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八神純子が日本人初全米女性ソングライター殿堂入り、その軌跡を辿る

Rolling Stone Japan / 2022年7月20日 7時0分

八神純子

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年7月の特集は「八神純子」。1978年にデビューして80年代前半、シティ・ポップス、シティミュージック・ムーブメントの立役者の1人である彼女が、2022年6月24日、全米「女性ソングライターの殿堂」で日本人初の殿堂入りを果たした。パート1ではデビューからアメリカへ渡米するまでのヒット曲を紐解き、その歴史を辿る。

田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは八神純子さん「黄昏のBAY CITY」。1983年のシングルです。アルバムは同じ1983年に発売になった7枚目のアルバム『FULL MOON』に入っておりました。今月の前テーマはこの曲です。

関連記事:音楽本特集第一弾、朝妻一郎が語る音楽にまつわる権利と日本のポピュラー音楽史



今月2022年7月は「緊急特集 八神純子」。6月24日、日本人ではじめて、アメリカの「女性ソングライターの殿堂」に表彰を受けて、殿堂入りしたという知らせが飛び込んできました。で、急遽「八神純子 特集」をお送りしようと思います。1978年にデビューして80年代前半、今で言うシティポップス、シティミュージックが1つのムーブメントになっていたときの立役者の1人。1980年代半ばに結婚してアメリカに移住して、東日本大震災を契機に日本での活動を再開した彼女の軌跡をあらためて辿ってみようという1ヶ月です。

殿堂入りするきっかけのひとつが、今流れている「黄昏のBAY CITY」ということで、この曲を今月の前テーマにしております。4週間に渡ってご本人に登場していただくことになっていたのですが、実は今朝ご本人から連絡がありまして、体調を崩してこれから病院に行かなければいけないので、今日のスタジオは本当に申し訳ないのですが伺えなくなりましたということでした。そんなに余裕のあるスケジュールでは進行していないので、これは1週目だけは収録しないと穴が空くということで、私一人でやりましょうかとなりました。



4週間のテーマを決めて彼女にも了解いただいて、こういうことでやりましょうと話をしていたんですね。1週目は殿堂入り表彰を祝して、殿堂入りをどう思ったかということと、彼女がアメリカでどんな活動をしていて、彼女にとってのアメリカはどういう国で、自分の中の洋楽の夢はどんなもので、今どういう気分でいるんだろうというのがテーマだったんです。

2週目はアメリカに行く前、デビューしてから誰もが知っている純子ちゃん。ヒット曲がいっぱいありましたからね。その頃のことを辿って、それから3週目と4週目で日本に帰って活動を再開してからのアルバム3枚を2週に分けてやろうという4週間でした。

彼女の本格デビューは1978年の1月「思い出は美しすぎて」なんですけど、その前のキャリアもちょっとあるんです。プロデビューする前にレコードを出してたことがある。デビュー前に文化放送でラジオ番組を持っていた。彼女が喋って、もう一人男性がいて、彼のことは後ほどお話をしますけども、その番組の構成を僕がやっていたんです。本格デビュー前から彼女のことを知っていたりするわけで、ヒット曲がいっぱい出た当時のことは割とそばで見ていたので、今日はその話から始めて、こんなに立派になったんだという1ヶ月になればと思っております。この曲から始めることになりますね。1978年1月5日発売、20歳の誕生日に発売されました、本格デビュー曲「思い出は美しすぎて」。



田家:1978年の1月にこの本格デビュー曲「思い出は美しすぎて」がディスコメイトという、なくなってしまったレコード会社から発売されたんですね。でも、その前にキャニオンから2枚シングルが出ているんです。1974年に「雨の日のひとりごと」、1975年「幸せの時」。YAMAHAのポプコンの優秀曲賞と入賞曲です。彼女は1974年と1975年のポプコンに出ておりまして、みゆきさんと一緒だった時期があります。ポプコンと言えば、キャニオンレコードですからね。そういうデビューの話があったんでしょうが、高校卒業を待って、もっと本格的な形でデビューさせたいというYAMAHAの意向もあったんでしょうし、ご家族の考え方もあったんでしょう。卒業するのを待って、20歳の誕生日に出たのが「思い出は美しすぎて」なんですね。それまで彼女は名古屋から東京に通って、番組をやっておりました。





田家:流れているのは1979年7月に発売になったシングル「ポーラー・スター」ですね。デビュー前にそこまで彼女が期待されて、注目されて、高校3年生のときはチリ音楽祭というところに招待されて、向こうで歌ったりしているんですよ。そういう意味では本当に満を持して世に送り出された女性だったわけですけど、当時の時代は今ではいろいろ考えられないようなことがあって。高校を出たばかり、そんな若い女性シンガーソングライターがいる場所がなかなかなかったんです。アイドルがわりと力を持っている状態ですから、彼女もいろいろな狭間の中で悩んだ時期だったと思うんですね。こういう話は本来ご本人にお聞きしようと思っていたのですが、でもそれは客観的にもそうだろうなということがいろいろありました。

デビューアルバム『思い出は美しすぎて』が1978年6月に出ていて、先程の「思い出は美しすぎて」をタイトルにしたアルバムなんですけど。アルバムの中でオリジナル曲があまりない。オリジナルのアレンジをしていたのが、大村雅朗さんです。あらためて彼女のいろいろなアルバム、シングルを見てたりして、これも大村さんだったんだとあらためて思いました。「みずいろの雨」が大村雅朗さんということはわりと有名なんですけど、オリジナルアルバムの中で最初のシングル「雨の日のひとりごと」をリメイクしているのですが、これも大村さんなんですね。ボサノバの曲なのですが、とてもおしゃれなアレンジなんです。大村雅朗さんは松田聖子さんの仕事で評価が高いですけど、松田聖子さんのディレクターが大村さんを起用しようとしたきっかけは八神純子さんを聴いてだったという話を聞いたことがあります。そういう意味ではあらためてデビュー当時の八神純子も、違う光の当て方があるといいなと思ったりしながらヒット曲をお聴きいただこうと思います。

このシングルは「みずいろの雨」の後です。1978年の9月に「みずいろの雨」が出て、その次の次のシングル。今日は「みずいろの雨」はおかけしません。なぜかと言うと、当初は1週目の予定だった来週の放送の中で「みずいろの雨」が出てくるんです。これもなぜかと言うと、彼女に選曲のテーマをお願いしたんです。6つお願いしました。1つは洋楽を意識して書いた曲、洋楽に負けたくないと思って書いた曲、洋楽に勝ったと思えた曲。それから向こうに行ったから書けた曲。向こうの人に褒められた曲。今回の表彰に関係している曲。そういうテーマで選曲してください。全体的には私とアメリカということですとお願いしたら、「みずいろの雨」は「洋楽に負けまいと思って書いた曲」として出てきたんです。「えーそうだったんだ!」と思って、あらためて「みずいろの雨」と洋楽という話を来週お届けしようと思います。ですから今日はかからないのですが、他のシングルはいろいろかかります。





田家:1980年7月の「パープルタウン~You Oughta Know By Now」をお聴きいただいております。「パープルタウン」が出たのが1980年4月、アルバムが『Mr. メトロポリス』。彼女がデビューしたときに最初から自分のバンドがあった。メルティング・ポットというバンド名で。20歳になった日にデビューしたシンガーソングライターで、最初から自分のバンドを持っていたケースはあまりなかったですね。彼女自身がそうだったし、YAMAHAにミュージシャン志向の人たちがスタッフにいた、ちゃんとしたバンドで良い音のステージをやりたい。彼女をそういうシンガーソングライターにしたいというので、そういうデビューになりましたね。

『Mr.メトロポリス』というタイトルとか、メルティング・ポットとか、先程の「ポーラー・スター」、これは北極星ですからね。当時、アイドルでは扱わないようなテーマやバンド名、曲名がいろいろあって、彼女が当時から洋楽思考だったんだなと、あらためて思ったりもしました。1980年の4月、彼女は1回仕事を整理してニューヨークにホームステイに行った。ですから文化放送でやっていた「デデと純子のミュージックトリップ」という番組はデビュー前の1976年に始まって、「みずいろの雨」があって「ポーラー・スター」も出て、1番スター街道になったときに「私はアメリカに行きたい」ということで番組が終わった。帰ってきて出したのが、この「パープルタウン」なんです。

全米の「女性ソングライターの殿堂」から表彰されることを、もちろん彼女は思ってもなかったでしょうし、こういう形で報われることがある。神様のご褒美みたいなことじゃないかなと思ったりもしながら、キャリアを辿り直しております。「パープルタウン」、これはまさにニューヨークのことですからね。

1978年1月にデビューした20歳の八神純子さん。この曲は1980年7月ですからね。まだ1978、1979年と2年半しか経っていないのですが、どんどん曲調が変わり、歌い方もダイナミックになっていった。短期間の中でそういう変化を辿ったりしたんだなと思ったりしながら聴いております。あらためて驚いたことなのですが、「パープルタウン」が入っていたアルバムはベスト盤なんです。そのベスト盤の半分の曲が八神純子作詞・作曲ではなかった。YAMAHAのポプコンの歌をカバーさせられている。「させられている」なんて言っちゃいましたけど、そういうアルバムなんです。これがヒットして、半ば便乗した形でポプコンの他の曲も彼女に歌ってもらって、あわよくばというアルバムだったんじゃないかなと。推測ですし、当時のスタッフも知っているのであまり批判的なことは避けようと思うのですが、そういう時代があったんだなと思ったんです。

アイドルがやっぱり力を持ってましたから、竹内まりやさんも1978年にデビューしているわけで、顔がかわいかったり美人だったりすると、アイドル扱いみたいなところに業界が流れていった。その中で、私はちゃんと音楽をやりたいんですと思った方が、いろいろな形で苦労した時代でもあります。彼女もヒット曲なんだけれどもテーマとかメッセージを考えながら曲を選んだり、作詞家にお願いしたり自分の曲を書いたりという時代だったと思っていただけると、八神純子ヒットパレードも違った受け止められ方をするのではないかと思ったりもして、この曲をお聴きいただきます。1980年11月発売のシングル「Mr.ブルー~私の地球~」。





田家:今日お聴きいただいている「ポーラー・スター」、「パープルタウン」、「Mr.ブルー~私の地球」。全部アレンジが大村雅朗さんなんです。「みずいろの雨」も、もちろん大村さん。あらためて大村さんのアレンジを八神純子さんを通して見ていくと、やっぱりメロディの持っている繊細さをどう広げるかということがとても上手い人だなと思います。メロディの持っている力強さをどう増幅していくか。その力強さで言うと、「Mr.ブルー~私の地球~」は大村さんのアレンジがとても活きている曲ですね。この曲はテーマが地球です。その前がニューヨーク、人種の坩堝。その前が北極星。宇宙とか都市とか地球ということを歌って、ヒット曲を飛ばしていた。当時の女性が歌っていたヒット曲がありましたけども、あらためてメッセージ性を持ったヒット曲だったんだなというのが、こうやって今日お送りしている感想の1つでもあります。

去年、八神さんのアルバムが出ました。それは『TERRA - here we will stay』という素晴らしいアルバム。全体がコンセプトアルバムになっていて、TERRA・地球というのが歌われていて。そのアルバムのインタビューをしたときに、このアルバムは「Mr.ブルー~私の地球~」の今の形、大人になったからできたように思えますね」という話をしたら、「そうなんですよ。「Mr. ブルー~私の地球~」の続編みたいなアルバムです」というふうに言っていたんです。で、この1ヶ月、最終週で『TERRA - here we will stay』をご本人をお迎えして聴いていこうというのが、この先の予定でもあるのですが。





田家:流れているのは1981年3月に発売になったシングル「Im A Woman」ですね。この曲が出たときのことはよく覚えています。あ、こういうことを歌うようになったんだという意味では、とても印象的でした。「ポーラー・スター」、「パープルタウン」、「Mr.ブルー~私の地球」が宇宙、都会、地球の三部作だとしたら、これは私は女よ、女性よっていうことをはっきり言った。この曲が出たときにレコード会社のスタッフと意見が食い違って、こういうことは歌はない方がいいよということを当時のディレクター、プロデューサーからが言われたという話は聞いたことがありました。まあ、ガールポップという言葉すらなかった時代ですからね。ガールズバンドはもちろん80年代後半にいろいろ出てきているわけで、女性がこんな風に私は女よと歌うと、まず反発される、足を引っ張られる、何、あいつというふうに見られる時代でもありました。80年代の始めというのはみんなが浮かれていましたから、楽しい楽しいというふうに日本中はお祭りになっているようなときに、こういうメッセージを歌って、そういう反発みたいなものもあったわけです。

今回の「女性ソングライターの殿堂」には正式な名前があります。「Women Songwriters Hall of Fame 」。つまり、女性ソングライターたちの栄光、名誉の殿堂なんですね。そこから表彰されたということで、1981年に23歳になったばかりで「Im A Woman」と歌ったときの純子さん。当時はまだ純子ちゃんと言っていましたけども、純子ちゃんが今どんなふうに思っているだろう。当時の彼女にそのままでいいんだよということを伝えてあげたくなるような、そんな表彰だなと思いました。

80年代にアメリカへ取材に行ったりして、向こうの女の子たち10代、高校生とか若い女の子と話をする機会もあったりしたのですが、日本と何が1番違ったかと言うと、かわいいという言葉に対しての反発。「君かわいいね」って言うと、「バカにしないでよ」って言われる。prettyっていう言葉は向こうの10代の女の子たちの前では使っちゃいけないんだって、自分たちに対しての戒めとしてありましたね。girlって言われると、みんな嫌がる。私はそんな子どもじゃないっていうことが、ニューヨークとロサンゼルスぐらいしか当時知らなかったんですけど、大体みんなそうで。これは日本と明らかに違うなと思ったことでもありました。八神純子さんは日本にいたときに音楽的な主張があったり、自分の思っていることはこうなんですってはっきり言うタイプだった。でも、とてもあどけない人ですし、育ちの良い人ですから、そういうことを荒立てないで収めようとした。そのことが彼女の中でいろいろなストレスになったりして、その後80年代半ばにアメリカに活動を見出したんだろうなと、これは当時も思っていました。

今、日本でもジェンダーということが語られるようになって、80年代当時のみんなが当たり前だと思っていたかわいらしさとか女っぽさに対して、あれでよかったんだろうかという空気になっている。そういう中でこの1981年の「Im A Woman」もあらためて捉え直されるといいなと思いながらお送りしました。





田家:1982年2月発売のアルバム『夢みる頃を過ぎても』のタイトル曲「夢みる頃を過ぎても」。冒頭でお聴きいただいた今月の前テーマ「黄昏のBAY CITY」が1983年のアルバム『FULL MOON』に入っていたのですが、1983年はアルバムが3枚出てます。『LONELY GIRL』、『恋のスマッシュ・ヒット』、『FULL MOON』。シングルも1年間に4枚出ているんですね。デビュー5年でアルバムが7枚でシングルが16枚出ている。今だったらありえない。本当にアイドル歌謡そのもののようなリリースですね。なぜ今日この曲で終わろうとしたかと言うと、作詞が八神純子さんと川村尚さんなんです。冒頭で当時僕らがやっていた番組「デデと純子のミュージックトリップ」という番組の話をしましたが、川村尚さん、通称デデさん。彼と純子さんが喋ってたんです。大阪の方は川村龍一という名前で思い当たる方が多いと思うんですね。川村尚という名前で「ヤングおー!おー!」に出ていて、東京に出てきて番組をやっていた時期があった。で、また大阪に帰って川村龍一という名前で名パーソナリティーになった。そういう男性です。

川村さんは、学研の音楽雑誌「ビートポップス」の編集スタッフだった。フリーランスになって、DJになって。僕ももともと編集者ですから気が合って。僕より2つ、3つ上かな。「ミュージックトリップ」は洋楽の番組だったんです。川村さんは洋楽に詳しいし、僕も洋楽の番組を当時構成していました。で、純子さんがシンガーソングライターであるにも関わらず、台本のある番組で洋楽の話をしていた。彼女はそこで勉強したとよく言っていますけど、とても仲良いチームで楽しい番組だったんですね。アメリカに行ったりもしたんです。当時のラジオ番組はお金がありましたから15分のベルトの番組なのにリスナーを招待して、アメリカ旅行をしようと。アメリカ建国200年のときで「私とアメリカ」という作文を募集して、6人のリスナーかな。それと純子さんとか川村さんとスタッフ。1回目は僕連れて行ってもらえなくて、2回目はみんなで行ったという。アメリカ旅行に2回行っているんですよ。そういう番組でした。

で、川村さんがこの詞を書いている。川村さんは69歳で亡くなってしまいました。当時、僕は東京で仕事をしていましたから川村さんとは時々会う程度だったんですけども、このFM COCOLOで大阪のFM局で自分のレギュラー番組をやっていて、純子さんはアメリカの女性ソングライターの殿堂から表彰されて、それを祝う特集を組んでいる。この番組は川村さんに聴いてほしいと思いながら今月お送りしているので、今日最後の曲にさせていただきました。作詞・八神純子、川村尚、作曲は八神純子。1982年2月発売「夢みる頃を過ぎても」。

彼女が24歳、〈夢みる頃を過ぎても〉と歌っていたんですね。当時、女性の年齢はそんなふうに思われていたと聴くこともできるわけですが、夢みる頃をはるか過ぎても夢は叶うんだということが今回の彼女の全米女性ソングライターの殿堂からの表彰ではないでしょうか。



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」日本人として初めて全米女性ソングライターの殿堂入りをした八神純子さんの軌跡を辿る4週間。この週はパート1、渡米前のことを私一人でいろいろお話ししてみました。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。



こういう賞をもらいましたというメールを見たとき、目を疑ったんです。「え! まさか!」と。この「J-POP LEGEND FORUM」が始まったのは2014年の4月なんですが、この番組を始めるときに私の中でイメージがありまして、「1人J-POPの殿堂」なんです。アメリカにロックの殿堂というのがありますね。ROCKNROLL Hall of Fame。これのJ-POP版をやりたかったんです。亡くなった人も含めて、今までずっと見てきたキャリアの中でこの人は殿堂入りだなって思う人がいるんです。もし自分が1人でロックの殿堂を始めるとしたら、こういう人を入れたいなとか、こういうアルバムを飾りたいなということをやってみたい。それがこの「J-POP LEGEND FORUM」なんです。

ですから、LEGEND FORUMのFORUMにはHall of Fameという意味が僕の中ではあるんです。今も新しい人と仕事をするときも、この人は将来殿堂入りするかなと思いながら見ているんですね。ですから、このHall of Fameはある意味では夢でもあり、願いでもあり、自分のやるべきことだと思って始めました。このWomen Songwriters Hall of Fame、女性ソングライターの殿堂はまだ2年目です。ですからそんなに歴史ある殿堂に飾られましたということではないんですけど、ここからまだまだ女性ソングライターの歴史がアメリカでも始まるわけです。その2年目のところに日本人女性が名前を連ねている。このことに拍手をしないで日本の音楽ファン、日本の音楽関係者は何を祝うんだという気分で、4週間をお送りしようと思います。来週は彼女に登場していただけると思います。あらためて表彰のことを伺おうと思っているので、お楽しみにしてください。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
OFFICIAL Facebook : @FMCOCOLO
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cocolo.jp/i/radiko

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