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吉田豪が翔とTAKUと語る、故・嵐ヨシユキの思い出と「横浜銀蝿」の軌跡

Rolling Stone Japan / 2022年12月1日 17時30分

T.C.R.横浜銀蝿R.S.(左からTAKU、翔)

2022年7月に永眠した横浜銀蝿のリーダー、嵐ヨシユキ氏の追悼アルバム『All for RAN』。嵐の実弟でボーカル&ギターの翔が作詞作曲し、嵐の人柄や想いが詰まった表題曲をはじめ、亡きリーダーに捧げる特別な作品になった。今回、プロインタビュアーの吉田豪が翔とTAKU(Ba)とともに語り合った。

【写真を見る】横浜銀蝿(2019年撮影)

―ついこの前までJohnnyさんと嵐さんも含めた4人組だったことを思うと、いまアー写がふたりだけになっているのは寂しいですね。

TAKU ね、ホントだよね。いま話してたんだけど、これ4人いるとユニフォーム的だけど、2人だとペアルックだよねって(笑)。

―ダハハハハ! 前回ボクがRolling Stone Japanでやったインタビューが3年前、横浜銀蝿がオリジナルメンバーで横浜銀蝿40thとして復活したタイミングだったんですけど、この3年でいろんなことが大きく変わりましたよね。それこそボクと翔さんの関係性も含めて。気がついたらふたりで番組(tvk『翔くん豪ちゃん翔和へGO!』(22年7月6日から火曜深夜24時にtvkで放送中の15分番組)をやるまでになって。

翔 ハハハハハハ! でも、いい距離感だよね。いろんな人がゲストで入る番組だけど、特に俺たちは打ち合わせ何もしてないからさ。で、打ち上げとかぜんぜんやってないもんね。

―ボクも毎回、収録が終わったらすぐ帰っちゃうし。

翔 そうそう、それがいいんじゃねえかな。

―その番組をJohnnyさんがプロデューサーとして作り、そしてそこにTAKUさんがゲストとして来るまでになり。Johnnyさんがカチンコを打ってましたもんね、「用意スタート」って(笑)。

翔 そうそう(笑)。

―そして嵐さんがいなくなった(22年7月4日、肺炎のため67歳で死去)というのが何より大きいとは思うんですよ。特に翔さんは嵐さんの実弟でもあるし関係性が深すぎるわけで。

翔 こないだ亡くなって100日が過ぎたのね。100日過ぎてもロスがあるんだよな、なんか……。

TAKU 今日さ、アルバムの話だなと思って来るとき曲を聴いてたらさ、やっぱりウルッとなっちゃうんだよ。声を聴くとヤバいよね。

―最後の2曲が嵐さん唯一のソロアルバム『生涯現役!』(2016年)の再録ですからね。

TAKU そうなんだよ。

翔 最初の頃はツアーに向けてのリハーサルをやるのも、いつもいるのがひとり足りないな、そりゃそうだ嵐さんいないんだなと思って。2020年に横浜銀蝿40thになってJohnnyが戻ってきて1年間コロナであまり動けないあいだも練習は続けていて、動けなかった分、2021年に40thをもう1年延期して、その2年間ってすごく楽しかったんだよね。嵐さんも具合が悪いときもありながらもホントに頑張ってくれて。で、2021年の大晦日の配信も最後までやり切って、そこでギターがJohnnyからJackに替わって、4月15日が嵐さんの誕生日なんだけど、その2日後の日曜日に横浜ランドマークホールで嵐さんのバースデーライブをやって。そこからまた続くんだろうなと思ってて。

―当たり前のように。

翔 うん、当たり前のように思っていたのが体調が悪くなって。6月の頭に最後の手術があったんだけど。40thの4人でやってたのがすごく楽しかったんだろうね、「やっぱりまたJohnnyとやりたいよね」とか最後に言ってたし。とりあえずRETURNS名義をやめて、THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIALって元の名前で一からやり直そうって言ってた矢先だったから。なんかホントに「えぇ!?」って感じで、まだ67歳だし、まだまだぜんぜんできると思っていたし。あの人は脳梗塞とかいろいろ具合が悪くなっても毎回復活してきた人だから、亡くなるという選択肢は俺のなかにはなかったから。なんかすごいショックだったよね。





「銀蝿を第二のドリフターズにする」

―ボクが最初に嵐さんを取材した17年前(2005年)も脳梗塞から復帰した直後で、「病院から逃げてきた」みたいな話をしてましたね。

翔 病院が嫌いで1秒でもいたくないんだよね、あの人。

―そう考えると、そこからだいぶ頑張りましたよ。

翔 ホントに頑張ったと思う。他の腎臓の病気とかもいろいろ抱えながらも、それでもリーダーとして銀蝿をやるんだっていう思いがすごく強く、銀蝿のことしか考えてないから。そのなかでも俺は自由に楽曲を作ってコンサートやって、嵐さんが調子いいときは歌ってドラム叩いて、まだまだふつうに続くんだろうなと思ってたから、なんか……まだ信じられない。銀蝿でやってきたのは42年間だけど、俺がこの世に生まれてから64年間、嵐さんと一緒にいて、50年は一緒に不良やって。

―身近にいる不良の先輩として。

翔 そうそう、先輩として車に乗ったりバイクに乗ったりっていう歴史としては50年だよね。でも、60年も70年も一緒になんかやれるつもりだったから、気持ちの整理はまだついてないんだよね。今日の段階でお別れ会が1週間後にあるから、そこで乗り越えられるかなとは思ってはいるけど、そこにファンが来たりいろんな人が献花に来てくれたらまたつらくなっちゃうのかな。だから最近は忘れるとか乗り越えるとかしなくていいかなと思ってるよね。

―あえて引きずり続けて。

翔 うん、引きずり続けてもいいんじゃないの? って自分では思うようになったかな。

TAKU 俺も高校出たての18歳から嵐さんといるじゃないですか。しかも自分のことを最初に拾い上げてくれた人って嵐さんで、そこからすべて始まってますから。そういう意味ではなんとも言いようがないというか、ずっといたからさ。

―銀蝿以前からですもんね。

TAKU そうそう、それこそキャッシュ(嵐とTAKUがメンバーだった横浜銀蝿の前身バンド)の頃からね。最初は実感ないじゃないですか。でもこの頃、実感が出てきてるから余計キツかったりはしますよね。いまこうやって翔くんとふたりでいて、ステージもあとはサポートの人たちじゃないですか。じゃあ今後どうしていこうかとか、そういうことも考えつつ、ちょうどいま微妙なところっていう感じ。石原裕次郎さんが亡くなったとき、石原軍団はその後どうなるんだろうって思ったのと同じで、翔くんは渡哲也で俺は舘ひろしかな、みたいなことを考えたり。だって、最初に「この指とまれ」をやった人がいない状態じゃない?

―嵐さんがいなかったら銀蝿は存在しないですもんね。

TAKU そうそう。

―だからこそ、あまりドラムが叩けなくなってからも象徴として在籍していてほしかったわけですよね。

翔 いるだけで横浜銀蝿だったからね。

TAKU やっぱりリーダーなのよ。リーダーって必要じゃないですか。嵐さんがドラムそんなにうまいかっていったらうまかないし、聖人君子みたいに立派な人柄ですごく勉強させてもらえるかっていったらそうでもないけど、でもやっぱり機関車みたいなところがあって。機関車って突破する力と引っ張る力が両方あるってことじゃん、ホントそんな感じの人物だったんで。

―インタビューしても問題発言しかしないような人でしたからね。

翔 そうそう(笑)。問題発言ばかりだからね。

―「入院中も女が鉢合わせしないようにするのがたいへんだったよ」みたいなことしか言わない(笑)。ただ、そんな嵐さんのグループを引っ張る力みたいなものに魅力を感じていたんですかね。

翔 そうだね、やっぱり銀蝿のこと一番考えてましたよ。嵐さんがいろんなこと考えてるから俺らは自由にできた部分もあるので。

―そして、嵐さんしか知らない部分が相当あったと思うんですよね。嵐さんと亡くなった大坂(英之・ユタカプロ社長)さんしか知らないことが、これで解明されないままになっちゃったのかなって。

翔 そうだね、豪は解明したいんだもんね。

―そうなんですよ。昔、嵐さんには確認したことあったんですけど。最初に事務所に入ったとき、「銀蝿を第二のドリフターズにする」とか「欽ちゃんファミリーに入れる」とか言われたって話があって。おふたりは当時そんな話を聞いてました?

翔 聞いてない聞いてない(笑)。そんな話、きっとごまんとあると思うんだよね。俺たちの出してくる楽曲だとかスタイルだとか、そういうもので方向性が多少変わってきたんだろうけど、きっといろんな案はあったと思うよ。もともとアイドルの事務所だったからね。

―そういう芸能ノリのプランをいろいろ出されて、それをどう修正していくかっていうところで嵐さんが戦っていたのかもしれない。

翔 だと思うんだよね。そこには嵐さんがいたから、「これは嫌だ」とか、そういう戦いもあっただろうし。

―銀蝿がその話に乗らなかったから一世風靡セピア周辺の人たちが欽ちゃんファミリーに入ったりしたんだろうなと思ったんですよ。

翔 ハハハハハハ! なるほどね。

―不良っぽいテイストを入れようとしてた時期があったんだろうなっていう。そのへんの窓口は全部嵐さんに任せてたんですか?

翔 全部嵐さん。

―メンバーは一切タッチせず。

翔 俺らは楽曲を作って練習して、どういうパフォーマンスをしようかとか、コンサートの流れとかなんかは俺らが決めてたけど、そうじゃない大きな流れでどこに行くとか何をしようとかは全部嵐さんで。テレビの番組が決まったら、出るのは好きだったからドリフの番組にも出たし欽ちゃんの番組にも出たけど。

―ハッピを着てドリフと踊ってたんですもんね(笑)。

翔 そうそう。横浜銀蝿という確立したグループのメンバーとして行ってたからそれは腑に落ちてたし、この流れでいいんだろう、と。(ビート)たけしさんと番組でくだらないコントやったりもしたけど、それも銀蝿の嵐、銀蝿の翔っていうところでの出演だから、自分としてはこれでいいんだっていう形で。あとは音楽番組だよね。そういうのでやってきたけど、そこでのいろんな葛藤だとか方向性を決めることは嵐さんのなかだけでやってたんじゃないかな。

―TAKUさんも芸能活動は、とりあえず言われたことはやっておこう、みたいな感じで。

TAKU うん。あと俺、銀蝿解散後は日音(音楽出版社)に入ったじゃないですか。だから外部の会社として嵐さんを見てたわけよ。ずっと一緒にいるとわからないことが、他の会社の人として出会うと気づくことっていっぱいあるじゃん。ちょうど俺が30歳から35歳までいたんだけど、そのとき違う目線で思ったこともあったよね。

―すごいなと思うところもあれば、ダメでしょこれっていうところも。

TAKU そうそう、ふつうじゃない部分もわかった。だって嵐さんといるときはそれがふつうと思ってるじゃん。

―それしか知らないですからね。

TAKU そうそうそう。大坂さんもそうなんだけど、あとから思えばふつうじゃないっていう。逆に言うと銀蝿にとっては大坂さんにしても嵐さんにしても、それがちょうどいい具合だったと思うんだよね。きっとJohnnyもそれはわかってると思うんだよね。

―キングレコードでちゃんとした音楽ビジネスを知ると、「どうなんだ?」って思ったりもしただろうし。

TAKU 逆にキングと嵐さんの板挟みになってキツいときもあっただろうしさ。ただ、そういうのも含めて全部嵐さんとの出会いで始まってるので。おかげさまで18歳からずっと、いま62歳なんですけど、ずっと音楽やってこられてるわけじゃないですか。一番最初に俺の可能性を信じてくれたのは嵐さんだろうし。嵐さんの還暦アルバムも、最後に嵐さんが歌った曲も俺にアレンジをやらせてくれたり、最初から最後までクリエイティブなことに関して俺のこと信じてくれてたのは嵐さんだなって思いますね。

―こういう不良バンドがJohnnyさんとTAKUさんという音楽業界のプロをふたり産み出したっていうのも不思議ですよね。

翔 ホントだよね。迷うこととかも色々あったけど、結果ここまでやってこられていまもまだ頑張れる状況にいるっていうのは、嵐さんの選択は間違ってなかったんじゃないかなと思うよね。


銀蝿伝説の真相

―翔さんと一緒に番組をやらせてもらう過程で聞いたのは、事務所の命令でまず喉を潰すミッションがあったっていうのは聞いてましたけど、車で走りながら看板をひたすら読むミッションもやらされたりもしたらしいですね。

翔 そうそうそう、まずはストレートに言葉を発するために喉を潰す。そして看板を大きい声で読むことで滑舌をよくする、1個ずつの言葉がハッキリと相手に伝わるように。最初の頃は言われるがままやってたけど、看板を読むのはすぐに結果が出たんだよね。ちゃんと言葉が乗るっていうのを理解できて、これはすごいと思った。いまでもやってますよ。フニャフニャ歌ってたら銀蝿のロックンロールは伝わらないと思うんだけど、それがドーンといけたのはその練習があったから。ボイトレにはない部分だと思うけど、それがすごく効いてると思う。喉を潰すことに関してはなんだかわかんなくてやってきて、とりあえず決定的には潰れないで持ったからここまでこられたけど、いろんな人に聞くと「それは危険だよ! 声が出なくなっちゃう」って。

―そりゃそうですよ(笑)。

翔 潰れたら戻らないから、そこは賭けだったんだろうけど、喉を潰す前よりはぜんぜんいい声になったし。滑舌に関してはすごい古めかしいというか、他にもきっとやり方はあると思うんだよね。だけど俺には一番合ってたと思う。

TAKU あと、あれ不思議じゃなかった? 最初、ラジオの練習っていうか、しゃべりをカセットテープに入れて提出しろってことで、みんなで集まって仮想のラジオ番組をデビュー前に一生懸命、海岸でラジカセを押して「ハイやって来ました!」「今日の1曲目はナンタラ」とか、しゃべりの練習をしてたの。そのときは、ロックンロールバンドでいまから出て行こうとしてる俺たちになんでラジオの練習させるんだろうなと思ったりはしたけど、いま思えば練習になったから。

―ちゃんと役には立ったわけですね。

TAKU そうそう。そういう不思議なトレーニングもあったよね。「30分カセットにしゃべってこい」とか、ふつう言わないもんね(笑)。

―ふつうに不良路線の硬派なバンドとしてデビューするとしたら必要ないことかもしれないけど、銀蝿には正解だったっていう。実際にラジオもやるわけだし。

翔 革ジャンを着てリーゼントしてサングラスかけてってなっていくと、自分たちでそういう方向に行っちゃいがちじゃない。だけど実は愉快な仲間で、嵐さんもくだらないことたくさんしゃべるし、俺もJohnnyもTAKUもおもしろおかしくしゃべるのが好きだったから、その練習をすることによって、ふつうにラジオ番組に出ても自分たちの素のままでいけたっていうのかな、そうじゃないと出たときに「(格好付けて)俺たちはさあ」「ロックンロールってこうなんだよね」みたいになりがちでしょ。それが「どうもー!」ってできたそのギャップがおもしろかった部分もあると思うんだよね。そんなことやってるのが『D.J.Rockn Roll』とか、ああいうのにつながってくるわけでしょ。

―キャロルやクールスはその練習してないですもんね。

TAKU 絶対しないでしょ(笑)。

―そこがぜんぜん違う。個人的に気になってるのが、嵐さんがある程度膨らませて銀蝿伝説的なものを作ってた部分もあるんじゃないかと思ってて。たとえばデビュー前「オーディションに36回落ちた」とかも嵐さんが膨らましてるんじゃないかって疑念がちょっとあって。

翔 いや、それは膨らましてない、ホントに落っこちてた。アマチュアの頃からオーディションを受けてるんで。あとカセットを持ってったりっていうのはデカい事務所にしかしてないけど、それ以外にもいっぱい出してる。だからホントは36回よりもっとやってますよ。コンテストも全部1回戦で負けたけどホントに出てたし、だから膨らませてない、むしろ少ないぐらいかも……。

TAKU でも嵐さん、俺と会ったときには「俺たち横浜じゃ知らねえ人いねえ」って言ってて。それ大風呂敷だったってことだよね?

翔 ハハハハハハ! そりゃそうよ。でもファンはいたんだよね。Johnnyがいて俺もいてコンサートおもしろいから、予選大会とかは一般のお客さんも観に来るじゃないですか。だからアマチュアでもコンサートやったら戸塚公会堂とか200~300人は入るバンドだったから、でも「横浜じゃ知らねえ人いねえ」なんて(笑)。テレビ神奈川とか『ぎんざNOW!』とかも出たし、暴走族のヤツらとかはあの頃みんな観てたから、そういうので地元ではある程度は知られてたけど、そういうところは膨らませてるとこあるよね。

―番組のゲストに来たTMNの木根尚登さんが、前身のSPEEDWAY時代に同じコンテストに出てたって話をしてましたね。

翔 そうそうそう。そうやって実際に動いてると、向こうもきっと銀蝿のことは覚えてると思うんですよ。名前も印象的だし、楽屋ではちょっとでもうまいヤツらをビビらせて萎縮させて本番で失敗するようにっていう小賢しいこと考えて圧をかけたり。水飲み場に行って、「なんでおまえコップ洗わないで水を飲むんだ」とか。

―因縁を吹っかけて(笑)。

翔 「おまえ、俺の女が飲んだコップでそのまま飲むのか」とか大騒ぎして、みんななんかシーンとしちゃって。本番が始まるとみんなうまいからぜんぜん効かなかったけど(笑)。でも、木根さんとやったときベストボーカル賞だもんね、俺。

―ヤマハのコンテストで。

翔 そうそう。そのへんは膨らましようがないけど、「横浜では知らないヤツいない」って言う一面も嵐さんはあるんだろうね。

―デビューコンサートを横浜市教育会館というホールでやってたりとか、それなりの存在ではあったわけですよね。

翔 そうね、横浜じゃ(笑)。

―何がギミックで何がホントなのかわからないなかでいえば、ボクは銀蝿のデビューコンサートでの嶋大輔さん補導事件の真相を本人に聞いてみたんですけど、伝説よりも真相のほうが悪かったんですよ。

翔 ハハハハハハ! めちゃくちゃだったからね。

―膨らましたのかと思ったら小さくしているぐらいで(笑)。当時の本だと、嶋さんがトイレで隠れてタバコ吸ってるのを大坂さんが発見して「事務所に来い」って言ったみたいな話だったのが、銀蝿のチケットをゲームセンターか何かで大量に渡されて、それでみんなで行って、みんなで堂々と「禁煙」って書いてある前でタバコを吸ってたら警備員と揉み合いになり、警察に補導されて、大坂さんが引き取りに来てスカウトされたって話でした。

翔 ゲームセンターって、ペットショップの脇にあるゲームコーナーなんだけどね。そこでパーティーみたいに「チケット買えよ」って言って。当時はそんなこと言えないじゃん。嵐さんは常にそこの真ん中にいていろいろやってたと思うけどね。俺は大輔が来た、哲太が来た、紅麗威甦が始まった、岩井小百合ちゃんがいるっていうのも、「入りました」って事後報告からだから学校の後輩みたいな感じ。俺は銀蝿のことしかやってないからさ。

―そのへんのことを翔さんに聞いても、「たぶんそれ嵐さんしか知らない」って言われることが多くて。

翔 そうそう。特に俺は銀蝿のことばっかになってるから、他のこと考えたり、そこのコミュニケーションもあんまり取れてなかったですよね。楽曲に関しては、合いそうな曲を出してくれって言われて紅麗威甦とか大輔とか矢吹薫とか麗灑にも作ってましたけど、あとはどういうふうにやっていくかは俺はノータッチだしね。

―嶋大輔さんが事務所を辞めた理由も翔さんは知らなかったですもんね。

翔 知らない知らない。銀蝿一家ではあるけどみんなそれぞれ巣立っていくんだろうとは思ってたから、俺はぜんぜん知らないの。


チェッカーズとの関係

―事務所トラブルで、なぜかチェッカーズが一時期ユタカプロ預かりになったことにより、事務所のビルに置いてた自分の荷物を外に出されて「俺は必要とされてないのか」的な感じになった、みたいな話だったんですよね。

翔 そうなんだ! 俺なんかは何があったって大輔はかわいいし、哲太も1回抜けたときもあるけど、そのときも茅ヶ崎まで行って「おまえ、何も言わないで抜けるっておかしいよ」って話して、筋道が通ってれば俺は「頑張れよ」って言うだけで。チェッカーズがいたのは知ってたけどさ。

TAKU でも、俺らの部屋にあいつらが寝泊まりし始めたときは「なんだこれ?」って思ったよね、そういえば。事務所の3階に銀蝿の部屋っていうのがあったの。2DKかなんかで畳の部屋が2個あって台所がついてて。いつの間にかあいつらがそこに寝泊まりしてたから。

翔 俺はそのときも誰か預かってるんだろうなと思って、そこにものをいっぱい置いてるわけじゃないから、好きに使えばいいのにと思って4階の嵐さんの部屋に行ったり、みんながたむろしてるところにいたりしてて。行っても練習スタジオとして使うか事務所でサイン会とかそういうことしかないから、まあいいだろとは思ってたんだけどね。そのうち突然いなくなって、なんだったんだろう、みたいな。

―あまりロック史で語られない部分ですよね。一時期チェッカーズが後輩になってたというのは。

翔 そうそう、あいつらぜんぜん挨拶来ないもんね(笑)。まあいいけど。

TAKU 話ぜんぜん違うんだけど、俺らが最初にTBSホールに出たとき、デビューしたばかりのチェッカーズも出てたんだよ。その帰りに銀蝿のファンの子たちが「フミヤがいい」って言ってる声が聞こえたから、「じゃあこいつらすごいのかな、化けるのかもしれない」っていう予感はあって。そしたら、それからしばらくしたらもう大坂さんが呼んで事務所に来てたから、大坂さんすげえなって。たぶんそのときに大坂さんは目をつけてたと思うんだよね、いくんじゃないかって。

―だから銀蝿が異端なだけなんですよね、あの事務所では。基本そういうアイドル色のあるバンドを売りたい人で。

TAKU そういうこと。最初の頃に、翔くんが事務所からもらった楽器にレモンパイ(75年にユタカプロからデビューしたアイドルバンド)のシールを剥がした跡がついてて、それを翔くんとJohnnyが分解してピックアップいじくってプラモデルみたいにしてたの覚えてるもんな。俺は俺でもらった楽器すぐに売っちゃったけど、レモンパイのお古だったんだよね。

―だからこそおもしろくなったと思うんですよね、その芸能テイストと不良要素が不思議に混ざって。

翔 そうだね。

TAKU それは間違いない。

―その鍵を握るのが嵐さんなのも間違いない。

翔 そうだね、それは間違いないよね。

―嵐さんもホントに不思議な人というか、シルバーレコード(レコード会社)を立ち上げてからも、「犬のCDがすごい話題になるっていうから出したのにさ、あれぜんぜん売れねえんだよ!」「木村健悟のCD出せば売れますよって言われて出したんだけど、売れねえんだよ!」って愚痴をすごい言ってました(笑)。

TAKU ハハハハハハ! 俺、V6の『学校へ行こう!』を観てたのよ。そこで癒し系ミュージシャンの企画をやってて、嵐さんに「あれのレコードをシルバーが出せばいいんじゃない?」って言ったのよ。その時点でジャニーズはそれを出せばいいって気づいてなかったの。それで結局あれ(『卒業~「学校へ行こう!」癒し系ミュージシャン作品集』)がシルバーレコードで一番売れたんだよね。10万枚は超えたと思うんだけど、俺その発案者なのにノンケアだもんね、いま思えば(笑)。

―ダハハハハ! 金一封出してもいい話ですよ!

TAKU 10万枚ってことは1億だからさ。

―うわーっ!! ボクが嵐さんを取材した時点では、CDが売れなくて借金がヤバくてだんだん支払いが遅れてるみたいな話もしてました。

TAKU たぶんシルバーは『学校へ行こう!』のサントラだけじゃないかな、弾けたのは。翔くんのソロアルバムのとき、俺は日音にいたんですよ。それで嵐さんが来て、「ベース弾いてくれ」って言うんで、何曲か弾いたの。俺は何も考えずにそのまま帰ったんだけど、ディレクターが「ギャラもらったの?」って言うから、嵐さんに「ギャラちょうだいよ」って言ったらさ、「そうか?」とかすっとぼけてて、「じゃあいますぐ現金で払う」ってその場でもらったことがあったんだけど、言わなかったらないままだったんだよ。

―ダハハハハ! 友情出演のまま(笑)。翔さんは嵐さんに困ったことはあるんですか?

翔 俺は銀蝿もソロも音楽をやれてる環境が幸せだったからさ。嵐さんはもちろん経営もしてるから金のことがいろいろあるだろうけど、こっちは不自由なことがあっても、それは兄貴だし、いいやいいやでやってきちゃってるから、そのへんのことはあまり気にしないでやってきたかな。金銭的な部分でどうこうっていうのは全部目をつぶろうと思って、それより楽しい部分でやってたからぜんぜん……嵐さんの常套手段は、「金が欲しいのか仕事が欲しいのか」みたいな(笑)。

―その二択?

翔 そうそう。そうするとミュージシャンはみんな「仕事が欲しいです」って言うから、「じゃあ仕事やるから頑張れよ」って。金が欲しいなら金が欲しいってやり方でやるっていうね(笑)。


2001年の参院選について

―ちなみに嵐さんが01年に自由連合から出馬したときはどういう感想でした?

TAKU あれもさー、選挙のプロデューサーみたいなのがいるじゃない。「ちょっと応援演説やってくださいよ」みたいな話になって、渋谷のハチ公前とかでしゃべったんだけど、不思議な空間だったよね。あのときネットがあればもっと可能性あっただろうけど。嵐さんすごいね、出馬経験あるんだもんね。

翔 あの選挙に関しては、まあいろいろあるんですよ……。それに乗っかろうっていう嵐さんもいたし。詳しいことは置いといて、死ぬほど応援しました。参謀が全国を周る手配とかやってその段取りもして、それで全国くっついて行って宣伝して。銀蝿として嵐さんが立つことによって、もちろん受かってくれればいいなとは思ってたけど、それをやることによって銀蝿の見方が変わってくれるだろうとか、それもひとつのパフォーマンスで、受かったら受かったで何をやろうかとか真剣に考えてたし、落ちたら落ちたで「惨敗!」みたいな感じで、それはそれでいいんじゃないかと思ってたから。

―いいネタにもなるし。

翔 そうそう。だから俺は全面的に協力しましたよ。一番近しいし、メインボーカルでもあるからくっついて行ってちょっとしゃべったりしてもインパクト違うじゃないですか。俺の目に映る嵐さんは横浜銀蝿をなんとかしたいっていう発想が最初だったと思うんだよね、選挙にしても何にしても。だからやるなら100パーセント応援しようと思ってたし、そこで「仕事が欲しいの? 金が欲しいの?」って言われたら、お金の問題じゃない。兄貴がやるなら協力する。選挙も最初の頃は参謀が「翔さんに時間使ってもらってるからちゃんとあれしますよ」とか言ってたけど……まあそんな話ばっかりだから、それはそれで。

TAKU そうだよね、それも最初に言ってたよね。嵐さんが突然ライオンズクラブに入って、それもやりようによってはコネクションができるって始めたらあっという間に自由が丘の一番偉い人になっちゃったりしてさ。だから始めると上っていくよねっていうのはたしかにあった。

翔 それも、いろんな金の匂いがするところとか名前があるところに行っても、「ライオンズ渋いんだよねえ」って言うから、俺は「ああ」って聞いてるだけなんだけど。ライオンズクラブっていうのは慈善団体だから、平たく言うと街のためにみんなのためにやりましょう、予算繰りはするけど全部遣い切って、俺たちはもらわないみたいなことを俺に説明するわけよ。俺は「ああそうですか」と、そんなわけないでしょと思ってもそれは聞くの。最後のほうなんて中華料理屋で飯を食うのにライオンズの名前を使って予約したりとかそういうことしかしないで、会長もホントはならないほうがいいのもわかってて、あの人は結局会長になっちゃって、「俺は一番偉いんだ」みたいなことを言ってるんだけど、それも全部嵐さん節なのよ。ライオンズのことをやることによって、銀蝿がいろんなところで助けてもらえるってことで。

―いろんなコネクションを使えるから。

翔 俺はそう思ってる。だから俺に協力できることがあったらやりますよっていう感じだよね。でもきっとそうだと思うんだよね。いろいろやっていろんな思いをしてるだろうけど、根っこのところには銀蝿のためにっていうのは絶対あったと思うから。それはいろんなものに目をつぶってでもぜんぜんありなんじゃないの? っていうのが嵐さんに対する俺の見解だから。

―何をやっても順応するしおもしろがってた人ですよね。選挙のときも徳田虎雄について「あの人すげえぞ」とか言ってて。

翔 でも陰では「徳田虎雄使えねんだよ」って言ってるわけだからさ(笑)。「あのオヤジ金持ってるんだったら俺にもちょっと給料出したらいいんじゃねえか」ぐらいのことを裏では平気で言ってて。選挙の話なんかしたら俺いろいろネタありますよ。でも、それはそれで参議院選挙に出馬することがおもしろいチャレンジだと思うし。チャンスがあってそんな話になったなら乗っかろうっていう。

―昔、生徒会長になったようなノリでやってますよね。

翔 そうそうそう。それも含めて嵐さんだなと思うから。俺もラジオとかで文句言いましたよ、「嵐さんに呼ばれたのに全部ギャラなしって言われてさー」みたいな話は冗談でするけど、心の中ではそれはすべて銀蝿のためっていうのがあるから。




アルバム『All for RAN』に込めた想い

―ふたりの思いはだいぶ伝わりましたよ。だからこそいまアルバムを作るとなったら嵐さん追悼盤としてちゃんと思いを込める、と。

翔 そうだね、だから『All for RAN』っていうタイトルも、銀蝿ってホント「ONE FOR ALL ALL FOR ONE」じゃないけど、ひとりが誰かのためにやる部分もあって、みんなで銀蝿のためにって部分もあるバンドでね。嵐さんの追悼アルバム出そうって話になったとき、俺のなかではいま話したようにいろんな思いがあるけど、でも俺の行き着いたところはやっぱり「ありがとう」って気持ち、感謝の気持ちしかないんですよ。銀蝿のことを一番考えてた人だと思うから、それを追悼するに当たって、嵐さんの銀蝿への思いを返すには、みんなで嵐さんのために何か作りたいと思って。最初は『All for One』ってタイトルだったんだけど、これは『All for RAN』だなと思って。42年間のありがとうを伝えたいのと、あとはまだロックンロール一緒にやりたかったよっていう気持ちを伝えたい。これは制作の段階で全員で合唱するって決めて楽曲を作ったんで、コーラスじゃなくて全部一緒に歌いたいんだよって言って。AtsushiもJackも入ってくるし、Johnnyにも歌ってほしいんだよって言って。そしたら「もちろんそれはやるよ」って二つ返事で。ホントに嵐さんのための歌になったなと思う。これは嵐さん追悼のベストソングになったなとは思ってるんですけどね。



―嵐さんのアルバム『生涯現役』から2曲入れようっていうのは?

翔 TAKUからの提案があって、ミニアルバムで4曲だったら嵐さんのアルバムから入れよう、と。『生涯現役』はまさに嵐さんが生涯現役でやり通したっていうのと、『RUN & RUN』に関しては、俺これだけ長くやってるけど嵐さんに作詞作曲両方とも全部やって曲をプレゼントすることはなかったの。自分たちで作った『お前に会いたい』とか歌ってましたけど、その後、嵐さんが作った曲って歌詞は嵐さんで別の人に頼んだり、TAKUも頼んだりしてて。俺は嵐さんが歌う曲に関しては嵐さんが好きなようにやればいいと思ってたから。で、『生涯現役』を作るときに、これは1曲書きたいなと思って。その『RUN & RUN』は俺が唯一、作詞作曲両方手掛けた嵐さんの楽曲なんですよ。だからそれを入れたいなと思って。

―『生涯現役』はTAKUさんが作られて。

TAKU 俺は嵐さんと出会ってこの世界に入れて恩返ししたいなと思ってたんで、嵐さんが還暦になったとき「俺プロデュースするからアルバム作ろうよ」って。嵐さんは「大丈夫か?」って言ってたんだけどね、「絶対大丈夫だから任せて!」って言ってアルバム作ったんですよ。還暦っていっても、もう7年経つのか……。あれはとてもいいアルバムなんじゃないかってずっと思ってて。今回も嵐さんの『生涯現役』っていう曲だけじゃなくて、あのアルバムをまたみんな聴いてよって気持ちも含めたサンプルじゃないけど、その2曲って感じはありますね。

―嵐さんのことがあって、おふたりも自分の人生を考えるきっかけになったりしました? 

TAKU 人生の射程距離とかあるじゃないですか。俺いま62歳で、そうするとひとりの人が生まれて去るまでの時間的な実感がわかるようになってきた。いざ同世代っていうか、いままでも仲間のミュージシャンが亡くなることはいっぱいあるんだけど、40thのときに俺、「いろんな周年でやるいろんなバンドあるけど、結局オリジナルメンバーが揃ったまま40周年迎えられて俺たちは幸せなんだ」みたいなこと言ってたわけ。だから、いろんなこと考えたよね。俺、18歳の頃から、たとえば道を走ってても嵐さんの車があって翔くんの車があってJohnnyの車があって、前3台のテールランプを見ながら走ってきたみたいな話をしてたの。そしたら今度は嵐さんがいなくなっちゃうと、いろんなこと考えるじゃない? 俺もいずれいなくなるわけだしっていうのをリアルに考えられるようになっていくというか、他の友達とか音楽仲間が亡くなるときよりも痛烈に感じたというか。

―一番前を走ってた車がいなくなって。

TAKU そうそう、ホントに。だからそれ以降、これから俺の趣味は長生きにしようって考えたりね(笑)。そういう局面になりました。

翔 嵐さんが亡くなって、ホントまだ慣れてないっていうか。嵐さんが亡くなったことで自分のことをまだ顧みられてないのが正直なところなんですよ。もちろん、どんどん老化していく自分もいるじゃないですか。頑張らなきゃいけないことばかりなんですよね、歌もそうだし。変な話、家で観てるテレビもそうなんだけど、何を観ようとかのチョイスが、自分があとどれだけ生きるんだろうとか考えたときに、必要なもの以外はいらないんじゃないかってなってくるんですよ。若いときはいろんなものに興味があって、これもいいなあれもいいなって趣味が多彩になっていってたけど、嵐さんが亡くなってからは残りの時間をどう使おうかっていうことを考えるようになったかな。銀蝿が続くってことは嵐さんを忘れないってことだから……銀蝿が続くことによって嵐さんがいつまでもそこにいるっていうのが一番いいんじゃないかって考えてるかな。やっぱり嵐さんのためにってなっちゃうんだよな。いまは銀蝿のためにじゃないんだよ、嵐さんの存在がいつも見え隠れする銀蝿をどうやったら一番いいのかなって考えてるんだよね。それ以外のことは二の次になっちゃってる感じ……ごめんね、うまく言えなくて。

―いや、でもわかります。

翔 わかっちゃいるんだけど、なんでいないの?っていう葛藤はまだありますよね。

―たしかに銀蝿が続く限りは象徴としての嵐さんが生き続ける感じにはなりますもんね。

翔 そうそう。忘れてほしくないし、だから銀蝿を続ける。それはどうやって続けるんだっていうのはいろんな道があると思うし、リーダーは嵐なんだっていうところの、いまのセンチメンタルな気持ちだけかもしれないって部分もあるけど、でもまぎれもなくいまはそれを思ってる、嵐ヨシユキっていう人間を誰にも忘れさせないぞっていう気持ち。新しい曲を作ろうが、このあと来年に向かってまた動き出したとしても、そういう気持ちでありがとうを伝えたいっていうのかな。

TAKU 俺、まだぜんぜん嵐さんが夢に出てくるのよ。

翔 ファンのなかでもロスはデカいからさ。絶対に前に進まなければいけないとは思ってるし、1カ月経ったらとか100日経ったらとかいろいろ考えてたんだけど、数えてるところがもうダメじゃん(笑)。

―引きずってますよね(笑)。

翔 引きずってるわけじゃん。これダメだとは思うんだけど、このアルバムに関しては、みんなやっぱり嵐さんのためにと思ったらすごいんだと思った。また半年とかして俺が立ち直ったらまた取材に来てください。「復活! 翔!!」みたいな(笑)。

【関連記事】横浜銀蝿オリジナルメンバーで完全復活、吉田豪と語る「再会」の舞台裏

<INFORMATION>


『All for RAN』
横浜銀蝿
キングレコード
発売中
配信リンク:https://lnk.to/all_for_ran

WOWOWプラス Presents
T.C.R.横浜銀蝿R.S. 嵐追悼
関東集会 All for RAN
2022年12月18日(日)東京・日本橋三井ホール
16:45開場/17:30開演
大阪集会
12月9日(金)UMEDA CLUB QUATTRO
18:30開場/19:00開演
名古屋集会
12月11日(日)ElectricLadyLand
17:00開場/17:30開演
https://ginbae.jp/

翔出演「翔くん 豪ちゃん 翔和へGO!」
tvk(テレビ神奈川)毎週火曜日24:00~24:15 OA
翔とプロインタビュアー吉田豪による昭和トークバラエティ




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