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マイ・ケミカル・ロマンス、2001年のバンド誕生秘話

Rolling Stone Japan / 2023年2月24日 18時0分

マイ・ケミカル・ロマンス 2005年撮影(Photo by LARRY MARANO/GETTY IMAGES)

米作家のダン・オッツィが2000年代のパンク/エモ・バンドにフォーカスを当て、彼らのインディペンデント性やメジャーレーベルとの契約にまつわる話を盛り込んだ著作『Sellout: The Major-Label Feeding Frenzy That Swept Punk, Emo, and Hardcore (1994-2007)』。今回、同書からマイ・ケミカル・ロマンスに関する抜粋記事をお届けする。

【写真を見る】2019年の「再始動ライブ」

バンドの活動初期と2002年発表の1stアルバム『I Brought You My Bullets, You Brought Me Your Love』にフォーカスし、ニュージャージーのユニークな音楽シーンが彼らのサウンドの形成にどう影響したのか、そしてインターネットの無限の可能性が新たな音楽との出会いだけでなく、バンドとファンの関係性をどのように変化させつつあったのかについて、オッツィは独自の見解を示している。PUNKSPRING 2023でヘッドライナーを務めるマイ・ケミカル・ロマンス。彼らの原点(ルーツ)をあらためて多くの人に知ってほしい。

2002年、サラ・ルウィティンは母親が運転するトヨタCamryの助手席に座っている。Palisades Parkwayを走る車がスピードを上げるなか、彼女はまるでテストを控えている学生かのように、『All You Need to Know About the Music Business』と題された本のページを急ぎ足でめくり続けている。マイ・ケミカル・ロマンスのマネージャーである21歳の彼女は、バンドがレコーディングを行なうニューヨーク北部のNada Recording Studioに向かいながら、自分がいかに未熟であるかを痛感し始めていた。

ルウィティンがバンドのマネージャーになったのは最近の話だ。Ultragrrrlというユーザー名でAmerica Onlineを利用していた彼女は、同プラットフォーム上で知り合った音楽仲間たちとの交流を通じてそのきっかけを掴んだ。彼女がある日、ブラーやオアシス、レディオヘッド、プラシーボといったバンドのメンバーディレクトリを検索していたところ、MikeyRaygunという見慣れないユーザーのプロフィールがヒットした。そのアカウントの持ち主である17歳のマイキー・ウェイは、日中はスーパーマーケットのカート整理係として働いており、夜は両親と住む家のソファで寝ているという。おすすめのバンドについての情報や、含みのあるメッセージを交換し合う中で、ルウィティンは彼が頭が良く愉快な人物だと考えるようになった。数カ月間にわたるやり取りを経て、彼女は直に会おうと提案する。

「お互いの見た目は把握してなかった」とルウィティンは話す。「彼は『レオナルド・ディカプリオに似てるってよく言われる』って言ってたと思う。一応写真をもらってたけど、ぼやけてる上に顔が見切れてたの。彼と初めて会ったのは、ウエストヴィレッジのWest Fourth Street駅を出たところにあるスターバックスだった。彼はテキストやIMではすごくお喋りだったけど、実際に会ってみるとこっちが気を遣うくらいシャイで、同一人物だとは思えなかった」

無口ではあるものの、ウェイが野心家であることは明らかだったという。「一緒にHot TopicやVirgin Megastoreに行った時に、彼はこんなふうに話してた。『俺はいつか絶対に有名になる。雑誌の表紙を飾ったり、弁当箱に顔がプリントされたりするんだ』。その時点で既に、彼は明確なヴィジョンを持ってたの」

2人は互いに恋愛感情を抱き、数カ月の間交際していた。ウェイはPATHトレインでマンハッタンに向かい、ルウィティンは両親と住むニュージャージー州テナフライの家から長距離バスを利用した。「ニューヨークのあちこちの街角でイチャイチャしてた」と彼女は話す。ひたすらキスを交わすことで、ルウィティンは彼女が恋をしていたのは社交的なMikeyRaygunであるという事実から目を逸らしていた。「それに、彼はキスが上手だったしね」と彼女は話す。

そのチャーミングなキャラクターにはオンラインでしか会えないことを悟ったルウィティンは別れることに決めたが、友達としては付き合いを続けようと決めていた。彼女が音楽業界で働く方法を模索していた以降の数年間、ウェイからの連絡は途絶えがちだったが、2001年秋のある日の夜、彼女が両親の寝室でコンピューターに向かっていると、MikeyRaygunからメッセージが届いた。

「そこにはこう書いてあったの」と彼女は話す。「『兄貴と一緒にバンドを始めることにしたんだ。君には気に入ってもらえないだろうけど、すごくワクワクしてる』って」。ルウィティンはその音楽性について、彼が好きなバンドの曲を模倣したものだろうと予想した。「SFチックでフューチャリスティックな、ブリットポップっぽいやつだと思ってた」と彼女は話す。しかし、彼がMP3ファイルで送ってきた「Skylines and Turnstiles」「Cubicles」の2曲は、彼女が予想したものとはまるで違っていた。「私が普段聴いてるような音楽じゃないっていうのは合ってたけど、衝撃的だった。言葉で表現できない、本能のようなものを感じたの。エネルギーと興奮、思慮深さに満ちていて、私はすぐに夢中になった」


約40人のオーディエンスを前に初ライブ

ウェイによるとバンドはアルバムの制作を進めていて、ジェフ・リックリィがプロデュースを担当するという。「ジェフが誰だかはもちろん知ってた。音楽業界の人間で、次のニルヴァーナだと言われていたサーズデイのことを知らない人はいなかったから」。ルウィティンはそう話す。バンドのマネージャーにして欲しいという彼女の申し出を、ウェイは他のメンバーと相談した上で受け入れることにした。彼女はマネジメント経験がほぼ皆無だったものの、「絶対にやれるっていう自信があった」という。また、彼女が給料を要求しなかったことも大きかった。

マイ・ケミカル・ロマンスは2001年10月、ニュージャージー州ユーイングにあるElks Lodgeで初ライブを行うことになる。彼らの友人のフランク・アイエロがフロントマンを務めるハードコアバンドPencey Prep、そしてアイエロの従兄弟によるバンドMild 75のヘッドラインショーの前座としての出演だった。初めてのパフォーマンスを前にひどく緊張していたメンバーたちは、気を落ち着かせるために大量のビールを飲んだ。アルコールの力で覚悟を決めたバンドは、「Skylines and Turnstiles」で約40人の客を前にしたショーの幕を開けた。演奏後、バンドのパフォーマンスについてオーディエンスに意見を求めたところ、反応は上々だった。むしろ、それは熱狂的とさえ言えるほどだった。

「ものすごく盛り上がってたよ」。アイエロはそう話す。「俺はフロア後部の物販スペースの椅子に座って、彼らのパフォーマンスを観てた。全員ベロベロだったけど、パフォーマンスは凄かったよ。いつ事故ってもおかしくない危うい状況だったけど、ギリギリのところで成立してた。演奏時間は20分くらいだったと思う。ザ・スミスの『Jack the Ripper』のカバーもやってたな。たぶん8曲くらいやったと思う、ちょっと多いよね。でも俺は、このバンドには特別な何かがあるって感じてた。俺だけじゃなく、会場にいた全員がそう思ってたはずさ」

メンバーの大半が石像のように突っ立って演奏していたのに対し、経験豊富なフロントマンのように客を煽っていたジェラルド・ウェイだけは、マイクを握った瞬間にシャイな自分を完全に脱ぎ捨てていた。会場にステージはなく、彼はフロアを縦横無尽に駆け回った。ライブの場で彼に宿るペルソナからは、ジェフ・リックリィの感情表現、アイアン・メイデンのブルース・ディッキンソンのオペラ級に壮大なメタル魂、モリッシーの尊大な態度、そしてニュージャージーの至宝ミスフィッツのグレン・ダンジグの陰気臭さまで、ウェイにとってのヒーローたちの影響が見え隠れしていた。

ウェイが着ていた自作のシャツにプリントされていた「thank you for the venom」というフレーズは、後にバンドの楽曲のタイトルになる。「自分のバンドTを着ることが許されるのはアイアン・メイデンだけっていうのが、俺らの内輪のジョークだった」とSaavedra(バンドのデビュー作をリリースしたEyeball Recordsのオーナー)は話す。「でも彼らは自分のバンドのTシャツを堂々と着てた。自信に満ちていた彼らは、自分たちがアイアン・メイデン級にビッグになるって信じていたんだよ」

「特にジェラルドは、どんな存在にだってなれると確信しているようだった。誰に何と言われようとね」とアイエロは話す。「不思議だったよ。普段の彼は極端に内気で自意識過剰だったから。でも一旦ステージに上がると、何かを解き放ったかのように別人になるんだ」。それ以来、アイエロはマイケミのライブに毎回足を運ぶようになり、自分こそが一番のファンだと自負していた。バンドがトライステートエリアのホールやベニュー、小さなクラブで演奏する時には、親しい友人や家族、ガールフレンド等で構成されるバンドの親衛隊の一員として、彼は必ず駆けつけた。

「彼らは会場でデモ音源を収録したCD-Rを配ってて、その表面にはマイキーのメアドが書いてあった」とアイエロは話す。「それに入ってた曲には何か特別なものがあって、俺は何度も繰り返し聴いてた。結成したばかりの無名のバンドが書いた3曲にどうしてこんなに夢中になれるんだろうって、自分でも不思議で仕方なかったよ。彼らの曲は、当時流行ってたどんな音楽とも違ってた。ヴォイシングはユニークを通り越して奇妙なくらいで、レイ(・トロ:Gt)のクラシック音楽の素養も影響してたと思う。コード進行も奇想天外だった。言うまでもなく、ジェラルドのボーカルも大きな魅力だった」


ギタリスト、フランク・アイエロの加入

地元での11回目のライブを終えた後、マイ・ケミカル・ロマンスは自分たちのサウンドには何かが足りないと感じるようになった。トロは優れたギタリストだったが、彼1人でできることには限界があり、バンドは音の厚みを増すためにもう1人ギタリストを加えることにした。また、ステージ上で存在感を発揮できるメンバーを迎えることで、ライブのエネルギーを強化するという目的もあった。

リックリィの提案を受けて、バンドはアイエロをメンバーとして加えることを検討していた。Pencey Prepは同年に控えていたCBGBでのライブを最後に解散することが決まっており、彼をバンドに迎えるには絶好のタイミングだった。アイエロはマイ・ケミカル・ロマンスの曲を熟知しており、お気に入りのパンクバンドであるブラック・フラッグの影響を感じさせる、ステージ上での破天荒なキャラクターも魅力だった。

アイエロは当初、高校時代からの友人であるPencey Prepのメンバーを置き去りにする形で新たなプロジェクトを始めることに難色を示した。それでも、マイ・ケミカル・ロマンスへの加入という魅力的なオファーを断ることはできなかった。「根拠があったわけじゃないけど、このバンドは何か大きなことを成し遂げるって、俺たちみんなが確信してた」と彼は話す。「長く一緒にやってきたバンドのメンバーを裏切るのは辛かった。でも、マイ・ケミカル・ロマンスは俺が世界で一番好きなバンドだったから。そのメンバーになれるチャンスが与えられたんだから、断るわけにはいかないさ」

「当初4ピースだったバンドに、フランキーが加わったの」とルウィティンは話す。「彼はまさにバンドが必要としていた存在だった。ジェラルドが1人で受け止めていた視線を、彼は自分に向けさせることができたから。それはステージ上でガチガチになるマイキーにはできないことだった。ドラマーのオッター(Matt Pelissier )はシャイというわけじゃなかったけど、彼は縁の下の力持ちタイプだった。レイはテクニシャンだけど、フランキーのような客を惹きつけるカリスマ性は持っていなかったから」

アイエロの功績は、バンドのリズムセクションを強化しただけではなかった。彼が時折放つ金切り声のバックアップ・ボーカルは、ニューブランズウィックのアンダーグラウンドシーンで人気だったスクリーモの影響下にあるマイケミのサウンドに、痺れるようなハードコアの要素を注入した。彼はバンドのワイルドカードとして、バスドラムの上からダイブしたり、フロアで悶えたりすることで注目を集めた。

アイエロが加入してすぐ、5人組として再スタートを切ったバンドは、Nada Studiosでデビューアルバムのレコーディングを敢行した。スタジオを初めて利用する彼らは、まるでクリスマスを迎えた子供のようにはしゃいだ。Nada StudiosはエンジニアのJohn Nacleiroの母親の自宅の地下に作られた、こじんまりとしたスタジオだった。天井は低く、機材がスペースの大半を占めており、レコーディングブースに入るには洗濯室を通る必要があった。それでも、本格的なミキシングボードと吸音材で覆われた壁を目にしただけで、彼らはプロのロックスターの気分を味わうことができた。

「単なるホームスタジオだったけど、彼らにとってはElectric Ladyのような場所だったはずだよ。特にレイは興奮してたね、子供のようにはしゃいでた」とSaavedraは話す。「足がガクガク震えてて、マイクがその音を拾ってしまったことが何度かあってさ。『おい、じっとしてろよ!』って俺らが言うと、『ごめん!興奮しちゃってさ』なんて言ってたよ」

予算の都合で2週間しかスタジオを抑えられなかったため、デビューアルバム『I Brought You My Bullets, You Brought Me Your Love』のレコーディングは急ピッチで進められた。各メンバーの多様な好みが反映された11曲はまとまりに欠けたが、雑多な音楽性は彼らの魅力の一部でもあった。5分強の「Early Sunsets Over Monroeville」は、ザ・プロミス・リングに象徴される90年代のエモシーンへのオマージュだ。暴れ馬のようなパンクビートが印象的な「This Is the Best Day Ever」は、ニュージャージーの大御所バンドLifetimeからの影響を感じさせる。曲構成が最も複雑な「Honey, This Mirror Isnt Big Enough for the Two of Us」では、壊れたカーラジオのようにムードが頻繁かつ唐突に変化する。いかにもメタル好きらしいリフを刻んだかと思えば、メロディックなヴァースでは不規則にざらついたシャウトが響くなど、様々なスタイルへの関心が渾然一体となっていた。





ジェラルドのアクシデント

アマチュアならではのエネルギーは偶発的な楽曲を数多く生み出したが、ルウィティンが母親の車で現場に到着した時、彼女はマネージャーとして初めて危機的状況に直面する。シンガーのジェラルドはその日、本来の実力を発揮できずにいた。「スタッフがこう言ってた。『ジェラルドの歌が録れてない。耳の調子が良くなくて、気分も悪いらしいんだ。予算が限られてるから、1日たりとも無駄にするわけにはいかないのに』」。彼女はそう振り返る。「私は一文なしで、スタジオの利用を延長する余裕はなかった」

「彼は耳が痛むらしくて、頭痛もすると言ってた」とSaavedraは話す。「何が原因なのか、俺らにはまるで見当がつかなかった。彼は相当痛がってたけど、なんとしてもレコードを完成させないといけなかった。救急救命室にも何度か連れて行ったけど、その度に『どこも悪くない』と言われたんだ」

「私は車に戻って、母さんにアドバイスを求めた」。ルウィティンはそう話す。「彼女はこう言った。『ジェラルドを連れて来なさい。今すぐ病院に行かないと』。病院に着くとすぐ、母はスタッフにこう言ったの。『今すぐこの子を診てあげて! 彼はレコーディングの真っ只中で、一刻も早く戻らなくちゃいけないの』。結局彼には根管治療か歯の治療が必要だったんだけど、母さんはジェラルドの治療が終わるまで病院でずっと待ってた。それ以来、55歳のエジプト人の私の母さんは、すっかり彼に入れ込んでしまったの」

ウェイの腫れ上がった顎は、スタジオでとあるマジックを起こした。彼が感じていた痛みは治療後にさらに増し、感情のこもっていないボーカルテイクは説得力に欠けた。「俺はジェラルドのパフォーマンスに納得がいかなかった」とリックリィは話す。「だから痛み止めを隠して、ジェラルドに薬なしでレコーディングしろって言った」

ウェイの薬を取り上げ、必死に説得を試みても成果がなかったため、Saavedraは奥の手を使った。「やつの顔面を思いっきり殴ったんだ」と彼は話す。「一発でK.O.したと思う。あいつは気が動転してたよ。今思えばいかにも体育会系なやり方だけど、あの時は他に手がなかった。でもあれは、あいつのマゾヒストとしての一面を刺激したんだ。もちろん痛かっただろうけど、あの一撃があいつを奮い立たせたのは間違いない。そういう痛みもあるってことだよ。その直後に、あいつは最高のボーカルテイクを録ったんだから」

Saavedraのパンチの効果は、ウェイのパフォーマンスを改善させただけではなかった。その一撃によって、ウェイはマイ・ケミカル・ロマンスに不可欠な概念を頭に刻み込んだ。ウェイが学んだのは、人は時として痛みと向き合う必要があるということだった。

ルウィティンは若く経験不足だったが、がむしゃらに動く彼女は若手のバンドにとっては有用なマネージャーだった。彼女はマンハッタンで一晩に行われた3つのギグを通じて人脈を築き、ネット上で音楽ゴシップを拡散した。正式にバンドのマネージャーになるとすぐ、ネットワーク力に長けた彼女はパソコンのキーボードでバンドの魅力を発信し始めた。彼女はデモ音源をAtlantic RecordsのA&Rや、SPINやNMEに寄稿する友人に送った。さらに、彼女はサーズデイの掲示板にバンドのことを書き込み、無数のテイストメーカーたちにメッセージを送った。その甲斐あってバンドの知名度は徐々に上昇し、A&Rの目につきやすいHits Daily Doubleにも取り上げられた。その頃から業界のあちこちでバンドのことが話題に上るようになり、彼女はもはやバンドの宣伝をして回る必要はなく、いつしかアプローチされる側になっていた。

「レコード会社の人間からしょっちゅう電話がかかってくるようになった」とルウィティンは話す。「Loop Loungeでのバンドのライブを見るために、多くの人が飛行機でニューヨークまで来てた。Island Def Jamのロブ・スティーヴンソンが、サーズデイを発掘した社内のライバルに対抗するために、マイ・ケミカル・ロマンスと契約を交わしたいと申し出るくらいだったの。驚くほどのスピードで、状況が一変しつつあった」

インターネットを通じてバンドのことを知ったのは、業界の人間だけではなかった。バンドのメンバー、特にSidekickブラウザの虜だったマイキー・ウェイは、インターネットの使い道に関して天才的な嗅覚を備えており、オンラインで集まっている新しいファンを確実に取り込んでいった。TheNJSceneを含むローカルの掲示板、あるいはFriendsterやLive- Journal、オルタナカルチャー好きの巣窟MakeoutclubといったSNSでは、バンドのことが頻繁に話題に上っていた。マイ・ケミカル・ロマンスの名前は口コミという昔ながらの方法で広まったが、その速度はインターネットの普及前とは比較にならなかった。

「マイキーはインターネットの申し子だった」とルウィティンは話す。「バンドにとって、インターネットが果たした役割は決定的だった。誰もがオンラインで彼らのことを発見してたから。バンドのウェブサイトにはEPの音源がアップされてて、曲やその一部を自由にダウンロードすることができた。彼らの曲をデジタルな方法で広めるあらゆる機会を、私たちはフルに活用したわ。ライブ会場で物販を担当していた私は、客にウェブサイトのURLを書いたチラシを渡したり、メーリングリストに登録してもらうようにしてた。ニュースレターの作成と送信は私の役目だったの」


マネージャーの功績

2002年7月23日に1stアルバム『I Brought You My Bullets, You Brought Me Your Love』がEyeball Recordsからリリースされた時点で、マイ・ケミカル・ロマンスは既にあらゆるレコード会社から注目されていた。「あちこちのレーベルから電話がかかってきて、私はバンドとA&Rのミーティングをいくつもアレンジした。放っておいても話があっという間に進んでいく、そんな状況だったの」

「ある日、バンド側からミーティングをしたいと言われた」。彼女はこう続ける。「こう言われたの。『君は素晴らしく有能だし、バンドのためにしてくれたあらゆることに感謝してるけど、正直俺たちはついていけないんだ。展開があまりに早すぎる。君は俺たちをビッグにしようと頑張ってくれているけど、俺らにはまだその準備ができていない。パンクバンドである俺たちには下積みが必要で、近道はしたくないんだ』。やり手すぎるからっていうのは、解雇の理由としては申し分ないのかもね。寝耳に水だったけど、腹を立てたりはしなかった。彼らのヴィジョンとゴールを尊重すべきだと思ったから。マイキーと別れた時と同じように、私は何かしらの形でバンドのことをサポートし続けたかった。だから私がSPINで働き始めた時、彼らに関する記事は全部任せてもらうよう頼んだの」

「当時の俺は、サラはバンドのマネージャーとして適任じゃないと思ってた」。リックリィはそう話す。「でも今となっては、彼女がバンドに与えた影響は大きかったと思う。バンドの中性的あるいは女性的な側面を大事にするっていうのは、彼女が強く主張したことだった。バンドの成功に対する彼女の功績は軽んじられるべきじゃない」

ルウィティンが解雇された後も、バンドの元には様々なオファーが舞い込んだ。アルバムリリース直後の8月、近隣のペンシルバニア州アレンタウンで行なわれるジュリアナ・セオリーとジミー・イート・ワールドのコンサートで前座を務めるこ予定だったコヒード&カンブリアが急遽出演をキャンセルしたため、ピンチヒッターとしてマイ・ケミカル・ロマンスが指名された。だが、そのショーの規模はあまりに大きかった。大ブレイクを果たしばかりだったジミー・イート・ワールドは、巨大なベニューをソールドアウトできるほどの人気を誇っていた。2枚のアルバムのセールス不振を理由にCapitol Recordsから契約を打ち切られたアリゾナ出身の彼らは、制作費用を自己負担する形で『Bleed American』を完成させた。その親しみやすさは疑いようがなく、各レーベルは再び彼らに関心を示し始める。「いい出来だっていう噂が口コミで広がっていたんだ」。そう話すのはバンドのドラマー、ザック・リンドだ。「Hollywood Records、MCA、Sire、Atlanticが契約を申し出ていた。Capitolさえも改めてアプローチしてきたよ、遅れをとるまいと言わんばかりにね」。彼らの元を訪ねてくる人が後を絶たないため、プロデューサーのマーク・トロンビーノはスタジオの扉に鍵をかけるようになった。争奪戦に勝利したDreamsWorksは、キャッチーこの上ないフックが魅力のシングル「The Middle」がラジオチャートのトップ40入りを果たしたことで、バンドへの投資を早々に回収した。同曲はビルボードのトップ5に入り、アレンタウンでのコンサートが開催される8月に、『Bleed American』はプラチナディスクに認定された。

「あれが(マイケミにとって)最初のブレイクだった。当時、ジミー・イート・ワールドは超ビッグだったんだ」とSaavedraは話す。駐車場に車を入れながら、メンバーは会場の規模に唖然とすると同時に、他のバンドの巨大なツアーバスと並んだ自分たちのレンタルヴァンの安っぽさに愕然とした。「メンバーがステージマネージャーから『ステージプロットはあるか?』って聞かれて、『あぁ、ちょっと待ってて』って言って楽屋に戻ったんだけど、みんな『ええと……何それ?』って感じでさ。当時の彼らは右も左も分からなかったんだよ。小さなホールやホーボーケンのMaxwellsとかでしか演奏したことがなくて、あんなデカいステージは初めてだった。ステージプロットなんて言葉は聞いたことさえなかったんだよ」


変わらぬ「信念」

ニュージャージーのElks Lodgeで数十人を相手に演奏する時でさえ緊張していた彼らは、Allentown Fairgroundsのフロアを埋め尽くした数千人を前にして震え上がった。しかしジェラルド・ウェイだけは、目前の無数の人間の顔を認識するうちに、何かが取り憑いたかのように豹変した。巨大なステージは彼を怖気付かせるのではなく、むしろ奮い立たせた。

「私と何人かの女友達はステージ脇で見てたんだけど、目の前の光景が信じられなかった」とルウィティンは話す。「ニュージャージーの小箱で演奏するところしか見たことなかったんだから当然よね。CBsでは一度だけライブしてたけど、彼らにはやっぱりこれくらい大きなステージが似合うと思った」

アイエロはひどく緊張しており、最初の数分間は目を固く閉じたまま演奏していた。当日プレイした、ラッシュを思わせるマスロック的なギターイントロで幕を開ける「Headfirst for Halos」は、アリーナやスタジアムでこそ輝く曲だった。ショーの中盤でアイエロがフロアに目を向けた時、無数の人々がビートに合わせて飛び跳ねていた。「みんな跳ね回ってたよ」と彼は話す。「俺たちみんな、『何千もの人間を前に演奏してるなんて、マジで信じられねぇ』って感じだった。あんな規模のショーは初めてで、オーディエンスの反応はかつてなく熱狂的だった。人生で一度も味わったことのない、最高の気分だったよ」

マイ・ケミカル・ロマンスはその夜、ロック・スターダムがどういうものかを初めて知り、その虜になった。バンドはそれ以来、毎晩同じ興奮を味わえるのなら何だってやるというスタンスに切り替えた。どれほど多くの時間と努力、そして信念が必要だとしても厭わない、そう覚悟を決めた。

「あの日初めてサインをしたんだ」とアイエロは話す。「すごく妙な気分だった。『いいのかな、俺はここにいるべきでさえないってのに』ってさ。でも友達のエディーにこう言われたんだ。『考えてみろよ。お前が小さな子供だったとして、有名人のサインを欲しがるのは当然だろ』。それで俺は自分の名前を書いたんだけど、『もうちょっと何か書いてもらえませんか?』って言われてさ。それで俺はこう付け加えた。『信じ続けろ』」



本記事は『Excerpted from Sellout: The Major-Label Feeding Frenzy That Swept Punk, Emo, and Hardcore (1994–2007)』の一部を抜粋したものです。
Copyright © 2021 by Daniel Ozzi. Published and reprinted by permission of Mariner Books, an imprint of HarperCollins LLC. All rights reserved.

from Rolling Stone US



PUNKSPRING 2023

2023年3月25日(土)東京・幕張メッセ
出演:MY CHEMICAL ROMANCE / SUM 41 / BAD RELIGION / SIMPLE PLAN / THE INTERRUPTERS / 04 Limited Sazabys / The BONEZ
時間:OPEN 10:30 / START 11:30
料金:一般 14000円 / GOLD TICKET 20000円 ※特典グッズ付き・専用観覧エリアあり (各税込/All Standing /1ドリンク代別途必要)
<問>クリエイティブマン:03-3499-6669

2023年3月26日(日)インテックス大阪
出演:MY CHEMICAL ROMANCE / SUM 41 / BAD RELIGION / SIMPLE PLAN / 04 Limited Sazabys / The BONEZ
時間:OPEN 10:30 / START 11:30
料金: 一般 12000円 / GOLD TICKET 18000円 ※特典グッズ付き・専用観覧エリアあり(各税込/All Standing /1 ドリンク代別途必要)
<問>キョードーインフォメーション:0570-200-888

※東京と大阪では出演アーティストが異なります。
※出演ラインナップ変更による払い戻しはいたしません。
※公演の延期、中止以外での払い戻しはいたしません。
※小学生以上はチケット必要。
※未就学児の入場は必ず保護者同伴の上、保護者1名につき、児童1名のみ入場可能。但し入場エリアの制限あり。
※ウェブサイトの注意事項を必ずご確認いただいた上でチケット購入、来場ください。

チケット一般発売中
受付URL:https://eplus.jp/punkspring/

TOTAL INFORMATION : www.punkspring.com

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