小田和正が追求する音楽の普遍性、オフコース時代から現在までを辿る
Rolling Stone Japan / 2022年7月18日 9時30分
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年6月の特集は「小田和正」。2022年6月15日に発売になる新アルバム『early summer 2022』を中心に、小田和正の歴史を辿る。パート4はオフコースの楽曲から現在の小田和正まで、その音楽や歴史を紐解いていく。
田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのはオフコースの1982年の曲「NEXTのテーマ -僕等がいた-」です。彼らが制作したテレビ番組「NEXT」のテーマ曲でした。今週の前テーマはこの曲です。
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NEXTのテーマ -僕等がいた- / オフコース
今月2022年6月の特集は「小田和正」。新作アルバム『early summer 2022』8年振りのアルバムですね。このアルバムを中心に小田さんのこれまで、そしてこれからをいろいろと検証してみようという1ヶ月です。小田さんと近しい関係者の方がこのアルバムをどう受け止めているかということで、先週まで3週お送りしてきました。今週はパート4です。最後はどういう締めくくりにしようか、いろいろ考えたわけですが、今日は私1人でお送りしようと思っているんですね。今までのくくり方で言うと、1番年齢が近い取材者となりますね。小田さんと1つしか歳が違わないわけですし、70年代から見ている一人として、自分の番組で小田さんの特集をするのは、ひょっとしたらこれが最後になるかもしれないなという気持ちが強くあるんです。
小田さんは自分から引退宣言はしない人だと思うのですが、彼も今回のアルバムが8年振りだし、全国ツアーは3年振りだし、そういうローテーションで考えると、ひょっとしてということもありえるわけで。今日、なぜ「NEXTのテーマ -僕等がいた-」で始めたか。これは5人のオフコースの最後のライブ、1982年6月武道館10日間の後に放送されたテレビ番組「NEXT」のテーマですね。歌詞にあるように「僕等の終わりは僕等が終わる。誰もそれは語れはしないだろう」という、自分たちの終わりに対してとても毅然とした姿勢がありました。〈他人の手は煩わせない〉とか〈誰にも分かってもらおうと思わない〉みたいなことが1982年の彼らだった。40年経った今、”終わり方”みたいなことが、小田さん、私も含めてなのですが、なんとなく目の前に見えている中であらためてこの曲で始めようかなと思っての前テーマです。
これだけ時間が経って、今自分たちのこれまでのことをどう思っているか。新作アルバムの中では「ナカマ」もそういう曲でした。つまり小田さんは、僕等という自分たちのチームみたいなことを歌っていた。今日はそのアルバムの中からこちらをお届けしようと思います。40年後のアルバム『early summer 2022』から「坂道を上って」。
田家:この曲について、小田さんはご自分でコメントを出されています。「ドラマが書かせた曲」。ドラマが書かせたとはいえ、若い頃にはこんなふうに思わなかっただろうし、歌えなかったでしょうね。全てが懐かしく思えるようになった。僕らはこうやって大人になっていったんだよねと歌えるのは、時間が経ったから以外の何者でもないですね。「NEXTのテーマ」は1982年です。オフコースが終わるか終わらないか、解散するかしないか噂がある中で作られたドラマで、その主題歌でもあった。この2曲を比べると、40年という時間がどういうものなのかちょっと感じられたりするのではないでしょうか。
流れているのはオフコース、1979年のシングル「愛を止めないで」。アルバムは『Three and Two』。なぜこれをおかけしているか。当時、いい曲だなーと思ったんですよ。この曲の勢い。カタルシスという意味ではオフコースに対してのイメージが全然変わったんですね。もちろん彼らのことは知っていたわけです。認識したのが1973年の「僕の贈りもの」ですね。アルバムは1975年の『ワインの匂い』でしょうね。「僕の贈りもの」は当時私が構成していたラジオ番組でよく流していたんです。でも、扱い方がどちらかと言うと清涼剤的な曲。言葉がちょっと悪いんですけど、箸休め的な扱いと言うのかな。当時、フォークロックがいろいろかかる中で、ちょっと気持ちを替えるとか、穏やかな気持ちになるという扱い方で「僕の贈りもの」はよくかかっていました。
1973年、1974年、1975年というのは、吉田拓郎、井上陽水の絶頂期ですからね。勢いのあるフォークロックが多くて、男性的なものも多かった。ハーモニーが綺麗な洗練されている育ちの良さそうな2人組は主流じゃなかったわけで、でもみんなそういうものがあるとホッとするような存在だったんです。そこから始まって5人になって、照明とかPAのチームを組んで、自分たちの事務所も立ち上げ地固めをしながら1つ1つ積み上げてきたのが小田さん、オフコースの70年代。その地固めが終わったのが1979年。狼煙のような曲に思えた。この曲で突き抜けた気がしたんです。今日は『あの日あの時』からセルフカバーをお届けしようと思います。
田家:この曲の中に〈眠れぬ夜はもういらない〉という歌詞がありますね。彼らの最初のプチヒットになるのかな。「眠れぬ夜」ですね。とても上品なポップスだった、もうそういうところに僕らはいないんだということでもあるんだなと思って聴いていました。そんなことも懐かしく思えたりしますね。
1979年に田園コロシアムで2日間コンサートをやりました。そのときのことを小田さんがインタビューで言っていたことがあるんです。「俺たちを聴いてくれる人がこんなにたくさんいるんだというふうに感動した」と。田園コロシアムは数千の客席しかありません。でも、当時はそこにそれだけの人が集まるということで感動できた。売れるとか売れないということが彼らの音楽の基準ではなかった。これは先週までの3人の方がおっしゃっていましたが、本当に自分たちの納得できる音楽を作り続けてきた。そういうキャリアだということをあらためて思い出したりしました。
田家:私が選んだ3曲目、1980年3月に発売されたシングル「生まれ来る子供たちのために」。この前のシングルが1979年12月に出た「さよなら」です。「さよなら」は売れることを意識して作った曲だというのは、小田さんがインタビューなどで公言されてきたことです。その後に出たシングルがこれで、レコード会社は当然大反対した。いや、「さよなら」みたいな売れる曲にしてくださいと。でも、小田さんの方はこれを伝えたいんだ、これを出したいんだということで出されたシングル。個人的にもオフコースに対して1番見方が変わったのが、「生まれ来る子供たちのために」だったんですね。
1980年3月ですから70年代が終わった後。70年代は本当にいろいろなことがあって、大変なこともあったりして。でも、そこを乗り越えて新しい時代が来た。佐野元春さんとか新しい人たちが登場してきたのが1980年で、やっぱり時代が変わったと思えていたときにこういう曲「生まれ来る子供たちのために」が出た。そういう人たちと全然違うところを見ている歌が登場したと思ったんですね。オフコースってこういうバンドなんだと思ったという意味では、目からウロコの1曲でした。
音楽に対して何を託そうとしているのかがこんなにストレートに出ている曲は、当時も聴いたことなかったなと思ったんです。歌詞というより、祈り。それがそのまま歌になっている。この曲を聴いたとき、何の根拠もない中で、「あ、オフコース一生聴くかもしれないな」と思ったんですね。「あ、俺このバンドとはずっと付き合うな」と思った。その付き合い方がどうなるかは全然分かりません。僕もこんなに長くこういう仕事をしていると思っていませんし、でもオフコースは今みんなが言っていることとは違うな、ずっと付き合えそうだなと思ったのは間違えないことでもあります。今日こうやって最後の週で小田さんの話をするにはこの曲を欠かすわけにはいかないという曲を小田さんのセルフカバーでお聴きいただきます。
みんな30代になったばかりですからね。鈴木慶一さんがゲストに来られたときに、moonridersの曲「DONT TRUST OVER THIRTY」のように”30以上は信じるな”という言葉があったと言っていましたけども、みんな長髪で。でも父親になる人たちが増えていた。私も子どもができて、こんなに世の中と折り合いがついていなくて、どうやって子どもを育てればいいんだろうとか、この子どもは将来どうなるんだろうと思い始めた時期だった。日本の未来とか考えざるをえなくなった。自分のやってきたことを見直したりする。そんな時期にこの曲を聴いたわけで、小田さんも音楽を自分の一生の仕事にしていいかどうか、なかなか答えが出ないで早稲田の建築の大学院に行って、建築を勉強してやっぱり音楽なんだということで戻ってきた。オフコースのオフっていうのは道を外れるという意味がありますからね。一度はまともな人生を外れたという意識は、彼の中でもどこかでずっとあるんだと思うんですね。それをこんなふうに祈りのように歌った。この曲が胸を打たないわけがない。〈この国〉という歌詞が浜田省吾さんの「路地裏の少年」の〈いつかはこの国 目を覚ますと〉と繋がったりもして、オフコースに対しての当時のファンの方たちが聴いていたのとは全然違う受け止め方をしたんですね。
田家:今日の4曲目です。小田和正さんの2000年のソロアルバム『個人主義』の中の「the flag」ですね。「生まれ来る子供たちのために」の20年後だったんだなとあらためて思いました。30代が50代になるわけですね。この曲も「生まれ来る子供たちのために」を聴いたときと同じような共感を持ったんです。あ、俺たちの歌というふうに思えたんです。
小田さんの90年代はバンド時代と激変しました。バンドとソロで活動の仕方が変わったという意味では、歴史的に変わった1人でしょうね。テレビに全く出なかった人なのに、1991年の「ラブ・ストーリーは突然に」がいきなりテレビから流れて、”ラブソングの教祖”扱いされるようになってしまった。その後、映画を2本作ったり、とても活発な活動をするようになって。1995年の阪神淡路大震災の時もそうでしたけど、泉谷しげるさんがスーパーバンドを作ってチャリティ活動を始めた。泉谷さんを最も支えたのが小田さん。拓郎さんとかいろいろな人たちがいる中でまとめ役でした。
1985年の「ALL TOGETHER NOW」もそうですね。国立競技場でいろいろな人たち、70年代世代と80年代世代が集まったときに1番積極的だった1人が小田さんですよね。80年代、90年代のシーンの中心に彼はいた。で、1997年に50歳になった。40代すら想像できなかった世代、50代なんてもっと遥か彼方にあったわけですね。50代になって作ったのがアルバム『個人主義』です。1997年のツアーパンフに残された時間をどう使うかというふうに小田さんが発言していました。この後、1998年に東北自動車道で九死に一生の交通事故があって、ファンから生きていてくれてよかったという手紙をたくさんもらって、考え方が変わったと発言している場面もありました。この『個人主義』は「the flag」のためのアルバムにも思えたんです。
シングルになっていない曲ですから、耳馴染みのない曲になると思うんですけども、これが小田さんのある一面、1番根底にあることでもあると思うんですね。2000年というのはバブルが崩壊して、世の中が変わった時です。小田さんの学生時代の仲間は建築業界に入ってるわけですね。大学院で建築を勉強していた人ですから、設計士になったり、そういう現場で働いた人も多いでしょう。そういう人たちが50を前に肩叩きにあったりする時代になった。同世代に向けて、もう1回戦おうよということをこんなふうに歌っていた。何せ”武器”ですからね。
「ラブ・ストーリーは突然に」で小田さんが好きになって、ラブソングの教祖と小田さんを持ち上げていたメディアの人たちもギョッとしたんじゃないでしょうかね。俺の武器はなんだろうと考えざるをえない状況で生きてきましたから、小田さんが武器という言葉を使ったときに、あ、俺たちの歌と思えたんですね。なぜ自分が音楽に関わっているのかということもあらためて問い直された。俺もそこに行くよと思えた、そんな曲でもありました。
田家:今日の5曲目ですね。2007年に発売されたシングル「こころ」。「ラブ・ストーリーは突然に」以来の1位ですね。アルバムは2007年の『自己ベスト -2』に入っておりました。小田さんの音楽を一言で言うと、”普遍性”だと思うんです。いつどんなときにどんな人が聴いても理解できる。どこまで分かりやすくできるか、それをずっと突き詰めてきている。特にこの20年、2000年代以降はそういう時間だったんじゃないかと思います。
アルバムで言うと、2000年に『個人主義』が出て、その後のアルバムが2005年の『そうかな』なんです。『個人主義』はさっきの「the flag」が入っていたように、1人1人個人の生き方を歌ったアルバムでもあったんですけども、『そうかな』はそこから次に行く過程そのもののようなアルバムに思えたんですね。象徴的なのはタイトルがなぜ『そうかな』になったのか。「相対性の彼方に」というのが小田さんが考えているタイトルだった。それはあまりにも難しすぎるんじゃないですかとスタッフとか、メーカーの人から言われて、『そうかな』になったという。ですから「相対性の彼方に」という言葉はアルバムに入っていました。
相対性というものはいろいろなものがあって、これも価値があります、これにも意味がありますということなのですが、その向こうに絶対的なものがある。音楽に永遠の答えなんてあるのだろうかというのも『そうかな』になった経緯でもあったのだと思うのですが。「相対性の彼方に」を『そうかな』にしたことで、分かりやすさの角を曲がったと思った、分かりやすさの扉を開けた。で、『そうかな』に入っていたシングルが「たしかなこと」なんです。『個人主義』で歌っていたことと、この『そうかな』で歌っていたことにはやはり変化があるんだろうと思いますね。
で、「たしかなこと」のカップリングが「生まれ来る子供たちのために」だった。「たしかなこと」の次が「大丈夫」ですね。この「たしかなこと」、「ダイジョウブ」、「こころ」というのは、分かりやすさ三部作の1つの象徴ではないかなと思ったりして、今日はこの曲を選んでみました。2007年というのは小田さんが還暦になった年ですからね。そういう意味では30代、50歳、還暦という3曲が続くことになります。
小田さんのインタビューで「夏目漱石みたいに聴かれたい」という話を聞いたことがあるんですね。つまり100年経っても夏目漱石が読まれているように、自分の音楽もずっと聴かれることが理想だと。ミュージシャンが好きな作家を挙げる、いろいろな例がありますけども、例えば村上春樹とかサリンジャーと言う人が多い印象の中で、夏目漱石ですか、と思ったことがありました。夏目漱石には『こころ』という小説もありますし、小田さんの「こころ」はまさにそういう曲なんだと思います。1番メジャーなところで発表された夏目漱石のようなポップミュージックがこれではないでしょうか。
田家:今日の6曲目です。2011年のアルバム『どーも』から「東京の空」。これは「クリスマスの約束」で初めて披露された曲でもあります。先週のゲストの木村史郎さんが選ばれたのがこのアルバム『どーも』の1曲目「君のこと」だったんですね。ギター1本で歌われていて、アルバムの最後がこの曲だった。ピアノだけで歌われる「東京の空」。この曲はライブで聴いていて、涙ぐんじゃった曲です。
2011年4月に発売になったアルバムが『どーも』です。「東京の空」がいつ書かれたのか、これは確かめたことがないので、震災の前だったかもしれないのですが、2011年、あの年の僕らの気分。テレビを観ながら、空を見上げて俺には何もすることができないな、無力だなと思って涙するしかない。そうやってニュースを観ていたのが2011年。そして、この3年間、2019、2020、2021。今年もそうか、僕らは関東、東京にいるわけですけども、東京にしかいられないでどこにも行けなくて、東京の空しか見ていられなくなって、上手くいかない人の方が周りにも多くて。頑張れと言っても何の力もないな。頑張れって言葉にそんな意味がないんじゃないかなって思ったりしている。その中でこの「東京の空」は上手くいかない人を歌っていた。今でもこの曲を聴くと、胸が熱くなりますね。頑張れとは言わないんだけれども、救われる歌。時の流れを超えたある種の諦観、達観の歌だと思うんですね。
新作アルバム『early summer 2022』は小田さんの中の風と空の道のアルバムと思ったのですが、「生まれ来る子供たちのために」に中にも空が出てきますし、この「東京の空」も空の歌ですし、今回の新作アルバムも空の歌がたくさんあります。小田さんの空ソングの傑作だと思っています。
小田さんのインタビューの中でいくつも忘れられない話があるんですけども、身の回りの環境のことがテーマになったことがあるんですね。つまり、環境のせいにしない。環境を変えることで何かを変えようと思っていない。仙台の下宿の話だったと思うんですけど、自分はそんなに立派なところに住んでいなくて、友だちの中にはすごくいいところに住んでいる人もいた。でも、そういうことを羨んだり、自分もそういうところに行こうとしない。人間関係も含めて何か不満があったとしても、そこで何かをできるか考えるんだ。自分の責任。いろいろなことを自分の問題として受け止める。あ、それが小田さんなんだと思ったことがありました。そういう人が歌った上手くいかないときの歌がこの歌です。
田家:今月小田和正特集の最後、今日の7曲目オフコースの1988年「君住む街へ」。1988年のアルバム『Still a long way to go』の中の曲です。歌っているのは当時のオフコースメンバー4人。小田さんを1番取材していた時期があって、それがこの4人のオフコースのときだと思うんですね。1987年に『as close as possible』というアルバムが出た。そのアルバムを携えたツアーの同行写真集というのがあったんです。全国69本のツアー。それの同行取材をしたんですね。レポートは原稿用紙100枚ぐらいだったかな、結構長いんですけど、それを写真集につけたんです。ツアー中に作り始めて、最後に武道館が8本あったんですけど、その客出しで流れたのが「君住む街へ」ですね。そして、オフコース最後のアルバム『Still a long way to go』の中にも入っておりました。最後のツアーの最後の曲がこれだったんですね。102本のツアーでしたね。そのツアーもかなり行きました。解散発表はそのツアー中に聞いたと思います。佐世保だったと思うな。
そのツアーで使われていた映像が中学生が登場する映像だったんですよ。北海道の帯広で撮影されたらしいんですけど、その中学生の笑顔があまりにも良くて、この曲の映像で何度も泣きましたね。小田さんのツアーの映像と言うと、1982年6月武道館で使われた「言葉にできない」。あそこでひまわりの映像が使われましたけども、コンサートと映像ということでもオフコース、小田さんはパイオニアでありました。当時中学生だった人たちが今も支えているんですね。コンサート会場にその頃の中学生がいらっしゃるんでしょう。そんなことを思いながら今日最後の曲を小田和正さんのバージョンで「君住む街へ」。
あ、小田さん変わったなと思ったのが、10数年前でしょうかね。もうちょっと前かな。ライブの後にゲスト挨拶がありますよね。ちょっと広い楽屋でご本人も出てきて、今日はありがとうございましたと、関係者も含めてゲストの人と挨拶をする。そのときに小田さんが全員と写真を撮るようになったんです。かなりの人数がいますけども、全員と2ショット写真を撮る。2時間半歌った後ですからね。それを見ていて、自分の役割みたいなことをここまで考えるようになったんだと思ったんです。無私って言葉があります。私が無い。つまり、みんなが喜んでくれるんだったら、みんなのためになるんだったら俺は出来るだけのことをやるよ。そういう心境になったんだなと思ったことがありました。自分の歌が何のためにあるのか。「君住む街へ」は今もライブで重要な曲です。そういう歌のようにあらためて思いました。
田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」。6月15日に8年振りのアルバム『early summer 2022』を発売した小田和正さんの特集。今週はパート4。同世代の取材者というよりも同世代の聴き手の1人としてお送りしました。流れているのはこの番組の後テーマ竹内まりやさんの「静かな伝説」です。
話しているといろいろなことを思い出して、とりとめなくなるかなと思いましたがなんとか辿り着きました。実はゲストに小田さんの事務所ファーイーストクラブの副社長吉田雅道さんにお願いできませんか? という話をしたことがあるんです。出演は叶わなかったんですけども、久しぶりにお茶でも飲みましょうよということで話をしたんですね。彼はオフコースカンパニーに入って、30年以上小田さんと一緒にパートナーとして仕事をされているわけで、あらためて小田さんのことをどう思っているんだろうと思って訊いてみたりしました。話の中でいくつか印象的なことがあって、絶対に嘘をつかない。いい加減な話をしない人ですねと。そして、ともかく音楽が大好き。それしかない人ですねと言っていましたね。
業界は適当なことが多いですから、その場限りでなんとか収まればいいやみたいな話が結構あるんですけど、そういうことは絶対に許さない。それは絶対に見透かされる。本音で話をしないと始まらない。それはずっと変わらないんだろうと思います。もし、変わったことがあるんだとしたら、”終わり”の意識でしょうね。嫌でもそういうときが来るんだということを実感として捉えるようになった。冒頭でお聴きいただいた「NEXT」のように〈僕らの終わりは僕らで終わる〉というのとは少し状況が違う、そういう年齢に差し掛かっているということですね。でも待っている人がいて、必要としている人がいるなら歌う。そういうところに差し掛かっている小田和正さんですね。
冒頭を「NEXT」で始めましたけども、オフコースの1982年の伝説の武道館10日間のコンサート。最終日6月30日のライブがボックスで8月30日に出るんだそうです。そのライナーノーツを書くことが決まっております。最後はお知らせでありました。ともかくツアーがいいツアーで最後まで行って、小田さんがまた歌おうと思ってくれることを願いながら終わりたいと思います。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
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