世界的インディレーベル社長が綴る、ジャズの巨匠ロイ・エアーズとの「父子の物語」
Rolling Stone Japan / 2023年4月19日 17時45分
4AD、Matadorなど名門インディを擁するBeggars Group USA社長としてザ・ナショナル、ビッグ・シーフ等と協働し、ニューヨーク・タイムズ、NPR、ローリングストーン、GQなどに寄稿する人気音楽コラムニストとしても活躍。2022年には父親であるジャズ・ヴィブラフォンの巨匠ロイ・エアーズとの関係を描いた自伝エッセイ『My Life in the Sunshine』を刊行し全米で話題になったナビル・エアーズ(Nabil Ayers)が、4月29日に黒鳥福祉センター(港区・虎ノ門)にて特別トークイベントを開催する。
ここでは来日を記念して、回想録『My Life in the Sunshine』より、34歳になるまでほとんど会ったことのない父親ロイ・エアーズとの感動的で緊迫感溢れる「初対面」のシーンを抜粋してお届けする。翻訳はトークイベントの聞き手を務める若林恵(黒鳥社/blkswn jukebox編集委員)。
この10年ほどの間、インディ・ロックや前衛ジャズの世界に身を浸したことがあれば、ナビル・エアーズという名前と出会っている可能性は高い。ロング・ウィンターズやレモンズといったシアトルのバンドの一員として、彼の逞しく骨太なドラムを耳にしているかもしれない。あるいは、愛されたレコードショップ「Sonic Boom Records」の経営者として、長年務めてきた4ADのゼネラル・マネージャー(現在は親会社Beggars Groupの米国社長)として、その名に接しているかもしれないし、彼が営むブティック・レーベル「Valley of Search」からリリースされたジャズ作品を聴いたことがあるかもしれない。けれども、ナビル・エアーズがジャズ・ヴィブラフォンの伝説ロイ・エアーズの息子であること、その父との関係が一筋縄ではいかない複雑なものであることを知らない人は多いだろう。
ナビル・エアーズは、こうしたすべてを、ペンギンランダムハウスから2022年6月7日に発売され、ロイ・エアーズの1976年のヒット曲「Everybody Loves the Sunshine」に由来するタイトルを冠した新たな回想録『My Life in the Sunshine)で明かしている。本書から抜粋した以下の文章は、エアーズが30代半ばに初めて父親と会ったときのことを振り返ったものだ。ロイ・エアーズと彼の母親は、息子が生まれる前に、彼が子育てには一切関与しないことに合意していたため、ナビルはそれまで、父親とはほんの数度会って短いやりとりをしたことしかなかった。
シアトルのジャズ・アレイというジャズクラブの出演者として、1年か2年おきに、ロイ・エアーズの名が挙がっていることに気づいてはいた。ただの一ファンとしてであっても、父のコンサートに行こうと思ったことはなかった。父がどんな人だったのか、どんな人になっているのか、また、後ろの方の席から何らかのつながりを感じることができるのかどうか確かめようと思ったこともなかった。彼は私にとって何者でもなかった。名前は聞いたことがあるけれど、なんの縁もゆかりもないただの一アーティストに過ぎなかった。
34歳のとき、初めてセラピストのもとに通うようになった。セラピストは、言うまでもなく、遠回しに、父のことを打ち明けるよう促した。私は、できるだけオープンであろうとし、いつもと同じ主張を繰り返した。父と母の間でなされた合意については、子どもの頃から知っていることだ。だから父は私たちの元を去ったわけではない。私にとっての父は叔父だ。存在しなかった人が、消えたりはしないでしょう?
このセラピーが始まって間もない頃、「ソニックブーム」の社員のひとりが、父のことを話題にした。私は店のフロントカウンターにいて、彼女はCセクションの上でポスターをホチキスで留めていた。いまでもその場所は正確に覚えている。
「あなたのお父さんが『トリプルドア』に来るってよ」。彼女は何気なくそう言って、ホッチキスで壁をガンガンと叩いた。
彼女のそのあまりに何気ない口ぶりに心が揺らいだ。私と父の関係を知らないのだろうか? そう思いながら、どう返事したものか考えた。誰かが父の話を持ち出すたびに、その名前を振り払っては、父が自分にとって大した存在ではないと自分に言い聞かせてきた。そうそう、父親だよ。でも、赤の他人だよ。そうやり過ごすことになんの支障もなかった。母と結んだただの取り決めに過ぎないはずだった。けれども、その日、なぜか、心がぐらついた。
「そうなんだ」。平静を装い、別のことで手一杯でそれどころじゃないような気素振りで答えた。こうした報せを耳にしても、それまでは、いつどこで演奏するのかを調べようと思うことはなかった。その日に自分が街にいるかどうか確認したこともなかった。父は街を通り過ぎ、また1年か2年後にまたやってきたことを耳にするだけだ。
けれども、その時初めて、引き寄せられるのを感じた。新しく不慣れな感覚だった。誰かにこんなことを言われたような感じだった。「外に美しいヴィンテージのドラムセットが置いてあって、無料と書いてある。けれども、それを手に入れるためにはクールに振舞わないといけません。自分がそれを欲しいだなんておくびにも出してはいけません。ちなみ、それぞれのドラムには100ドル札が詰め込まれているんですよ」。
「ライブはいつ?」。 私は穏やかに訊ねた。「9月6日ですね」。
新聞を読むふりをしながら、心が逸っていた。「ちょっと2階に一瞬行ってくるから店を見ていてくれない?」。 お金の詰まったドラムセットを欲しがる素振りを見せまいと苦労しながら、ゆっくりと事務所へ向かう階段を上り、2006年9月6日に自分が街にいることを慌てて確認した。
これまで何年もの間そうしてきたように、無視するのが一番楽な道だった。父に会わないことには何のリスクもない。その日にポートランドやLA、もしくはニューヨークにでも行く計画を立て、誰に聞かれても、「街にいないんだよね」と答えることができるようにすることもできた。けれども、今回ばかりは、感じたことのない引力が働いていた。生まれて初めて父に連絡を取りたいと思ったのだ。
父に何を求めていたのか、自分でもよくわからない。父が私の父になることはないことはわかっていた。それにはもう時間が経ちすぎてしまったし、優れた男性のロールモデルに囲まれて私は大人へと育ってしまった。お金を必要ともしなかったし、欲しくもなかった。けれども、とりたてて具体的な目的がなくても大丈夫だろうと感じていた。母はいつも、具体的な目的や要件がなくても、情報交換のために人と会って交流することの意義を語っていた。セラピストの励ましを受けつつ、なんの目的もないままに、私は、11歳のとき以来初めて、20年以上会っていない実父と面会する約束を取り付けた。
父からの電話
父と面会することを最初に伝えたのは母だった。私とは違って、母は父のことを気にかけていた。直接やりとりはしていなかったが、ロイがバークレーでやったライブを観に行っていた。母は、私のバンドの最新CDを手に息子の様子を報告すべく会場に行き、私が何度か会ったときと同じような、友好的だけれども手短なやりとりをしたことを教えてくれた。
そのときの母の口調は、私を驚かせた。父と連絡を取る方法を知らなかった母は、防御的な口ぶりで、これから私が向きあう挑戦についてこう警告した。「気をつけなさい。たとえ連絡が取れても、あてにならない人だから。約束をしても......現れないかも。それでも本当にいいの?」。
ネットで見つけた唯一の連絡先は、父のブッキングエージェントだった。「私の父なんです」といって無理をさせるのも気が引けたし、似たようなメールを送るのは、父の人生において私が初めてではないかもしれない。そこで、父が見たらそれとわかるシンプルなメールを送った。
「ナビルと申します。私の母ルイーズがロイと70年代にニューヨークで出会っています。私はシアトルに暮らしていますが、9月にロイがここで演奏することを知りました。街に滞在している間のどこかで彼にお会いできたらと思っています。おつなぎいただけましたら幸いです。なにとぞよろしくお願いします」
送信ボタンを押した瞬間、34年間、父のことを気にもかけなかった日々が幕を閉じた。初めて自分をさらけ出したのだ。焦燥感が体を襲った。喉と胸がふさがり、口が渇いた。扉を開けたのは私だが、私にはそこまでしかできない。あとは、父次第だ。
それから2日間、私はずっと気がかりだった。仕事に集中できなかった。親しい友人と話すのも、この話題だけだった。2日経っても返事が来なかったが、このまま28日間もじっとしているわけにはいかない。平静を装って書いたメールから、はるかに切迫した脅迫的なメールにしてみた。今度は、ロイが私の父親であること、連絡があってもなくてもショーには行くことを伝えた。そして、返事をしてくれれば、私たち二人とも心穏やかにライブを楽しめるだろう、とも付け加えた。
15分後、エージェントから、メールを父に転送したという返信があった。
私は感激した。母は私以上に気が気でなく、父から返事が来たかを聞くのをやめてくれないかとお願いしなくてはならないほどだった。そしてライブがある日まで、自分にできることは何もないのだと言い聞かせた。精神衛生のためにも、ひとまずこのことは完全に頭から消し去っておくしかない。
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ライブの1週間前、不在着信と留守電で目が覚めた。
「やあ、ナビル」。私の名前を言ったとき彼の声は高くなった。正しく発音してくれたことが嬉しかった。「ロイだけど、いまニューヨークからかけてる。シアトルにいると聞いたけど」。彼の口調は会話調で、まるで機械にではなく、実際に私に話しかけているようだった。「来週そっちに行く予定だから、電話をくれ。ぜひ会おう。それじゃ、近いうちに。じゃあ」。
ロイのメッセージを何度か再生して、自分の声に似ているのかどうか確かめた。そして、自分をつくってくれた人物の声を、アルバムを通してではなく、自分の携帯電話から直接聞くことができたことを奇妙に感じた。60代の男性らしい、温かく、ゆったりとした口調だった。
その日の朝のワークアウトを私は笑顔で終えた。店までの5分間の歩みも、ここ数週間のそれとは打って変わって弾んだ。店に到着し、30分ほど朝のメールや電話をかけ、前日の売り上げを確認し、頭を整理してから父に電話をかけた。
呼び出し音が鳴っている間、私の胃は緊張で満たされた。
彼はすぐに出た。「もしもし?」。その日の朝、繰り返し聴いたのと同じ声だった。
会話は淀みなかった。気さくで、自然で、楽しくさえあった。と同時に、まるでサンタクロースと話しているかのような非現実感もあった。話している相手が実際に存在しているのか不安を覚えるほどだった。シアトルに住んでいること、音楽をやっていることなどについて聞かれ、自分に関することをよく覚えていることに驚かされた。本当に興味があるようだった。
彼の人生について知りたいことはたくさんあった。他の子供たち。健康状態。音楽との歴史やつながり。けれども、何を聞いたかは覚えていない。短いやりとりは、ライブの日に私がホテルまで彼を迎えに行き、ランチを一緒に食べる約束で終わった。
すぐさま母に電話すると、以前よりもさらに心配そうな様子で、一番恐れていることを聞いてきた。「来なかったらどうするの」。
初対面
その日、父が泊まっているホテルへと向かう最後の曲がり角で、自分がまったく緊張していないことを悟った。息切れもしない。胃の調子もいい。お腹が空いていたほどだ。右手をハンドルから離し、目の前で握ってみて、震えているかどうか確認した。握った拳は石のように堅かった。
ロイが泊まるホテルの正面のドロップオフ・ループの下では、子どもたちの荷物を引きずった親たちがガラスの自動ドアを行き来し、出張でやってきたビジネス客たちはスターバックスのアイスコーヒーとブリーフケースを器用にバランスしながら携帯電話で喋っていた。お揃いの白い服を着た観光客の一団を群れを降ろしているバンの後ろに、私は車を停めた。
採用面接の前かステージに上がる前にするように、最後に大きく深呼吸をした。息を吐きながら、その深呼吸が必要のないものであることがわかった。ロビーに入ると、すぐに私に微笑みかけてくれている人物と目があった。それがロイであることは言うまでもない。私の父だ。私は笑顔を返し、彼の方へと歩いた。
「やあ、ロイ」
「ナビル、元気か?」。歓迎するような声だった。
私は親しげに笑い、頭を振った。自分の創造に一役買ってくれた人の手を握ることに、どう反応していいのかわからなかった。触ったこともないような手だった。ふたりはそれほど似てはいなかったが、見紛うことのない類似点にすぐ気がついた。高い頬骨、茶色の瞳、気さくで大きな笑顔。30年後の自分は、こんな感じなのだろうか。彼の握手には、力強さとエネルギーが満ちていた。
「写真撮る?」。 私が手に持っていることを忘れていたカメラに気づいて、ロイが言った。写真を撮れたらいいなとは思っていたが、なぜホテルに持ってきたのだろう。観光客のひとりにお願いしたら、写真を撮られるのが大好きな男ふたりのツーショットを手早く撮ってくれた。
ロイ・エアーズ、1990年前後に撮影(Photo by DAVID REDFERN/REDFERNS/GETTY IMAGES)
写真のなかのロイは、がっちりとした堅い体をしており、背は私より少しだけ低く、メガネを外したときの自分と同じ丸顔をしていた。彼も同じように眼鏡をかけたらいいのに、と思った。立ち止まってはいるが、小刻みにいつも動いているのが見て取れる。その場にいる全員を爆笑させたかのような面持ちで、口を少しばかり開けている。右手は携帯電話を胸元に握りしめ、親指を上げている。おそろいの明るい笑顔と、入れ替わったような目をもってしても、同じように後退した生え際を隠しだてすることはできない。70年代に彼のトレードマークだったもみあげはもうないが、私のもみあげは健在だ。彼の薄い口ひげは、宝石をちりばめたシルバーのネックレスとよくマッチしていた。
お気に入りの寿司屋が閉まっていたので、味が少し落ちる別の寿司屋へと車で向かったが、寿司を食べたいと言っていた彼ががっかりしないかが気がかりだった。
向かい合って座り、まずは基礎的なことをおさらいした。ロイは66歳。私は34歳。母は55歳。叔父のアランは53歳。私は大学を卒業した。物心ついたときからずっとドラムを叩いていて、今は「ロング・ウィンターズ」というバンドのメンバー。小さなレコード店チェーンの共同経営者で、小さなレコードレーベルも経営している。
ロング・ウィンターズが当時発表した3rdアルバム『Putting The Days To Bed』(2006年)
ロイは自分が渡したロング・ウィンターズのCDのクレジットを読み上げた。「そうだった」。彼は何気なく言った。「ルイーズから聞いたよ、名前をエアーズに変えたんだって?」。自分の改名が話題になるとは思わなかった。名字を変えたのはずいぶん前のことだ。誰もそのことを尋ねたりはしなかった。
「ブラウフマンは面倒くさい名前だったから、高校を卒業したときに変えたんだ。自分に縁のある名前にしたくて」。私は遠慮がちにそう言い、ロイの返事を待った。
「いいね」。CDに目を落としたまま、彼は眉をあげた。
「おれよりもはるかに若くしてこうなったな」。ロイはからかうように自分の禿げた頭を指差して言い、私たちは二人で大笑いした。笑いの瞬間は何度か訪れたが、その度に電撃が走った。それは、長い間遠く離れていながら常にその存在を感じていた人のなかに、自分のかけらをありありと見出した瞬間だった。
それから私は気兼ねなく大事なことを訊ね始めた。彼の生い立ち、家族構成、音楽活動など、知りたいことは山ほどあった。彼の健康状態もだ。
彼は気さくに打ち明けた。
LAで育ったが、両親はオクラホマ出身であることを説明しながら、メモを取った。彼の父親はロイ1世で、母の名はルビーだった。
「あなたは2代目のロイってことですね」
ランチの間中、私がたびたび横から口を挟んだことで、話が脱線することも多かったが、そのおかげでもっと面白い話が聞けた。私は不安に駆られていた。時間は限られているし、父と一緒にいられるのはこの日だけかもしれないと思ったからだ。コーヒーとデザートを注文したのは、それが欲しかったからではなく、一緒にいる時間を長くしたかったからだ。
私の母親がいかに協力的であったかを、彼は微笑みながら語った。同じヴィブラフォン奏者のライオネル・ハンプトンさながらに、彼の名前がライトアップされるのを彼女は夢見ていて、そして実際に目の当たりにしたのだ。その話を聞いて、私は自分を同じようにさせてくれた母の姿を思い浮かべた。しかし、その話を掘り下げるには時間が足りなかった。他にも知りたいことがった。
ロイは私が知らなかった人種的背景も教えてくれた。ロイの父は黒人で、母はチェロキー族とのハーフだったそうだ。ロイの母は、彼にはネイティブ・アメリカンの血が流れていると語っていたという。私はそれまでの34年間、自分が黒人と白人のハーフであると言い続けてきた。そのことをのちに母に話すと、ずっとユダヤ系だとしか教わっていなかった祖父母について聞かされた。その日のうちに、私は8分の3が黒人、4分の1がロシア系ユダヤ人、4分の1がルーマニア系ユダヤ人、8分の1がネイティブアメリカンであることを知ることとなった。
ロイには、トマシーナ、ロイエナ、ミシェレイという3人の妹がいた。彼女たちの名前は、母から教わったロイに関する少ない情報の一部として知っていた。3人とも、今は退職しているが、ロサンゼルスの学校で教えていた教師で、見た目はネイティブ・アメリカンだったと言う。彼は自分の頬骨と私の頬骨とを交互に指差して、念を押した。そうすることで、彼は誰も疑ってはいなかったものの、といって確証もあまりない、私たちの血のつながりを訴え続けた。
ロイはとても身体的で生き生きとした会話をする人だった。昼食のテーブルに座っていても、腕を振り、頭を揺らし、強調するときには顔をぎゅっとしかめた。彼の自然で魅了されずにはいられない笑顔と、深刻な場面でも穏やかに微笑む姿に、私は自分を重ね合わせた。
年間200本のコンサートをこなしているという彼の言葉に、私は鉄火巻きを噴き出してしまいそうになった。私の世界では、年間100本のライブをこなすバンドは極めて勤勉なバンドだとされている。200本なんて聞いたこともない。
「演奏が好きだし、注目されるの好きだからね」。まるで鏡を見ているようだった。何か語るとき、彼は事実のみを語る。そして彼は、絶大なる自信をもって語る。彼はそういう人間だった。私にもそんなところがある。
From ”My Life in the Sunshine” by Nabil Ayers, to be published on June 7 by Viking, an imprint of Penguin Publishing Group, a division of Penguin Random House, LLC. Copyright © 2022 by Nabil Ayers.
From Rolling Stone US.
Nabil Ayers Talk Session|BEATINK × blkswn jukebox presents
日時
2023年4月29日(土)15:00 - 16:30
タイムテーブル
15:00 - 15:20 自伝エッセイ『MY LIFE IN THE SUNSHINE』紹介【ナビル・エアーズ】
15:20 - 16:20 トーク&リスニング・セッション【ナビル・エアーズ + 小熊俊哉 + 若林恵】
16:20 - 16:30 質疑応答
16:30 終了
*開始5分前からウェビナーページにご入室いただけます
*タイムテーブルは変更される可能性がございます。あらかじめご了承ください。
参加方法
1|オフライン参加:25名限定/料金2,000円
会場:黒鳥福祉センター / blkswn welfare centre
住所:東京都港区虎ノ門3-7-5 虎ノ門Roots21ビル 地下1階
2|オンライン参加:100名/料金1000円
Zoomウェビナーを使用
※「英語→日本語」の逐次通訳が入ります。
※イベント終了後、オンライン・オフライン双方の参加者の皆さまに期間限定でアーカイブ動画を公開いたします。
会場ではエアーズ自身が関わった作品などを含む、Beggars Group関連作品を取り揃えたミニポップアップストアも登場。父との複雑な関係、黒人としてのアイデンティティ形成といったリアルなライフストーリーから、コラムニストとしての幅広い活動、さらには激変する音楽産業におけるレーベル運営など、アメリカの音楽文化の奥深さに様々な角度から迫るまたとないイベント。インディロックファンはもとより、ジャズファンやコンテンツビジネスに関わる方にとっても有意義なひとときとなること間違いなし。
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【ナビル・エアーズの執筆記事】
ニルヴァーナ「Smells Like Teen Spirit」がすべてを変えた夜
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