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ボブ・ディラン『ブロンド・オン・ブロンド』革命的2枚組とロック名作が競い合う1966年

Rolling Stone Japan / 2022年6月22日 18時15分

ボブ・ディラン(Photo by Tony Gale/Alamy)

ボブ・ディランのデビュー60周年を記念して、1963年の2ndアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』、1965年の5th『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』に続き、1966年の7th『ブロンド・オン・ブロンド』が6月22日にアナログ・レコードで発売される。ディランの最高傑作と評する向きもある、革命的なダブルアルバムを振り返る。

『ブロンド・オン・ブロンド』はボブ・ディランのアルバムの中で最もミステリアスかつ荘厳で、誘惑的な作品だ。もちろん、最高傑作であるのは間違いない。カントリーのヒット曲を量産してきたナッシュビルのセッションプロたちをバックに短期間でレコーディングした『ブロンド・オン・ブロンド』は、キラキラ光るピアノのフレーズからソウルフルでどこか泥臭いグルーヴまで、従来のディランの作品とは全く異なる輝きを放つ。それでも艶やかな仕上げのおかげで、各楽曲の印象がさらに深まっている。1966年5月16日にリリースされた本作は、今なおディランの才能が発揮された最高傑作であり続ける。「ジョアンナのヴィジョン」は彼の作品の中で最も孤独を感じるし、「アイ・ウォント・ユー」ほど滑稽な曲もなかった。さらに「メンフィス・ブルース・アゲイン」は、他の作品にはない絶望感を漂わせている。どこかに属することなく絶望の淵にあった一人のアメリカ人による、単なるフォークソングの枠を超えたロックンロール。最も広がりを感じるディランの作品だ。「自分が蚊帳の外に置かれているとは考えない」とディランは、アルバムのリリース当時に語っている。「ただ自分の方から近寄らないだけだ」



『ブロンド・オン・ブロンド』は、正に「近寄り難い」冷たさに満ちている。テキサスのクスリと列車のジンをミックスし、アルバム全体が、深夜の孤独と不安に満ちたブルーズの幻覚と、ディラン特有の鋭いウィットに富む。当時わずか24歳だったディランは、常人であれば数カ月しかもたないであろう狂人的なペースで曲を書き、ツアーをこなした。エレクトリックを導入した『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』(1965年5月)と『追憶のハイウェイ61』(同年8月)に続き、2枚組の最高傑作をリリースしたディランは、歴史的な快進撃を続けた。誰も彼のスピードについて行けず、作品をリリースするより早く数々の傑作が書き上がって行った。中でも『ブロンド・オン・ブロンド』のサウンドは、ディラン自身も再現不可能な奇跡の産物だといえる。オルガン奏者のアル・クーパーは「午前3時に出したサウンドを、これほど見事に捉えた作品はない。シナトラにも勝る」と評した。

『ブロンド・オン・ブロンド』は『追憶のハイウェイ61』や『ブリンギング・イット〜』ほどパーフェクトな作品ではない、とする主張にも一理ある。幅広い要素を取り入れた2枚組のサイド3には軽快な作品も何曲か含まれ、アルバムのオープニングに収録された騒々しい珍曲は、図らずもシングルとしてヒットした。「雨の日の女」をアルバムの冒頭に持ってくるなど、ザ・ビートルズが『リボルバー』のオープニングに「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」や「ハロー・グッドバイ」を据えるようなものだ。それでも、2曲目からラストまでの68分間を一気に聴かせる『ブロンド・オン・ブロンド』は、ロックンロールの歴史の中でも類を見ないディランの最高傑作と言って間違いない。アルバムを聴いていると、負け犬や奇人・変人に懐中電灯を向けて、狂っているのは彼らの方か自分なのかと自問する夜警の気分になる。『ブロンド・オン・ブロンド』の楽曲の場合は、どちらも当てはまるだろう。

スモーキー・ロビンソンの影響

『ブロンド・オン・ブロンド』は、怒号が飛び交うツアーの合間に制作された。客席には、エレクトリックを導入したロックンロールの新曲に対して怒りのブーイングを放つフォーク時代のファンも多く、ニューヨークのフォレストヒルズでは「リンゴ(・スター)はどこだ?」などというヤジも飛んだ。「曲が生きるのは、人々が耳を傾けるラジオかレコードの上でしかない」とディランは、当時のフォレストヒルズでのコンサート直後に語っている。「ザ・ステイプル・シンガーズやスモーキー(・ロビンソン)&ザ・ミラクルズ、マーサ&ザ・バンデラスを聴くべきだ。多くの人は尻込みする。セックスが表現されているからね。包み隠さずに現実を語っているのさ」

同じ頃、オーストラリアの記者が「お金を稼ぎに来たのですか?」と意地の悪い質問を投げかけた。ディランは「そうさ」と答えた。『ブロンド・オン・ブロンド』には、全体的にディラン流の辛辣なウィットが流れている(1966年4月にシドニーで行われた記者会見は傑作だった。質問:”最も大きな望みは何ですか?” ディラン:”肉切り屋になりたい” 質問:”もっと細かく説明していただけますか?” ディラン:”肉の大きな塊をもっと細かく切るのさ”)。1965年11月にディランは、サラ・ラウンズと密かに入籍していた。ディランは私生活を守ろうとするあまり、ぶっきらぼうで偏執的な面が目立つようになった。特に1966年1月に長男が生まれてからは顕著だった。『ブロンド・オン・ブロンド』には”君はたまたま居合わせただけ、ただそれだけのこと”、”皆が帰って二人きりだが、僕が最後まで残りたくないのはわかるだろう”など、彼の最もウィットに富んだ辛辣な言葉が並ぶ。この男は、肉の大きな塊をバッサリと切っていたのだ。



『ブロンド・オン・ブロンド』用に新たに用意した楽曲は、従来のディラン作品とは全く異なり、アルバム全体を通じてスモーキー・ロビンソンをはじめとするモータウンの影響が感じられる。『追憶のハイウェイ61』と『ブロンド・オン・ブロンド』を立て続けに聴いてみると、後者にスモーキーの影響がはっきりとわかるはずだ。ディランは、スモーキー調の歌詞にブルーズのメロディーを巧みに絡ませている。『追憶のハイウェイ61』は、全体的にフォークの四行詩だと言える。コーラスが印象的な最初の2曲とブリッジに特徴のある「やせっぽちのバラッド」以外は、四行詩の繰り返しだ。一方でわずか数カ月後にリリースされた『ブロンド・オン・ブロンド』は、曲の構成が完全に変わっている。ミドルエイト、コーラス、フックといった構成に、ディランがパロディーの領域にまで高めたスモーキー調の韻を踏んだ歌詞が乗る。「アイ・ウォント・ユー」と「我が道を行く」は明確にスモーキーを意識した楽曲で、モータウン・スタイルのパーカッションを使ったフックからコーラスへと続く。モータウン効果のおかげで「アイ・ウォント・ユー」は、トップ20ヒットとなった。



「女の如く」は紛れもないディラン流のバラード曲だが、韻律はスモーキー調を踏襲している。コーラス後のアコースティックギターによるフィルやブリッジは、前作『追憶のハイウェイ61』にはない手法だ。当時ラジオでかかっていたミラクルズの「ザ・トラックス・オブ・マイ・ティアーズ」や「マイ・ガール・ハズ・ゴーン」の影響を受けたのは間違いない(その後リリースされた1981年のシングル曲「ハート・オブ・マイン」や2009年の「アイ・フィール・ア・チェンジ・カミン・オン」からも、スモーキー・ロビンソンの影響が色濃く感じられる)。しかしディランにとって『ブロンド・オン・ブロンド』のトリッキーで込み入った曲構成は、イメージが交錯して混沌としつつ言葉に酔って荒れ狂う心理状態を表現するための、ひとつの方法にすぎない。




感情的には異なる視点から描かれているが、「アイ・ウォント・ユー」と「ジョアンナのヴィジョン」でディランは、優れた歌唱力を発揮している。「アイ・ウォント・ユー」のボーカルは、まるでチャック・ベリーのリズムギターのように軽快に跳ねている。歌詞の末尾が次の歌詞の頭にかぶるような作りで、”彼が嘘をついたから、彼が君をドライブに連れ出したから、俺は彼に辛く当たった。あぁ、タイム・イズ・オン・マイ・サイド……時が味方してくれる。アイ・ウォント・ユー!”というクライマックスへと続く。オリジナルのモノ・ミックスではシングル同様、韻を踏もうと焦ってフライングした「あぁ」の部分はカットされている。しかし編集された部分にこそ、曲が表現する心の痛みを際立たせるコミカルな演出効果がある。

「ジョアンナのヴィジョン」は、ディランが書いた最も薄気味悪い曲だと言えるだろう。彼がこれほど荒んだ感情を描いた作品は他にない。ディランが胸の中を走るヒートパイプが咳き込む音を聴きながら、寒々とした夜に震えている。ラジオからはカントリーソングがかすかに流れ、ルイーズを腕の中に抱きながらも心はジョアンナにある。「メンフィス・ブルース・アゲイン」では、ドラムのケニー・バトレーを中心とするバンドのサウンドが、ディランのリズムにリードされながら輝きを増している。裏通りでディランは、シェイクスピアがフランス人の女の子に話しかける姿を見かける(1966年3月にディランは本作品で「俺はシェイクスピアを見極めた」と宣言する。「乱心の女王と、アンフェタミンの効果による宇宙の心だ」)。ホンキートンクを踊るルーシーが”初舞台の女は、あなたが必要とするものを知っているだけ。でも私は、あなたの本当に欲しいものがわかる”と甘える。哀れな初舞台女優には、チャンスがないと告げることになるのだ。

ロック名作が競い合った1966年

1966年はローリング・ストーンズの『アフターマス』、ビートルズの『リボルバー』、キンクスの『フェイス・トゥ・フェイス』、ザ・フーの『ア・クイック・ワン』、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』、オーティス・レディングの『ソウル辞典』、バーズの『霧の5次元』など名作が競い合うようにリリースされ、多くのアーティストたちがしのぎを削った時代だった。『ブロンド・オン・ブロンド』の数カ月前にリリースされたビートルズの『ラバー・ソウル』は、明らかにディランをメロディー競争へと引き込むきっかけになった。ディランの「フォース・タイム・アラウンド」が、ビートルズの「ノルウェーの森」のパロディーだとされる話は有名だ。ディランは大胆にも、ジョン・レノンの前で個人的に「フォース・タイム・アラウンド」を歌って聴かせたという(レノンは1968年のローリングストーン誌のインタビューで「ディランが”どうだ?”と言うから、僕は”好きじゃない”と答えた」と語っている)。しかし、もしかしたらディランは、自身の「ジョアンナのヴィジョン」や「ローランドの悲しい目の乙女」が、ビートルズの『ラバー・ソウル』から受けた影響の大きさを隠すために、「ノルウェーの森」をあからさまに模倣せざるを得なかったのかもしれない。




ディランは1965年10月に、ザ・バンド(当時はザ・ホークス)と共にニューヨークのスタジオでセッションを開始した。セッションでは、騒々しいシングル曲「窓からはい出せ」をはじめ、長い間ブートレッグとして人気の高い「シームズ・ライク・ア・フリーズ・アウト(”ジョアンナのヴィジョン”の原曲)」「ナンバー・ワン」「シーズ・ユア・ラヴァー・ナウ」などがレコーディングされた。ディランが楽曲の出来に満足しなかった理由は知る由もない。しかし1966年1月末までに、アルバム向けに仕上げたのは1曲だけだった。アルバムのハイライトのひとつと言える、無情な楽曲「スーナー・オア・レイター」だ。1966年2月、ディランはプロデューサーのボブ・ジョンストン、オルガニストのアル・クーパー、ギタリストのロビー・ロバートソンを伴ってニューヨークを離れ、ナッシュビルに3日間滞在した。ナッシュビルのミュージック・ロウには、チャーリー・マッコイ、ハーガス・”ピッグ”・ロビンス(ピアノ)、ジョー・サウス(ベース)、ウェイン・モス(ギター)、ケニー・バトレー(ドラム)も集結した。

毎日決まった時間に仕事するカントリーソングのプロだった彼らは、ディランのエキセントリックなやり方に慣れるのに苦労した。ディランが書きかけの曲の仕上げに熱中している間、ミュージシャンらは真夜中過ぎまでスタジオの事務所でカードゲームをしながら時間を潰さねばならなかった。彼らがスタジオへ呼ばれて演奏を始めるのが午前4時ということもあった。ところがいざレコーディングを始めると、曲が3分で終わらないことに、皆が唖然とした。ミュージシャンたちが最後のコーラスを演奏しているつもりでいると、ディランは追加で別の歌詞を歌い出すのだ。「片手でドラムを叩きながら、腕時計を確認したものさ」とバトレーは、当時を振り返る。「全員があんな経験は初めてだった」と証言した。およそ12分後に、彼らはようやく「ローランドの悲しい目の乙女」の演奏を終える。



ナッシュビルでの3日間でディランとミュージシャンたちは、「ジョアンナのヴィジョン」、「フォース・タイム・アラウンド」、「メンフィス・ブルース・アゲイン」もレコーディングした。1966年3月に再びナッシュビルを訪れた際は、ベースにヘンリー・ストルッゼレッキーを迎えた。彼らは徹夜で6曲をレコーディングし、「アイ・ウォント・ユー」を仕上げたのは明け方になってからだった。しかしミュージシャンたちは全員が、荒削りな楽曲の数々を伸び伸びと演奏することで、エネルギーを得たようだった。例えばあるアウトテイクには、「ヒョウ皮のふちなし帽」のロバートソンのギターに対して、マッコイが「世界中が君と”結婚”したいと思うだろうよ!」と満足げに語る声が入っている。

あまりにも仕上がりの良い楽曲が多かったため、『ブロンド・オン・ブロンド』は1966年5月16日に2枚組アルバムとしてリリースされた。モッズコートを着てチェック柄のマフラーを巻いたディランがニューヨークの冬の街にたたずむ姿を撮った、ジェリー・シャッツバーグによるジャケット写真も素晴らしかった。ディランは、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』と『ナッシュヴィル・スカイライン』のジャケット写真でも同じコートを着ている。当初、『ブロンド・オン・ブロンド』の見開きジャケットにはイタリアの映画スター、クラウディア・カルディナーレの写真が使われていたが、残念ながら後のリリースでは削除された(ナッシュビルでクラウディアは、ディランほど場違いな存在ではなかっただろう)。2カ月後の1966年7月29日(日付に関しては諸説ある)にバイク事故を起こしたディランは、突然表舞台から姿を消した。肉体的な傷とスターにつきものの精神的なダメージを癒すため、彼はウッドストックに籠り、翌年は公の場に現れなかった。ロックンロールな生活が、彼の心身を冒していたのだ。

『ブロンド・オン・ブロンド』のサウンドからも、各楽曲が当時のディランの状況を反映していたことがわかる。55年以上が経過した今、『ブロンド・オン・ブロンド』は、ボブ・ディランが運良く無事に生き延びられた証となる作品だ。

From Rolling Stone US.



LP 
『ブロンド・オン・ブロンド』
2022年6月22日発売 ¥6,050(税込)
購入:https://BobDylan.lnk.to/BlondeonBlondeJPLPFA

1] ソニーミュージックグループ自社一貫生産アナログ・レコード、180g重量盤、完全生産限定盤
[2] 2022年Sony Music Studios Tokyoにてカッティング
[3] 新対訳&訳者ノート(佐藤良明)付
[4] 日本初発売時の解説(中村とうよう)、2013年解説(クリントン・ヘイリン)、補足(菅野ヘッケル)収録
[5] ジャケット外装(A式Wジャケットを採用)、日本初発売時のLP帯再現

祝・デビュー60周年アナログ・レコードの詳細:https://www.110107.com/dylan_60/

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