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マイケル・マクドナルドが語る、ドゥービー・ブラザーズ来日と知られざる音楽遍歴

Rolling Stone Japan / 2023年3月24日 17時30分

マイケル・マクドナルド(Photo by Frazer Harrison/Getty Images for iHeartMedia)

メンバーにマイケル・マクドナルドが復帰、結成50周年記念ツアーを続けてきたドゥービー・ブラザーズが、いよいよ4月15日〜27日にかけて日本に上陸する。1971年のデビューから70年代半ばまでの中心人物だったトム・ジョンストンと、二代目フロントマンして最初の解散(1982年)までバンドを支えたマイケル・マクドナルド、ふたりの”主役”が揃って日本を回るのは今回が初めて。それぞれの時代の名曲をありったけ詰め込んだ超強力なセットリストが何よりの売りだ。

トム・ジョンストン在籍期には、ドライブ感溢れるロックンロールに、R&Bのリズム、フォーク・ロックのハーモニーを掛け合わせた爽快なサウンドで「Listen To The Music」「Long Train Runnin」「China Grove」などヒット曲を連発。一方、スティーリー・ダンで共にプレイしていたジェフ・バクスターの推薦で抜擢されたマイケル・マクドナルドは、R&Bやゴスペルの影響が色濃いキーボード奏者/シンガーで、トム・ジョンストンのカラーとは異なる根っからのソウルマンであった。彼の加入によってバンドの音楽性が変わるのは当然で、次第にシンセサイザーの出番も増え、初期とは別物の洗練されたサウンドへと急速に進化を遂げていった。

ドゥービーズ解散後、ソロ歌手として確固たるキャリアを築いてきたマイケル・マクドナルドは、バンドの再結成には参加せず、時折ゲスト的に協力する立場をとってきた。ここにきて復帰することに決めたのは、2020年にドゥービーズがロックの殿堂入りを果たしたことも流れとして大きそうだ。ツアーの状況から、過去の知られざるエピソードまで、マイケルが珍しく饒舌に語ってくれた最新インタビューをお届けしよう。



―家族想いでツアーを好かないイメージがあるあなたが、こうしてドゥービー・ブラザーズとツアーに出ていることは嬉しい驚きです。どのような心境の変化から参加することに決めたのでしょう。50周年ツアーという機会がいいタイミングだと感じたのでしょうか?

マイケル:ああ、そういうことさ。それに日本に行けるという特別な楽しみもあった。ドゥービーズは過去に何度も日本ツアーを行なっているからね。



―コロナ禍で日程に影響が出たこともあって、かなり長いツアーになりましたね。

マイケル:ああ、コロナの影響はあったものの、もう2年近くになるが、とても楽しいよ。自転車と同じで、彼らとは久しぶりに会ってもすぐに昔の感覚を取り戻せる。これまでも折々、さまざまな機会にバンドに参加してやってきたし、友人としてはずっと連絡を取り合ってきた。だから連絡が途絶えたことはなかったんだが、こうやってバンドの一員として、彼らの数ある曲を演奏するのは久しぶりだ。彼らとは再会して一緒にプレイするたびに、僕がいなくなった後に曲が遂げた進化に驚かされてきた。まるで酔っぱらいがステージの上で「この曲はどういう曲だったんだっけな?」と訳がわからずにウロウロしてるみたいな気にさせられてたんだ。それくらいアレンジが新しくなっている。でも今回はバンドとリハーサルにも時間をかけたので、今のバンドで演奏される曲をちゃんと把握して取り組めているよ。

―実際に演奏してみて、新鮮な気分でプレイできたのはどの曲でしたか?

マイケル:在籍当時に好きだった曲は、今も変わらずお気に入りだ。「Long Train Runnin」はその一つだが、これまでの数十年で随分とアレンジも変わり、昔よりも長くなった。やってて前以上に楽しいよ。数年前にナッシュヴィルで見た時、新しいアレンジに感心したのを覚えている。だからそのアレンジでやれるのは嬉しいね。「Black Water」も昔から好きな1曲だ。あと、僕が書いた曲をバンドが演奏するのを聴くのはいつも特別な気持ちにさせられる。何年にもわたって、自分自身のバンドでも演奏していても、ドゥービーのやり方で演奏されるのが未だに好きなんだ。アレンジ、そして曲へのアプローチという意味でもね。



ブレイク前夜の音楽活動、スティーリー・ダンとの出会い

―さて、ここからは昔の話をさせてください。あなたがまだ地元のセントルイスにいた頃、1968年に録音したThe Delraysの「(Theres) Always Something There To Remind Me」を最近改めて聴き直して、基本的な歌い方の変わらなさに驚きました。あのようにソウルフルな歌い方は、あなたが10代の頃にもう出来上がっていたんですね。

マイケル:(笑)ああ、あれをレコーディングした時は15歳だったんじゃないかな。僕らはセントルイスを中心に演奏するバンドで、小さな地元レーベルに所属していたが、そこがメンフィスのスタックス/ヴォルト・レコーズの子会社だったんだ。それでスティーヴ・クロッパー(ブッカー・T&ザ・MGズのギタリスト)がホーンのアレンジをしてくれて、ホーン・セクションだけメンフィスで録音し、そのテープを送ってくれたので、エグゼクティブ・プロデューサーとして彼の名前がクレジットされたのさ。僕らとしては、シングルにメンフィス・ホーンズとスティーヴ・クロッパーが関わってくれたっていうだけで、大喜びだったよ。



―「若い頃にマイケル・マクドナルドというミュージシャンの基礎を作った曲」を、いくつか思いつくままに挙げてみてもらえますか?

マイケル:レイ・チャールズのアルバムならどれでも。10歳の頃に初めて聴いて以来、熱烈なレイ・チャールズ・ファンだったからね。あと、初めて聴いた瞬間、自分の中で「もっとR&Bをやろう」と決意するきっかけになった一曲がある。セントルイスでガレージ・バンドをやっていた14歳ぐらいの頃だ。当時はブリティッシュ・インヴェイジョンの真っ只中だったから、当然ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ゾンビーズ、キンクスなどを演奏してたんだけど、ある日、姉が車のカーラジオで音楽を大音量で流しながら帰ってきたんだよ。それがエドウィン・スターの「Stop Her On Sight (SOS)」(1966年)だった。車道から家へと姉の車が入ってきた時、聴こえてきたあの曲にピンときたんだ、「こういう曲をやりたいな」と。つまりは、自分達がそれまでやっていた音楽よりも、もっと洗練されたリズムのアプローチをしたR&Bがやりたい、とその瞬間に思ったんだ。



―ジャズのコード進行はどうやって身に付けたんですか?

マイケル:不思議とジャズを熱心に聴いたことはなかった。60代、70代になった今が、人生で一番ジャズを聴いている。もちろんどんな音楽もある程度は知っていたが、子供の頃はレコードプレイヤーを持ってなかったんだ。バンドに入ってツアーをするようになっても、僕が音楽を聴くのはもっぱら自分以外の誰かの家でだった。ツアー先では知り合いや友人の家の床に寝泊まりさせてもらってたんで、一晩中起きて皆で音楽を聴いたりしていた。ちゃんと自分でレコードを聴く環境を整えないままだったから、初めてステレオを買ったのはドゥービー・ブラザーズに加入した後だったよ。

それまではもっぱら叔母の家にある彼女のレコード・コレクションから聴かせてもらってた。叔母は母より年がずっと下だったので、当時としては新しめのレコードがいっぱいあったんだ。レイ・チャールズも、初期のビートルズも彼女のところで聴いたよ。その後、バンドで中西部のカレッジタウンをツアーするようになると、さっき話したように地元に住む誰かの家に泊まらせてもらってた。ライブの後は大抵パーティになるのがお決まりだったんで、自分でレコードを買わなくても、いろんな音楽を耳にできたんだ。それがかえってよかったんだと思う。周りが聴いている音楽に影響を受け、何が新しくて面白い音楽なのかということを人から教えてもらえたからね。でもジャズはあまり聴いていなかったよ。ジャズのコード進行を学んだのは、子供の頃、遠巻きに聴いていたラグタイムからかもしれない。父が初期のトラディショナルなジャズやラグタイムのアーティストの曲をよく歌っていたんだよ。

―あなたがリック・ジャラード(ニルソンなどのプロデューサー)と最初に録音したソロ名義のセッションと、スティーリー・ダンとの活動を経てドゥービー・ブラザーズに加入した後の曲を聴き比べると、後者は使うコードの種類も豊富になり、ずっと洗練された感じを受けます。ほんの数年の間に、あなたの中でどのような音楽的変化があったのでしょう?

マイケル:君たちには何も隠せないようだね(笑)。どうだったかと言うと……僕がカリフォルニアに出てきた頃は、トム・ジョーンズとバート・バカラックを足したような人になりたいと思っていた。だからやっていた音楽もその辺の影響があったと思う。リック・ジャラードとは、彼が手がけていた他のアーティストのセッションに雇われ、LAのレコーディング・シーンに知り合いが増えていった。それからクラブに出るようになり、どんな音楽が流行っているのかを知ったんだ。当時でいうダンス・ミュージックさ。ダンスと言っても今のDJやディスコではなくて――当時もディスコとは呼んでたが――ライブ・バンドが生演奏し、それに合わせて人が踊る。タワー・オブ・パワー、スティーヴィー・ワンダー、WAR、ルーファス……といった音楽だ。それをきっかけに、僕自身、よりリズミックなアプローチに変化していったんだと思う。


リック・ジャラードがプロデュースした「A Good Old Time Love Song」(1973年)

―スティーリー・ダンとの仕事を通して、彼らのどんなところから影響を受けましたか?

マイケル:彼らからは、仕事をする以前から大きな影響を受けていたよ。さっき話したクラブで仕事をしていた頃、サウスLAのどこかでだが、誰もが昼間はセッション仕事や、LAで生計を立てるために仕事をして、夜はクラブに出演するというぐあいだった。僕もツアーバンドのオーディションを受けたり、セッションをやったり……そんな時にあるディスコの仕事で一緒だったドラマーのボビー・フィガロア――彼はライチャス・ブラザーズやビーチ・ボーイズともやってた素晴らしいドラマーでシンガーだが――スティーリー・ダンのオーディションを受けると聞いたんだ。羨ましかったよ! 当時の新人バンドの中ではかなりお気に入りだったからね。

それから約1年後、ジェフ・ポーカロから連絡があり、そのスティーリー・ダンのオーディションにこないかと言われた。「いつ行けばいい?」「今はどうだ?」……それで、すぐに車にピアノを積んで向かったんだが、そのオーディションがそのままリハーサルになった。僕が選ばれたのは、ピアノの腕というよりは、高音域をかなり力強い地声で歌えるのが気に入ってもらえたようだ。もちろん、ドナルド(・フェイゲン)のパートを補うキーボードを弾けたので、バックだけでなくメロディラインもいくつか任されたりして、まさに夢が叶ったという感じだった。まさか自分にその仕事が回ってくるとは思ってもみなかったし、それがきっかけというか――ジェフ・バクスターとのつながりで、ドゥービー・ブラザーズに入ることにもなったわけだよ。




「What A Fool Believes」とゴスペルの影響

―ドゥービー・ブラザーズに加入してから最初のヒット曲「Takin It To The Streets」は、ゴスペルを最新のサウンドでアップデートした感じが新鮮でした。のちにあなたはワイナンズとも共演しますが、ゴスペルから受けた影響は小さくないのでは?

マイケル:ああ、カリフォルニアに移る直前、まだセントルイスに住んでいた頃――そしてカリフォルニアに移ってからも、セントルイスに帰郷すると一緒に演奏していたのがマイケル・オハラだ。彼はクワイアがものすごい教会で音楽監督を務めていた人の息子で、キーボード奏者としても作曲家としても才能があるやつだった。マイケルはセキュラー・ミュージック(ゴスペルではない世俗的な音楽)のバンドも兄弟のリオンとやってて、僕はそのバンドの一員だったんだ。彼らからゴスペルを聴かされ、僕も知るようになった。

もっと遡るなら……子供の頃、学校から帰ってくると枕の下にラジオを忍ばせておき、夜中母親に見つからないように聴いてたんだ。なぜか夜になると電波が遠くまで届くらしく、ナッシュヴィルのラジオ局がセントルイスでも聴けたんだよ。日曜の夜はゴスペル・アワーと言って、ナッシュヴィル各地の教会でのゴスペル・パフォーマンスを録音したものを流していた。実にパワフルでエモーショナルな歌声だった。僕にとっては、パッションやパワーやダイナミクスという意味では、ゴスペルはロックンロール以上だった。ロックンロールは大好きで何年も演奏したが、R&B、そして特にゴスペルこそ、アメリカン・ミュージックの真のエネルギーの核だと思える。あとジャズも。



―ドゥービーの名曲、「What A Fool Believes」は、ヴァースとコーラスのほとんどをあなたが先に書いていて、メロディを仕上げるのをケニー・ロギンスが手伝った、とケニーは発言しています。どんな風にあの曲を思いついて、完成に至ったのかを教えてもらえますか?

マイケル:ああ。というか、あの曲を完成することができた唯一の理由はケニー・ロギンスさ。随分前から、最初のヴァース――シンコペートするあのキーボードのヴァースさ――だけが書けていて、テッド・テンプルマン(プロデューサー)にも聞かせたことがあった。テッドからは「すごく良いから完成させなきゃダメだ」と言われ、「わかった、完成させるよ」と答えたものの、結局は完成させられずにいたんだ。ある時、ケニーと曲を書く予定で彼が家に来ることになっていた。その時、妹もいたので曲を聴かせたんだよ。彼女からはあまりいい反応は帰ってこなかったが、その時家のベルが鳴り、ドアを開けるとケニーが立っていた。ギターを部屋に入れるのを手伝おうとすると、開口一番ケニーが言うんだ。「今ピアノで弾いてたのは何? 新曲か?」「ああ、君に聴かせようと思ってたとこさ」「よし、じゃあまずあの曲からやりたい。というか、ドア越しに聴きながら、ブリッジの部分をもう書いたよ」と言うんだ。♪She had a place in his life~の部分さ。そして、それからの数日間で曲は完成してしまったんだ。



―その「What A Fool Believes」で聴ける、ピアノとシンセサイザーを組み合わせたアレンジメントは、シンセを単にストリングスの代用としてのみ使うのではなく、リズム楽器としてピアノと組み合わせ、レイヤーを重ねていく感じが画期的だったと思います。あの手法は、どのようにできていったのですか?

マイケル:あの曲ではリトル・フィートのビル・ペインに助けてもらったよ。僕はシンセのプログラミングが苦手すぎることで有名でね(苦笑)。あまりに時間がかかるんで、「もう辞める!」とエンジニアに何度か脅されたほどだ。時間がかかる上に、間違ってボタンを押し、それまでやったことを全部パーにして、大いに呆れられた! だからもしシンセを入れていいなら、ビル・ペインにプログラミングしてもらうと約束して、ビリーにオーバーハイムのプログラミングをお願いしたんだ。パートがわかっているのは僕なので、自分で演奏はしたが、あのサウンドをプロミングしてくれたビルの力がものすごく大きかった。

―そうなんですね。あの曲のシンコぺートするピアノは、日本中のアレンジャーが一時期死ぬほど真似しました。おかげで日本のポップスがかなり洗練されたと思います。

マイケル:それは嬉しいね。僕にしたって、あれはゴスペル音楽を真似してたわけだからさ。「Minute By Minute」もそう。ああいった曲の、シンコペーションを効かせたフィーリングはゴスペルからの影響だと言っていい。



―あなたは、その「What A Fool Believes」をカバーしたアレサ・フランクリンや、レイ・チャールズ、パティ・ラベル、ジェームス・イングラムなど、数多くの優れたソウル・シンガーたちと共演してきた稀有な存在でもありますよね。中でも強く印象に残っているのは誰ですか?

マイケル:今、名前があがった人たちはもちろんだが、他にも大勢いる。パティ(・ラベル)はもちろんだし、ウェンディ・モートンも大好きなボーカリストの一人だ。妻であるエイミー(・ホーランド)と歌うのも大好きだ。彼女の1st アルバムを一緒にプロデュースしたのは、友人でゴスペル(キーボード奏者)のパトリック・ヘンダーソンだ。エイミーとやる時は大抵曲も共作している。彼女のアリソン・クラウスのようにきれいな声と、その正反対の僕の声を組み合わせるのが楽しいんだ。両者をうまく活かせる楽曲を探し、やり方を探っていつもやってきた。あと、僕が「こういう声に生まれたかった」と思う声の持ち主、ジェームス・イングラムなど。大勢いるよ。




サンダーキャットとの邂逅、ドゥービーが長く愛され続ける理由

―あなたはサンダーキャット、グリズリー・ベアなど、若手の優れたミュージシャンたちとも積極的に共演してきましたよね。彼らとの作業から、どんな刺激を受けましたか?

マイケル:とてもいい刺激をもらったよ。タイミング的にも実に良かった。人って年をとってくると、どんな活動を行なっていた者も……僕の場合はミュージシャンな訳だが、自分にはこのまま続ける価値があるんだろうか?と自問するようになるものなんだ。だから彼らのような若い連中に「曲に参加してほしい」と声をかけられるのは、とても嬉しかった。しかも一緒にやってみて、共通点が多くあることに気づかされた。サンダーキャットを紹介してくれたのはケニー・ロギンスだったが、スティーヴン(・ブルーナー、サンダーキャットの本名)の音楽は初めて聴いた瞬間から、すぐに共感することができた。彼のやりたいことがわかったし、ハーモニーやメロディのセンスを感じた。何より、その頃聴こえてきたどんな音楽とも違う、自分だけの世界を持っている点に惹かれたんだ。

スティーヴン・ブルーナーが面白いのは、コンピューターの世界の中で音楽を作ってしまう点だ。彼が使ってるプログラム名はど忘れしてしまったが……空港の待合室に座ってフライトを待つ間も、彼は音楽を作ってる可能性が大きいよ。そうやって彼の曲は生まれるのに、それをリズム・セクションを伴ってライブで演奏するとなると、全く違うアンビエンスやフィーリングとパワーを持つものに生まれ変わるんだ。彼とは何度か一緒にライブをしたが、彼の曲はライブで演奏されるべくして作られた曲なのだとわかったよ。レコードでも好きだったが、ライブで聴いてぶっ飛んだ。特にライブで、腕の立つミュージシャンらによって演奏される時に曲が生み出すパワーはすごい。彼のライブは100%生音だ。テンポも何もかもドラマーが実際に叩き、コンピューターは一切使ってない。それでいて物凄いパワフルなんだよ。



―人種の壁を超えた、音楽的に幅広くアメリカン・ミュージックを総合したドゥービー・ブラザーズの作品は、とても先進的だったと思います。それゆえに、今でもこれだけ多くの人々に愛されていると思うのですが。あなた自身は、ドゥービーズの人気が続いていることについて、どのように見ていますか?

マイケル:一言では言えないが……何事にも浮き沈みはあるわけで。80年代に台頭してきた新しい音楽によって、ロック・メンタリティが復活する中、ドゥービーズには冷ややかな目が向けられた時期があった。実際、”ヨット・ロック”という称号を獲得したわけだがね(苦笑)。そういう意味じゃ、あの時期は人気も下火というか、波の低いところを漂っていた。ところが90年代後半以降、また僕らの音楽が聴かれるようになり、新しいオーディエンスもつくようになった。それってどういうことなのか、よく考えたりしたよ。

以前、移動中のDoobie Liner(自家用ジェット)の中で、パット・シモンズと「30年代、40年代にコール・ポーターやアーヴィング・バーリンが書いていたような音楽が、また流行し、聴ける日が来るんだろうか?」という話をしたことがあった。ところが、その会話の1年後、リンダ・ロンシュタットがネルソン・リドルとのアルバム(『Whats New』)を大ヒットさせた。同じことが、僕らの70年代のアルバムにも言えたのかもしれない。ジェイムス・テイラーなどと並んで、ドゥービーのアルバムもナンバーワンを獲得し、人気を博したが、80年代に入ってから僕らは成功からは遠いところにいた。でもそこから盛り返してまた人気が復活してきたようだが、またいつ支持を失うかもしれない。少なくとも、僕らがやってきたことは誰かには聴かれているし、意味があるようで……それで十分だとありがたく受け止めている。

70代という自分達の年齢を考えると、今回っている会場の規模でこの齢までやり続けていられるなんて、若い頃には夢にも思っていなかった。オーディエンスを前にして、今もこうやって演奏ができることを、僕もバンドもとても喜んでいるし、感謝している。これは僕だけじゃなく、バンド全員の気持ちだよ。


ドゥービー・ブラザーズの最新作『Liberté』(2021年)収録の「Better Days」



The Doobie Brothers 50th Anniversary Tour
2023年4月15日(土)盛岡・岩手県民会館
2023年4月17日(月)東京・日本武道館
2023年4月18日(火)パシフィコ横浜 国立大ホール
2023年4月20日(木)名古屋・日本特殊陶業市民会館 フォレストホール
2023年4月22日(土)金沢歌劇座
2023年4月24日(月)、25日(火)大阪・フェスティバルホール
2023年4月27日(木)広島上野学園ホール
公式ページ:https://udo.jp/concert/DoobieBros23



ドゥービー・ブラザーズ
紙ジャケット・コレクション~MQA-CD/UHQCDエディション
(完全生産限定盤)
全10作品/2023年4月5日発売/各税込3,000円
解説・歌詞・対訳付/全作品ハイレゾCD(MQA-CD/UHQCD)仕様
詳細:https://wmg.jp/doobiebros/news/88488/
購入:https://warnermusicjapan.lnk.to/DB_10albums

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