ベルウッド・レコード50周年記念、三浦光紀と振り返るはっぴいえんどとの出会い
Rolling Stone Japan / 2022年12月7日 17時0分
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。
2022年10月の特集は今年で50周年を迎えるベルウッド・レコード。特集にあたり5週間に渡りベルウッド・レコードの創設者・音楽プロデューサーの三浦光紀をゲストに招き50曲を自薦しながら、当時から現在までの話を掘り下げる。パート1では今でも色褪せない当時の名曲とともにベルウッド発足の情熱や志、その中での葛藤や模索を語ってもらった。
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田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO 「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは大瀧詠一さんの「ウララカ」。1972年11月発売、大瀧さんのソロの1stアルバム『大瀧詠一ファースト』からお聞きいただいています。今月の前テーマはこの曲です。
ウララカ / 大瀧詠一
今月2022年10月の特集はベルウッド・レコード50周年。それまでの日本の音楽シーンにはいなかった新しい才能の持ち主や新しい曲を送り出して、今のJ-POPシーンの土台を築き上げたレーベルです。今年は発足が50周年、様々な企画が進行中です。今月はその設立者・創設者三浦光紀さんをお迎えしての5週間。ベルウッド発足の情熱や志、その中での葛藤や模索、そして改めて思うこと。三浦さんに忘れられないアーティストの知ってほしい曲や残したい曲を選んでいただきました。その曲を5週間にわたってお送りします。この前テーマ大瀧さんの「ウララカ」も三浦さんの希望による選曲であります。こんばんは。よろしくお願いします。
三浦光紀:よろしくお願いします。
田家:50周年の感想をいきなりですがどうぞ。
三浦: 50年も続いたのは聴いてくれる人がいたからだと思うので、本当にありがたいなと思っております。
田家:5週間で40曲を選んでいただいたのですが、それと別に、「みなさんにとってのベルウッドのテーマみたいな曲があるとしたら何でしょうね」ということでお願いしたら、「ウララカ」がいいですと。この曲で思われることは?
三浦:いや、深い意味はなくて、気持ちいいからこれでいいやと思いました。
田家:やっぱりどの曲が?って依頼されると困りますもんね。
三浦:例えば、ある意味を込めてどういう曲がいい?って言われたら「さよならアメリカ さよならニッポン」かなと思ってるんですよ。当時我々はアメリカに憧れて音楽活動をしてきたミュージシャンを扱っていたので。でも結局アメリカでレコーディングをやったら、もうアメリカも日本もない。はっぴいえんどの考え方ですよね。それは今でも通じるわけですから、この曲だなと。音的にもロックの一つの金字塔だと僕自身思っているので、意味のある代表曲っていうことであれば「さよならアメリカ さよならニッポン」。
田家:毎週8曲ずつ40曲をご紹介しようと思うのですが、それぞれの曲にそういう話があると思います。まずは1曲目です。小室等さんで「雨が空から降れば」。
雨が空から降れば / 小室 等
田家:1971年4月1日に発売になったシングルですね。ベルウッドは1972年の4月が正式な発足で、前の年に前史があったんですよね。
三浦:これはキングレコードから出た最初の作品ですね。小室さんのアーティスト第1号。僕は小室さんと一緒にギターの教則本を作っていたんですけど、小室さんの家に通っていたら松岡正剛さんがやってる「the high school life」で小室さんが自分で書いた曲を譜面付きで乗せて解説していたんですね。小室さんに「これ誰が歌うんですか?」って聞いたらまだ誰も決めてないと。「自分で歌ってくださいよ」って言ったら「僕はプロデュースとかギターの方でやろうと思ってるんで、今までボーカリストとしての自分を考えたことはない」と言われて断られたんですけど、何度もお願いしてやっていただきました。
田家:そこから始まったんですね。2人がそこで出会ってなかったら、ベルウッド・レコードはなかったっていうことです。
12月の雨の日 / はっぴいえんど
田家:2曲目は1971年4月発売、はっぴいえんど「12月の雨の日」のシングルバージョン。このシングルのB面が「はいからはくち」でありました。さっきの「雨が空から降れば」と同じ日に出たんですよね。この2枚、初回ともプレスが1万枚だったってどこかで読みました。こういう音楽で1万枚は当時では多い数だったんじゃないですか。
三浦:そうですよね。枚数は僕が決めてました。営業部もこういう音楽扱ってないから、自分たちでこの数字は作らないって言われて。それで僕が決めて、駄目だったら責任取りますと。
田家:はっぴいえんどは1970年の8月にURCからデビューして。この「12月の雨の日」もアルバムはURCから出た1枚目の『はっぴいえんど』の中に入ってるわけで、これをシングル盤にしようと言ったのは三浦さんだったんですか?
三浦:いや、この曲でいきたいって言ったのは、はっぴいえんどですね。だから「花いちもんめ」もシングルなんですけど、あれもメンバーが決めました。
田家:なるほどね。はっぴいえんどは中津川で?
三浦:はい。1970年のフォークジャンボリーで、はっぴいえんどと高田渡さんを口説いて、ベルウッドに入ってもらいました。
田家:もうURCから出ていることは知っていたんですか?
三浦:僕はURCから出てることも知らないで中津川に行って、岡林さんのバックをやってる はっぴいえんどを聴いて。鈴木さんのギターがすごいなと思って、やりたいなと思って「やらせてください」って言ったら、「もうアルバム出てます」って言われました。それぐらいの知識しかなかったんですよね。
田家:でもそういう意味でベルウッド・レコードは、小室さんとはっぴいえんどで始まった。
三浦:小室さんしかいなかったんですよ。1970年にはっぴいえんどと渡さんが加わって。それで小室さん、はっぴいえんど、渡さんしかいなかった。
田家:つまり、三浦さんが知っているフォークロック系のミュージシャンが最初小室さんしかいなかったという、すごい始まりだった。
三浦:そうですね。しかも小室さんは、僕の先輩の小池さんという方が担当していて、僕はアシスタントをやっていたんですけど、小池さんが「小室さんには三浦さんの方がいいかもしれない」って僕に譲ってくれたんです。
田家:その時は小室等は何者って感じがあったんですか?
三浦:ギターの先生という印象しかなかったですね。
田家:そういう始まり方でこの50周年が誕生したと考えると、かなり違う印象をお持ちになるんじゃないかと思います。キングレコード時代、つまりベルウッドはこの翌年に始まるわけで、アルバムの第1号もこの人でありました。第1号アルバム、1971年5月発売、小室等さんの1stアルバム『私は月には行かないだろう』から、三浦さんが選ばれたのは「あげます」。
あげます / 小室 等
田家:『私は月には行かないだろう』はお作りになった第1号のアルバムですか?
三浦:そうです。それでこの歌がなんですごいと思ったかと言うと、まず現代史の詩人が曲をつけてること。それとトーキング・ブルース・スタイルですよね。当時、そういう曲を作っている日本人を知らなかったんですよね。
田家:この「あげます」は谷川俊太郎さんで、タイトル曲の「私は月には行かないだろう」が、大岡信さん。
三浦:小室さんが谷川さんの詩にメロディをつけて、あと高田渡さんの「ごあいさつ」も谷川さんの詩にメロディをつけてる。この「ごあいさつ」と「あげます」はすごいなと思っていつも取り上げているんです。
田家:さっきちょっと話に出た小室さんとの出会いは、1970年9月に出た『フォークギターの世界』というギター教則本のアルバムだった。三浦さんはその時は文芸部教養課というところにいらしたんですよね。
三浦:そうです。教養課から出すアルバムでは、流行歌とかポップスをやっちゃいけないんですよね。教養課らしく教則本から行こうかなと。というのは小室さんはフォークギターの教則本を朝日ソノラマから出していた。僕もそれを見ながらギター練習したり、中川イサトもそうらしいんですよ。でも僕は全然上手くならなくて、教則本のせいにしてた(笑)。それで「もう1回やりましょうよ」って言って、小室さんが教則本を作る時にいろいろなフォークの名曲をピックアップしてくれてフォークのレーベルやアーティストを知るようになったんです。それまでレコードを聴いてなかったですから(笑)。
田家:三浦さんは早稲田のグリークラブにいらしたわけですもんね。
三浦:ラジオでは聴いていたんですけどアルバムでは聴いてないんですよね。だから、よくフォークのことを知らなくて。それで小室さん、後に高田渡さんとか大瀧さんたちに教えてもらう感じでした。
田家:小室さんは最初、「自分は歌う側には回らない」と言っていた。その時に説得する決め手みたいなものがあったんですか?
三浦:合唱コンクールをやってるわけじゃないし、やっぱり歌って上手い下手じゃなくて味ですから。本人が歌った方が味わいが出るし、説得力も出るから僕は小室さんじゃないと駄目だと思ったんです。特に「あげます」とかは本人が歌わないと駄目だと思うんですよね。それで何とかお願いしますって言ったんだけどなかなかOKしてくれなくて、やっとやってもらった感じです。
田家:小室さんもそれがなかったら今の小室等はないだろうけど。
三浦:本人も言ってますもんね。
田家:この曲の時、小室さんはどういう反応だったんでしょうか。1971年11月発売の六文銭で「出発の歌」。
田家:これはシングルとして上條恒彦と六文銭という形で発売になったんですが、お聴きいただいたのは2009年の六文銭 09です。
三浦:これは小室さんの娘さんのゆいちゃんとおけいちゃんが入っている曲なので、僕はこっちの方が好きなんです。上条さんが歌っている「出発の歌」は、僕が録音的にちょっと気に入らなくて、流れる度に悪いことしたなと思って聴いたんですよ。
田家:失敗したんですか! どこがって聞いちゃっていいですか?
三浦:どこっていうわけじゃないんだけど、自分の感性と合わなかったなと。しかも当時2チャンネルなんですよ。今まで聴いた小室さんの曲もみんな2チャンネルじゃないですか。もう同時録音ですよね。だからそのバランスの取り方がめちゃくちゃ難しいんですよね。
田家:この「出発の歌」はヒットしたわけですけども、ヒットするだろうみたいな考えはあったんですか。
三浦:いや、なかったです。入賞、グランプリとか思ってもいないし、メンバー全員そうです。一応プロの人たちが中心だったんで、アマチュアが入れると思ってなかったんですよね。だけど、後で聞いたら審査員は当時「話の特集」の矢崎さんとか、それから永六輔さんも審査員に入ってて。それで今までの既成のアーティストじゃなくて、新しいアーティストを選ぼうって彼らが言ってくれたみたいですね。「出発の歌」を押してくれたみたい。
田家:なるほど。ヒットしたことで会社の中である種の変化はありました?
三浦:フォークソングが商売になると会社は思ってくれたんじゃないかなと。これが僕の最初のシングル盤ですから、新人で初打席初ホームランみたいな感じ。まぐれ当たりですよ(笑)。
田家:会社は三浦は何者だっていう感じになったのではないでしょうか?
三浦:でも実はこれ、小池さんがチーフなんで、僕は小池さんのアシスタントなんですよね。だから普通は小池さんがヒットを出したって言うんですよ。だけど、小池さんは「これは三浦さんだ」って言うから。でも、一応僕が一緒にコンテストも全部付き合って、録音も僕がやったので。ただ立場はアシスタントで、でもこれが最初のシングルヒットです。
田家:次は高田渡さんの1973年のアルバムから「自転車に乗って」。今日はファンキーヴァージョンでお聞きいただきます。
自転車に乗って [ファンキーヴァージョン] / 高田渡
三浦:中川イサトさんと村上律ちゃんで、ギター教則本をもう1枚作ったんですよね。イサトさんが、「僕は小室さんのフォークソングの教則本でギターを始めた」って言ってたんで、じゃあもう1冊教則本を作ろうって。それでその中にこの曲を入れたんです。だから今から思えば、偶然にも『キャラメル・ママ』ですよね。
田家:細野さん、鈴木茂さん、林立夫さん。
三浦:コーラスは多分アッコちゃんでやってて。その後、このメンバーで大瀧さんの「あつさのせい」をやって、それでこのメンバーで『HOSONO HOUSE』にいくんですよね。松任谷さんが加わってね。
田家:この話は来週ですね。「自転車に乗って」は1971年同じ年に出た高田渡さんの1stアルバム『ごあいさつ』の中にも入っていまして。そういう意味では小室等さん、はっぴいえんどと高田渡さんが、前史1971年の柱になっていたということですね。高田渡さんは三浦さんがいきなり乗り込んでいって、「あなたのレコードを作りたいんです」というふうに言ったのは有名な話です。
三浦:自分が出してるレコードに関しては全部説得しに行っています。だからプロダクションの紹介とか会社から「やれ」とかって言われたやつは一切やってないんですよ。全部自分でアーティストに会いに行って口説いて、断られながらもやってきたっていう感じです。だからみんな僕にやってくださいって来た人じゃないんですよ。僕がやってくださいって言った人たちなんですよね。
田家:はっぴいえんどもやりたいと言ったら、もうURCが決まってたんですもんね。高田渡さんの最初の反応はどうだったのか、この曲の後にお聞きしようと思います。1970年10月に発売になったライブアルバム『自然と音楽の48時間 1970年フォークジャンボリー実況版』から高田渡さんの「ごあいさつ」です。
ごあいさつ / 高田渡
田家:これは会社の機材を持ち出して収録したライブなんでしょう?
三浦:そうです。去年かな、僕の上司の長田さんからハガキをいただきまして、「当時、三浦くんが機材を持ち出したことで、僕は辞表を胸に入れて会社に行ってました」って書いてありましたね(笑)。
田家:そうなんですか。長田暁二さんって本当に日本の音楽文化を書き残すって意味では、僕よりはるか先輩で尊敬してる方です。
三浦:本を500冊書いてますからね。
田家:今でも元気ですもんね。長田暁二さんは会社から持ち出したことを知らなかったんですか。
三浦:いや知っているんですよ。長田さんが今頃になってそんなことを僕に言ってくれるのもすごいなと思ってね。当時、辞表を胸に入れたなんて言われてないんです。だけど、「三浦くん俺は許可は出せないよ」とは言われて。そりゃそうですよ、何千万もする機材を持ち出して、雨でも降ったら、もう終わり。僕が持ち出したら会社のスタジオでは仕事できないですよね。でも、行くなよとは言わなかったんですよね。
田家:今ここに喪中あいさつのハガキがありまして、「令和3年11月録音機を持ち出すとき、私は懐に辞表を書いて…」書いてあります。持ち出すときってかなり決意が必要だったんですか。
三浦:いや、大した決意もしてないんですけど、とにかく録音したいという一心で。だけど僕には部下もいないじゃないですか。それでたまたま大学の近くにカレー屋さんがあって、早稲田高校の子どもたちがカレーを食べに来てたんです。その中から何人か運転できる人とか選んで、その中から斎藤くんっていう人がボロボロの車を持ってきてくれた。その斎藤くんは後にアカデミーのクラシックの録音賞取るんです。当時はまだ19歳だから浪人生だったのかもしれないけど。彼のボロボロの車で、アルバイトの子たちと運び込んだ。
田家:機材車のまま行ったのではないんですね。卓を会社から持ちだして。すごいな。
三浦:でもそれやってなかったら、はっぴいえんども渡さんも僕もいなかったわけですから。
田家:この1970年のライブ盤もないわけですからね。
三浦:今から思えばとんでもない良いことをしたなと思ってるんですけどね(笑)。
田家:会社にばれたらクビですからね(笑)。長田暁二さんすごいなぁ。中津川でこういうのがあるんだっていうのは?
三浦:僕の1年下に牧村憲一くんがいて、タクシーでどこか行くときに、ポロッと「中津川でこういうライブがあるよ」って言ってくれて。聞いたら僕の好きな人が全員出演する。「絶対行って俺が録音する」って言ったらもう録音決まってますよ、URCがやってますよって。でもそれを僕がやるから、お金も全部こっちが出すからって言ってやらせてもらったんですよ。
田家:URCはやるつもりだったんですか。
三浦:もちろんですよ。それで僕がレコーディングして。岡林さんとか赤い風船はビクターですからビクターで出そうと思ったんですよ。でもビクターの分も全部僕は録音するから、それで音源はビクター 、URC、ケンウッドとかいろいろなところに同じ音源使ってもらいました。
田家:分けてあげるよと。すごいなぁ。こういうのを歴史的な行為と言うんでしょうね。高田渡さんにあなたのレコードを出したいんですということで始まった次は、高田渡さんの1stアルバム、1971年6月に出たアルバム『ごあいさつ』の中の「しらみの旅」。
三浦:これは中津川のフォークジャンボリーで渡さんのレコーディングの話をした時に、はっぴいえんどとやりたいって渡さんが言っていて、僕もはっぴいえんど大好きだから、やろうと。でも周りはやっぱ渡さんはフォークソングのイメージがあった。それと早川義夫さんがこのアルバムのコンセプトとか、バナナのデザインも決めたくれたんですよ。
田家:ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのね。
三浦:早川さんから、やっぱり渡さんの歌は言葉が命だからアコースティック1本でやった方が言葉が伝わりやすい、変なバックをつけると言葉がぼやけちゃうという意見もあって。別に揉めたわけじゃないんだけど、僕と渡さんはどうしてもはっぴいえんどとやりたい。でも、僕は早川さんを尊敬しているんですよね。一緒にやりたいなと思ってたんだけど、早川さんはスタジオに来なくなって、僕と渡さんでやったんです。漣ちゃんがマイフレンドってお父さんのことを書いてて、それで17歳の少年のときに三橋一夫さんから演歌の『明治大正史』という本を借りて、渡さんはその本を見て、アメリカのフォークソングのメロディに唖蝉坊の詩を乗せると非常にうまくいくというのをひらめいた。それが渡さんの作曲の原点です。17歳ですよ。当時渡さんは『替え歌百年』っていう加太こうじさんの本も読んでて、要するにフォークソングっていうのは替え歌なんだと。それをもう17歳の少年が分かったわけです。すごいなぁと思ってしまい、それもあってまずこの曲を渡さんの曲として選びました。
田家:この曲はベルウッド・レコードの前史にオリジナルアルバムが3枚ありまして、小室さんの『私は月には行かないだろう』と高畑さんの『ごあいさつ』と武蔵野たんぽぽ団の『武蔵野たんぽぽ団の伝説』。
三浦:その間に僕は『風街』もやってんですけどね。それはURCから出しているんですけど。だから一応、小室さん、渡さん、はっぴいえんどを全部やってるんですよ。
田家:なるほどね。今日最後の曲は何度も話に出てるはっぴいえんどのシングル盤です。1971年12月に出た「花いちもんめ」。
田家:1971年11月に出たURCのアルバム『風街ろまん』の中の曲ですが、これをシングルにしたいっていうのはさっきおっしゃったメンバーの方から。
三浦:そうです。これは茂さんの最初の曲ですよね。大瀧さんがはっぴいえんどの中心だったんですけど、大瀧さん以外のボーカリストっていうことで、茂さんを前面に出そうと僕も思ってたんで、これがいいなと思いました。
田家:大瀧さんのソロシングル「恋の汽車ポッポ」もこの時でしたでしょ。
三浦:そうなんですよ。話が横道にそれるんですけど、ベルウッド・レーベルの名前をつけるときに僕と大瀧さんと3人でいろいろ話して。大瀧さんはレーベル名は「汽車ポッポレーベル」がいいってしょっちゅう言うんですよ(笑)。なんであんなに汽車にこだわってたのかなと思ったら、両方汽車なんですね。で、ベルウッドっていうのは小室さんがリスペクトして鈴木さんをもじって名前を付けました。
田家:大瀧さんのソロシングルは大瀧さんの方から? それとも三浦さんの方から出しませんかと言ったんですか?
三浦:大瀧さんにどの曲がいいか聞いたら、「恋の汽車ポッポ」を持ってきたんですよ。当時、シングルヒットしないと会社が成り立たないから一生懸命やるんだけど、シングル盤に関してはシングルヒットはアルバムを紹介するための見本品程度にしか思ってなくて。だから売れる売れないよりも、そのアーティストとかアルバムの特徴が出ているものをシングルにしてたんですね。先輩からも「三浦くんシングル盤って分かってんの?」ってよく言われました。「売れなきゃシングル盤なんて意味ないんだから」とも言われたんだけど、それもそうだけど僕はそういう考え方でやってますって。
田家:なるほどね。大瀧さんのソロをその時にもうおやりになりたいとおっしゃっていたわけですもんね。この話は来週ですね。来週は70年4月にベルウッド・レコードが発足してからの話になります。よろしくお願いします。
田家:FM COCOLO 「J-POP LEGEND FORUM」日本の新しい音楽の土台を作り上げたベルウッド・レコードの50周年を記念した1ヶ月。創設者・プロデューサー・音楽事業家三浦光紀さんをゲストにお送りする5週間です。今週はパート1。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かなレジェンド」です。
話が大きくなるんですけど、歴史は1人の力だけでは動かないと思うんですね。やっぱり名も無いたくさんの人たちがそういう方向に動いていかないと流れができない。でも、1人の人から始まることは多いと思うんです。ある1人の人が何かに気づいて、何か思い立って、それに従って行動していくことから扉が開く。ベルウッド・レコードっていうのはまさにそんな例でしょうね。インディーズのレーベルとしては、その前にURCがありました 。
URCの人たちが集まって「全日本フォークジャンボリー」という野外コンサートをやるようになって。そういうイベントがあるんだっていうことを聞いて、面白そうだね行ってみようと思ったレコード会社に入ったばっかりのアシスタントのスタッフがいて、その人の名前が三浦光紀さんだったわけですね。面白そうだっていうことで会社の録音機材を無断で持ち出していってしまった。
今日初めて知ったのですが、会社にあった録音車を運転していったんではなくて、近所の飲み屋さんで知り合った学生で運転できる人を見つけて、その人の車で会社の機材、録音卓を運び込んで現場に向かった。これは会社に分かったらクビでしょうね。もし何かがあったら、お前はもうここにはいてはいけないってなるわけですが。そうやって作ったライブアルバムがあって、そこから物事が始まっていく。そこにいた人たちのレコードを俺は作りたいんだって言って直接その人たちに会いに行ってレコードを作った。それが51年前の話です。そこから自分でもっとちゃんとやろうと思ってレーベルをレコード会社にして、50年が経ちました。今のJ-POPの源流がここにあります。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
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