ジャクソン・ブラウン来日取材 亡き盟友への想い、ウクライナ情勢、ニコとザ・フーを巡る秘話
Rolling Stone Japan / 2023年3月27日 17時0分
3月20日の大阪からジャパン・ツアーが開幕、広島、名古屋を回って残るは東京公演のみとなったジャクソン・ブラウン(Jackson Browne)。続くインタビューはツアー初日の前週に東京で行なったもの。話は突如リリースされたブレイク・ミルズらとの共作曲から始まり、交流が続くフィービー・ブリジャーズ、相次いで亡くなった盟友、ジェフ・ヤングとデヴィッド・リンドレーへの想い、ウクライナ情勢、そして現在進行中のプロジェクトについてと多岐に及んだ。
今年で75歳になるジャクソンだが、好奇心旺盛で若い友人たちの話になると目が輝く。会話している間もスマホで素早く検索してあれこれ確認、感性の若さが所作から伝わってくる。前夜まで追悼する文章を悩みながら書いていたというデヴィッド・リンドレーや、長い間活動を共にしたジェフ・ヤングについては、さすがに話しながらしんみりする場面もあったが、残された側として彼らの貢献を語り継いでいこうという強い意志が感じられた。
ツアー初日の大阪公演にて(Photo by KAZUKI WATANABE)
ジャクソン:(テーブルに置いたLPの中から『愛の使者(Lawyers In Love)』のジャケットに手を伸ばして)これを見せてもらってもいいかい? 裏に当時のメンバーの顔写真が載ってるから見たいんだ。
―どうぞどうぞ。
ジャクソン:(写真を指差しながら)これがラス・カンケル(ドラマー)……これがオルガンのダグ・ヘイウッド……このLPはOBIが付いてるんだな。この下に隠れているボブ・グラウブ(ベーシスト)の顔が見たいよ。
―帯をご存じなんですね……あっ、そんな風に引っ張ったら破けちゃうんで(慌てて帯を外す)。
ジャクソン:ボブはこんなだったか、おかしいね……(当時の髪型を見て苦笑)。
『愛の使者』ジャケット写真(discogsより引用)
―この『愛の使者(Lawyers In Love)』のユニークなジャケットは、誰のアイディアでこうなったんですか?
ジャクソン:僕のアイディアだよ。この自動車は、エンジニアのグレッグ・ラダーニのものなんだ。彼は本当にいいやつで、こういうジャケットにしたいと説明したら興味を示して、気前よく車を貸してくれた。それでどうやってこの写真を撮ったかというと……地面に穴を掘ってメルセデスを途中まで埋めた(笑)。で、周りに水を注いで実際にこの状態にしたってわけ。
―なんてことを……。
ジャクソン:弁護士(Lawyer)が乗りそうな車種にしたかったから、メルセデスはちょうどよかったんだ。以上がこのジャケットの真相。まあ、これは僕のベスト・レコードとは言えないけれど。
―ありがとうございます。今日は、あなたの古い友人たち、新しい友人たちについて、いろいろ質問させてください。近年うれしいのは、あなたが若いミュージシャンたちと積極的に交流していることです。ちょうど今月、ドラマ『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』に提供した曲、「Silver Nail」が公開されたばかりですが、ブレイク・ミルズ、キャス・マックームス、マット・スウィーニーとあの劇中歌を共作することになったいきさつを教えて頂けますか?
ジャクソン:もう公開されてるの!? 全然知らなかった。あの曲がどういう風に仕上がったのか聴かせてもらってすらいないからさ……タワーレコードに買いに行かなくちゃ。君、今そのアルバム持ってる?
―いや、あの曲はデイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスとしてのアルバムには入ってなくて、配信で聴けるようになったところです。どういう経緯であの曲を共作することになったんですか?
ジャクソン:ブレイク・ミルズは仲のいい友達だから。彼から電話で一緒にやりたいと言われて、やってみることにした。僕が手伝ったのは歌詞で、あのドラマのために書いたのは1曲だけ。原作の小説は読んでいたから、まあ内容はだいたい理解していたよ。
ブレイク・ミルズがサイモン・ドーズという、ドーズ(Dawes)の前身に当たるバンドをやっていたことは知ってるよね? 彼はテイラー・ゴールドスミスと、まだ高校生だった10代の頃から共にプレイして腕を磨いてきた。彼らは僕にとてもよくしてくれる、大好きな人たちだよ。
ブレイク・ミルズとはヴァル・マッカラム(ジャクソンのバンドのギタリスト)を通して知り合ったんだ。彼とヴァルはトニー・バーグがプロデュースした作品で一緒にプレイしていた。トニーはサイモン・ドーズのアルバムや、ヴァルのアルバム(2012年の『At The End Of The Day』、ジャクソンもコーラスで参加)、フィービー・ブリジャーズのアルバムも手掛けていて、本当に素晴らしいプロデューサーだと思う。彼らの周辺にあるシーン全体が、僕にとってインスピレーションの源になっているんだ。
ブレイク・ミルズの『Break Mirrors』(2010年)は傑作だったね。彼とはパーティーなんかで何度かセッションしたし、彼のライブも観に行ったりして親しくなった。ブレイクはツアー生活が嫌でサイモン・ドーズから脱退したことがよく知られている。彼のような若いミュージシャンはそういうとき路頭に迷ってしまいがちだが……ブレイクは賢明で、その後裏方としてスタジオワークに力を入れ始めて、瞬く間にプロデューサーとして売れっ子になった。最近はトニー・バーグと一緒にスタジオを構えて活動しているし、とても意欲に満ちた男だと思うよ。
ジャクソン・ブラウンとブレイク・ミルズのセッション動画(2013年)
―そしてフィービー・ブリジャーズとの交流も話題です。すでにビデオや、彼女のシングルで共演してかなり打ち解けたと思うのですが、彼女からはどんな刺激をもらっていますか?
ジャクソン:おお……(ため息)。彼女は僕のフェイバリット。友人でもあるけど、もうすっかり彼女のファンだし、とても刺激を受けている。あまりにも大きな才能の持ち主だ。僕が彼女の作品にこんなに心を動かされるのが何故なのか、言葉で説明するのは難しいけれど…声の抑揚や、歌唱のシンプルさが、ストーリーテリングに深さを与えている気がする。しかも多くのラインを費やせず、ほんの数ラインで、とても説得力のある伝え方ができるんだ。天才的だと思うよ。
フィービーが出演した「My Cleveland Heart」MV
亡くなった盟友たちとの思い出
―続いて旧友たちの話を。2月にキーボード奏者のジェフ・ヤング、3月にデヴィッド・リンドレーと、あなたの作品に深く関わった人々の訃報が続いてご心痛だと思います。彼らはあなたにとってどんな存在の人物/ミュージシャンでしたか。
ジャクソン:ジェフ・ヤングは僕のバンドでとても役に立ってくれる、多才なミュージシャンだった。歴史に名を残すロックンロールのレコード、モータウンのレコードで演奏しているミュージシャンはジャズ出身の人が結構多いが、ジェフも高度な音楽技術を持つジャズミュージシャンとしての基礎がある。彼はシンガーとしても、オルガン奏者、ピアノ奏者としても別格だった。ライブではいつも、オルガンで素晴らしいソロを聴かせてくれた……どんなときもエモーショナルで、とても美しいソロを。ジェフのオルガンは曲にドラマとスケール感をもたらしてくれた。彼は大音量で弾くべきところ、とても静かに弾くべきところを完璧に理解していて、バンド全体のオーケストレイションを司る存在だったよ。
ハモンド・オルガンは僕の音楽にとって重要な楽器であり続けてきた。ジェイ・ウィンディング、マイク・アトリー、ビル・ペイン、ダグ・ヘイウッド……多くのオルガン奏者と組んできたけど、ジェフ・ヤングはそれら過去の楽曲もすっかり昇華して、彼自身のサウンドで表現していたよ。そして彼もデヴィッド・リンドレーも、代えのきかない個性的なミュージシャンだった。ジェフが亡くなってからほんの1週間ほどで、今度はデヴィッドも亡くなってしまって……。
ジェフ・ヤング、ヴァル・マッカラムとの自宅セッション映像(2021年)
ジャクソン:デヴィッド・リンドレーはいつも、僕にとって先生であり、メンターのような存在だった。デヴィッドとレコーディングしたいと思い、ツアーでロンドンへ行ったとき(1971年)に彼と会った。彼がイギリスへ渡ってテリー・リードのバンドでプレイしていた時期にね。僕の姉とデートしていたチェスリー・ミリキンという男がデヴィッドと親しかったので、彼に紹介してもらったんだ。デヴィッドは駆け出しの若いミュージシャンに、とても親切に接してくれたよ。僕にとって、彼が在籍していたカレイドスコープの1stアルバム(『Side Trips』)はとても重要な作品だったから……。
―なるほど。てっきりデヴィッド・リンドレーとは彼がカレイドスコープにいた頃から親しかったのかと思っていました。
ジャクソン:最初は僕が一方的にデヴィッドのことを知っていた。カレイドスコープのファンだったからね。なぜデヴィッドに注目していたかというと……僕が60年代にニッティ・グリッティ・ダート・バンドにいたことは知ってるよね? 僕が脱退してから後任としてバンドに入ったジョン・マッキューエンは、バンジョーからマンドリンまで何でもこなす素晴らしいプレイヤーだ。そのジョンが出場した1966年のトパンガ・バンジョー・フィドル・コンテストで審査員を務めていたのがデヴィッドなんだよ。デヴィッドはそのコンテストで5回も優勝して、あまりにもうますぎるので、まだ20代なのに審査員に選ばれるほどの達人だった(笑)。そんなわけで、ニッティ・グリッティを通してデヴィッドと知り合ってはいたけれど、イギリスへ行く前は近しい間柄というわけでもなかった。
実はロンドンでは、1stアルバム用にレコーディングをしていたんだ。デヴィッドにもお願いしてスタジオに来てもらったが、その日は奇妙なことにプロデューサーのデニー・コーデルがスタジオに現れない。仕方がないから、プロデューサー抜きで少しセッションをしてから、ふたりでスタジオの向かいのパブへ行って酔いつぶれた(笑)。そのときにもう、お互いに「一緒にバンドをやりたいね」と話していたんだよ。
で、ここからは僕のトラウマの話だ(笑)。デニー・コーデルは僕がアサイラム・レコードからデビューすると知っていてプロデュースを引き受けたが、デヴィッド・ゲフィンがアサイラムをなかなか始めないので、そっちで出ないなら自分のシェルター・レコードから僕のアルバムを発売しようと狙っていたようだった。ところが、デヴィッド・ゲフィンがアサイラムを正式に発足させると、デニーはシェルターをレオン・ラッセルと共同経営していた手前、「自分が他社のアサイラムのためにプロデュースをすることはできない」と言い出したんだよ。おかげでロンドンでのセッションは全部お蔵入りして、今ではテープがどこへ行ったのかもわからない。
―それはもったいない……。
ジャクソン:で、アメリカに戻ってから僕は1stアルバムを録り直し、アサイラムから出した。やがてデヴィッドも帰国して、2ndアルバム『フォー・エヴリマン』に参加してもらい、ふたりでツアーに出ることになるんだ。「青春の日々(These Days)」でのデヴィッドの演奏は、ベーシックトラックを聴いてみるとまるでオルガンのように聞こえる。非常に思慮深さが感じられる演奏だ。ピアノはデヴィッド・ぺイチ、ベースはダグ・ヘイウッド、ドラムスはジム・ケルトナー、僕がアコースティック・ギター、そしてデヴィッド……シンプルな編成だね。当時はデヴィッドのようなラップ・スティールの弾き方を、誰も聴いたことがなかった。画期的だったと思う。
「レッド・ネック・フレンド」で彼のプレイを聴いたときのことも記憶に残っている。「これこれ! まさにこれだよ! 最高!」と即座に思った。デヴィッドはソロにせよバッキングにせよ、本当に極上の演奏を提供してくれたね。彼は普通のセッション・プレイヤーとは異質で、やっぱりバンドマンなんだ。今YouTubeで彼と僕がふたりで演奏している動画を見てもらうとわかるけど、デュオでもサウンドはフル……完璧だよ。彼とは一緒にツアーにも出て、特別な関係を築くことができた。
今はデヴィッドと築いたような特別な関係を、グレッグ・リースと築けている。何も言わなくても通じ合える仲だ。グレッグとデヴィッドの大きな違いは、デヴィッドが何度も何度もトライして何かを見つけ出すタイプだったのに対して、グレッグは多種多様なミュージシャンと共演してプロデュースもしてきた人なので、もっと整然としている。しかしデヴィッドがそうだったように、彼も同じ曲を毎回違う風にプレイするんだ。
ニコ、ルー・リード、ザ・フーを巡る秘話
―先ほど「青春の日々(These Days)」の話が出ましたが、写真家のサム・ジョーンズとあなたがあの曲のデモテープを聴きながらニコの話をしている動画を見たことがあります。あの曲が世に出たニコのアルバム『チェルシー・ガール』(1967年)のセッションがどんな風だったか教えてもらえますか? あなたがスタジオで録音した音源としては、最も古いもののひとつですよね。
ジャクソン:ニッティ・グリッティ・ダート・バンドの最初のシングル「バイ・フォー・ミー・ザ・レイン」(1967年)は僕の友人のグレッグ・コープランドとスティーヴ・ヌーナンが書いたんだけど、僕がロサンゼルスを離れてニューヨークへ来た頃にちょうどあの曲がヒットしていた記憶があるんだ。だから、あっちのレコーディングの方がニコよりちょっと前じゃないかな。僕はあの曲を録ったときスタジオにいたんだよ。レコーディングというものについて、まだ何ひとつわかってない頃だった。なかなかうまいドラマーだったんで話しかけたら「お前は誰だ?」と訊かれたんで、「あ、誰でもないです、彼らに曲を書いてる者で……」と答えた。僕が関係ないことをして進行を妨げてたんだろう、見かねたピアニストに「坊や、こっちに来て座って見てな」と声をかけられたんだが……その人はレッキング・クルーの伝説的なピアニスト、ドン・ランディだった(笑)。
―そんなことがあったんですね。ニコとのレコーディング現場には、ボブ・ディランやフランク・ザッパ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどを手掛けたプロデューサーのトム・ウィルソンがいたと思います。彼はどんな人でしたか?
ジャクソン:トム・ウィルソン! 確かにいたな。ハイになってたけどね。調整室からトークバックで「イェー、イェー、今のテイクは良かったね。じゃあもう一回!」って感じ(笑)。彼は何しろディランのプロデューサーだったから……カリスマ性があって、ハンサムで、クールな人だった。ニコのアルバムでは、ルー・リードが書いた曲はルーが、僕が書いた曲は僕がギターを弾いて。スターリング・モリソンやジョン・ケイルもスタジオに来てた気がする。あれに入ってるルーの曲は、普段ニコがクラブで歌うときは僕が伴奏してたんだけど、レコーディングするに当たってルーが弾くことになって。僕の曲は3曲採用された。
僕が弾いたセッションは1日で終わって、同じ日にルーも来ててさ。レコーディングが全部終わってから、ルーが「これからマレー・ザ・K(当時の有力ラジオDJ)のショーがあるけど、見に行くか?」と誘ってくれて、一緒に見に行った。出演者が凄くて、ザ・フー、ブルース・プロジェクト、ウィルソン・ピケット、それからクリームも出たと思う。その日、ピート・タウンゼントがステージでギターを破壊するのを初めて目撃したんだ。1967年のマレー・ザ・K・ショー、ニューヨーク、と検索すればそのときの出演者がわかるはずだよ。
「Concert Archives」より引用
―ルー・リードと一緒に1967年のザ・フーを見たんですか。
ジャクソン:そう。モンタレー・ポップ・フェスで大暴れして有名になる何カ月も前にね。だからモンタレーで次に見たときは、さほどショックを受けなかった。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『欲望』(1967年)のギターを壊す場面も、最初はザ・フーに出演を依頼したけど断られて、ヤードバーズが出演することになったんだよね。
ウクライナ情勢について思うこと
―貴重な話をありがとうございます。さて、あなたに影響された若いミュージシャンたちの話を聞いていると、『レイト・フォー・ザ・スカイ』や『フォー・エヴリマン』など、初期のアルバムに人気が集中しているように思います。でも、『ライヴズ・イン・ザ・バランス』や『ワールド・イン・モーション』など、社会的なテーマを取り上げた80年代のアルバムの曲も、もう少し若い人たちに聴かれるといいのにな、と思っていて。
ジャクソン:うん、わかるよ。それは人々が何に耳を傾けるか、何に注意を払うかが変化してきたことと関係していると思う。テイラー・ゴールドスミスが生まれたばかりの赤ちゃんと動画を送ってきてくれて何ともかわいかったんだけど、彼は最近「カット・イット・アウェイ」をよく聴いているそうだ。それにしても「カット・イット・アウェイ」とは……どのアルバムに入ってたっけ?
―『愛の使者(Layers In Love)』です。
ジャクソン:そうか、もう誰も聴いてない曲だと思っていたよ(笑)。80年代当時の僕に何が起きていたかというと、アレンジのやり方について学んでいる途中だった。デヴィッド・リンドレーがバンドを去った後で、それまでとはまったく異なるサウンドに挑戦したいと思っていた時期だったから。その分、ドラムスの音が極端にビッグな曲もあったりするけれど。
―その頃の作品であなたが早くから指摘していた”戦争と金”の問題は、形こそ変わりましたが、今でも根本的に解決されないまま続いていると思います。今、ウクライナで起きていることについては、どのように感じているのでしょうか?
ジャクソン:まったくもっておぞましい出来事だ。かつて、ロシアは常にアメリカの”危険な敵”として存在していた。民主主義の敵、合衆国の敵という位置付けでね。しかしソビエト連邦が崩壊してから、世界はより民主的で、より平等な政治形態へと向かって行ったはずだった。
僕にとってはこの世界について抱いていた様々な疑問がリアリティを増してきた時期でもあった。世界は軍需産業の複合体であると思っていたし、武器製造会社を潤す戦争というビジネスなんか不要だと思うし、不要であり続ければいいのにと願っている。
戦争の本質は今も同じで、軍需産業こそ真の敵という気持ちは変わらない。しかし、たとえば今ウクライナの人々に向かって、「軍隊は必要ない」と言い切れるのか……それはまた別の問題で、非常に難しいところだ。
僕は外交官ではなくミュージシャンなので、政治や世界の仕組みについて完全に理解しているわけではないが。音楽を通して発する言葉として、戦争について語り、戦争の時代に生きるとはどういうことかを語ろうとした時期があった。そんな時期に取り組んだのが、「エニシング・キャン・ハップン」という曲。しかし、今のウクライナの状況にも合う曲としてもう一回歌うなら、歌詞を2~3行作り直さなきゃいけない。今起きていることは、かつてあったような”秘密の戦争”とは違うからね。
―ところで、新曲は書いていますか?
ジャクソン:いや、まだ。今は他のプロジェクトで忙しくてね。デヴィッド・リンドレーについての映画と、ドラマーたちの映画を手掛けていて、両方に携わっているんだが……映画は音楽とまったく違うアートフォームで、作るのがなかなか難しい。デヴィッド・リンドレーのドキュメンタリーには息子も関わっていて、彼に言われたよ、「自分が持っているデヴィッドのお気に入り映像を寄せ集めたら映画になるとでも思ってるんじゃない?」と(笑)。実際はそんな簡単にはいかなくて、”筋”を書くことの大切さを知ったし、映画の作り方を学びながら少しずつ作っている感じだね。
―昨年でソロ・デビュー50周年、70代半ばに差し掛かりましたが。ライブ活動については、どこかで一線から退くことをイメージしているのでしょうか。それとも、ボブ・ディランのようにネバーエンディングな活動を生涯現役で続けていく?
ジャクソン:(頭を横に振る)それは無理だ。この年齢になると、さすがに移動を続けるのもきついしね。すぐに引退するということはないし、今年いっぱいは頑張ろうと思っているけれど。いつまで続けられるのか、何ともわからないな。
【関連記事】ジャクソン・ブラウン来日公演を目撃すべき8の理由
ジャクソン・ブラウン ジャパンツアー2023
2023年3月27日(月)東京・Bunkamura オーチャードホール *Sold Out
2023年3月28日(火)東京・Bunkamura オーチャードホール *Sold Out
2023年3月30日(木)東京・Bunkamura オーチャードホール
■チケット(税込)
S席:¥14,000 A席:¥13,000
公演ページ:https://udo.jp/concert/JacksonBrowne2023
ジャクソン・ブラウン
『ダウンヒル・フロム・エヴリホェア』
発売中
再生・購入:https://JacksonBrowne.lnk.to/DownhillFromEverywhere
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