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ヒップホップ・カルチャーを担う女性たち「Akira Fukuoka」

Rolling Stone Japan / 2023年1月19日 20時0分

Akira Fukuoka(Photo by cherry chill will.)

現在はシーンを代表するヒップホップ・レーベルのひとつである 「1%」を運営する福岡彬。A&R/マネージメントならではの視点で、90年代から今に至る日本のヒップホップ・シーンのこと、手がけてきた仕事について語ってもらった。

【写真を見る】担当した作品

ーヒップホップの入口は何でしたか?

福岡 私は10歳でアメリカに行ったんですけど、その時のアメリカはガンズ・アンド・ローゼズ、メタリカとかのヘヴィ・メタルが流行ってたんですよ。ヒップホップもMTVでは流れていたんですけどちょっと苦手でした。ある日友達のお姉ちゃんから教えてもらったのが、まだブレイクする前のニルヴァーナ、スマッシング・パンプキンズとかのグランジでした。そのお姉ちゃんに連れられてライブに行ったり、スケーターのお兄さんたちが滑っているような場所に連れていってもらったり。その人たちはいわゆるアンダーグラウンドと呼ばれている音楽を聴いていて、ファッションはドクターマーチンとネルシャツとか、スケートブランドという感じで。そういうカルチャーはまだ学校では浸透してなかったので新鮮で、好きになりました。その後ニルヴァーナが「Smells Like Teen Spirit」でスターダムに上がって、MTVにも頻繁に出てくるようになり、グランジという言葉も超有名になりました。学校でも「スマッシング・パンプキンズの新曲聴いた?」とか会話に出てきたり、同級生がバンドTやスケートブランドを着てドクターマーチンとかコンバースを履き始めるようになるんです。そこで初めてアンダーグラウンドのシーンがオーバーグラウンドに変わる様を見たんですね。私はその後バッド・レリジョン、オフスプリングとか、エピタフ・レコーズのバンドを見つけて聴き始めるんですが、気づいたらオフスプリングもまたスターダムに上がっていって。他のバンドもどんどんメジャー・レーベルと契約していくんです。

それで確かグリーン・デイがブレイクしている頃に、Nasの「The World Is Yours」のMVを観たんですね。その曲が私が思ってたヒップホップのイメージと全然違っていて。音もピアノのジャズみたいでおしゃれだっだし、歌詞も喩えだらけで難しくて知的に感じました。それでNasのアルバムを買ったのがヒップホップへの入り口だと思います。私、バンドの時も歌詞が好きだったんですけど、Nasの言ってることが全然わからなくて辞書で調べたりしてましたね。ちょうどその頃、ウータン・クランとかも出てきて、その辺りで初めてNYのヒップホップに出会って好きになっていった感じです。あとその頃、高校受験で日本に一時帰国するんですが、CDショップに行って「日本にもラップってあるのかな?」って思って探したら日本語ラップとバンドのコンピレーション・アルバムみたいなのを発見して。そこにキミドリとかMICROPHONE PAGERが収録されていて、初めて日本語のラップを聴いたんですけどカッコよくてビックリしたのを覚えています。アメリカのラップと時差も感じなくて、勝手に全員アメリカに住んだことがあるんだろうなって思ってました(笑)。



ー東京に帰ってくるのは、90年代半ばですよね。当時の日本のヒップホップはどうでした?

福岡 高校の先輩にスゴく音楽が好きな人がいて、その人に初めてクラブに連れていってもらったんです。六本木のどこかだったんですけど、当時はコギャルとか女子高校生が流行っていた時代だったのもあってか、すごく優しくしてもらって。ただ、そこではNasとかはかかってなくて、もっとダンス系のブラックミュージックがかかっていました。そのうちクラブで友達になった子から、「今度、雷のライブがあるけど行く?」って誘われたんですよ。「雷って何?」って聞いたら、「日本のラッパーのグループだよ」って。それで行ってみたらライブもカッコよかったし、私の好きなニューヨークのラップとか、知らないカッコいい曲がたくさんかかっていたんです。それからは友達と放課後に渋谷の109に行ったあとに宇田川町でフライヤーをチェックしたり、Still DigginやManhattan Recordsに行ったり。そういうことをしてるうちに、日本語ラップのイベント「亜熱帯雨林」を知って遊びにいくようになりました。いつもお客さんがたくさんいて盛り上がっていました。

ー当時、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのメンバーとも知り合ったんですよね。

福岡 まだNITROは結成されていなかったんですけど、原宿のお店で働いてるメンバーの方たちがいて、放課後に遊びに行かせてもらったりしてました。20時になると仕事が終わって、みんなでデニーズに行こうってなったり。私たちは年下だったので、遊んでもらっていたという感じですね。クラブチッタとかでライブがある時には誰かの車で連れて行ってくれたりしました。優しいですよね、感謝です。彼らの周りにはDJ、トラックメイカー、ダンサー、ライター、アパレル関係の人たちなどヒップホップ周りの仕事をしている人たちがたくさんいました。

ーそれで1996年には「さんピンCAMP」の開催ですが、当時の日本のヒップホップの盛り上がりはどう見ていました?

福岡 もちろん、「さんピンCAMP」にも行ったし、日本でもヒップホップが流行ると思ってました。熱量もスゴかったので。制服でManhattan Recordsのショップバッグを持っている高校生もたくさんいました。


ITからヒップホップの仕事へ

ーそして受験を経て進学し、大学卒業後に最初に就いた仕事はITの会社だったんですよね。ITからヒップホップの仕事をすることになった経緯は?

福岡 WEB系の会社で働きながら、普通にヒップホップも好きで、ライブとかも観に行きつつ、たまにDJもやったりしてたんですよ。その頃にRYUZOくんに東京のクラブで出会って、京都や大阪のシーンを紹介されるんですけど、それがけっこう衝撃的で。私は地方のシーンを全く知らなかったので、興味を持ったし、知らないアーティストがたくさんいることを知って、もっとフォーカスしないと埋もれてしまうんじゃないかと思ったんです。当時はあまりインターネットも普及していなくてまだ雑誌の時代だったので。それで友達のヒップホップ好きのライターに京都にこんなシーンがあったよって話したんですよ。そしたら取材に行きたいって言ってくれて、ANARCHYがインタビューを受けることになったんです。私は仕事をしてるという気持ちはまったくなかったんですけど、そういうやりとりをしているうちに気づいたら私がマネージャーみたいなポジションになっていました(笑)。



ーITの会社で働いていたこともプラスになったそうですね。

福岡 そうですね。そこからの流れで、これはもっとやった方がいいよ、曲も一緒に作った方がいいよってなって。じゃあレーベルを作ろうかという話になり、それでR-RATED RECORDSができました。私はホームページを作ることができたので、レーベルの公式サイトを作って、通販のページも作ったんです。そこでいろいろCDとかを買えるようにしたんですね。そこからがスタートになりますね。

ーやることが他よりも早かったんですね。

福岡 その頃のシーンでは早かったと思います。最初のMV動画を上げたのも、まだGoogle傘下になる前のYouTubeだった記憶があります。みんなガラケーでホームページを見るような時代だったので、それにも対応できるようにしてました。

ーその後はどのような仕事を?

福岡 当時からRYUZOくんが顔が広くて全国各地に友達がいたというのもあって、Future Shock(ZeebraやOzrosaurus等が所属していたヒップホップレーベル)と一緒にRYUZOくんのソロアルバムを作った時に、それはエイベックスからリリースすることになるんですけど、ライブツアーを組んで、そこにANARCHYに前座のような形で出てもらって、地方を回るということをやったんです。当時はそこまでインターネットが浸透してないし、最初はYouTubeもなかったから、とりあえず回らないと名前を知られないし、他に広げる方法がなかったんです。音楽を聴いてもらうのにはライブで回るのが一番効率的だったんですよね。

ーちゃんとアメリカみたいなやり方でやっていたんですね。各地方を回ってみて、手応えはどうでしたか?

福岡 みんなが「あの人誰?」となったところでRYUZOくんが満を持して紹介するという形で、「次はこいつやで」みたいなことを言うんです。全国各地にRYUZOくんの仲間たちがいて、みんな期待してくれるじゃないですか。でも資金がなかったのでお金を借りてきてパソコンや機材を揃え、ANARCHYの制作をしてという流れでした。RYUZOくんは当時27~28歳のラッパーだったから、まだ自分も目立ちたい気持ちもあったと思うんですよ。だけど、「ドクター・ドレーとスヌープ・ドッグみたいな関係でいけばいいんじゃないか?」という話になりました(笑)。



ーそこからはR-RATEDでの実績を積み上げていくことになるのですが、2010年には日米コンピレーションアルバム『24 HOUR KARATE SCHOOL JAPAN』をリリースしましたね。

福岡 日本でニューヨークの映像監督、ジョナ・シュワルツと知り合ったんです。それでニューヨークに遊びに行ったときに、ジョナの友達が家でクリスマス・パーティを開催してくれたんですけど、その人がデイモン・ダッシュ(ジェイ・Z率いるRoc-A-Fella Recordsの共同創設者)の弟で、そこにデイモン本人も登場したんですよ。それで私たちは日本でこういうことをやっています、って伝えたらスタジオに遊びにきなよと言ってくれて。デイモンはすでにRoc-A-Fellaを離れてBLU ROCというインディーズレーベルを運営してたんですね。それで後日DOJO(道場)と呼ばれるスタジオに行ったらビル一棟を貸し切ってて、1階がギャラリー、地下と2階にはスタジオや作業場、3階がパーティルームみたいな。そのスタジオにスキー・ビーツというプロデューサーがいて、彼はジェイ・Zの1stアルバムでも活躍している人なんですけど、そこにモス・デフやカレンシー、スモーク・DZA、ジェイ・エレクトロニカとかがセッションしに来ていたんです。カメラマンやデザイナーとかも作業場にいたりして、近くでライブがあるとなるとみんなで写真や映像を撮りに行ってそれをすぐに編集してWEBに公開、みたいなことをしていました。まだInstagramがない時代ですね。レコーディングした曲もすぐにジャケットを作ったり、さらにそのデザインのTシャツを地下でプリントしたりしてるんですよ。すごく理想的な事務所だなと思いました。

それである時デイモンに「今『24 HOUR KARATE SCHOOL』というアルバムを作っているんだけど、これの日本バージョンを作りなよ」とすごい軽いノリで言われて(笑)。「いいんですか?」ってなりました。14曲分くらいあるスキー・ビーツのトラックを日本に持ち帰って、NOBU a.k.a. BOMBRUSHくんにも協力してもらって各トラックに合いそうなラッパーに声をかけたんです。こんなチャンスはなかなかないと思い、なるべく幅広い世代、地域からピックアップしようと思って作りました。年末にはクラブチッタにスキー・ビーツと彼のバンドのThe Senseisを招聘して、アルバムに参加した全ラッパーとバンドセッションするという無謀なイベントもやって(笑)。DVDを観てもらえば分かるのですが、最後にステージに50名くらいのラッパーが上がってリード曲の「24 Bars To Kill」のインストで永遠にマイクを回すという時間もあって、ずっと同じトラックをループしていたNOBUくんも大変だったと思います(笑)。でもスキー・ビーツがジェイ・Zの「Dead Presidents」のピアノを披露してくれたり、奇跡的なイベントでした。



ーKOHHの作品に関わるきっかけは?

福岡 元々友達だった318(KOHHのプロデューサー)からの紹介で、初めてデモを聴いたときに新しい時代が来たねってなって、それで一緒にやることになった感じです。その頃は318とよく仕事をしていました。私がKOHHのA&RやPRを手伝って318がR-RATEDのT.O.P.のプロデュースを手伝ってくれたり、MVを撮ってくれたり。王子のスタジオにも遊びに行ったりして、そこにMonyHorseやJNKMNがいたり。2012年~2016年頃ですね。楽しかったです。





「1%」立ち上げのきっかけ

ー2018年に1%を立ち上げたいきさつは?

福岡 その頃はエイベックスと仕事させてもらったりもしてたんですけど、『高校生ラップ選手権』とかもあって、若いラッパーたちが盛り上がってきてたんですよね。それで若いラッパーたちと何か新しいことをやりたいなと思ってたんですよ。それでレコード会社の上司に相談したらやってみなよって言ってくれて。

ーその時に契約したいと思った若いアーティストはいたんですか?

福岡 新しいラッパーをYouTubeとかで検索したりもしたんですけど、若いからそもそもMVを出してるラッパーとかがまだ少なくてよくわからなくて。その頃、韓国で『SHOW ME THE MONEY』っていうラッパーのオーディション番組が流行ってたのを見て、オーディション番組をやれば向こうから応募してきてくれるのではないかと思いついたんです(笑)。あと当時は『フリースタイルダンジョン』がすごく流行ってた時期だったんですけど、世間ではラッパー=フリースタイルみないな認識になっていて、それでRYUZOくんに「フリースタイルじゃなくてラップの楽曲で勝負する番組があったらいいよね」みたいな話をしてたんですよ。ヒップホップ版の『ASAYAN』みたいな。そしたらRYUZOくんが藤田さん(株式会社サイバーエージェント代表取締役社長の藤田晋)に相談してみようってなって。藤田さんもやりましょうと言ってくれて。それで『ラップスタア誕生』という番組が生まれるんですよ。最初は500人くらい応募が来て、応募動画のなかにWILYWNKAがいたんですよね。当時の『ラップスタア誕生』は、最初は1ヴァースの動画で応募してもらって、審査を通るとサビまでの動画を作ることができる流れなんですけど、1ヴァースの時点ですごくカッコよくて。サビの入った動画を見た後に連絡を取って、「一緒に音楽を作りませんか?」という話をしたんです。最初、向こうはR-RATEDに入れさせられると思ったみたいで、それを恐る恐る言ってきたんですよ(笑)。それで新しいレーベルを作るからという話をしたら「僕はHIDAさんに今までお世話になってるんで。お話はうれしいですけど、HIDAさんに話を通してもらえないですか」って言ってきたんですね。しっかりしてるなと思って。それで、私とRYUZOくんでHIDAさんのところに話をしに行ったら、HIDAさんが「是非お願いします」って言ってくれて。それで第1弾アーティストとして契約することになった感じです。



ーアキラさんが仕事上で大切にしているモットーはありますか?

福岡 んー……直感を信じることですかね。これまでもほぼ直感でやってきてるので。今の時代は特に、いろんな情報が入ってくるし、いろんな人がいろんなことを言ってるじゃないですか。でも、ああだこうだ考えて、理論的にこれだっていうのは私はあまりないんですよ。直感で「いいな」というのしかないですね。ただ、自分ではなぜそう思うのかがわからなくて。でもたぶん最初に話した、アメリカで子供の頃から見てきたものというのが大きい気がしますね。売れる前のロックスターたちを見てきて、いいなと思った人が売れていくというのを何回も見てきたのは大きい気がします。

ーアメリカでの音楽の成功パターンを見て、日本でもヒップホップがアメリカのように大きくなるとも思いましたよね。

福岡 もちろん私はそう思ってたし、今の若い子もそう思ってるはずだから、あまり否定的なことは言いたくないんですけど。日本の音楽業界やメジャーのレコード会社のコンプライアンスは、ヒップホップと相性が悪かったところがありますよね。それはTVのスポンサーとか企業とのタイアップにしてもそうで。いまだにタトゥーが好まれないとかイメージを悪く持たれていたりとか。分かる気持ちももちろんあるんですけど(笑)。アメリカの場合だと、例えば、パブリック・エネミーが出てきたときの論争があって。私は小学生だったのであまりわからなかったんですけど、子供たちに悪影響を与えるというので、PTAみたいな人たちがパブリック・エネミーのカセットテープを燃やしてるのがニュースになってたんです。でもその後、全米レコード協会が指定している「ペアレンタル・アドバイザリー」というシールを貼って、「未成年にはふさわしくないですよ」という体にして販売してたんですよ。抜け穴が用意されてたんですよね。もはやそのロゴがカッコいいみたいになってわざとジャケットのデザインとして使う人もいますよね。ラジオやテレビ放送では規制対象となる言葉を排除した「ラジオ・バージョン」が用意されていてそれを流したり。iTunesとかApple MusicなどでもExplicit Content (露骨な表現)を意味する”E”が付いてる曲やクリーンバージョンのアルバムがあったりしますよね。

でも日本って、ダメなものはやっぱりダメというところがあるし、誰かがそれを変えようっていうのも難しいことが多いのかなと。日本のメジャーから発売される曲ってレコ倫(レコード制作基準倫理委員会)が必ず歌詞のチェックをするんですよね。”ビッチ”とか使っていると「女性軽視です」と言われてしまったり、”ゲットー”に対しては「ゲットーとは第二次世界大戦中にナチスドイツが……」みたいに指摘されたりもしました。そういう意味で使っているわけではないと説明できれば取り下げてくれるんですけど、何カ所も赤ペン入れて返ってきたりしました(笑)。レコ倫の勉強会に参加したときには自分が担当した曲の歌詞が題材として出てきたりして(笑)。でも今はインディペンデントでも活躍できる時代だし、以前より良い状況になってきているのは感じますね。


「ある程度結果を想定できても、言わないようにしています」

ー若いアーティストと仕事をする上で、大切にしていることはありますか?

福岡 自分が経験したことがあって、ある程度結果を想定できても、言わないようにしています。同じ結果になるかどうかわからないというのもあるし、たぶんそうなるんじゃないかなと思っても、彼らは期待してるし、希望を持ってるから、アドバイスとかはしても私が思う結果は言わない。やってみようって言うようにしてます。あまりの無茶振りにはちょっとできないかもって言うかもしれませんが(笑)。

ーマネージメント、レーベル運営をやってきたなかで、女性だから苦労したことはありますか?

福岡 特にないと思います。

ーヒップホップ・シーンで働きたいという女性がいたら、どういうアドバイスをあげますか?

福岡 特に女性にというのはないですが、日本って「裏方」という言葉が示しているように、表にアーティストがいて、裏にA&Rやマネージャーとかがいる、そういう認識だと思うんですよ。でも海外だと、もっとチームっぽい感覚というか。A&Rやマネージャーもブランディングやクリエイティブに対する意見を言うし、功績を残して名前が知られているような人たちもたくさんいますよね。私が思うA&Rやマネージャーって、アーティストがやりたいことを叶えたり、仕事としてこなすだけではなく、アーティストのキャリアを一緒に作っていくという、チームとしての役割があると思うんです。なかなか難しいとは思うんですけど、そういう気持ちがあるといいのかもしれませんね。この仕事は女性にも向いてると思いますよ。実際、日本でもRHYMESTERとかMIGHTY CROWNなどの裏方にも女性がいたし、日本のメジャーレーベルでも優秀な女性のA&Rにたくさん出会いました。アメリカやアジアの他の国でもアーティストのチームに女性は多い気がします。

ー今の日本のヒップホップ・シーンはどのように見ています?

福岡 日本語ラップがまた流行って今まで以上に大きくなってるのは、みんなが夢見てきたことだったと思うのでうれしい反面、ビジネスでもいろいろな人たちが関わってきているなという印象です。ありがたいことなのですが、たまに話がまったく噛み合わないときもあります(笑)。どうなっていくのかなと思いながら見守っています。

ー最後に聞きたいのですが、どんなときに仕事の達成感や醍醐味を感じますか?

福岡 自分の担当しているアーティストのライブでお客さんが喜んでるときですね。いつも感動します。


Photo by cherry chill will.

福岡 彬
東京都生まれ。10歳から16歳までをアメリカで過ごし、メタル、グランジ、メロコア、スケートカルチャー、ヒップホップ等の黎明期に刺激を受けながら育つ。帰国後は女子高生ブームや大学受験と同時に東京のクラブカルチャーを体験し、大学卒業後はDJやWEBデザイナーなどと並行してヒップホップアーティストをサポートするように。現在ヒップホップレーベル「1%」を運営する傍ら、自らもA&Rとして活動中。これまでに担当したアーティストにはRYUZO、ANARCHY、KOHH、WILYWNKA等それぞれの世代のビッグネームが並ぶ。またABEMAで配信されている次世代ラッパー発掘オーディション番組『ラップスタア誕生』の発起人でもあり現在も携わる。





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