ミシェル・ヨーが語る、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』に巡り合うまでの物語
Rolling Stone Japan / 2023年3月13日 15時45分
第95回アカデミー賞授賞式で、映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が作品賞など最多7部門を受賞。主演のミシェル・ヨーはアジア系として初めて主演女優賞に輝いた。香港映画界のアイコンがマルチバースを舞台とする不条理コメディに出演し、キャリアで学んだすべてを発揮するまでの物語とは。米ローリングストーン誌のインタビューをお届けする。
第95回アカデミー賞 最多7部門受賞
★作品賞
★監督賞:ダニエルズ(ダニエル・クワン、ダニエル・シャイナート)
★脚本賞:ダニエルズ(ダニエル・クワン、ダニエル・シャイナート)
★主演女優賞:ミシェル・ヨー
★助演男優賞:キー・ホイ・クァン
★助演女優賞:ジェイミー・リー・カーティス
★編集賞
無限の可能性が存在する多元宇宙、あるいはマルチバースのどこかでは、ミシェル・ヨーは4歳でバレエを始めていないのだろう。中国系マレーシア人の彼女は、未来のプリマドンナを目指してイングランドに留学するものの、背中を痛めてその夢を諦めることになる事態を見事に回避するに違いない。その宇宙では、彼女がミスコンに出場して優勝することもなかったのかもしれない。仲の良い友人が彼女の写真を知人のプロデューサーに渡したことをきっかけに女優になるのではなく、何か他の道を歩んでいるはずだ。そこでは当然、彼女は香港映画界の黄金時代のアクションムービーアイコンではない。90年代後半にボンドガールを演じることもなく、『グリーン・デスティニー』に代表されるインスタントクラシックの数々にも出演しておらず、マーベル作品で主役顔負けの存在感を発揮することもなく、気丈で口達者な義理の母親役で強烈なインパクトを残してもいない。ましてや、おもちゃの目玉にディルド、そして尻栓が登場する複雑な格闘シーンがあるプロジェクトに、彼女が携わることは絶対になかったはずだ。
幸運にも(Luckilyーー腰を据えて話す機会に恵まれると、彼女がたびたび口にする言葉だ)、我々は何もかもがあるべき形で存在している宇宙に生きている。整然と並べられたドミノを倒すかのように、プライベートの面でも仕事の面でも理想的なステップを重ねてきたこの宇宙の彼女は、キャメル色のコートとベイビーブルーの猫目のサングラスというルックで、風が心地いい2022年3月のある日にテキサス州オースティンで取材に応じながら、自分がいかに幸運であるかを強調する。その女神が今も彼女に微笑んでいるのだとすれば、注文したマルガリータが間もなく出され、彼女は丁寧に礼を述べるはずだ。
最新出演作『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のSXSW Film Festivalでのプレミア初日から一夜明けた今日、ヨーは一日中取材に追われた。筆者とのインタビューが最後ということもあり、彼女はカクテルを片手に、リラックスした様子でジョークを口にした。「エヴリンが一番しなさそうなことよね」。ヨーが演じるその野暮ったいキャラクターは、ロサンゼルスにあるしけたドライクリーニング店のオーナーであり、遠い昔に両親の反対を押し切って若い男性と結婚し、中国からアメリカに移り住んだ。夫(『グーニーズ』への出演で知られ、現在はアクションコーディネーターとしても活躍するキー・ホイ・クァン)との離婚の危機に瀕しており、20代の娘(ステファニー・スー)とは関係が悪く、年老いた父親(ジェームズ・ホン)の面倒を見ながら、IRS史上最悪の税務調査をくぐり抜けようと必死になっているエヴリンは今、まさに中年の危機の真っ只中にいる。
あるいは、ミッドライブス・クライシスという複数形を用いるべきだろうか。税務調査開始の数秒前、典型的な草食系男子である夫は突如として勇猛果敢な戦士へと変貌し、無数の宇宙に無数の彼女が同時に存在しているという事実をエヴリンに告げる。彼によると、「この宇宙」にいる彼女だけが、あらゆる時間と空間と存在の破滅を防ぐことができるという。ダニエルズとして知られる2人組(『スイス・アーミー・マン』で知られる)が監督を務めた本作の一筋縄ではいかないストーリー展開は、まさに不条理コメディそのものだ。劇中には『2001年宇宙の旅』と『レミーのおいしいレストラン』のパロディも登場する。あるタイムラインでは人間が突拍子もない進化を遂げ、指がホットドッグになっている。他にもウエストポーチとオフィス家具、先述の大人のおもちゃが飛び交うオールドスクールなカンフーバトルや、悪役のジェイミー・リー・カーティスによる見事な飛び蹴り、果てにはベーグルのブラックホールまで、まさに何でもありだ。
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本作の主人公を演じるヨーは、マスターシェフや武侠の戦士、ミシェル・ヨーに酷似した華やかな映画スターなど、背景が全く異なる複数のエブリンを演じながら、この摩訶不思議な世界観に説得力と魅力の両方をもたらしている。そのためには、コメディからメロドラマまで、人類が知るあらゆる感情を表現する能力だけでなく、圧倒的な武術の心得も必要だった。豆腐を指に乗せて回転させたり、木に縛りつけた綱の上でカンフーファイトに臨んだり、走行中の列車にバイクを飛び込ませたり(1992年作『ポリス・ストーリー3』でヨー自身が実際に行ったスタント)してきたヨーの長年のファンであっても、本作における彼女の姿には驚かされるに違いない。
「初めて脚本を読んだときは、意味がさっぱりわかりませんでした」とヨーは話す。「大まかなコンセプトは理解できたものの、ディティールになるともうお手上げで……」。彼女はアニメに出てくる車のエンジン音に似た声を上げた。「ホットドッグの指? ディルドに尻栓? 何もかもが私の理解をはるかに超えていました」
脚本と監督を務めるダニエルズこと、ダニエル・クワンとダニエル・シャイナートの2人は、初めからヨーを想定してエヴリンのキャラクターを作り上げていったが、それは劇中で描かれるエヴリンとは大きく異なっていたという。「構想の段階から、彼女に出演してもらうつもりだった」。フェスティバルでのプレミアに先駆けて行われた遠隔インタビューで、クワンはそう話していた。「元々は男性が主人公になるはずだったんだ。夫役の男性が物語に出てくるあれこれを経験するっていうのが当初のプロットだった。でもいろいろと練っていくうちに、彼女を物語の中心に据えた方が面白いという結論に達した。ミシェルがこの役を完璧にこなす画が目に浮かんで、大いに興奮していたんだ。彼女以外の人選は考えられなかったから、もし彼女に却下されたら全部台無しになるっていうリスクもあったけどね。この映画は、彼女のアイデンティティと存在そのものなくしては成立しなかったんだ」
ヨーはダニエルズの2人の途方もないアイデアに若干困惑したものの、思い通りにいかない人生を送るごく普通の女性の誠実な物語という、奇想天外なプロットの背後にある部分に強く興味を惹かれた。無人島に漂着した2人の男性(うち1人は腹にガスを溜めた死体)の物語を描く2人の初監督作品『スイス・アーミー・マン』を観て、彼女は何もかも納得がいったという。「『あぁ、そういうことなんだ!』っていう感じでした。私は若手のディレクターと仕事をするのが好きなんです。何が何でもその才能を証明しないといけない彼ら彼女らは、怖いもの知らずでハングリー精神に満ちているので。私はそういう刺激を求めているんです。自分がハングリーさを無くしていろんなものを恐れるようになったら、その時は静かに舞台を去るべきだと思っているので」
ヨーはロサンゼルスで2人と会う機会を設けた。「指定されたのは、豪華なホテルの豪華なレストランだった」とシャイナートは話す。「『グリーン・デスティニー』や『クレイジー・リッチ!』でのイメージしかなかったから、僕らは恐る恐るといった感じで『最近観た中でお気に入りの映画は何ですか?』って訊いたんだ。なのに返ってきた答えが『デッドプール2 』で、思わず拍子抜けしちゃってさ。彼女は気取ったところが全くない、この上なくフレンドリーな人だった」
クワンはこう話す。「初対面の時から、彼女は変わり者の甥っ子に対するように接してくれた」
「豪華なホテルの豪華なレストランにいそうな客の対極にある人なんだよ」。シャイナートはそう付け加えた。
「自問したのは、『なぜこんな仕事を引き受けたのか?』ではなくて、『なぜここまで来るのに40年もかかってしまったのか?』ということでした」。ヨーは笑ってそう話す。「長年この業界で生きてきて、やっと誰かが『ミシェルなら全部できるんじゃないかな』って言ってくれるようになった。私はコメディには滅多に出ないし、少なくとも文字通りのコメディのイメージはないと思います。この作品は、近年私が仕事を通じて取り組んできたいろんな物事のきっかけになって……」。彼女は一度話を区切り、頭を下げてメガネを覗き込んでからこう続けた。「キャリアを通じて、私はこういう機会に巡り合い、それをしっかりとこなすチャンスが来るのをずっと待っていたんです」
香港映画から学んだアクション、転機となった『グリーン・デスティニー』
別の時代に、(同じくらい豪華なホテルの中にある)別の豪華なレストランで、中国の映画プロデューサーであるディクソン・プーは、同席していた相手に俳優を探している旨を伝えた。彼と食事を共にしていたのは、母親に半ば強制的に出場させられたミスコンでミス・マレーシアに輝いた、当時21歳だったミシェル・ヨーの親しい友人だった。その女性は、所持していたミシェルの写真をディクソンに見せた。数日後、ヨーは香港の撮影現場で、既にアジア最大のスターの1人となっていたジャッキー・チェンと共に、腕時計のCM撮影に臨んでいた。数週間後、ヨーの才能に惚れ込んだディクソンは彼女に再び電話をかけた。D&B Filmsというプロダクション会社を立ち上げたばかりだった彼と格闘派俳優でディレクターのサモ・ハン・キンポーは、彼女との専属契約を申し出た。彼女は女優業にさほど興味があるわけではなかったが、またとないその機会は彼女の冒険心をくすぐった。当時の彼女は人生の岐路に立っており、どの道に進むべきか決めかねているところだったからだ。
ミシェル・ヨー 2022年3月 ロサンゼルスで撮影 MICHAEL TRAN/AFP/GETTY IMAGES
「まず気になったのは、父の反応でした」。目を見開いて、口元を震わせる真似をしながら、彼女はそう言った。「イングランド留学とは次元の違う話ですから。留学する時は、最終的にはマレーシアに戻ってきて自分のバレエスクールを開くつもりでいました。地に足のついた生活を想定していたんです。私の父は弁護士ですが、ものすごく口数が少ないんです。だから彼が発言する時は、それがすごく重要であることを意味していました。まず間違いなく、『ダメだ』の一言で片付けられるだろうと思っていました。でも話を切り出さないことには答えを出せないので……」
「私は父に契約書を見せました」と彼女は続ける。「『何を考えているんだ、教師になってまっとうな人生を送りなさい』と言われることを覚悟していました。でも父は、契約書に目を通してこう言ったんです。『これじゃ奴隷になるも同然だ。お前は相手の言いなりで、報酬もはっきりしない。正当な理由なく、金を一切払わないまま契約を切られる可能性だってある。私が修正してやる』。呆然としている私に向かって、父はこう言いました。『で、いつから行くんだ』。私はすぐに準備を始めました、父の気が変わらないうちに。あるいは、母がついてくることが条件だとか言い出さないうちに」。彼女は笑ってそう言った。「それなら契約を断ったほうがマシですから」
当時ミシェル・カーンという芸名を用いていた彼女の初出演作を観たことがある人でも、覚えているのは『デブゴンの快盗紳士録』というタイトルだけかもしれない(「香港映画のタイトルのセンスが大好きなんです」と言って、彼女は大笑いした。「意味不明なんだけど、とにかく笑えるんですよね」)。同作で彼女は不良たちを結束させ、2人の犯罪者を公務員として更生させようとする教師を演じている。だがその台本によると、彼女は「苦難の乙女」役だった。そのフレーズを口にした時、彼女はわずかにため息を漏らした。「2作目を撮っていた時、ある人がディクソンにこう言ったんです。『君らは変わってるね。せっかく海外からエキゾチックな女優を呼んでいるのに、どうして他の女優と同じような役をやらせるんだ? もう少しクリエイティブになってみたらどうなんだ?』。それに対して、彼らはこう返したんです」。ヨーは鈍臭そうな男性の低い声を真似てこう言った。「ふーん、面白いね。そっか、ちょっと考えてみるよ」。わずかな沈黙を挟んで、彼女はこう続けた。「そういう男性っていますよね」
問題はいかにも乙女チックなキャラクター以外に、ヨーにどういった役をやらせるべきなのかということだった。広東語がほとんど話せないという事実は、彼女にとって足枷となっていた。「当時の私は漢字も読めませんでした」と彼女は話す。「でも、それはあまり問題じゃなかった。当時はれっきとした台本自体が存在しなかったので」。ディクソンが興味を持つきっかけだった彼女のエキゾチックな美貌は、お隣に住むお姉さん的な役には向いていなかった。「見た目からして違っていた私は、はっきり言って浮いていました。当時の香港映画といえば、アクション、コメディ、アクション・コメディ、少しコメディ要素のあるアクション、あるいは少しアクション要素のあるコメディみたいなものが多かった。見た目も雰囲気も特徴的な私は、当時のそういう映画にフィットしなかったんです」
ヨーが撮影現場で特に興味を持ったこと、それはアクションのシーンだった。香港映画の代名詞のひとつである、派手なアクションや格闘シーンでのスタントマンの仕事を見るうちに、彼女はパンチやキックのリズム感を掴んでいった。「ダンスの振付師を見ているような感覚でした」と彼女は話す。「シーンのバックで流れている音楽が聞こえてくるような感じ。ボン、ボン、ボンというふうに」。彼女はワルツのようなリズムを口ずさみ、ビートに合わせてジャブを打つかのように腕を動かし始めた。「これだ、そう思ったんです」
また、会社が用意してくれた彼女の住まいのアパートの向かいにはジムがあった。スタントコーディネーターやアクション映画の端役(スターたちと拳を交える下っ端や悪党、暴漢を演じる人々)は、皆そこで頻繁にトレーニングをしていた。しばらくして、彼女はそのうちの何人かに手ほどきを頼むようになった。「中にはスタントマンじゃなくて、本物の格闘家もいました」と彼女は話す。「いつも悪役を務めている、俳優でもあるスタントマンの人に『手加減なしで思いっきりやってみてください』って言われて、私がこんな感じで(腕を大きく動かし、開いた手のひらを素早くひねって内側に向ける)打とうとすると、彼はそれを受け止めました。反撃はせず、ただ受け止めたんです。私の腕には激痛が走りました、まるで鋼鉄に手を打ちつけたかのように」
それでも怯むことなくトレーニングを続けたヨーの脇腹には、勲章としての青あざが増えていった。周囲の人々は彼女を仲間として認め、徐々にではあったが、彼女に敬意を払うようになっていった。1985年作『レディ・ハード 香港大捜査線』の監督ユエン・クウェイが撮影現場を訪れた時、彼はアクション映画を撮るのを楽しみにしている様子だった。「でもこう言われたんです。『ミスマレーシアなんて必要ないだろう。彼女にポーズをひとつだけ教えてやってくれたら、あとはこっちで何とかする』。彼らは壁を使ったダブルフリップを難なくこなす、優れたスタントマンを用意していました。彼は手本を見せてくれましたが、一瞬のことで私はまるで理解できませんでした。こんなの無理だと思いましたが、私には失うものはありませんでした。失敗して無様に顔面から着地するかもしれないけれど、私が本気だということを伝えたかったんです。私が『できない』と絶対に口にしないことを、彼らは悟ったようでした。私はいろんなことを、素早く身につけていきました。負傷するたびに涙を流しているようでは、この世界では生きていけません。スタントマンの方々がそうしてきたように、身をもって学ぶしかないんです」
ヨーは以降の数年間で香港映画界のトップスターの座に上り詰めたが、1988年にディクソンと結婚し、家庭を築くため女優業を引退すると発表したものの、2人は1992年に離婚する(その後も友人同士として良好な関係を継続)。彼女の銀幕復帰作であり、ジャッキー・チェンとのW主演となった『ポリス・ストーリー3』での豪快なバイクスタントのシーンは、ヨーをアクション映画界のスターの座に押し上げた。以降の5年間、彼女の活躍ぶりはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。それだけに、すべてのスタントを自分自身でこなす移民の女性が中国映画界のスターになる過程を描く『スタントウーマン 夢の破片』が、ヨーの快進撃に歯止めをかけてしまったことは皮肉だった。歩道橋の上から走行中のトラックのマットレスに上に飛び移るシーンで着地に失敗したヨーは、肋骨および椎骨の骨折で入院することになる。それはバレエダンサーの夢を諦めるきっかけになった怪我よりもはるかに深刻であり、彼女は映画界からの引退を真剣に考えた。しかしヨーの療養中に、彼女のフィルモグラフィーを返却するという名目でクエンティン・タランティーノが見舞いにやってきた時に、彼女は女優を続けることを決意したという。1997年公開の007映画『トゥモロー・ネバー・ダイ』の出演オファーが舞い込んだ時には、彼女は完全復活の準備を整えていた。格闘シーンを自らこなすことは許可されたものの、スタントはプロにやらせるという条件を提示されたが、彼女に異論はなかった。
その時から始まったキャリアの新章のテーマについて、ヨーは「演技の追求」だと話している。決して90年代半ばの格闘シーン満載の映画や、大迫力でスリル満点の大ヒット作での演技を軽んじているわけではない。「あなたは以前、私がアクション女優に転身した理由について、それが自身の意思に基づいていたのか、それともこの世界で生き残るための選択だったのかと訊ねましたよね」と彼女は話す。「既に触れましたが、私は中国語があまり話せなかったものの、ボディランゲージと体の動きを読み取るのは得意でした。まだ22歳で短絡的だった私は、走ったり何かに飛び移ったり、スタントに専念していればあまり話す必要がないだろうと考えたんです。要するに刑事役ですよね。バン! ドン! バン! そういう明快なものなら自分にもできるだろうって」
ヨーはこう続ける。「でも『グリーン・デスティニー』のオファーが来た頃、自分には何かが足りないと感じて。とてもフィジカルな役柄ではありましたが、それだけじゃなかったんです」。アン・リーが監督を務めた、クロスオーバーでポエティックな2000年公開の同作での役を演じるには、彼女の10年以上に及ぶアクションスターとしての経験だけでは不十分だった。同作は剣術や綱渡りをフィーチャーしたオールドスクールな武侠ものではあったが、登場人物の心理面の描写も魅力のひとつだった。振り返ってみると、同作への出演が大きな転機となったと彼女は話す。同作での彼女の演技、特にチョウ・ユンファとのドラマチックなシーンは、女優としてヨーが新たなレベルに達したことを如実に物語っていた。リーの助言に従って、彼女はそれ以降演じるキャラクターに関する覚書のようなものを書くようになった。ヨーは既に世界的スターとして認知されていたが、その頃から彼女は自分を女優として捉えることができるようになった。「もう少し後になってからは、『このキャラクターがどうやって生計を立てているのかはわかる。でも、この人物は何を求めているんだろう?』というところまで考えられるようになったんです」
以降の20年間で、ヨーは演技の幅を大きく広げてみせた。芸者の品格の独自解釈『SAYURI(Memoirs Of A Geisha)』、脳を直に刺激するようなSF『サンシャイン 2057』、子供向けのアニメーション映画『カンフー・パンダ』、アクション超大作『ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝』、伝記映画(『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』)、ロマンスコメディ(『ラスト・クリスマス』)、TVシリーズ(『マルコ・ポーロ:百の眼』)、そして痛快なバトルシーンが魅力のアクション映画の数々など、彼女は女優としての存在感をさらに増していった。大ヒットを記録した『クレイジー・リッチ!』での「あなたじゃ役不足なの」というセリフに、背筋が凍るような恐怖を覚えた視聴者も多いだろう。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』『シャン・チー/テン・リングスの伝説』のマーベル映画2作への出演も記憶に新しい。『スタートレック:ディスカバリー』で重要な役を見事に演じた彼女は、制作が長引いているジェームズ・キャメロンの2009年作『アバター』の続編4作品に出演することが決定している。彼女が演じたことのない役柄といえば、大都市のチャイナタウンに住む普通の女性というキャラクターくらいのものだった。だがそれも、指がホットドッグになった人間が登場する脚本に出会う前までの話だ。
エヴリンという女性を偏見なしに描くこと
取材終了前に、ヨーはエヴリン・ワンの歩き方を見せてくれた。彼女の歩き方は、19世紀の中国の農夫や皇族のようでもなければ、宇宙船の乗組員またはエイリアン、あるいは詠春拳の達人のようでもなかった。デモンストレーションのために、彼女は立ち上がる必要さえなかった。「エヴリンは途方もなく疲れていると思うんです」と彼女は話す。「多くの女性がそうであるように、彼女は多くのストレスを抱え、家族と子供たちを守るために身を粉にして働いているので」。最初は釣竿のようにピンと伸びていた彼女の背中は、徐々に折れ曲がっていく。肩が下がり、腕さえも重そうで、まるで世界の運命が自分の背中にのしかかっていると言わんばかりに、ヨーは席についたまま体をよじるような動きをしてみせた。輝きを徐々に失っていく瞳は遠くを眺めているようでありながら、実際にはぼんやりとした自身の内側を見つめているのかもしれない。だが次の瞬間、その目には生気が宿り、表情がパッと輝いたかと思うと、彼女は子供のように手を叩いた。注文したスパイシーマルガリータがようやく届いたのだ。
クワンやシャイナートと初めて会った時、ヨーは2人の脚本を気に入ったことと、その役を演じるつもりがあることを伝えた上で、ひとつだけ条件を提示した。「主役のキャラクターは、元々ミシェルという名前だったんだ」とクワンは話す。「他の名前にするっていうのが出演の条件で、僕らはそれに応じた」
ヨーはそれが事実であることを認めている。「劇中で誰かがミシェルって口にするたびに、スクリーンには私の姿が写るわけだけど、それって水を差すんじゃないかと思ったんです。ミシェル・ワンとしてのミシェル・ヨー、ミシェル・ヨーが演じるミシェル・ワン……みたいな」。筆者は自分が劇場で着席していて、劇中で誰かが「ミシェル」と叫んだ時の様子を思い浮かべた。客席を見渡せば、観客はこう言わんばかりの表情を浮かべていることだろう。「ミシェル・ヨーってこんなに歳食ってたっけ?」
彼女は思いきり笑った後で、単に自意識過剰で名前を変えるように頼んだわけではないことを強調した(マルチバースのひとつでは、エヴリンは世界的なアクション映画のスーパースターだが、ヨーが現実の世界でレッドカーペットを歩いた時の映像を用いているわけではなく、彼女は大いにドレスアップしてそのシーンの撮影に臨んだ。ウォン・カーウァイの映画でグラマラスなセレブレティとして描かれるヨーの姿を思い描いたことがあるファンにしてみれば、それは想像が現実になった瞬間だったはずだ)。エヴリンのように毎日を生きるのに必死になっている女性たちを讃えること、それが彼女の目的だった。クレイジーなシナリオや奇想天外な展開、あるいは「香港映画の黄金期を追体験しているような気分になれる」規格外の格闘シーンも厭わなかった彼女が何よりもこだわったこと、それはエヴリンという女性を偏見なしに描くことだった。
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左からステファニー・スー、ミシェル・ヨー、キー・ホイ・クァン (c)2022 A24 Distribution, LLC. All Rights Reserved.
「そのためには、より明確に区別できたほうがいいと思ったんです」。そう言って、彼女はカクテルを多めに口に含んだ。「この世界に生きる人々は甘やかされがちです。世間から注目されることに慣れているから」。彼女はフラッシュを焚く音を真似たり、リムジンから出てきてファンに向かって手を振る仕草をした。「私は日常的に体を鍛えています。エヴリンにとってのそれは、近所のスーパーで食材を買ってきて、それを持ったまま階段を上ることです。彼女には美容室に行き、ハイライトか何かを入れるような時間もお金もありません。彼女が身につけているウィッグは、髪のことを気にする余裕がないというステートメントです。私たちの衣装デザイナーは、チャイナタウンで2ドルで売っている服をたくさん買ってきました。エヴリンが着ているのはそういう服だから。彼女が着ている赤や深紅は、中国では幸運の色とされているんです。エヴリンならきっと、そういう色の服ばかりを選ぶと思うんです」。ヨーはカクテルを再び口にした後で、冗談混じりにこう言った。「ミシェルなら、ああいう色を着て人前には出ないでしょうから!」
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で、気鋭の新進女優や少林寺拳法の使い手、指の長い進化した恋人、ピニャータエヴリン(意味を訊ねたら負け)など、様々な役を演じるのを楽しみにしていた一方で、何よりもヨーを惹きつけたのはごく普通のエヴリンだった。超人的な女性キャラクターなら、彼女のIMDbのページにいくらでもリストアップされている。語られることのないごく平凡な女性、それこそがヨーがまだ演じたことのない役だった。
「当初の脚本では、ジャッキー(・チェン)が主役として想定されていたんです」と彼女は明かす。「キー(・ホイ・クァン)が演じた役、あれは元々ジャッキーを意識していたんです。私は彼のことを尊敬していますし、彼はこういうコミカルな役も得意です。でも、彼は過去にそういう役を何度も演じていますから。私は誰も観たことがないような作品に携わりたかった。彼ら(ダニエルズの2人)が修正を加えた後の脚本を読んで、これなら絶対にやりたいと思ったんです」
「それは自分のキャリアのためだけではありませんでした」とヨーは続ける。「私は自分が途方もなく幸運であることを自覚しています。運命が導いてくれるなんて、私は信じません。何かを掴むには努力しなくてはならず、努力すればするほど幸運が舞い込んでくるんです。幸運を味方につければ、チャンスは自ずと訪れます。努力しない人のところには、機会は回ってきません。その一方で、必死で頑張ったにも関わらず、チャンスに恵まれない人もいます。エヴリンは、それを形にする機会をようやく手にしたんです。無数の宇宙が存在するなかで、彼女はある特定の宇宙に生きている。それがどれだけ素晴らしいかということを、私は彼女に気づかせるお手伝いをしたと思っているんです」
From Rolling Stone US.
映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(略称:エブエブ)
大ヒット公開中!
監督:ダニエル・クワン ダニエル・シャイナート『スイス・アーミー・マン』
出演:ミシェル・ヨー、キー・ホイ・クァン、ステファニー・スー、ジェイミー・リー・カーティス
(c) 2022 A24 Distribution, LLC. All Rights Reserved.
配給:ギャガ
公式サイト:https://gaga.ne.jp/eeaao/
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