弾いていた。その後、細野さんとか松本さんがプロデュースするいろいろなアーティストのアルバムにmoonridersは参加して名演を残しているわけですね。70年代に同じところから始まった、事務所も一緒でした。そういう始まり方をしていたバンドのその後の軌跡は対照的ですね。

70年代の終わりから80年代にかけて、細野さんがYMOでやっていたようなことをmoonridersは6人バンドでもっと徹底してやろうとした。このへんが明らかに違いますね。テクノ、ニューウェーブの時代を駆け抜けた。でも、みんな同じようなことをおもしろがれたというのが、moonridersが今も続いている最大の要因でしょうね。同じロック喫茶に6人全員で揃って新しい音楽を聴きに行く。君ら学生か! って感じがありました。それが彼ら流のプロのバンドの在り方だった。今回のアルバム『Its the moooonriders』をそういうバンドが作ったアルバムだと思って聴くと、違う聴こえ方がするのではないでしょうか。2年半で解散したはっぴいえんどと46年続くmoonriders。それぞれが違う伝説の主ということが今月の趣旨でもあります。あらためてそんなことを思いながら来週以降も聴いていただけると幸いです。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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