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追悼・ジェフ・ベック 世界を魅了したギタリストの軌跡

Rolling Stone Japan / 2023年1月12日 20時0分

ジェフ・ベック(Photo by Robert Knight Archive/Redferns)

ギターの神様、ブルース・ロックの革新者、そして2度のロックの殿堂入りを果たしたジェフ・ベックが、78歳で亡くなった。死因は、細菌性髄膜炎。ジミー・ペイジ、ロッド・スチュワート、ロン・ウッド、スラッシュ、オジー・オズボーンをはじめ世界を魅了した、ジェフ・ベックの軌跡を振り返る。

現地時間11日、「家族を代表して、ジェフ・ベックの訃報を深く深く悲しんでいます。細菌性髄膜炎に感染した後、彼は昨日、安らかに息を引き取りました」と家族が声明を発表し、ジェフ・ベックの逝去が明かされた。

2009年のロックの殿堂の授賞式でベックのプレゼンターを務めたレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジは、ヤードバーズの2代目ギタリストの訃報を受けてInstagramにメッセージを投稿。「私たちの感情を自由自在に操るギターの魔術師がこの世を去った。ジェフは、天から得たインスピレーションを音楽に落とし込むことができるギタリストだ。そのテクニックは、唯一無二のものである。ジェフの想像力は尽きることがなかった。無数のファンとともに、私は君の死を偲ぶ。ジェフ・ベックよ、どうか安らかに」と哀悼の意を表した。

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ベックは、1944年6月24日に英国南東部サリー州で生まれた。ベックの両親は、息子にギターではなくピアノを習わせたいと思っていたが、ギターにのめり込む息子を見て、ギターの道を進ませることにした。「両親は私がギターを弾くと小言を言ったが、辞めさせようとはしなかった」と、ベックは2018年のローリングストーン誌のインタビューで語った。「両親は、『ギターを弾いている限り、万引きには手を出さないだろう』と思っていたのかもしれない。当時の唯一の友人たちは、かなり荒れた生活を送っていた。友人の多くは、一歩間違えれば刑務所行きの生活をしていたんだ」。その後、ベックは地元でギタリストとして頭角を現しはじめていたひとりの少年と出会う。その少年の名前は、ジミー・ペイジだ。ふたりはロカビリーに熱中し(ベックは、姉のレコードの影響でこうした音楽を聴くようになったと語る)、ギターのスキルを披露しては、どちらが上手いかを競い合った。


ベックはロンドン南西部ウィンブルドンにあるウィンブルドン・カレッジ・オブ・アーツに進学し、ロックボーカルのスクリーミング・ロード・サッチのバンドに加入した。その後、売れっ子セッション・ギタリストになっていたペイジの勧めでヤードバーズのオーディションを受ける。1965年にエリック・クラプトンが「ポップになりすぎた」ことを理由にヤードバーズを脱退してから、バンドはギタリストを探していたのだ。ポップというクラプトンの主張とは裏腹に、ベックはヤードバーズのフロントマンのキース・レルフに対してブルースの純粋主義者のような印象を抱いたと振り返る。「純粋主義者であることと、貧しさは両立可能なんだ。私は、自分にとっていちばん良いものを追求しよう、と思ったことを覚えている」とベックは言った。もともとベックは、サイケデリックロックや実験主義、ジャズ(60年代のベックのお気に入りアーティストは、ジャズミュージシャンのエリック・ドルフィーとローランド・カーク)を好む傾向にあったため、そのアヴァンギャルドな音楽性は60年代のポップミュージックシーンにうってつけだった。ヤードバーズの「Heart Full of Soul」と「Evil Hearted You」は英国音楽チャート入りを果たし、人気を博した。その後も「Shapes of Things」と「Over Under Sideways Down」が初の米国音楽チャート入りを果たしている。



1966年には、ペイジがヤードバーズに加入する——ベーシストとして加入したが、後にツイン・リードギタリストとしてバンドを支えた。同じころ、ヤードバーズはイタリアの巨匠ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』(1966)に出演し、劇中で「Stroll On」(ジョニー・バーネットの「The Train Kept a-Rollin」のカバー)を演奏した。そこでベックは、ギターを破壊するというザ・フーのピート・タウンゼントさながらのパフォーマンスを披露した。「ザ・フーに出演を持ちかけたところ、断られたんだろう」とベックは振り返る。「高いギャラを払ってくれる相手にノーと言える立場ではなかった。(中略)アントニオーニ監督に『自前のギターを破壊してくれ』と言われたので、私は「嫌です」と断った。当時のギターは、サンバースト塗装が施されたレスポールだった。監督に「新品を買ってあげるから」と言われても、私は首を縦に振らなかった。監督は、ギタリストの多くがギターを破壊すると勘違いしていたんだろう。私が言うことを聞かないので、代わりに初心者向けのギターが6本用意された。どれも安物のレンタル品で、ビニール袋に入っていたのを覚えている」

映画が公開されたころには、ベックはすでにヤードバーズのメンバーではなかった。体調不良と心身の衰弱を理由に、1966年11月にバンドを脱退していたのだ。1967年には、リードボーカルとしてポップなシングル「Hi Ho Silver Lining」のレコーディングを行なった。同作は大ヒットを記録する一方で、B面曲の「Becks Bolero」はレッド・ツェッペリンの誕生を予感させた。「Becks Bolero」にはジミー・ペイジをはじめ、後にレッド・ツェッペリンのベーシストとなるジョン・ポール・ジョーンズ、さらにはザ・フーのキース・ムーン、ピアニストのニッキー・ホプキンスが参加していたのだ。同年、ベックはヘビーなブルースサウンドに焦点を置いたジェフ・ベック・グループを結成。ボーカルにロッド・スチュワートを、後にローリング・ストーンズのメンバーとなるロン・ウッドをベーシストに迎えた。アルバム2作——『Truth』(1968)と『Beck-Ola』(1969)——とウッドストックの出演をドタキャンするという歴史を残し、ジェフ・ベック・グループは解散した。これを機に、スチュワートとウッドはフェイセズを結成した。

「ジェフ・ベックは、別の星で生きているような人だ。60年代後半にジェフ・ベック・グループのメンバーとして私とロンをアメリカに連れて行ってくれたが、それ以来、私はアーティストとしての道を歩き続けている」と、スチュワートは現地時間12日にツイートを投稿。「生演奏をしている時、実際に私の歌声を聴いてそれに反応してくれる、稀有なギタリストのひとりだった。ジェフ、君は本当に最高のギタリストだ。何から何まで、本当にありがとう。ご冥福をお祈りします」とベックへの想いを綴った。

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Jeff Beck was on another planet . He took me and Ronnie Wood to the USA in the late 60s in his band the Jeff Beck Group
and we havent looked back since . pic.twitter.com/uS7bbWsHgW — Sir Rod Stewart (@rodstewart) January 11, 2023


ジェフ・ベック・グループ解散後、ベックはヴァニラ・ファッジのベーシストのティム・ボガートとドラマーのカーマイン・アピスとともに新しいバンドを結成しようとしたが、交通事故の怪我——頭蓋骨骨折——によって活動開始まで1年半のブランクができてしまった。その間、ベックは以前から関心のあったモータウン・サウンドを掘り下げ、スティーヴィー・ワンダーの『Talking Book』(1972)のレコーディングセッションにも参加した。ある日、ベックがスタジオでドラムを叩いていると、ちょうどワンダーが入ってきた。ベックのグルーヴ感を気に入ったワンダーがこれを軸に作曲したのが「Superstition」だ。そのころ、ボガートとアピスは別のバンドで活動していたため、ベックは別のメンバーとともにジェフ・ベック・グループを再編成。前作よりもファンキーな2枚のアルバムを世に送り出した後、1972年にスーパートリオ、ベック・ボガート&アピス(BB&A)がようやく実現した。バンドは約2年という短命に終わったが、ベックはBB&Aがカバーした「Superstition」は「素晴らしいヘヴィーメタルソングだ」と回想する。



ソロアーティストとして音楽シーンに復帰したベックの関心は、ブルース・ロックからインストゥルメンタル・ジャズ・フュージョンに移っていた。1975年のアルバム『Blow by Blow』は米国音楽チャートで4位にランクインし、100万枚以上のセールスをあげて世間を驚かせた。同作のプロデューサーを務めたのは、ビートルズのプロデューサーのジョージ・マーティンだ。後にベックは、自らのキャリアの救世主としてマーティンへの感謝の気持ちを語っている。「聴いた瞬間、この部屋にバンドがいるような臨場感だと思った——クリアで、素晴らしい音だった」と、ベックは同作のサウンドについて振り返った。「最初のアルバムは、まさに喜びそのものだった」。同年にマハヴィシュヌ・オーケストラとともにツアーを行い、1976年にマハヴィシュヌ・オーケストラのキーボーディストのヤン・ハマーとの共作『Wired』をリリース。その後は数年間活動を休止し、1980年にふたたびハマーとタッグを組んで『There and Back』をリリースした。

>>関連記事:ジェフ・ベックが語る、ジョージ・マーティンとの思い出:「彼が僕にキャリアを与えてくれたんだ」

自分がギターオタクとして忘れ去られることを恐れたかどうかはわからないが、ベックは1985年にアルバム『Flash』をリリースする。同作に収録されたスチュアートとのコラボ曲「People Get Ready」は、大成功を収めているが、その一方で同作の収録曲「Escape」は、翌年のグラミー賞の「最優秀ロック・インストゥルメンタル・パフォーマンス」を受賞。さらに4年後には、『Jeff Becks Guitar Shop With Terry Bozzio and Tony Hymas』がグラミー賞に輝いた。

「いまでもギターがキングと見なされていることに喜びを感じた部分はある」と、以前ベックは80年代について語った。「ギタリストたちは、ギターという偉大な旗を掲げているんだ。(中略)私は、スティーヴ・ヴァイやエディ・ヴァン・ヘイレンというギタリストをとても尊敬している。素晴らしいギタリストだ。彼らは、自由に好きなことをやればいい。私のスタイルを侵食しない限りは。幸い、そうはならなかった。だから私は嬉しいんだ」

その後もベックは、ゲスト・ミュージシャンとして80年代を駆け抜けた。ティナ・ターナーやミック・ジャガー、ジョン・ボン・ジョヴィといったアーティストのソロアルバムにゲスト出演したのだ。その一方で、ソロアーティストとしてかつてのような成功を手に入れることができず、苦しい時期が続いた。90年代には『Crazy Legs』(1993)でロカビリーを追求したかと思えば、『Who Else!』(1999)ではテクノに挑戦するなど、その音楽性は定まることがなかった。

With the death of Jeff Beck we have lost a wonderful man and one of the greatest guitar players in the world. We will all miss him so much. pic.twitter.com/u8DYQrLNB7 — Mick Jagger (@MickJagger) January 11, 2023

ギタリストがお気に入りのギタリストについて語るローリングストーン誌の特集記事の中で、かつてスラッシュは次のように語った。「ギタリストであれば、ベックのギタープレイの凄さを理解するのは簡単なことだ。ベックは、驚くべき自然さでギターをコントロールしている。この才能のおかげで、彼は聴いたことのないようなプレイを実現できるんだ。子供のころ、俺は『Blow by Blow』をよく聴いていた。ラブソングを演奏していたかと思うと、耳をつんざくようなヘビーでハードなロックギターをかき鳴らす。それも、絶妙な塩梅で」


サウンドガーデンのキム・テイルは、次のように言葉を継ぐ。「ギタリストと聞いて、いつも真っ先に頭に浮かぶのがジェフ・ベックだ。ベックはギターの達人だが、テクニックをひけらかすタイプではない。70年代後半から80年代後半にかけては、多くのギタリストがテクニックばかりを重要視していた。彼らは、ギターを声ではなく、弾きこなすべき道具として扱ったんだ。でも、ベックは違った。ベックは、ギターをマイクとして使った。それだけ自信があったんだ」(同じ特集記事の中で、ベック自身はジャンゴ・ラインハルトから多大な影響を受けたと語っている)。

2009年、ソロアーティストとしてロックの殿堂入りを果たしたベックは、授賞式で歴史的なスピーチを披露した。ヤードバーズのメンバーとしてロックの殿堂入りを果たしてから17年後のことだ。授賞式でベックは、「今夜は自分を褒めてあげるべきだと、誰かに言われた。でも、私はそんなことはしたくない。なぜなら、私はバンドを追われた身だから。私は追い出されたんだ。あんな連中、クソ食らえ」と吐き捨てたのだ。当時ベックは、ローリングストーン誌に「自分がノミネートされるなんて、信じられなかった」と語った。「私が殿堂入りだなんて、あり得ないことだと思った。その後も私はずっと音楽を続け、さまざまな変遷をたどってきた。それに耳を傾けてくれた人に心から感謝している」



ベックは、英国文化が世界を席巻した”ブリティッシュ・インヴェイジョン”や当時まだ新しかったブルース・ロックにおいて頭角を現したギタリストだが、その後もジャズ・フュージョンからトランス(イモージェン・ヒープの「Rollin and Tumblin」)、さらにはオーケストラ・ロック(2010年の『Emotion and Commotion』)やヘヴィーメタル(オジー・オズボーンの2022年の『Patient Number 9』のタイトルトラックに参加)といったジャンルに自らの卓越した音楽性を注ぎ続けた。「ジェフ・ベックのようなアーティストにアルバムに参加してもらえることは、光栄以外の何ものでもない。ベックのようにプレイできるギタリストはこの世に存在しないし、「Patient Number 9」のギターソロには度肝を抜かれた」と、当時オズボーンは語った。

30年以上にわたり、ベックはシールからケイト・ブッシュ、さらにはロジャー・ウォーターズやモリッシー、ZZトップに至るまで、多種多様なアーティストたちとのコラボレーションを行ってきた(「自分が指名されたというのに、断る理由なんてないだろう? 私が生きていることを覚えてくれている人がいるだけでありがたいのに」と、こうしたコラボレーションについてベックは本誌に語った)。ベックと長年来の友人である俳優のジョニー・デップが共演したアルバム『18』は、惜しくもベックの最期のアルバムとなってしまった。本作には、ふたりがカバーしたビーチ・ボーイズやヴェルヴェット・アンダーグラウンド、マーヴィン・ゲイ、ジョン・レノンの楽曲が収められている。

ソロアーティストとしてもベックは精力的に活動し、多くの作品を残した。2010年代における「最優秀ロック・インストゥルメンタル・パフォーマンス」部門へのノミネートや受賞をはじめ、1989年から通算7回もグラミー賞に輝いたのだ。

「ギターがとてもメロディアスなおかげで、ボーカリストの不在を感じさせない」と、ベックの演奏について語るのは、ギタリストのマイク・キャンベル。「ベックの中には精神性と自信がある。それは、もっと偉大なものに対するコミットメントでもある。ベックのライブを観た後、私は自宅でさっそく練習をはじめた。『ジェフ・ベックのようになりたいのなら、なすべきことをなせ』。ベックは、私にこう教えてくれたんだ」

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