伊東ゆかりステージデビュー70周年、本人と振り返る1958年から1970年
Rolling Stone Japan / 2023年2月2日 7時0分
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2023年1月の特集は「伊東ゆかりステージデビュー70周年」。1947年生まれ、6歳のときに米軍の下士官クラブのステージで歌い始め、11歳でレコードデビュー。その後、カバーポップス、カンツォーネ、歌謡曲、J-ポップ、シティポップスなど時代の流行に乗ってヒット曲を放ち続けてきた伊東ゆかりの軌跡を5週間に渡って辿る。パート1は、2022年11月に発売された6枚組のオールタイム・シングル・コレクション『POPS QUEEN』のDisc 1と2と3から伊東が自選した10曲とともに1958年から1970年を振り返る。
あけましておめでとうございます。旧年中はいろいろお世話になりました。「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは、伊東ゆかりさん「小指の想い出」。作詞・有馬三恵子さん、作曲・鈴木淳さん。1967年2月発売、J-POP史を飾る名曲ですね。今週の前テーマはこの曲です。2023年年賀状代わり。この番組で流れる1曲目でもあります。色っぽい始まりでしょう?
2023年1月の特集は伊東ゆかりステージデビュー70周年。自叙伝と題してお送りしようと思います。伊東ゆかりさん、1947年4月生まれ、私の一つ下。初めて彼女がステージで歌ったのが6歳のとき、1953年。米軍の下士官クラブだったんですね。レコードデビューが1958年6月、11歳。そこから65年が経ちました。まだ日本にオリジナルのポップスがなかった時代に歌い始めての70年ですからね。去年、ソニー・ミュージックレーベルズから『POPS QUEEN』と題したオールタイム・シングル・コレクションが発売になりました。6枚組で曲数がなんと138曲あるんです。今月はご本人伊東ゆかりさんをお迎えして、そのアルバムを中心に70年間をたどってみようという5週間です。
138曲ありますからね。どうにも選びようがない。それだけ曲があると、ご本人の中にも記憶の濃淡があったりして、こちらが選んでも「いや、その曲はあまり覚えてないかもしれない」と言われることもあるかもしれないということで、改めて忘れられない曲を選んでいただきました。まさに自叙伝のような選曲になりました。
ただですね、その中にこの「小指の想い出」と「恋のしずく」が入ってなかったんですね。誰もが知っている2曲が選ばれなかった。それはなぜなのか?というのも後ほどご本人に聞いてみようと思います。私もあの2曲が好きだったリスナーでありますから、せっかく伊東ゆかりさんの特集をするのに、あの2曲外すのは忍びないなということで考えました。「小指の想い出」と「恋のしずく」を毎週交替で前テーマでかけようということで、本編の中では流れないんですが、前テーマでは毎週流します。来週の前テーマは「恋のしずく」です。というわけで前置きが長くなりましたがご本人の登場です。
伊東:あけましておめでとうございます。伊東ゆかりです。よろしくお願いします。
田家:70周年です。
伊東:ふふふ。あまりピンとは来ないんです。歳ばっかり経っちゃったかなって感じで。
田家:こういう新しい年をどんなお気持ちで迎えてらっしゃるだろうなって。
伊東:レコードデビューして65年。歌い始めて70年ということで、2023年が終わるまでに歌手生活70年コキコキコンサートをやりたいなと思ってます(笑)。
田家:ぜひそれはもう実現してください(笑)。この70周年に合わせて6枚組のボックスが去年発売になりました。
伊東:レコードデビューして65周年ということで138曲入っております。『POPS QUEEN』なんてタイトルがついて(笑)。まあ、クイーンって嬉しいですよね、何でも。
田家:だって、ここまで長く歌ってらっしゃる方は他にいらっしゃらないでしょう?
伊東:いや、そんなことないと思いますけどね。私達の年代の歌手の方って結構下積みの長い方が多いから。例えばポップスを歌ってなくても、最初は童謡とか演歌とか歌ってらっしゃった方もいるから。70年の方って結構いらっしゃるんじゃないですかね。
田家:由紀さおりさんとか数えるほどしかいないんじゃないですかね。今ステージデビューとレコードデビューと分けてお話されましたけど、ご自分の始まりとしてはどちらの方が。
伊東:私は歌い始めの方がピンときますねよね。体の中に歌がどっぷり染み込んでいるって感じですから。
田家:じゃあやっぱり70周年でいきましょう(笑)。今回のボックスに合わせて伊東ゆかりさんに「曲を選んでいただけませんか?」とお願いしたらですね、「小指の想い出」と「恋のしずく」が入ってなかったんですよね。
伊東:別に「小指」と「恋しず」は……あ、短く言っちゃいましたけど。
田家:「小指」「恋しず」いいですね(笑)。
伊東:普段歌っているのでつまらないなと思って。どうせなら懐かしい歌の方がいいなと思って独断と偏見で選びました。すいません。でも、さっきかかってましたもんね?
田家:前テーマで、この2曲を毎週交互に長そうということにしました。いろいろ資料を拝見していたら、「小指の想い出」は当時あまり歌いたがらなかったってお話があってですね、後ほどその話も伺いますね。今週はDisc 1と2と3、1958年から1970年。まさに日本のポップミュージック創世記の中の曲を選んでいただきました。58年から70年。ゆかりさんにとってどんな12年だったのかもお聞きしていきます。まずは1曲目。1959年発売「パパの日記」。
パパの日記 / 伊東ゆかり
田家:ステージデビュー70周年、伊東ゆかり自叙伝、1曲目。1959年に発売になった「パパの日記」。4ビートの渋い、いい曲ですね。
伊東:鈴木章治さんのクラリネットが泣けてきちゃいますよね。
田家:はい。「鈴懸の径」。
伊東:あとは吉田矢健治さん。キングレコード専属の作曲家さん。多分父が吉田矢先生と仲良くしてたので、「俺の歌を作ってくれ」って言ったんじゃないかなと思います(笑)。
田家:お父様が吉田矢さんにそうおっしゃった?
伊東:多分そうだと思います。よく2人で飲みに行ったり何か話してましたから。
田家:お父様はジャズミュージシャンでいらしたわけですよね。この歌を歌ったときが小学校6年生。
伊東:難しいですよね、この歌。父の言う通りに歌ってますねこの歌。大きく張るところと静かに歌うところとはっきりわかれているでしょ? 父の言う通りに歌ってますね。
田家:今月はお父様の話が随所に登場されると思いますね。そういうこともあってこの曲から始められたんだろうなと思います。
伊東:ありがとうございます。父も喜んでいると思います。
ラリパップ(誰かと誰かが) / 伊東ゆかり
田家:伊東ゆかりさんが選ばれた今日の2曲目。1958年7月発売、2枚目のシングルで「ラリパップ(誰かと誰かが) 」。
伊東:これは向こうの歌なんですけど、私ハモるのが好きで。これ、自分の声で多重録音してますね。それがとても面白くて。
田家:多重録音というのは、どういうスタジオの作業だったんですか?
伊東:何度も何度も自分の歌を重ねています。ヘッドフォンが必ず必要で、声を合わせていくわけですよね。あと私はアナログ人間なので、今も自分でカセットテープに吹き込んで、その上にまたハモったのを入れるのが好きです。いたずらしながらやるときもありますね。
田家:その時はお父様はスタジオにいらした?
伊東:「ラリパップ」のときも多分いたと思いますよ。必ず父はレコーディングのスタジオにはいたと思います。
田家:11歳のデビューですが、先輩の美空ひばりさんが12歳、江利チエミさんが15歳、雪村いづみさんは16歳。ゆかりさんと同じ歳の弘田三枝子さんが14歳。一番若かった。
伊東:いや、でもミコちゃんなんかは同じアメリカ軍のキャンプで歌ってましたから、私のライバルでしたから。
田家:この話はまた再来週になるんですけど、11歳でステージ歴5年というのはどういう気持ちだったんでしょう。
伊東:根底があまり歌いたくない方でしたので、その辺は全然何も感じてませんでした。ただこれを歌いなさい、あれを歌いなさい、はい、っていうだけで。美空ひばりさんより若いデビューですねとか考えなかったというか、取材もこの頃あまりなかったですし。
田家:ですよね。そんな小さい子供にこんな下品な歌は歌わせていいのかっていう。
伊東:下品というよりも、こういう仕事をやってるということ自体が下品だと思われてる時代ですよね。この歌下品ですか?
田家:下品ではないですよ。可愛らしいです。
伊東:芸能界っていう大人の世界の中に子供がいるっていうことで、周りの大人たちはこまっしゃくれたと言うか風紀を乱すというか。大人の世界を子供たちに吹き込むんじゃないかと、そういうふうに思われていたみたいですよ。
田家:直接言われたりもされました?
伊東:学校に行っているときなんか言われましたよ。学校とお仕事の両立はどうなんですか?ってよく父は呼び出されていたみたいですよ(笑)。
歌をおしえて / 伊東ゆかり
田家:伊東ゆかりさんが選ばれた今日の3曲目、1964年1月発売「歌を教えて」。作詞が安井かずみさんで、作曲が宮川泰さん。「パパの日記」から丸4年、16歳、中学2年生。このときは渡辺プロダクションに所属していた。
伊東:私が父と喧嘩ばっかりしてるもんですから(笑)、渡辺プロの社長が心配して、あそこの親子は引き離した方がいいというので、私は渡辺プロの社長さん宅に下宿しました。
田家:渡辺晋さんとお父様はジャズ仲間でいらした?
伊東:そうですね。晋社長もベースを弾いていましたから。そういうことだと思います。そこに中尾ミエさんが先にいたのかな。あとザ・ピーナッツさんもいましたね。
田家:園まりさんは後から入ってこられた?
伊東:園まりさんはずっと自宅から通ってました。下宿してないです。
田家:2代目三人娘。初代が美空ひばりさん、江利チエミさん、雪村いづみさん。
伊東:2代目っていうか3人で組むぞって言われて。ツイストの番組で、ホステスが3人になったんですよね。ホストは藤木孝さんだったんですけど、その番組がバーっと流行ってって言ったら変ですけど、それで「3人で地方でも回らしてみたらいいんじゃない?」っていうことだったんじゃないですか? それで三人娘っていうのであちこち営業っていうんですかね、回りました。ですから、ちょっと学校の方が大変でしたね。この時代は、やっぱツイストなんか踊ると駄目なんですよ。ギターを持っても不良だって言われていましたけど。
田家:僕らは学校で踊ってましたけどね(笑)。
伊東:先生なんかに見つかって怒られませんでした?
田家:すぐ隠れましたもん。
伊東:でしょ? だからテレビで派手に私達がツイストを踊って学校なんか行くと、必ず職員室に呼ばれて、PTA の会長さん、教頭先生、校長先生、担任の先生がずらりと並んだところに1人で座らされて、腰を振って踊るとは何事だ!その短い髪はどうしたんだ?って。あの頃はオカッパかおさげですからね。「あなたの仕事は学生でしょう?」とか言われて。お友達はそんな偏見はなかったんですけど、要するに風紀を乱すっていうことですよね。
田家:この「歌をおしえて」は安井かずみさんが詞なんですが、4曲目も安井さんの詩です。65年6月発売、「おしゃベりな真珠」。
おしゃベりな真珠 / 伊東ゆかり
田家:伊東ゆかりさんが選ばれた4曲目。1965年6月発売「おしゃベりな真珠」。作詞が安井かずみさんで、作曲がいずみたくさん。映画にもお出になりました。
伊東:映画『おしゃべりな真珠』で、相手役が島かおりさん。途中バスタオルを巻くシーンがありまして、2人で抵抗しました。この『おしゃべりな真珠』は一昨年だったっけ、ラピュタ 阿佐ヶ谷っていう映画館で上映して、ゲストが私で映画館で初めてお喋りをして。ああいうお仕事は初めてだったんで面白かったですね。
田家:安井かずみさんとの出会いは大きかったですか?
伊東:安井かずみさんは、カバーをしてるときからみナみ カズみっていう名前で訳詞と言うかポップスの詞を書いていた、すごく素敵な人で。フランス語もベラベラで、素敵な女性だなと思いましたね。
田家:フェリス女学院ですからね。
伊東:「おしゃべりな真珠」で初めて詞を書いてもらって、いずみたく先生からも初めてオリジナルいただいたのかな。安井かずみさんが「おしゃベりな真珠」でレコード大賞の作詩賞を初めていただいて、「ゆかりちゃんありがとう」って感謝されました。
田家:1964年の雑誌ミュージックライフでの女性歌手人気ランキングって企画があって、1位が弘田三枝子さんで、2位が江利チエミさんで、3位が伊東ゆかりさんだった。
伊東:へえ、ミュージックライフって懐かしいな。ありましたね。
田家:シンコーミュージック。江利チエミさん、弘田三枝子さんの話は来週再来週に伺おうと楽しみにしております。
愛のめざめ / 伊東ゆかり
田家:今日の5曲目。1965年2月発売「愛のめざめ」。作詞は岩谷時子さんで、ウィルマ・ゴイクのヒット曲のカバーですね。
伊東:このハーモニカのイントロ大好きですね。これはちょっと悲しいエピソードがありまして、地中海フェスティバルで優勝はしたんですけど、作詞作曲をしているルイジ・テンコさんが、サンレモ音楽祭に出たときに落選しちゃったんですって。あまりのショックで自殺しちゃったんですよ。その当時の恋人でフランスの歌手のダリダさんがサンレモ音楽祭でこの歌を歌ったっていうエピソードを聞いて、すごく思い入れがあって歌った曲ですね。聞いた後でしたから、ウィルマ・ゴイクの切ない声とハーモニカ、たしかオリジナルもハーモニカが出てくるんですけど、それがものすごく切なくてね。そういうエピソード泣きながら聞きました。この歌好きって言ってレコーディングさせてもらいましたね。
田家:イタリアの出来事が思い出にあるという。
伊東:そういう恋は、ちょっと悲しいけど、うらやましいなと思いましたね。
田家:なかなか日本ではそういう恋はできない。
田家:今日の6曲目、1965年3月発売「恋する瞳」。日本語とイタリア語両方で歌われているバージョンをお送りいたしました。この曲はイタリアのサンレモ音楽祭の入賞曲で、歌唱部門で2位だった。
伊東:このときの1位はボビー・ソロの「君に涙とほほえみを」で、のちに布施明さんがカバーしています。普段は着物で歌わないんですけど、振袖姿で歌いました。まあ、胸がきつかったこと(笑)。
田家:17歳だった。
伊東:ですね。イタリアで歌ったアレンジは全く違うんですけど。着物を着ているからおしとやかにしろって言われて、イントロで日本式のお辞儀をしたら、それがものすごく受けたんですよ。向こうの方はあまり丁寧にお辞儀はしないんですよね。日本式の深々としたお辞儀が、リハーサルで受けたもんですから、社長に間奏でもちゃんとお辞儀しろよって言われた(笑)。
田家:サンレモ音楽祭は当時は、今もそうですけど世界的な音楽祭で。
伊東:カンツォーネブームのね。
田家:外国の人の前で歌うっていうプレッシャーはなかったんですか。
伊東:アメリカ軍のキャンプで歌っているのでどうってことなかったんですけど、ただ着物で歌うという方がどうしようかしらっていう感じでしたね。
田家:「恋する瞳」もイタリア語で発売されて、ドイツ、ギリシャ、スペインでも出て。イタリアでは7万枚売れたらしいですね。
伊東:そうですか。そのあと宮川泰先生も一緒にいらしたので、宮川泰先生とイタリアでライブの営業をしに行きました。着物着て歌いましたね。
田家:そういう代表曲をもう1曲お聞きいただきます。「花のささやき」。
田家:今日の7曲目、1966年4月発売「花のささやき」。第15回のサンレモ音楽祭の入賞曲ですね。
伊東:ウィルマ・ゴイクが歌っていて。
田家:この曲が流れている間、伊東ゆかりさんが鼻歌で歌われておりまして。
伊東:これ、サビでハモるんですよ。ウィルマ・ゴイクが日本に来たとき一緒に歌って、私がハマらせてもらいました。気持ちよかったです。
田家:で、この曲が1966年、19歳で、この翌年67年2月に20歳になって出たのが「小指の想い出」。「第9回日本レコード大賞」歌唱賞でした。
伊東:歌唱賞はすごく嬉しかったです。
田家:68年1月に出たのが「恋のしずく」で、共にミリオンセラーでした。でも、ご本人は「小指の想い出」を歌いたくなくて芸能界を辞めようと思っていたっていう。
伊東:歌いたくなくてっていうのはずっと思っていたことなんですけど、「小指の想い出」は今までポップスばっかり歌ってたのがいきなり歌謡曲になったので、「これは私が歌う歌ではございません。園まりさんにあげてください」と駄々をこねた。
田家:歌謡曲だからっていうのが大きかった?
伊東:曲調が全く違うので、あの頃はこういう曲調はまりさんが「何も云わないで」とか歌っていたから、これはまりさんにあげてくれって。事務所としては、中尾ミエ、園まり、伊東ゆかりの三人娘の中で一番私が出遅れていたので、カンツォーネを歌ってみたりもさせてくれたんですけど、まだ名前はあまり知られなくて、いろいろ考えてくれて「小指の想い出」を持ってきてくださったと思うんです。でもその本人から歌いたくないとかって言われて事務所の人もみんな困ってましたよね。あと鈴木淳先生、作詞の有馬三恵子さん、みんなを困らせました。20歳の小娘が大先生に失礼な態度をしたと思います。
田家:「恋のしずく」もそういう感じだった?
伊東:いえ、もう「恋のしずく」は全然。なんの抵抗もなく。ただ平尾先生が持ってきてくださったデモテープは、自分で弾き語りで歌ってるんですけど、あまりにも素敵で、どういうふうに歌ったらいいのかが困りました。あとは安井かずみさんに歌詞の「私」っていうところで、「ゆかりちゃんはまだ「わたし」っていう歳じゃないから「あたし」って言ってちょうだい」って。それが印象に残っています。
田家:「小指の想い出」を歌いたくないと言ったのは、洋楽育ちなんだぞ!っていう一つの表れかもしれませんね。今日は代わりと言ってはなんですが、同じ有馬三恵子さん作詞、鈴木淳さん作曲のこの曲が選ばれました。68年10月発売、「朝のくちづけ」。
田家:今日の8曲目。1968年10月発売「朝のくちづけ」。作詞・有馬三恵子さん、作曲・鈴木淳さん。伊東ゆかりさん21歳。紅白歌合戦6年連続出場。輝かしいです。
伊東:この「朝のくちづけ」を好きな人は多いです。私も好きですね。すごく爽やかで。
田家:1969年を合歓ポピュラーフェスティバルで歌唱作曲のグランプリを取れたりもしている。合歓ポピュラーフェスティバルが中村八大さんたち、当時の作曲家の方たちが本当にいい曲を作ろうってことで始まったフェスですし、伊東ゆかりさんは当時作曲家が最も歌ってほしい歌手だったんですよ。
伊東:そうだったんですか? 褒められたことがないからわかんない。
田家:改めてもこうやって振り返るとそういう存在だったんだなと思いました。
淋しいから / 伊東ゆかり
田家:9曲目。1970年5月発売「淋しいから」。これは65年に出た中尾ミエさんのカバー。
伊東:私これ自分で歌っていると思いませんでした。三人娘のコンサートがあったとき、お互いの歌を交換するコーナーがあって、私はミエさんの「淋しいから」を歌ったんですよね。このアルバムをもらったときに、「あれ、私これ歌ってるんだ」って初めて気がついた(笑)。
田家:これも安井かずみさんと宮川泰さんの曲ですが、三人娘って誰々さん用って曲が渡されるんですか?
伊東:渡辺プロっていう大きな組織の中にいたので、その中では多分そういうことあったかもしれないですね。これはゆかり用とか、まり用とか、ミエ用とかあったかもしれません。歌う本人は知らないですね。
田家:「ミエちゃんの今回の新曲、私が歌いたいわ!」みたいな場面とかはなかった?
伊東:うーん。ミエさんとは同じポップスですから。まりさんは歌謡曲の方に行っているのでミエさんと私とはかち合うってことはなかったですけど、ミエさんと取り合った曲はありますよ。
田家:あるんですか?
伊東:はい。槇みちるさんがオリジナルを歌った「片想い」って曲は取り合いましたね。ミエさんも私が歌いたい、私も私が歌いたいって。あの曲はいろんな方が歌いたいって。結局あの頃新人だった槇みちるちゃんに取られちゃったんですけど、「若いってすばらしい」かったです。
田家:今日の10曲目。1969年2月発売「知らなかったの」。作詞・山口あかりさん、作曲・平尾昌晃さんですね。
伊東:アレンジが面白いですよね。
田家:国民的な歌手っていう感覚はもうおありでした?
伊東:ないです。そんなこと言われたことないですよ。ないです。
田家:1969年の大晦日、紅白歌合戦の司会をしてらっしゃいます。
伊東:ああ、紅白ですか。しばらくご無沙汰しておりますが、司会をしたってだけの話じゃない? 大きな組織にいたから、私が断っちゃったら他の事務所の人にも迷惑かかるし。司会はちょっとと思ったんですけど、「とにかく歌手の名前と題名を間違えなきゃ大丈夫、あとは僕たちがサポートしますから」ってNHKの方に言われて、それでOKしました。
田家:で、1970年代に入って、それまでと違う転機を迎える。事務所を独立したり。
伊東:そういう転機ですね。いろいろありますよね人生。長生きしてると(笑)。
田家:この話は5週目ということで、来週から3週間はカバーポップス時代のことを、江利チエミさん、弘田三枝子さん、ザ・ピーナッツなどの話を交えながら進めていこうと思います。
左から伊東ゆかり、田家秀樹
流れているのは、この番組の後テーマ竹内まりやさんの「静かなレジェンド」です。
その時代だから起きたことや問題になったことなど、世の中の規範は時代によって変わったりするわけで、今思えば信じられないことが当時はあった。1950年代は、その最たるものでしょうね。戦後の日本は敗戦国で、みんな貧しくて生きることに必死だった。ミュージシャンもその渦中にいたわけですね。戦争中は英米音楽は敵国音楽ということで禁止されてましたから。そういうミュージシャンたちが戦後解禁になって現場に戻ってきたわけですが、なかなか生活できなかった。音楽が好きとか嫌いとかじゃなくて、生きていくために歌わなければいけない、そういうミュージシャンの家族があったわけで、伊東ゆかりさんのステージのデビューは6歳。お父様は米軍キャンプで演奏していたジャズミュージシャンですね。この辺はシングルコレクションのブックレットにとても詳しく書いてあったんで、改めて知ったことがかなりあって、感動したり驚いたりもしたんですが、お父様は父子家庭でいらした。生活のために伊東ゆかりさんもそのお父様の現場に行って歌う。そこから音楽の道が始まったわけですね。ですからずっと歌うのが嫌だったという話が今週もこれから先も出てくると思うんですが、そこから自分のスタイルを作り上げていった人なんですね。
「小指の想い出」は、米軍キャンプで歌ったりしてた人にとってはポップスとは思えないところがあったっていうのも改めて知ったことで、むしろとても好意的に思えたんですね。やっぱりミュージシャン、ジャズをやっていた人たちにとっては歌謡曲はそういう音楽だったんだなって。そういうものを見ながら音楽をやっていたんだなと、一つの答えをもらったような気がしました。70周年であります。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
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