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吉田拓郎の軌跡を辿る 歴史を変えた曲「結婚しようよ」から名コンビ誕生まで

Rolling Stone Japan / 2022年8月15日 7時30分

吉田拓郎

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。

2022年8月の特集は「吉田拓郎」。今年でアーティスト活動に終止符を打つと表明した吉田拓郎の軌跡をたどる5週間。パート1では、デビューから70年代前半を楽曲とともに辿っていく。

関連記事:松本隆がアイドル界・歌謡曲界に変革をもたらした70年代後半から80年代を辿る

こんばんは。 FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは、吉田拓郎さんの「アウトロ」。6月に発売になったアルバム『ah-面白かった』の中の曲です。今月のテーマはこの曲です。イントロとアウトロというのがありますね。始まりと終わり。この「アウトロ」が前テーマという、そんな1ヶ月です。



J-POPの歴史の中の様々な伝説を改めて紐解いていこうという60分。2022年8月の特集は、吉田拓郎。1970年にシングル『イメージの歌』でデビューしました。シンガーソングライターという言葉がまだない時代です。自分のメロディーと言葉で、自分の気持ちを歌った。自作自演と呼ばれていましたけど、そういうスタイルがフォークソングとして広がっていったんですね。コンサートツアーを日本に定着させて、野外イベントの原型を作った人でもあります。今当たり前になっていることの原型が拓郎さんによって作られました。時代に流されず、新しい音楽を作り続けてきたスーパーレジェンド。最新アルバム『ah-面白かった』は、最後のオリジナルアルバムと言われております。今年いっぱいでアーティスト活動にピリオドを打つと表明もしました。先月「LOVE LOVE あいしてる」が卒業番組として放送されました。

70年代以降の音楽を変えた最大の巨人の50年余りをたどり直すという5週間。今までも、拓郎さんの特集はゲストをお迎えして何度かお送りしていますが、今月は私1人で、今日はリモートでお送りしようと思います。何はともあれ、始まりの曲です。この曲から始まりました。





1970年11月発売、吉田拓郎さんの1stアルバム『青春の詩』から「イメージの詩」。シングルは70年6月に発売になりました。この曲は、当時も広島フォーク村のステージで歌われておりまして、その頃聴いた人によると、歌詞が20番以上、30分くらいあったと言われています。70年の4月に広島フォーク村のアルバムが『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』が出ました。このタイトルは、「イメージの詩」の中の歌詞から取られていますね。そのアルバムの中からエレックレコードが勝手に「イメージの詩」をシングルカットして出してしまった。拓郎さんが「そんなものをなんで出すんだ」と抗議をしたら、エレックレコードが「じゃあ、アルバムでデビューしたら」ということでデビューになったというエピソードがあります。この「イメージの詩」は拓郎さんが20歳の時に書いたと言われています。「これこそだ!」と信じられるものがこの世にあるだろうか? この問いかけは、今でも胸に響く普遍的な歌であります。





1970年11月発売、1stアルバム『青春の詩』のタイトル曲「青春の詩」です。ゴーゴークラブにジュリーにショーケンに反戦歌ですからね。当時の若者風俗がそのまま歌われてます。この歌は、広島フォーク村の合宿で作っていたと言われています。広島フォーク村というのは、当時の広島のアマチュアフォークの団体を集めた集団だったんですね。そういう村があったわけではありません。

結成が1968年の11月。吉田拓郎さんは、その前は、ザ・ダウンタウンズっていうリズムアンドブルースのバンドを組んでたんですね。広島のディスコとか岩国基地で米兵相手に演奏していて、リズムアンドブルースが得意だった。そのバンドでデビューしようともしたんです。デモテープを作って上京して渡辺プロを訪ねたりしてるんですが、門前払いでバンドでのデビューがかなわなかった。じゃあギター1本でやってみようかっていうことで、千葉のお寺に居候して武者修行をして、デモテープを作ってレコード会社に持ち込んだこともあった。「イメージの詩」はその時にもあって、レコード会社の人は「何だ、このお経のような歌は」とここでも門前払い。そういう始まりだったんですね。

でも、やっぱり音楽が好きで、広島のみんなと何かやろうと、彼が呼びかけて始まったのが広島フォーク村だったんです。そこからデビューすることになって、フォークの人というレッテルが貼られた。それは時代の必然だったのかもしれません。『青春の詩』の中から「イメージの詩」の続編のような曲を聞きいただきます。





お聞きいただきましたのは、70年10月発売の1stアルバム『青春の詩』から「今日までそして明日から」でした。デビューしたときはエレックレコードというインディーズの会社だったんですね。関西には、URCという関西フォークの拠点のようなインディーズのレーベルがありましたが、エレックは東京の会社です。元々はギターの教則本を作っていた会社なんですが、自分たちもレコード会社を作ろうということで、第1号はDJの土居まさるさんの「カレンダー」という曲だったんですね。それまで業界との繋がりがなかったところだったので、割と自由にいろんなことができた会社でした。

エレックからオリジナルアルバムが2枚、ライブアルバムが1枚発売されていますが、エレックの2枚目のアルバムが出る前に、拓郎さんはCBSソニーに移籍しました。エレックはレコード協会に加盟していなかったので、著作権での印税が発生していなかった。それに気がついた拓郎さんは、やっぱりここじゃない、とメジャーなCBSソニーに行って、シングルの1作目「今日までそして明日から」がカットされました。

「イメージの詩」、「今日までそして明日から」は、誰もが思い当たる自問自答の歌。そして、「青春の詩」の素直さ。それに加えて、拓郎さんは明るかったんですね。それが最大の魅力といってもいいでしょう。当時、どんなステージをやっていたかお聞きいただきます。1971年6月発売、ライブアルバム『よしだたくろう・オン・ステージ!! ともだち』の中から「もう寝ます」。





このライブアルバムは衝撃でした。ステージのMCがそのままレコードになっている。しかも、こんなに自由で楽しいコンサートがあるんだという「イメージの詩」とは違うインパクトで飛び込んできました、こんなに型破りな若者がいるんだ。拓郎さん当時25歳。デビューが24歳ですからね。デビューした1970年、一番売れていた人が、藤圭子さんです。年間売上アーティスト第1位。アルバムも藤圭子さん。

どこかどんよりしていた。業界の空気もそうだったんですけど、世の中の空気が重かった。それは60年代の終わり、70年代初めの学生運動で若者たちが世の中に対して立ち向かったものの打ちのめされてしまった。その空気が世の中に蔓延していたんですが、その空気を拓郎さんが振り払ってくれたんですね。ライブアルバム『よしだたくろう・オン・ステージ!! ともだち』はそんな1枚でありました。

そういう時代に新風を送り込んだ決定打になった曲をお送りしようと思います。歴史を変えた曲です。1971年11月発売、2枚目のオリジナルアルバム『人間なんて』から「結婚しようよ」。





1972年1月、CBSソニーからシングルが発売されて爆発的なヒットになった「結婚しようよ」。明るい曲でしょう? ロングヘアの歌ではあるんですね。こういうロングヘアや長髪っていうのは、アメリカ西海岸のヒッピーから伝わってきたファッションではあったんですけど、日本の長髪讃歌です。ロングヘヤ―は日本でこんなふうに若者たちに受け入れられたファッションだった。そんな曲でもあります。でもこの曲が、フォークソングのファンから否定されたんですね。その話はCMのあとで。



1971年11月発売、2枚目のアルバム『人間なんて』から「川の流れの如く」。かっこいいでしょう? 僕も、かっこいいなと、当時思った曲ですね。アルバム『青春の詩』の中には、「やせっぽちのブルース」とか「野良犬のブルース」、ブルースというタイトルのついた曲が2曲入っていて。『人間なんて』の中には「わしらのフォーク村」っていう冗談のような歌もあったんです。でも、「わしらのフォーク村」がフォーク村応援歌のように受け取られて、やっぱり拓郎さんはフォークのイメージになってしまった。

「結婚しようよ」が売れて、彼はコンサート会場で、裏切り者、帰れ!と石を投げられるんですね。なんでかというと、当時、フォークは商業的な音楽ではないんだという考え方が強かった、売れたあいつは商業主義に身を売った、そういう扱いをされたんです。拓郎さんが、ずっと俺はフォークじゃないって言っているのは、音楽的な根拠もあるでしょうし、その頃のフォークに対してのこだわりが、どこか未だにあるんでしょうね。フォークだとか、ロックとか、パンクだということを超えたアルバムではあったんですが、なかなかそう受け止められなかった。そういう中で、1972年に一番売れたアルバムの1枚。年間チャート2位(※1972年度オリコン年間チャート2位)だったんじゃないかな。アルバム『元気です。』からお聞きいただきます。「春だったね」と「せんこう花火」。







当時惹かれた一番の理由は、歌の気持ちよさでしょうね。歯切れが良かった。このフェイクのリズム感がとってもかっこよかった。生ギターの弾き語りによるフォークにはない快感ですね。フォークの中にあった湿っぽさとか、じめっとした感じ、なよっとした感じが拓郎さんにはなかったんですね。これは前身のザ・ダウンタウンズ時代に身に付いたもんでしょう。ザ・ダウンタウンズの前に組んだ、拓郎さんの最初のバンド、ザ・バチェラーズで、彼はドラマーだったんですね。ドラムを叩きながら歌うことでバンド活動が始まってるわけで、やっぱり生ギターで音楽を始めましたって人とは何か違うものがあった。

アルバム『元気です。』の中に、「たどり着いたらいつも雨降り」という曲もあって、それはザ・ダウンタウンズ時代にやっていた曲なんですね、モップスや子供バンド、氷室京介さんもカバーしてます。当時は「好きになったよ女の娘」という曲で、バンドの中でも人気な曲でした。







「まにあうかもしれない」は、作詞が岡本おさみさんです。ニッポン放送の番組で出会った放送作家です。岡本さんが作詞ノートというのを作っていて、それを拓郎さんに渡して、その中から拓郎さんが気に入った詞に曲をつけた。岡本さんは職業作詞家ではありませんから、言葉の並びとか無視して自分の思ったことを散文的に書いてるわけですけど、拓郎さんがそこにメロディーを付けると、こんなに自由な気持ちいい歌になる。そんな代表的な例ですね、アルバム『元気です。』は15曲入ってまして、その中に6曲、岡本さんの作詞があって、名コンビが誕生しました。そのアルバムの中に、2人の書いた大ヒット曲「旅の宿」もありました。この話は来週も続きます。





FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」。アーティスト活動に終止符を打つと表明した吉田拓郎さんの軌跡をたどる5週間。今週はパート1、70年代前半編です。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

1970年代の若者たちの笑い話がありまして、大学のキャンパスをギターケースを持って歩くのが流行だったんですね。でもその中身は教科書だったという話がありました(笑)。ギターケースを持って歩くことがかっこよかった。その格好が一番似合ったのがやっぱり拓郎さんでしょうね。これはもうスター性という以外にないですね。スター性と音楽性が明らかに他の人たちと違った。『よしだたくろう・オン・ステージ!! ともだち』の中で、自分で「女の子のファンが多いんだ」って言ってますが、そういう存在でした。

でも、それが変わっていくんですね。70年代の時代に淀んだ空気を変えた旗手、そして新しい時代のカリスマのような形で扱われるようになっていく。その話は来週以降なんですが、若者はどう大人になっていくのか? 大人になるとはどういうことなのか? それを考える5週間でもあります。

自分の心のありようを、ずっと歌い続けた人はいない。詩の1行1行が人生音になっていく。そんなふうに歌が変わっていきます。来週はスタジオからお送りしようと思います。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
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