1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. 音楽

田中宗一郎が語る、拡張するダンス音楽

Rolling Stone Japan / 2022年10月7日 20時0分

マデオン(Photo by Matt Winkelmeyer/Getty Images for Coachella)

元々はアメリカのブラックコミュニティの生活や文化に根差した音楽だったハウス/テクノ以降のダンスミュージックは、その誕生から40年近くが経ち、かつての定義では捉えきれないほどの広がりを見せるようになった。特に2010年代以降、クラブのダンスフロアだけでなく、オンライン上のプラットフォームも重要な現場となったことから、ジャンルの溶解が進み、サウンドのフォルムは大きく拡張されている。果たしてダンスミュージックはどんな変遷を経て今に至り、これからどこに向かおうとしているのか? 日本のクラブカルチャー黎明期よりDJとしても活躍する、音楽批評家の田中宗一郎に紐解いてもらおう。

※この記事は雑誌「Rolling Stone Japan vol.19」に掲載されたものです。

【写真を見る】ピンクパンサレス他、注目のクリエイター達

ー近年はダンスミュージックと一言で言っても、その定義は以前よりも大きく広がっている印象があります。なので、ダンスミュージックの状況は今どうなっているのか、その背景には何があるのか、ということを今回はお訊きしたいと思います。

田中 そもそもダンスミュージックの定義自体が難しいですよね。世界各地のフォークロアの大半はダンス音楽の要素を持ってるわけだし、例えば40年代以前からのスウィングジャズはダンス音楽だったとか、50年代のロックンロールもそうだとか言い始めると、いくらでも遡ることが出来てしまう。なので、とりあえず20世紀後半のハウス、テクノをひとつの起点にしたお話にさせていただきたいと思います。シンセやドラムマシーン、サンプラーといったエレクトロニクス技術を使って作られたダンス音楽ですね。

ー今回の話の起点となるハウスやテクノは、そもそもどのような音楽だと位置づけられますか?

田中 一言で言うと、コミュニティに根ざした音楽。ハウスは70年代後半~80年代シカゴのブラックコミュニティやゲイコミュニティから生まれた音楽です。80年代半ばのデトロイトのブラックコミュニティからはテクノが生まれた。つまり、ローカルコミュニティの生活や価値観に根差した音楽だと言えると思います。

ーなるほど。

田中 それが80年代後半あたりからロンドンを中心に欧州各地に飛び火することになります。英国だとアシッドハウスからUK独自のテクノ、ベルリンだとジャーマントランスの時代を経て、ディープなミニマルテクノのシーンへと発展していく。スペインのイビサ島はトランスやテクノの一大聖地になりました。つまり、ローカルからローカルへと派生していき、それぞれの土地のエスニシティを取り込んでいく。当時はそれがダンス音楽の拡張だったと言えると思います。

ー今もダンスミュージックにはある程度の地域性は存在するとは思いますが、必ずしもローカルコミュニティに根差したものばかりではなくなっていると思います。その変化はどのようにして生まれたのでしょうか?

田中 大雑把に言えば、複製技術と資本主義の要請による必然的な結果ということになるわけですけど、より具体的には90年代後半からミレニアムにかけて、特に欧州全体でダンスミュージックが良くも悪くも産業化したことが一つの起点だと思います。プログレッシブハウスやエピックトランスの時代ですね。かつては数百人単位のクラウドが集まるクラブで鳴らされていた音楽が何千人規模のスーパークラブや、屋外やフェスの現場で何万人という規模で楽しまれるものになった。その結果、そのサウンドもビッグルーム化していくことになる。その過程でコミュニティ音楽としてのテクノは一度終わりを告げたとも言えるかもしれません。だからこそ、その後の英国では「レイブへの鎮魂歌」とも評されたダブステップが生まれます。ダブステップはbpm140前後と、テンポこそテクノと近いんですが、ビートにシンコペーションを加え、より低音を強調したフォルムを持っています。こうして一度はシーン全体がアンダーグラウンド志向を強めることにも繋がります。

ーダンスミュージックの変容の理由として、産業化というポイント以外には何が挙げられますか?

田中 やはりインターネットですね。特に2010年代前半にもっともエキサイティングだったのは、SoundCloudやBandcamp上のシーンだったように思います。そもそもローカルに根ざしたダンス音楽にとっては何より重要だったはずの現場――クラブやレイブが行われた場所そのものがインターネット上に拡張されたとも言える出来事だった。それに伴って、ローカルや現場という言葉の定義さえも拡張したと言えるかもしれません。

ーインターネット以降の現場の拡張によってどのようなことが起きたのか、具体的に教えてください。

田中 ビートやサウンドのフォルムの変容と拡張ですね。当時、ジャンルやムードでタグ付けされたトラックをSoundCloud上で次々と聴いていくと、アメリカ南部のヒップホップ文脈でのトラップと、英国のベースミュージック文脈のトラップがそれぞれ形を変えていったり――かつてのハウスやテクノ、ブレイクビーツが持っていた定型から解き放たれ、ローカルそれぞれが持つエスニシティが互いに影響を与え合い、混ざり合い、ビートやサウンドのフォルムがひたすら多種多様になっていくのを感じました。イリーガルなエディットの氾濫もそうした状況にいい意味で拍車をかけたと思います。フューチャーベースにしろ、現在はハイパーポップと呼ばれるようになったサウンドにしろ、その起源を培ったのは間違いなく当時のインターネット上のシーンだったのではないでしょうか。

ー2010年代前半と言えば、EDMの全盛期でもありますね。

田中 両方の変化がパラレルに進んでいたんですよね。当時のEDMブームによって北米で初めてエレクトロニックなダンス音楽が大々的に受け入れられることになります。そもそもハウスやテクノが生まれたのは北米だったにもかかわらず、それ以前はニューヨーク周辺や、C&Cミュージック・ファクトリーのような一部のチャート上のメガヒットを除けば、むしろその受容の受け皿は欧州や日本だった。そう考えると、やはり良くも悪くもスクリレックスの存在と影響力は圧倒的だった――いや、勿論、当時、ディプロが果たした役割をはじめ、重要な存在を挙げていけばキリがないんですけど。ただ、スクリレックスが英国産のダブステップをブロステップへと進化させたこと。彼の出自の一つでもあるハードコアやスラッシュメタル譲りのハーフテンポをダンストラックに導入したことも画期的だった。何よりも大きかったのは、ロック/メタル的な荒々しさに加え、彼は1曲の中にビルド、ドロップ、ブレイクという変化を組み込むことを様式として確立させます。

ーEDMの時代の到来が訪れることに誰よりも寄与したのはスクリレックスだ、と。ただ、2010年代前半のEDMは確かに最大公約数的なサウンドでしたが、同時に画一的なサウンドだという批判もありました。

田中 アヴィーチーのような特異な才能も存在したのは確かなんですけどね。ただ、前述の、ビルド、ドロップ、ブレイクというフォーミュラがあまりに様式化され、乱用されたことは否めません。それ以前のダンストラック――特にミニマルテクノやクリックハウスはDJユースでもあった。つまり、DJが2曲、あるいは3曲をミックスすることが前提で作られてもいた。ところが、EDMのトラックには曲自体にビルド、ドロップ、ブレイクという緩急が用意されているので、DJがミックスする必要もないし、それ自体で曲として完結していた。だからこそ、この時期、EDM的なサウンドを持ったポップソングがチャートを席巻することにも繋がることになった。

ーそれまでの大方のダンス音楽と決定的に違っているのは、EDMのシーンが幾多のヒットソングを生み出すことになったことかもしれない、と。

田中 韓国のPSYや、LMFAOによるメガヒット、レディー・ガガの存在、あるいは、カルヴィン・ハリスのプロデュースによる2011年の「We Found Love」を筆頭にリアーナが積極的にEDMトラックをリリースし続けたことも大きかったかもしれません。

ーただ、あまりにも同じようなサウンドが急速に普及したことによって、EDM的なポップソングは2010年代半ばには廃れてしまいます。

田中 何よりもコーチェラが象徴的ですが、2010年代初頭にはフェス興行の中心がヨーロッパからアメリカへと移行することになります。北米圏におけるそうした巨大フェスの誕生がよりEDM文化の拡張につながったことは間違いない。やがてEDMの現場はチャートではなく、フェスに移行していきます。EDMがチャートから興行に軸足を移したのが2014、2015年くらいですね。

ーカルヴィン・ハリスがラスベガスのクラブとレジデント契約を結んだというニュースが報じられたのも2015年でした。

田中 その頃が興行としてのEDMの最盛期だったと思います。そこで一旦、いろんな意味で飽和状態になった。それからの5年、6年を経ての、今なんだと思います。


EDM一元化の時代の終わりを告げた2022年のコーチェラ

ー2010年代前半にSoundCloudをはじめとしたネット上のプラットフォームでは様々なジャンルが混ざり合い、メインストリームではダンスミュージックの最大公約数としてEDMが隆盛を極めた。では、その後、ダンスミュージックはどのような変遷を遂げていると考えられますか?

田中 もはやダンスビートがポップソングのごく普通の一要素になったことは改めて指摘しておくべきかと思います。一部のインディロックを除けば、今はダンスビートという要素を持たないメインストリームのポップソングを見つけることすら難しい時代です。レゲトンを筆頭にラテン圏の音楽は勿論のこと、ポップ、ラップ、K-POP、ロンドンを経由したナイジェリアのアフロビーツ、ロンドンのUKドリル――フォルムこそ違えど、どれもダンスビートが基調になっています。例えば、今だとハイパーポップに分類されているアンダースコアズのようなインディバンドも、ソングライティング的にはポップパンクやエモの進化形なわけですが、細かいエディットやせわしない展開は、2010年代初頭のSoundCloudシーンで生まれたサウンドに連なるものです。もちろん、こうした新たな動きに対して、「これをダンスミュージックと呼んでいいのか?」という議論はあるとは思います。ただ、こうしたジャンルを横断した結果のダンス音楽の拡張こそがここ数年の間に起こったエキサイティングな動きなのは間違いない。

ーそうだと思います。では、21世紀に入ってからのフィジカルな現場の変化、変容という部分からはどうでしょうか?

田中 それについて要約するのは正直難しいかもしれません。パンデミックによってかなりのフィジカルな現場が失われていて、僕自身も実際にそこに足を運ぶことが出来ていないから。なので、取り敢えずお話し出来る参照点は、毎年YouTubeでライブ配信をしているコーチェラで何が起こっているか、ですね。

ーコーチェラは、アメリカのメインストリームにおけるダンスミュージックの受容をわかりやすく反映しているところがあります。

田中 あくまで一側面に過ぎないとしても、定点観測の対象としては最適ですよね。今のコーチェラには、メインステージとほぼ同格のEDMステージがあります。ここ数年のコーチェラの場合、音楽を楽しむ場所というよりもインフルエンサーがインスタ映えするスポットを探す場所になったという側面もあるわけですけど、そういう意味からしてもEDMステージの存在は最適だった。そもそもダンスカルチャーというのは演者よりもクラウドが主役という側面もあるので、そういった状況は決して反動的とばかりは言えないわけです。

ー当時のコーチェラに出ていたEDM勢にはどんな特徴がありましたか?

田中 わかりやすく定型化されたブロステップ以降のEDMと、その次世代的存在とも言えるフューチャーベース寄りのアクトが主流でしたね。bpm120、130台のリニアビートが基調だったEDMに対し、フューチャーベースの場合、テンポはかなり多種多様。空間を生かし、シンコペーションさせたビートが特徴です。

ー今年のコーチェラでは、ラインナップやプロデューサーたちの音楽的特徴などは、どのように変わっていたのでしょうか?

田中 ひとつは、EDM一元化の時代は終わったということ。パンデミック以前に比べると、かなりサウンドに幅が感じられた。EDMアクトとして目立っていたのは、ミレニアム前後から活動しているアクスウェル、イングロッソ、スティーヴ・アンジェロから成るスウェディッシュ・ハウス・マフィア、EDMやフューチャーベースがスタイルとして確立された前後に頭角を現したマデオンやフルーム、そして彼らよりもさらに下の世代――かつてはチェインスモーカーズやマデオンの前座も務めたルイス・ザ・チャイルド辺り。実際、EDMという一言で括ることは出来ない幅を感じました。と同時に、かつてのようなDJスタイルやライブPAスタイルに、映像と照明を駆使したステージ演出だけではなく、EDMアクトもポップスターとして振舞うことも必要になった時代が押し寄せている。









ー具体的にはどういうことですか?

田中 例えば、マデオン。そもそも彼はフレンチタッチやニューエレクトロと、EDMの架け橋のような存在ですが、サウンドプロダクションよりもむしろソングライティングに比重を置いた珍しいプロデューサー。なので、彼が注目を浴び始めた2012年頃は自分も追いかけてたんですね。でもその後、興味を失ってしまっていた。なので、彼のファンからすればごく当たり前のことなのかもしれませんが、今のマデオンのステージは右側と左側にキーボードが、センターにはスタンドマイクが設置してある。で、極彩色の照明でバックから照らされて、本人のシルエットが浮かび上がった状態で絶唱するんですよ(笑)。ただ、自分の影をアイコニックに見せるという演出は彼自身がダンスカルチャーを出自にしていることもきちんと表現していたと思う。「なるほど」と感心しました。ルイス・ザ・チャイルドの場合は、まるでNMEの表紙を飾ったストーン・ローゼズみたいで(笑)。

ーどういうことですか?(笑)

田中 ほら、大昔にストーン・ローゼズが勝手にシングルを再発したレーベルにペンキを持って殴り込んだという事件があったでしょ? その後、その事件を模した形で、ギタリストのジョン・スクワイアが得意としていたジャクソン・ポロック風のドリッピング/ポーリング手法で自分たちをペンキまみれにした写真でNMEの表紙を飾ったんです。白Tシャツ、白パンツにいろんなインクを飛ばした服を着ていたルイス・ザ・チャイルドの格好に思わずそれを連想してしまったんです。90年代初頭のローゼズも当時のアシッドハウスシーンに影響されて、所謂ロックバンドのように自分達にスポットを照らすようなことは決してしなかった。時代というのは螺旋状に進むんだな、と改めて感じました。


ルイス・ザ・チャイルド(Photo by Taylor Hill/Getty Images for Governors Ball)

ー今年のコーチェラには、他にもダンスミュージックのプロデューサーがたくさん出演していました。そこから読み取れることは何かありましたか?

田中 90年代後半の欧州のテイスト、あるいはオーセンティックなテクノ、ハウスへの回帰を感じました。EDM――つまりエレクトロニックダンスミュージックという言葉で十把一絡げにされる以前のサウンドが現代的にリアレンジされ、舞い戻ってきている。巨大ステージではなかったものの、デトロイトテクノ第二世代のリッチー・ホウティンがヘッドライナーを飾っていたのは象徴的です。他にもファットボーイ・スリム、デューク・デュモント、ダック・ソースと、さまざまな時代の覇者がいろんなスロットで出演していたり。一方で、ジェイミーXXやディスクロージャー、デュア・リパ『Future Nostalgia』のリミックスアルバムも手掛けたザ・ブレスト・マドンナのように、ずっとハウスやテクノ寄りのオーセンティックなサウンドを時代に合わせて更新し続けてきたアクトもしっかりとフィーチャーされている。全体として百花繚乱の趣きがありました。インディロックとディープなダンスミュージック、スピリチュアルジャズの境界を横断するフローティング・ポインツ、当初のサイケデリックロックから次第にディープでサイケデリックなダンスミュージックへと向かっていったカリブーと本当に幅広い。すごく健康的だと感じました。









国家単位の政策の違いに左右されるヨーロッパ各国のダンス音楽の現状

ーコーチェラは基本的にアメリカの音楽シーンの状況を反映していると思いますが、イギリスをはじめとしたヨーロッパのダンスミュージックの状況は、今どのようになっていると感じていますか?

田中 これも現地に足を運ぶことが出来ていないので、ネット経由の映像や情報でしかないという前提で話をさせてください。ダンスミュージックは基本的に「フロアにいるオーディエンスが主役」というカルチャーなので、パンデミックで現場を奪われたことによって本当に両手をもがれたような苦しい状況にあります。ただ、イギリスは早い時期からワクチン接種証明書があればイベントに参加出来るという制度を打ち出した。それもあって、感染が深刻化しにくい屋外でのフェスやパーティを中心にまた活況を呈しているようです。実際、ドラムンベースの老舗レーベル、ホスピタルは再び活気づいている。そうした状況に伴って、2ステップやドラムンベース――90年代のフォルムが息を吹き返している。

ーそう言えば、90年代イギリスのダンスミュージックにおける象徴的なアクトの一組であるアンダーワールドが来日公演を行います(※取材時は来日公演前)。

田中 それで早速、この春から夏にかけて他にどんな場所で演奏しているのか、彼らの公式サイトで確認してみたんですよ。プラハやアイルランド、自分からすると名前も知らないような中規模の野外フェスにいくつか名前を連ねていて。

ーなんか棘がある言い方ですね(笑)。

田中 いや、我々はどうしてもアメリカのコーチェラ、イギリスのグラストンベリーといった大きな現場を軸にして全体を見ようとしちゃうじゃないですか。でも、もはや今は中心を欠いた時代とも言える。実際、それぞれのフェスにもそれぞれきちんとしたカラーがあって、ラインナップを見るだけでも面白いんですよ。中でも特に興味深いと思ったのは、ビジュアルや会場の造形からヒッピーイズムを読み取れるフェスにアンダーワールドが出演していること。サイトを見る限り、どこかセレブリティヒッピーというか、アリ・アスターの映画『ミッドサマー』に出てくるようなティーンエイジャーたちがヒッピー的な衣装で着飾って、その気分を味わうためのフェスという印象なんです。つまり、新世代のヒッピーイズムの表象として彼らの音楽が必要とされている。アンダーワールドの存在がかつてとは違う形で再定義されているんだなあ、という感慨がありました。

ーイギリス以外のヨーロッパの状況について、何か気になるポイントはありますか?

田中 欧州におけるテクノ音楽のもっとも重要な震源地と言えばベルリンですが、ベルリン在住の友人から一時期ベルリンのクラブは壊滅的な状況になったという話も耳にしました。ただ、普段からベルリン在住のDJ、田中フミヤのInstagramを通してベルリンが少しずつ現場を取り戻していることも確認してはいます。やはりパンデミックに対する国家単位の対策がそれぞれのローカルでの現場の在り様と深くかかわっているので、欧州の中でも国によってまったく違う状況なんだと思います。


ジャンルが溶解した時代のダンス音楽、その象徴としてのデュア・リパ最新作

ーここまでは現場の状況から読み取れるダンスミュージックの現状について分析してもらいましたが、チャートの動きからは何かわかることはありますか?

田中 ダンスビートを取り入れたポップソングという観点から話すと、やはりデュア・リパの『Future Nostalgia』とザ・ウィークエンドの『After Hours』は本当に大きかったと今も感じます。特に『Future Nostalgia』は良くも悪くもメルクマールでした。あのアルバムを80年代的と呼ぶ人も90年代的と呼ぶ人もいますが、実際、あの作品はUKテクノを筆頭に様々な時代の多種多様なビートを曲ごとに緻密に取り入れている。極めて完成度が高く、かつ影響力があったように思います。今ではカントリーにもトラップ的なビートが鳴っていたり、それぞれのジャンルにおけるビートが多種多様であることがごく当たり前の時代になりました。プロデューサー自体もかつてのように一つのジャンルに特化するのではなく、どんなタイプのビートもごく普通に作れてしまう時代になった。そういった2020年代的な状況の、ちょっとした象徴が『Future Nostalgia』だと言えると思います。日本国内に目を向けても、例えばYENTOWNやAwichのプロデューサーChaki Zuluにしても、(sic)boyを筆頭に様々なラッパーのプロデュースやミキシングを手掛けるKMにしても、本当にいろんなタイプのビートを得意とする人たちです。








デュア・リパ(Photo by Xavi Torrent/WireImage)

ーなるほど。

田中 一方で、チャーリーXCXの存在はとても重要だと改めて感じます。彼女はキャリアを育む以前に英国のレイブシーンに身を置いていて、PCミュージック周辺のソフィーやA.G.クック――インターネット音楽のシーンにも深くかかわってきた。彼女にはダンス音楽という出自が明確にあって、それをメインストリームに持ち込もうとしてきた。彼女の新作『CRASH』には2ステップのビートもあれば、インターネット音楽の出自を強烈に感じさせるトラックもある。ダンス音楽の今を象徴する1枚だと感じました。勿論、デュア・リパに較べると爆発的な成功は収めてはいない。ただ、その商業的な結果もまた、今の時代を象徴しているように感じます。


TikTokというプラットフォームが生んだ、ピンクパンサレス以降のドラムンベース

ー先ほどSoundCloudを舞台にジャンルのクロスオーバーが進んだという話があったように、近年はインターネットもひとつの現場になっています。特にパンデミック以降はそういった状況が加速しました。インターネット上におけるダンスミュージックの動きとして、今注目しているものはありますか?

田中 やはりTikTokですか(笑)。ただ、地上波の音楽番組で紹介されるような日本語圏から見える世界線とはまた別のTikTokというか。TikTokは動画投稿とソーシャルメディアを組み合わせたプラットフォームなので、その明確な使い方が決まっているわけではありません。ここでの15秒間の音と映像という制約を通して、ダンスミュージックもまた自ずと変容しているのが見て取れます。やはり一番わかりやすいのはピンクパンサレスですね。ベッドルームプロデューサーとして出発した彼女は、TikTokというプラットフォームを通して世界中の10代の少女たちが暮らすベッドルームに語りかけている。

ー英国90年代のチル音楽やIDM、ベッドルームテクノの新たな形であり、彼女はベッドルームという新たな現場を作ったんだ、と。

田中 TikTokでは、メイクアップ動画のBGMとしてドラムンベースの曲がよく使われるというのも象徴的です。元々ドラムンベースというのは、英国のカリブ移民のレゲエコミュニティから生まれた音楽。その厳しい生活の現実から週末のひと時だけ解放されるために必要とされた音楽でした。しかし、ピンクパンサレスはそういう文脈とはまったく別のところで、bpm174前後のドラムンベースや、bpm130後半の2ステップがブルーでムーディな気分を表現するのに適していることを証明した。今ではそうした動きをすかさずキャッチしたSpotifyが作ったプレイリスト「Planet Rave」を通じて、ヤズ、ピリ&トミー・ヴィリエ――主に女性のプロデューサーたちが次々と発見され、もはや新たなジャンルが生まれたという趣きさえあります。




ピンクパンサレス

ーピンクパンサレス以降のドラムンベースに代表される、近年のダンスミュージックの変容については、インターネット以降のプラットフォームの特性ということ以外に、何か理由はあるのでしょうか?

田中 Z世代以降のY2Kリバイバル全般とクロスオーバーしているところはあるのかもしれません。彼らやジェネレーションαにとっては、90年代やミレニアム前後のカルチャーというのは社会がいまだ豊かで、今より遥かに平穏だった時代の象徴なのかもしれない。無理矢理こじつけるとするなら、Z世代の一部が環境に配慮するという政治意識から新品の洋服ではなく古着やリメイクや古着を着たりすることと、ピンクパンサレスが自分が生まれる以前のドラムンベースや2ステップを参照した音楽を作っていることは、自分達が経験したことのないノスタルジアの具現化という線で結んでやることも出来るかもしれません。いずれにしろ、今現在、再定義されつつある90年代のダンス音楽がこれから先、どんな風に進化していくのかについてはとても興味があります。





パンデミック以降の新たな胎動が密かに始まっている日本

ー日本に目を向けると、どのようなことが言えますか?

田中 日本のアンダーグラウンドでは80年代後半にハウスが、90年代半ばにテクノが広まりました。特に90年代後半の東京では、多くの人たちにとってクラブミュージックのゲートウェイとなった新宿リキッドルームや青山マニアックラブが一時代を築きました。ベルリンやロンドンと並んで東京という街がもっとも重要なダンスミュージックの発信地でもあり、受け皿でもあった時代ですね。そう言えば、つい最近、HBOとWOWOWが共同制作したTVシリーズ『TOKYO VICE』を見たんです。この作品は99年の東京を舞台にしていて、当時の東京の景観や建築物の内装、文化を見事に映像的に再現している。クラブのシーンが何度か出てくるんですが、ひとつは当時のテクノ・クラブ。そこにR&Sからリリースしていたカプリコーンの「20Hz」や、ライブバンドとしても一時代を築いたフェイスレスの「Insomnia」が流れるんですよ。もうひとつは当時の六本木周辺にたくさん存在したパラパラのクラブ。どちらのシーンでも、音楽だけでなくフロアで踊っているクラウドのファッションやダンスマナーもかなり的確に再現していて、思わず嬉しくなっちゃったんですね。

ーなるほど(笑)。

田中 話を元に戻すと、それ以降の日本のクラブシーンは二度の風営法の施行によって、否応なしに変容せざるを得なくなります。2000年代初頭には新木場ageHa、2010年代初頭には渋谷Sound Museum Visionなどビッグルームのクラブが生まれた。と同時に、かつては音箱と呼ばれたDIY資本の小さなクラブは全国的に封鎖されたり、経営が苦しくなっていきます。となると、札幌、新潟、仙台、名古屋、大阪、広島といった中規模の街には存在した、それぞれのローカル色も希薄になっていくわけです。また、東京都内では、2000年代から2010年代初頭にインターネットを中心に活躍していたMaltine Records周辺のネット系プロデューサーたちがほぼウェアハウス状態だった新宿のキャバレーや、秋葉原のMOGRAのような場所でフィジカルな現場を作っていく流れもありました。やはり法規制や、それに関連したヴェニューの変遷がそこで鳴る音楽の方向性に確実に影響するんですね。

ーその後はパンデミックが起こり、オリンピック開催を念頭に置いた都市の再開発が進む中で、今年の夏の終わりには東京のクラブシーンのひとつの軸だったageHa、Vision、Contactが閉鎖します。ageHa/studio coastは横浜に移転し、横浜coastとして復活することにはなるようですが。

田中 フィジカルな現場の変容はまず間違いなくダンス音楽というカルチャーに大きな影響を及ぼします。パンデミック以降、自分はパーティをオーガナイズすることはほぼ諦めていたんですが、折を見て100人くらいの小箱には足を運んだり、Instagram経由で覗き見してもいたんですね。で、やっぱりどこの現場も抜群に面白かった。特に、新世代のラッパーたちと、荒々しいベースミュージック、ディープでトライバルなテクノ、サイケデリック寄りの荒削りなロックバンドが共存していたり、パンデミック以前なら絶対になかっただろうクロスオーバー感があり、共通項としてのダンスビートがある。パンデミック以降、あえてクローズドな形で開催する野外のレイブパーティがいくつも生まれたりもしている。大きな現場が奪われたことにより、今、ローカルコミュニティに根差したシーンがもう一度生まれつつあるという興奮が間違いなくあります。

ーむしろアンダーグラウンドでは新たな胎動が感じられると。一方、この6月には日本のラッパーたちを中心にブックした大規模なイベント――POP YOURSも行われました。

田中 なかなか現場を作ることがかなわなかったパンデミックの間に、ストリーミングサービスを通して国内のラップシーンがしっかりと拡大し、新たな世代のオーディエンスを育んだことを証明する二日間だったんじゃないかな。おそらく生まれて初めて行った現場がPOP YOURSだった新しい世代も確実にいたはずです。ここからどう発展していくかはわかりませんが、いろんな規模のいろんな現場で新たな萌芽が芽生えていることだけは間違いないと思います。

ーそんな中で、今注目してほしいダンスミュージックのプロデューサーの名前を挙げることは出来ますか?

田中 都内のアンダーグラウンドでは20代後半の面白いDJやプロデューサーが何人も頭角をあらわしつつあるという話も聞いてはいるんですが、僕が具体的な名前を挙げるとすると、ずっと作品もリリースし続けていて、もはやしっかりと名前が通っている2000年代から2010年代初頭に出てきたプロデューサーたちになってしまうかもしれません。Seiho、Chaki Zulu、食品まつりといった人たちの作品や動向にはずっと刺激と興奮をもらっています。そもそもSeihoは前衛的な音楽を作るプロデューサーで、彼が作る音楽の一要素としてダンスビートがあるというタイプと言えるかもしれません。Chaki Zuluは、トラップであろうがダンスホールであろうが、どんな最新型のビートも日本にローカライズした形で作ってしまえる。彼のビートには日本固有のエスニシティがしっかり刻印されていて、それは当初、彼が頭角を現したニューエレクトロ時代からずっと一貫した彼自身のシグネチャーだと思います。しかも、ラッパーたち個々のアイデンティティにきちんと寄り添ったサウンドが作れる、文字通り理想的なプロデューサーです。食品まつりの場合、もはや海外でもきちんとした認知と評価を獲得しているので、いまさら僕に言えるようなことはないんですが、常にサウンドを進化させていくことに軸がある。彼が先輩格にあたる中原昌也と一緒に作品を作ったりしているのもいいですよね。彼ら全員に言えることですが、いまやプロデューサーはひとつのジャンルのプロダクションを担う存在ではなくなっています。自らの興味と好奇心の赴くまま、どんなビートであろうが作ることができる。しかも、世代を超えた縦の繋がりがいくつも生まれている。今は本当に百花繚乱の状況に突入していると思いますね。








食品まつり a.k.a foodman

ーその状況自体が面白いということですね。

田中 面白い。いろんな現場、いろんな規模でそれぞれに刺激的な変化が生まれているという実感があります。サマーソニックやPOP YOURSのような大きな現場、100人規模の小さなライブハウスやクラブの現場、あるいは200、300人規模のレイブ――どんな現場にも新たなクロスオーバーが巻き起こっている。なので、特定のプロデューサーに注目するというよりは、刺激的なクロスオーバーが起きている状況そのものや、これからそれがどのように発展していくかを見据えながら楽しむのが一番だという気がしています。

ーとにかくいろんな現場に足を運んで体験してみるのが面白いんじゃないかと。

田中 国際的にはこんな時勢ではあるけれども、今年の夏以降いろんなことが少しずつ面白くなるといいですよね。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください