ピンク・フロイド『狂気』50周年 制作背景とバンドの内情を生々しく語った秘蔵インタビュー
Rolling Stone Japan / 2023年4月20日 17時30分
ピンク・フロイド(Pink Floyd)『狂気』50周年記念リリースとして、2023年最新リマスターを含む豪華ボックス・セットに引き続き、貴重な復刻アイテムなどを含む「15大特典」を7インチ紙ジャケに封入した日本独自企画『狂気ー50周年記念SACDマルチ・ハイブリッド・エディション』が発売された。この不滅の名盤について振り返るべく、デヴィッド・ギルモア、ニック・メイスン、ロジャー・ウォーターズが『狂気』制作秘話を語った、米ローリングストーン誌による2011年の貴重インタビューをお届けする。
『狂気』(原題:The Dark Side Of The Moon)とは?
ピンク・フロイド8作目のスタジオ・アルバム。現代社会の緊張と抑圧、人間の心のなかに潜む狂気をテーマにした一大コンセプト・アルバム。象徴的なジャケットのアートワークはヒプノシスによって光のプリズムをモチーフにデザインされた。1973年にリリースされ、バンド初の全米1位を獲得(全英2位、日本2位)。全米チャート741週(15年間)連続ランクインのギネス記録、全世界トータルセールス5000万枚以上、史上最も売れたアルバム3位などの記録を打ちたて、音楽史上最も重要な作品のひとつとして今もなお世界中で新しいオーディエンスを魅了し続けている。
日本独自企画『狂気ー50周年記念SACDマルチ・ハイブリッド・エディション(7インチ紙ジャケット仕様)』15大特典
【1】 1972 Pink Floyd In Japan フォト・ブック(全48P、1972年の空港、ライヴ、日本滞在時模様)
【2】 1972来日公演ツアー・パンフレット(全16P、縦長)
【3】 1972来日公演チケット(1972年3月6日東京都体育館<赤>)
【4】 1972来日公演チケット(1972年3月7日東京都体育館<青>)
【5】 1972来日公演ツアー告知ポスター(東京:東京都体育館)
【6】 1972来日公演会場で配布された幻の歌詞リーフレット『月の裏側-もろもろの 狂人達の為への作品-』」
【7】 1972来日公演ツアー告知フライヤー(大阪:フェスティバルホール)
【8】 宣伝用チラシ (『狂気』宣伝用レコード会社手書きチラシ)
【9】 来日記念ステッカー(当時の来日キャンペーン特典丸型ステッカー)
【10】来日記念盤シングル・ジャケット(「ピンク・フロイド/ビッグ4」)
【11】来日記念盤シングル・ジャケット(「青空のファンタジア」)
【12】【13】オリジナルLPに封入されていたポスター2種
【14】【15】オリジナルLPに封入されていたステッカー2種
『狂気-50周年記念盤ボックス・セット』(輸入盤のみ・完全生産限定盤)
• 『狂気』 2023最新リマスター CD&LP
•『ライヴ・アット・ウェンブリー1974』 CD&LP
•『狂気』ATMOS MIX BLU-RAY(AUDIO)
•『狂気』5.1 MIX+HIGH-RES REMASTERED STEREO MIX BLU-RAY(AUDIO)
•『狂気』 5.1MIX + REMASTERED STEREO MIX DVD(AUDIO)
•1972年〜1975年の全英・全米ツアーからレア・未発表写真を収録した豪華160ページ・ハードカバー・フォト・ブック
•オリジナル版の76ページ楽譜集
•オリジナル7”アナログ・シングル復刻×2枚(「マネー/望みの色を」「アス・アンド・ゼム/タイム」)
•ポスター4枚、ポストカード2枚
•1973年にロンドン・プラネタリウムで行われた『狂気』試聴会のEMI制作パンフレットおよび招待状のレプリカ
もしピンク・フロイドがただの思い出、心の交流のないビジネス関係でなかったならば、それはバンドにとっての新曲になっていたかも知れない。ロンドン郊外の豪華なハウスボートに設置されたスタジオのコントロール・ルームで、デヴィッド・ギルモアは機材ラックに座っている。彼はマーティンの12弦ギターで下降するコード進行を爪弾きながら、歌詞のないメロディを歌っている。
「流れに任せながら、曲を書いていくんだよ」彼はギターを弾き続ける。窓の外では早くも秋の空気を漂わせる灰色の空の下、テムズ川が波紋を広げていく。
「何年か前の話だけど」上品なブリティッシュ・アクセントで語るギルモアだが、実際のところかなりの年月が経過している。「同じことをアビー・ロード・スタジオの第3コントロール・ルームでやっていて、このフレーズが生まれたんだ」彼は1975年の「あなたがここにいてほしい」のハンマリング・オンのイントロを奏でる。「あの曲はこのギターで書いたんだ。だから何か良いアイディアが浮かんだらすぐ気付くよ」
バンドが最も大きな成功を収めていた時期のベーシスト/作詞者/ソングライターだったロジャー・ウォーターズとギルモアが膝を突き合わせて共作をした曲として、「あなたがここにいてほしい」は珍しい部類に入る。「ロジャーが『そのフレーズ、良いね。それに合いそうなアイディアがあるよ』と言い出したんだ」ギルモアは語る。「そうして一緒にコーラスとヴァースを書いた。それから彼が歌詞を書いたんだ」
さらに名曲「コンフォタブリー・ナム」など数曲で共作者としてクレジットされているギルモアとウォーターズだが、彼らがジョン・レノンとポール・マッカートニーのような継続的なソングライター・チームとして機能することはなかった。
本記事が掲載された、ローリングストーン誌2011年10月13日号の表紙
1987年、バンド内の不仲で脱退して間もなく、ウォーターズはローリングストーン誌との取材で語っている。「バンド内で誰が何をやって、それが正しいか間違っているか、共通の認識を持つことが出来なかったんだ」
それから長い年月が経過したが、問題の数々は解決に至ることがなく、驚くことに彼らの関係は未だ緊張を孕むものであり続ける。
とはいえ、彼らの現在の間柄は決して険悪なものではなく、ギルモアとウォーターズ、ドラマーのニック・メイスンはバンドとして最後となる可能性のあるプロジェクトに合意している。ピンク・フロイドの全作品をリイシューするというプロジェクトだ(※2011年より発売)。すべてのスタジオ・アルバムがリマスタリングされ、『ザ・ウォール』(1979年)、『炎(あなたがここにいてほしい)』(1975年)、そして4千万枚以上のセールスを誇る『狂気』(1973年)という、最も人気のある3作はデラックス仕様のボックス・セットとしてリリース。未発表のアウトテイクやライブ音源、映像特典が追加収録される。「『質が低いものは出す価値がない』とか、もったいぶるのは止めたんだよ」ギルモアは語る。「存在するものは何らかの形で世に出していくつもりだ」
そのタイミングで、ギルモア、メイスン、ウォーターズの3人が個別にローリングストーン誌のインタビューに応じてくれた。
「”LIVE 8”に最も近いものだよ」メイスンは笑いながら、2005年に行われたベネフィット・コンサートに言及する。このライブは2008年に亡くなったキーボード奏者リチャード・ライトを含むフル・ラインナップによる最後のライブ・パフォーマンスだった。ウォーターズとギルモアは昨年(※2010年)パレスチナの子供たちへのチャリティ・イベントでのアコースティック・セットで共演。それに続いてギルモアがウォーターズの『ザ・ウォール』ツアーのロンドン公演にゲスト出演、メイスンもタンバリンで参加するという出来事もあった。どちらのイベントにおいても、彼らがハグを交わす光景が見られた。
ギルモアはギター6本が並ぶラックに12弦ギターを置き、65歳の身体を起こして、スタジオのコントロール・パネル側にある人間工学に基づくチェアに落ち着く。彼はいつも身を包んでいる黒のスポーツ・ジャケット、高価そうな黒のTシャツ、ブラック・ジーンズにスエードの靴をコーディネイトさせている。ピンク・フロイドと『狂気』について、どれだけ積極的かはともかく、彼は語る準備が出来ている。
「大昔のことに自分自身を投じるのは難しいんだよ」彼は言う。「過去を思い出すのが心地よくないと感じる自分の一部があるんだ」
ひとつの曲のようなアルバム
ウォーターズは『狂気』について「よどみない(sort of flawless)」と表現しており、確かにそれは正しくもある。アルバムの制作には、いくつもの幸運なアクシデントがあった。「虚空のスキャット」におけるセッション・シンガー、クレア・トリーの見事な即興ボーカルもそうだし、エンジニアのアラン・パーソンズがたまたま膨大な数に上る時計の音のテープを所有していたこともそうだが、『狂気』にはロック・アルバムで滅多に聴くことの出来ない、宝石のような完璧さが備わっている。本作はプレイヤーにシャッフル機能が付く前の時代の究極の遺産であり、まるでひとつの曲であるかのような流れのあるアルバムだ。
「『サージェント・ペパーズ〜』や『ペット・サウンズ』には、ありもしないコンセプトを投影することが可能だ」と語るのは、このアルバムの大ファンであるスマッシング・パンプキンズのビリー・コーガンだ。「『狂気』は真のコンセプト・アルバムだよ。始まり、真ん中、終わりという流れとテーマがある。目標地点に向かっていき、意味を成しているんだ。あれほど完璧な作品を意図して作ろうとしても無理だよ。意味のある偶発性が必要なんだ」
バンドはアルバムの音楽を聴くにあたって、集中した状態で、出来れば部屋を真っ暗にして、”日常とは異なる意識状態”で臨むことを希望していた。
「集中力が持続する時間は、昔と今では違うんだよ」ギルモアは語る。「友達のアパートや家に行って、部屋でくつろいで良いステレオでアルバムを通して聴く。それからしばらく語らって、また別のアルバムをかける……そんなこと、今でもやっている人はいるかい?」
このアルバムの流れるような展開は、彼らの同期であるプログレッシブ・ロックのグループのいかなる作品よりも、『アビー・ロード』のB面に通じるものがある。
「正直なところ、ザ・ビートルズと張り合うなんておこがましいと思っていたんだ」ウォーターズは言う。「『サージェント・ペパーズ〜』もよどみのないアルバムだ。彼らがハードルを上げたことで、さらに俺たちの気合いが入ったのかもね」
『狂気』50周年記念ボックス・セットに合わせて公開されたドキュメンタリー映像(日本語字幕付き)
『狂気』の全10曲は、16トラックのマスター・テープの同じリールに録音されたが、それは異例の試みだった。
「ひとつの曲から次の曲へと流れ込んでいくアプローチは、アルバム全体のフィーリングにとって非常に重要だったんだ」と語るのは、このアルバムで決定的な評価を得たエンジニアのアラン・パーソンズである。「それぞれの曲をミックス作業で繋げるのでなく、レコーディングの過程で流れを生み出そうとしたよ」
シド・バレット時代〜『狂気』に至るまで
スタッフの工夫や集中的な作業があったことは事実だが、『狂気』を創り上げるたった4年前の彼らは、音楽面のリーダーを失って袋小路に迷い込んでいた。フロントマンのシド・バレットは、ピンク・フロイドにとってすべてだった。彼はルックスで人気があり、ソングライター、シンガー、そしてリード・ギタリストでもあった。
「彼は奇跡の少年だったよ」ギルモアは語る。バレットに率いられて、バンドはケンブリッジの中産階級出身のアート系の学生たちからロンドンのアンダーグラウンド・ヒーローへと成長を遂げた。1967年のデビュー・アルバム『夜明けの口笛吹き』の一風変わったイギリス的なポップ・ソングの数々はライブで爆発、アシッドに満ちた宇宙空間のインプロビゼーションへと飛び立っていった。
1967年前後のピンク・フロイド。左からロジャー・ウォーターズ、ニック・メイスン、シド・バレット、リチャード・ライト(Photo by Keystone Features/Getty Images)
連日のLSD使用と密かな精神疾患により、ピンク・フロイドが2枚目のアルバムに着手する頃には、バレットは無気力状態に陥っていた。彼の曲を書くペースは落ちていったし、ステージ上でギターを弾かず立ち尽くしていたライブも少なくとも1回以上あった。彼は現実世界から漂流していったのだ。バンドは後任メンバーとして、同じくケンブリッジ出身のデヴィッド・ギルモアを迎え入れた。彼は力量のあるシンガーで、より明確なブルース・ギタリストだった。バレットとギルモアは6週間ほどのあいだ同じバンドに在籍していた。
ザ・ビーチ・ボーイズが置かれている状況を知ったピンク・フロイドのメンバー達は、ブライアン・ウィルソンがそうだったように、バレットを在宅メンバーにすることをしばらく検討した。彼が自宅で曲を書き、バンドはギルモアを伴ってツアーに出ることを考えたのだ。
「彼の才能を生かし続けたら素晴らしいと思ったんだ。もし彼がいる場所から戻ってくることが出来たならね」ウォーターズは言う。だが間もなく、彼がそれすらも出来ないことが明らかになった。
「シドは”仕事をする”やり方を知らなかったんだ」と語るのは、長くバンドのアート・デザイナーを務め、バレットの親しい友人でもあったストーム・ソーガソンだ。「彼にとって、音楽をやるのは自然なことだった。考える必要すらなかったと思う。問題だったのは、それを失った彼が補うものを持っていなかったことだ。彼は流れ星のように燃え尽きてしまった。美しかったけど、消えてしまったんだ」
ピンク・フロイドの当時のマネージャーが「バンドで価値があるのはシドだけ」と考えていたと、ウォーターズは語っている。そのため、ピンク・フロイドは契約を解除されることになった。「当時の俺の気持ちは『あんた達が正しかったかは、時間が経てば判るさ』というものだった」とウォーターズは思い起こす。バレットを失ったことで、残されたメンバー達のあいだには連帯感が生まれた。
「シドがいなくなった1968年から1973年のあいだ、我々はみんな現実的に物事を考えていたよ」とウォーターズは付け加える。「絶対に昼間の普通の仕事には戻らないと決意していたんだ。そのためには、本気で音楽に取り組む必要があった。やるべきことはすべてやらねばならなかったんだ」
シドがバンドを去ってから『狂気』に至るまでのアルバムは、自分たちの音楽性、自分たちの声を見出そうと模索する作品だった。
『ウマグマ』(1969年)にはキーボード奏者のライトによる13分半の、『スパイナル・タップ』めいたタイトルの「シシファス組曲」が収録されている。彼らは野心的で、必ずしもすべてが成功したとは言い難い試みも行ってきた。合唱隊とオーケストラと共演した「原子心母」や、牧歌的なインストゥルメンタルとローディーが朝食の準備をする生活音を融合させた破天荒な「アランのサイケデリック・ブレックファスト」などがそうだった。「シーマスのブルース」は基本的にギルモアが犬の吠え声とブルース・デュエットをするという、真の捨て曲だった(この曲がそう思わせるかも知れないが、バンドのメンバー達はこの時点でサイケ系ドラッグをやっていなかった。実際のところ、彼らがさほどLSDに傾倒したことはなかった。ギルモアは「シドが俺たちのぶんまでキメていたんだよ」と語っている)。
「俺たちにはそこそこ勇気があったし、とにかく面白いと思えるようなものだったら何でもレコードに収録していたんだ」ギルモアは言う。「でも試行錯誤の数々の中には、決して前向きの成果を生まなかったものもあったし、インスピレーションがパッとしなかったこともあった。『サイケデリック・ブレックファスト』はあの曲なりに良かったんだけど、もう聴きたいとは思わないよね。それから『エコーズ』のような、より構成が固まった曲へと向かっていったんだ」
1971年の「エコーズ」は最初から最後まで効果的な23分のナンバーで、『狂気』より前のロング・フォームの曲としては最も成功したものだった。ウォーターズは付け加える。「構成や音楽性の面で、『エコーズ』は『狂気』の前身に最も近い曲だろうね。もう1曲を挙げるとしたら『神秘』だな。いくつかの楽章があって、速い部分や遅い部分があったり、音楽的に通じる部分があった。ただ『狂気』にはひとつのテーマがあって、純粋に何かについて描いているという点で、最初の作品だった」
長身で攻撃的、皮肉屋のウォーターズがバンドの新しいリーダーであることが徐々に明らかになった。
「別に選ばれたわけではない。自然にそうなったんだ」と彼は語る。「バンドをやったことがある人なら判るだろうけど、誰かが手綱を取ることになるんだ。そういう役割なんだよ。もちろん人間にはそれぞれ個性や性格があるから、『こうやったらどうだろう?』と提案して、それが良いアイディアであれば追従するメンバーもいるだろう。そうして望むと望まざるに拘わらず、リーダーとフォロワーという役割が生まれるんだよ」
バンドと作品の「奇妙なバランス」
全員が同意するのは『狂気』のコンセプトが1971年、メイスンの邸宅で生まれたということだが、その詳細についてはぼんやりとしている。ウォーターズはミュージシャンとして生きることで受ける抑圧についての曲を書くアイディアを出したと記憶しているし、メイスンは全員でアイディアを発展させたと考えている。メンバー達がストレスの源についてアルバムの歌詞にする題材を話し合い、ウォーターズがメモを取った。彼らは死、旅、金、狂気など、”落ち込む要因”をリストアップしている。ウォーターズが1人でアルバムのすべての歌詞を書くのはこれが初めてであり、本作以降はそれが彼の仕事となった。
「俺は自分が歌詞を書くのが得意だとはあまり考えていないんだ」ギルモアは明かす。「で、ロジャーがそれをやりたがった。正直、ほっとした部分があったよ。ただそれと同時に、彼が歌詞を書いてバンドを牽引することになったからといって、バンドの音楽性を決定する立場になったわけではなかった。そんな部分で、我々の関係は常に緊張したものだったんだ」
1972年の来日公演会場で配布された幻の歌詞リーフレット『月の裏側-もろもろの 狂人達の為への作品-』(『狂気ー50周年記念SACDマルチ・ハイブリッド・エディション』特典)
ギルモアがメイン・ボーカリストでリード・ギタリストという『狂気』の主要パフォーマーでありながら、ソングライティング面での貢献が最小限だったことは、バンド内に維持しがたい奇妙なバランスの揺らぎをもたらし、トラブルを予感させる要因となった。
それにライトが加わり、哀愁を漂わせ、豊かなハーモニーを伴う「虚空のスキャット」と「アス・アンド・ゼム」を書いている(後者のメロディは当初1970年の映画『砂丘』のために書かれたものだった)。
「俺とロジャーの争いばかりが話題になってきたんだ」ギルモアは言う。「だからリックは少しばかり忘れられがちだった。彼は本来得るべき正当な評価を得ていないよ」
ピンク・フロイドの後年のアルバムではウォーターズの特異なボーカルが主軸となるが、『狂気』で彼は最後の2曲でのみ歌っている。「居心地が悪い状況に追い込まれたのを覚えているよ」ウォーターズは笑う。「デヴィッドとリックは俺がいかに歌が下手で音痴か、全力で主張してきた。リックが俺のベースをチューニングしなければならなかったなんて出鱈目を流したりもしたんだ」
「アルバムを聴いてもらえば、それが事実でないことが判るだろう」ウォーターズは続ける。「ボーカルや楽器の腕前が水準に達していないと指摘するのが、俺にバンドを乗っ取られないための彼らのやり方だったのかも知れない。俺が素晴らしい音程の素晴らしいシンガーだと言うつもりはないよ。それが足りないぶん、感情と個性を込めて歌っているんだ」
70年代前半のピンク・フロイド。左からリチャード・ライト、ニック・メイスン、ロジャー・ウォーターズ、デヴィッド・ギルモア(Photo by Hipgnosis/PinkFloyd Music LTD.)
バンドが『狂気』の初期バージョンをライブで演奏するようになったのは1972年で、その時点で大半のパートが出来上がっていた。最大の違いは、エレクトロニックなフリークアウト・ナンバー「走り回って」がなかったことだろう。その場所にはギターを中心としたジャム風味の「ザ・トラヴェル・シーケンス」があった。だが、ギルモアとウォーターズが当時最先端だったEMS SynthiAスーツケース・シンセサイザーを手にしたことで、「ザ・トラヴェル・シーケンス」はボツになった。
「あの小さな装置に、無限の興味深い可能性を感じたんだ」ギルモアは言う。「俺たちは常に電子音楽に興味を持っていた。3D的に聞こえる音を探すことに魅了されてきたんだよ。ラウドなバンドがロックな演奏しているのがステレオのスピーカーから噴き出すと、こんな領域のフィーリングを得ることが出来るんだ。それと、バンドが90メートルぐらい離れたところで演奏する距離感を出したかった」
「マネー」や「タイム」のように噛みついてくるナンバーを除けば、さまざまな浮かぶテクスチャーや忍び寄るテンポを擁する『狂気』はロック名盤の数々の中でも最も知覚的であり、最も本能的でないアルバムのひとつだ。「主治医に『自分の脈拍数よりも速くプレイしないように』と言われたよ」メイスンは語る。
それに対して、ギルモアの白熱のリード・ギターはハード・ロックの領域に踏み込むものだ。「パンチのあるロック・ギターなんだ」彼は頷きながら言う。「ステージでギターの音量を思い切り上げると、轟音に寄りかかって転倒することがない。なかなか止められないドラッグみたいなものだよ」
『狂気』50周年ボックス・セットと同時発売(ボックスから分売)された『狂気:ライヴ・アット・ウェンブリー1974』。アートワークはジョージ・ハーディーが1973年に手掛けたアルバム・ジャケットの原画を使用。
しばらくエンディングが欠けていた『狂気』だが、ある日ウォーターズが「狂気日食」を書いてきた。短めだが強大なパワーに溢れるこの曲は、祈祷のような反復から成るものだ。歌詞の最初の2行はアルバム1曲目「生命の息吹き」と共鳴する。
「君の触れるものすべて/君の見るものすべて」とウォーターズが歌うこの曲は、徐々に熱気を増していく。「この曲を創り上げるのにはかなり苦労したよ。少しずつ組み立てて、ハーモニーを加えたりね」ギルモアは語る。「取っかかりがないんだ。コーラスもないし、途中の転換もない。ずっとストレートな展開だよ。だから4行ごとぐらいに違ったことをやるようにしたんだ」
最後のステップはアルバム・ジャケットだった。ソーガソンは数種類のスケッチを用意している。その中には”マーヴェル・コミックス”のシルヴァー・サーファーが海辺にいる構図を実写化したデザインもあったが、バンド全員が三角プリズムを使ったアートワークをその場で選択した(ソーガソンによると「思想と野心」の象徴だという)。この図案は部分的に彼らのライト・ショーに対するトリビュートでもあった。今日では予算的に許されない話だろうが、バンドはソーガソンをエジプトに向かわせ、インテリア・アートのためピラミッドの写真を撮影させている。
記録的成功とバンドの分裂
「マネー、こいつはヒットだ」とギルモアは歌っているが、実際に「マネー」はヒットを記録。それから8年間バンドがやってきたことはすべてが大成功を収めている。「マネー」はアメリカのチャートでトップ20ヒットとなり、『狂気』は全米チャートで741週連続ランクインを達成。彼らは北米のアリーナ・クラスの会場でライブを行う人気バンドとなった。
熱心な社会主義者であるウォーターズにとって、それは皮肉なことだった。彼の友人ニック・セジウィックによる長年刊行されなかった随想録『In The Pink (Not A Hunting Memoir)』でウォーターズはこんな発言をしている。「さあ、また新曲を書いて何千ポンドか儲けようか。ファンのみんなに乾杯! モーターボートでも買うことにするよ」
「その本で俺はあまりキラキラ輝いていないよ」ウォーターズ自身も自叙伝を出すことになっている。「でも、どうだっていいんだ。俺たちはみんなそういう人間なんだからな」この本では音楽面でのウォーターズの独裁に関する強い主張があり、そのせいで他のメンバー達が刊行を認めなかったという。
ピンク・フロイドは『狂気』に続くアルバムのための曲作りを1974年に開始しようと試みたが、バンドが始まって以来最悪の口論を始めることになる。「振り返ってみると『狂気』を出した後、そんなに急いでスタジオに入らなくても良かったと思うね。もう1年ぐらいツアーするべきだったんだ」とメイスンは振り返る。
1972年頃、ツアー中のピンク・フロイド(Photo by DAVID REDFERN/REDFERNS/GETTY)
1979年に入ると、バンドはウォーターズの独裁体制下にあった。彼は個人的な問題を抱えていたライトを追い出している。『ザ・ウォール』(1979年)はウォーターズの産み落とした赤ちゃんだったし(但しギルモアも自分の音楽的貢献を誇りにしている)、殺伐とした『ファイナル・カット』(1983年)は実質的に彼のソロ・アルバムだった。
「みんながロジャーの言う通りにすれば、バンドは長続きしていたかも知れない」メイスンは語る。「あるいは彼がバンドから巣立つべき時期だったのかもね」
1985年、ウォーターズはピンク・フロイドを去る。そしてギルモアとメイスンが自分抜きでバンドを続けると知って、愕然とすることになった。
「ロジャーは1985年に脱退したんだ」ギルモアは語る。「俺は21歳のときにピンク・フロイドに加入して、30代後半になっていた。成人してからずっとこのバンド、このアーティスト集団で活動してきて、自分の愛する音楽をプレイしてきたんだ。それを突然止める理由があるかい? 止めたくなんかなかった。ロジャーがバンドを去ることになって、我々がどれだけのものを失ったか、その後我々が生み出すものが彼のいた頃の最上の作品と較べてどう評価されるかは、これからも論議の対象となるだろう。俺には判らない。いろいろな意見があるだろうけど、とにかく俺たちはバンドを存続させて、自分たちがやってきたことを続けて、かなりの成功を収めてきた。素晴らしい日々だったよ」
ギルモアの率いるピンク・フロイドは『鬱』(1987年)、『対(TSUI)』(1994年)という2枚のスタジオ・アルバムを発表したが、どちらもセールス面ではウォーターズのソロ・アルバムをはるかに上回っている。ウォーターズのアリーナ規模の会場でのライブが半分しか売れていない一方で、ピンク・フロイドが近所のスタジアム公演をソールドアウトにすることもあった。
「そういう対立構造を作ったのは彼なんだよ」ギルモアは主張する。「彼自身が屈辱を受けることになって、それで何かを学べたら良いと思う。彼はソロ活動でもかつてのピンク・フロイドの要素を取り入れている。それが彼なりのプライドなんだ」
1988年、『鬱』ツアーのライブ作品『光~PERFECT LIVE!』に収録された「虚空のスキャット」
新生ピンク・フロイドは1994年に最後のツアーを終えて、華々しいファンファーレもなく、ギルモアはバンドの歴史に幕を下ろした(※編注:その後、2014年にラストアルバム『永遠(TOWA)』をリリース、2022年にウクライナ支援のシングル「Hey, Hey, Rise Up!」を発表)。
「ロジャーがいなくなったことで、俺が唯一のリーダーにならざるを得なかった」彼は語る。「それですべての重荷を1人で背負うことになったんだ。最初のアルバムは困難だったけど、学ぶことも多かった。でも「対」はさらに重労働だった。あのアルバムの後、責任を背負うのはトゥーマッチだったんだ。それで引退するか、ソロでやることを考えたんだ」
デイヴとロジャーズの複雑な関係
ウォーターズの『ザ・ウォール』ツアーは昨年(2010年)、北米で2番目の収益を稼ぎ出したツアーだった。ピンク・フロイドのリイシュー・プログラムが進行しているあいだ、ウォーターズは自分のツアーで忙しく、作品に関する細かい質問は軽くあしらう。「何が起こっているかは、デイヴとニックの方がよく知っていると思うよ」と彼は語る。木のフローリングを施されたオフィスで、きれいに磨かれたガラスの会議用テーブルを前にして座っているウォーターズは、かつてのバンド仲間たちについて話すことは避けている。彼は私に昨年こう話していた。「もう他人を傷つけたくないんだよ」
ギルモアが「ウォーターズは滅多にボーカル・メロディを書くことがなかった」と語っていたことを告げると、ウォーターズは一瞬奇妙な表情を浮かべ、人間の記憶がいかにあてにならないものかと話す。彼はコラボレーションの重要性について語っている。「リックがいなくても、俺がいなくても、デイヴがいなくても、何かが起こったかも知れない」彼はうっかりメイスンの名前を挙げるのを忘れたのかも知れない。「でもその何かは、実際我々に起こったこととは異なったものとなるだろうね」
実際のところ、ギルモアとウォーターズが親しい友人だったことはなく、ギルモアがバンドに加入するまでほとんどお互いのことを知らなかった。ただウォーターズは、彼と初めて会った日の喜びを覚えている。
「デイヴは素晴らしいシンガーで最高のギタリストだったんだ」彼は話す。「それ以上の何を望むんだい? しかも彼は良い奴で、とても楽しく、ジョークを飛ばしたりしていたよ。決して『凄いギタリストでビューティフルなシンガーだけど、変な人だよな……』って感じではなかった」
2005年のLIVE 8で共演したデヴィッド・ギルモアとロジャー・ウォーターズ(Photo by Dave Hogan/Live 8 via Getty Images)
外部から見ると、ウォーターズがバンドを去ってから、いまは彼とギルモアの関係は最も良好であるように見える。
「君はそう思うかも知れないけどね」ギルモアは口を閉じて、しばし沈黙する。「そう言うことも出来るかもね。でも連絡を取らなければ、関係はほとんど存在しないんだ。数カ月前、ロジャーの『ザ・ウォール』ショーで1回プレイしたけど、それから彼とはまったく連絡をしていないよ」
その後、ギルモアの息子チャーリーはイギリスの大学の学費値上げに反対する暴力的なデモに参加したことで、16カ月の禁固刑となっている。ウォーターズがギルモアに手を差し伸べるには良い機会だっただろう。それから数カ月前、ウォーターズとギルモアはチャリティのアコースティック・ライブで「あなたがここにいてほしい」に加えて3曲をプレイしたが、ギルモアによると、その間コミュニケーションを取っていなかったという。「決して仲が悪いわけではない。ただ日々の生活において、そうしないだけなんだよ」
ボブ・ゲルドフが2005年、”LIVE 8”でのピンク・フロイド再結成を打診したとき、彼はすぐさま口論を始めた。
「リハーサルでの空気はすごく張り詰めたものだった」ギルモアは話す。「ロジャーが演奏したい曲目のメモを書きつけてきたけど、チャリティ・イベントにはまったく相応しくないものだったんだ。『教育なんて必要ない』とか歌うのは、あまりに場違いだった。我々は柔らかい口調で、ロジャーが我々のバンドのゲストだということを言わねばならなかった。リック、ニック、俺はずっとピンク・フロイドを続けてきて、ロジャーは一時的にゲストとして復帰したんだ。結局俺がセットリストを書いて、その曲目をプレイしたよ」
「ロジャーはその後あちこちでたっぷり時間をかけて、再結成は一度限りで、もう二度とやらないと話していたね」ギルモアは続ける。「それで自分の意思も固まったんだ。大勢の人がそういうの(再結成のこと)を望むのは理解出来るけど、俺は自己中心的な人間だし、これから下降線を描くにしても、自分のやりたいようにしたいと思った。そして再結成はその中に入らないってね」
昨年(※2010年)、ウォーターズは私にもう一度チャリティ・イベントでの再結成の可能性もあり、メイスンもそれを希望していると語った(彼は「ボブ・ゲルドフよりも重要な人間から要請されるんじゃなきゃね。そういう人がいれば」と主張していた)。
一方、ギルモアにはその興味がないらしい。ただ、彼にとって『ザ・ウォール』ツアーにゲスト参加し、壁の上で「コンフォタブリー・ナム」を歌ったのは楽しい経験だったようだ。彼はウォーターズがチャリティ・ライブに出演することと引き換えに、この日ステージに上がることに合意している。
「(当日のライブについて)あまりコメントしたくないんだけど、会場に着いて『おいおい、何度かリハーサルさせて欲しかったな』とは思ったね」ギルモアは少しばかり悪意を込めた笑顔を浮かべる。「そうしたらもっと良い演奏になっただろう。でもロジャー達のプレイはすごく良かったよ」
『ザ・ウォール』のライブ・パフォーマンスを見て、彼はこう付け加えている。「俺の描いた絵の具があちこちにくっついているのに気付いたよ。『俺は凄いものの一部だった。ロジャーもそうだった』と思った。いろんな素晴らしいことを一緒にやったんだ」
「チャリティ・ライブも素晴らしい一夜だったよ」ギルモアは語る。「ロジャーはあらゆる録音・録画機材の持ち込みを禁止したんだ。でも俺は自分のカメラを持ってきて、身内に『最初にこのボタンを押して、終わったらもう一度押してくれ』と頼んだ。後でロジャーに撮影したと言ったら「素晴らしい!」だってさ。『まともなカメラを持ち込ませてくれたら、もっと良い動画を撮れたのにな!』とは言わなかったよ。でも本当に楽しかったね。数時間一緒に飲んで、けっこう酔っ払ったんだ。そうして彼は彼の、俺は俺の道を進んでいったのさ」
ギルモアの考えはこのようなものだ。
「全員がエゴの問題を抱えた4人によるコラボレーションが、素晴らしい結果を生んだんだ。それぞれが思い描く自分像と実態には少しずつ違いがあった」
ただ、ウォーターズはその意見には同意していない。
「他のバンドと較べて、エゴの問題はそれ以上でもそれ以下でもないと思うよ」
エゴと無関係ではなさそうだが、ロジャーは2002年のソロ曲「フリッカーリング・フレイム」の歌詞を諳んじてみせる。「"喝采を求めて神経結合部が静止し、エゴが骨の端を手放すとき/かけがえのない愛に代わりに焦点を当てて/我は自由を手にする”。最近の俺は、こんな心境なのかもね」
確かにそうかも知れない。ウォーターズは今回の取材で『狂気』と『炎(あなたがここにいてほしい)』におけるギルモアのボーカルについて語ったとき、「葉巻はいかが」でゲストとしてロイ・ハーパーが歌っていることについて言及している。
「唯一悔やんでいるのは、あの曲でロイ・ハーパーに歌わせたことなんだ」ウォーターズは言う。「俺が歌うことも出来たけど、自分自身を抑制してしまった。心の奥底では少し傷ついているけど、『くたばりやがれ。お前らがどう思おうと、俺が歌うんだ』と主張するリスクを冒す度胸がなかった。それは後悔しているね」そして彼は微笑む。「でも、あまり後悔することはないよ」
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From Rolling Stone US.
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