海野雅威がジャズピアノの歴史と向き合う理由「スタンダードを知らずに自分の曲は書けない」
Rolling Stone Japan / 2023年7月13日 19時0分
ジャズピアニストの海野雅威が最新アルバム『I Am, Because You Are』を発表した。そこには様々なスタイルを身に着け、その歴史をリスペクトする海野の姿勢が垣間見える。ニューオーリンズからスウィング、ストライドピアノからビバップ、モーダルまで。100年を超えるジャズ史が海野らしい演奏のなかに散りばめられている。
1980年生まれの海野は、トランペッターの黒田卓也と同い年で、ロバート・グラスパーやカマシ・ワシントンとほぼ同世代。ハイブリッドなジャズを提示してきた彼らと同じ時代に育ってきたわけだが、オーセンティックなジャズに恋焦がれてきた海野の演奏や音楽観には、大ベテランのような成熟が感じられる。だからこそ、アメリカに渡ってからレジェンドたちの信頼を勝ち取り、ロイ・ハーグローヴのレギュラーバンドにも抜擢されたのだろう。
僕(柳樂光隆)も同世代の一人として、海野とじっくりジャズピアノの話ができたらと思っていた。このインタビューでは彼が出会い、聞き親しんできたピアニストについてたっぷり語ってもらったので、ジャズ史を縦断するようにピアニストの名前が多数登場する(膨大な情報量になったので、参考資料としてプレイリストを作成してみた)。サマラ・ジョイのように、オーセンティックなジャズが再び注目を浴びている今の状況を考えるうえでも、意義深い話ができたと思う。
(※編注)記事中の写真はすべて海野氏提供、コメントも本人によるもの。
―今日は海野さんのジャズピアノ観を深堀りできたらと思います。まず、一番好きなのは誰ですか?
海野:一番は決められない……でも、ちゃんとお会いできて、何かを心に残してくれた存在でもあるハンク・ジョーンズってことになるのかな。
僕はオスカー・ピーターソンから入って、ビル・エヴァンスを聴いて、ウィントン・ケリー、レッド・ガーランド、ソニー・クラーク、ボビー・ティモンズ、ホレス・シルヴァー、エロル・ガーナーとモダンジャズは一通り聴いてきました。でも、実際お会いできた人ってなるとハンク・ジョーンズだし、ハンクは僕が思う最高のピアニストなんですよ。
―どんなところが最高なんですか?
海野:技術的なことを言えば、ハンクがニューヨークに出てきた時代はまだハーレムにストライド・ピアニストがたくさんいたので、彼はそれを経験して身につけているんですよね。でも、その後すぐにストライド・ピアノは歴史からガクっと抜け落ちてしまった。ルートや10度も多用して、強力な左手の支えの上で成り立つ……という演奏が、モダンジャズのなかで影を潜めてしまったと思うんです。
―ビバップ以降、存在感が薄くなったスタイルですよね。
海野:ジェームス・P・ジョンソン、ウィリー”ザ・ライオン”スミス、ファッツ・ウォーラーらがやっていたスタイルを、ハンクが踏襲して発展させていることは彼の大きな持ち味にもなっています。例えばバリー・ハリスはこのストライド時代のNYを経験できなかったことを悔やんでいたようです。それに、ハンクは、テディ・ウィルソンの後釜としてベニー・グッドマン楽団にも在籍したので、スイングの時代も心得ている。しかも、チャーリー・パーカーやメアリー・ルー・ウィリアムス、セロニアス・モンクとも友人でビバップ創成期からその中心にいたピアニストですし、彼らと共に演奏している。ある時、ハンクが「チャーリーは若かったけど凄い才能だったよ」と親しみを込めて話してくれたことがあって「チャーリー誰のことですか?」って僕が聞いたら、なんとパーカーでした(笑)。それでハンクよりパーカーが年下だってその時に改めて気づきました。さらにバド・パウエルとも交流があり、バドもハンクを尊敬していましたし、オスカー・ピーターソンやジョージ・シアリングもハンクから影響を受けていてそれを公言しています。ナット・キング・コールが一番認めていたのもハンクでしたからね。ハンクはスイングとかビバップとかスタイルで演奏していない人でした。だから、当時からモダンジャズをやろうとしてきた人にとって、ハンクは憧れの存在だったわけです。歌伴でもあらゆるセッションやサイドマンで引っ張りだこでした。
僕がNYでハンクのライブを観に行くと、客席にはケニー・バロン、バリー・ハリス、シダー・ウォルトン、マルグリュー・ミラーはいるわ(笑)。僕はトミー・フラナガンとは会えなかったけど、彼も生きていれば絶対ハンクを観に来ていただろうし。ピアニストのなかのピアニスト、NY中のピアニストが憧れる存在でした。
海野とハンク・ジョーンズ、2006年9月12日に東京のソニー・ミュージックスタジオにて
「プロデューサー伊藤八十八さんの粋な計らいで、シンガーTiffanyのレコーディングで一曲ハンクと共演する事になり曲のコード確認をする様子。ハンクの特徴的なコード進行や、コードネームの書き方や捉え方に初めて触れられた機会でした」
―海野さんは晩年のハンク・ジョーンズと交流があったんですよね。
海野:そうなんですよ。渡米するにあたって、ハンクを日本に招聘していたプロデューサーの伊藤八十八さんが、僕が大ファンだと知ってハンクを紹介してくれて、来日のたびに僕は熱心に観に行ってました。レコーディングの現場も見学させてもらって、なんと一曲ハンクと共演したこともあります。ハンクもその時から僕を気に入ってくれて、僕の渡米に必要なビザの推薦状も書いてくれた。そのおかげもあって僕は初めからアーティストビザを取得してアメリカに行けたんです。僕は学校に行くために渡米したわけではないですから。
―ジャズミュージシャンでは珍しいですよね、武者修行というか。
海野:そう。NYで暮らして自分が何を感じるんだろうと思って。傍から見たら武者修行になるのかもしれないけど、実際は修行というよりも、小さい頃から憧れてきたレジェンドに会えて交流できたり、と夢が叶うのが楽しくて仕方なかった。知り合いはほとんどいなくて、仕事もゼロからのスタート。でも不思議と不安はありませんでした。時間はたくさんあったので、特にハンクがツアーをしていない時は彼の自宅によく通っていました。
ハンクは家ではあまりジャズを聴きたがりませんでした。ショパンやドビュッシーが好きで、家ではクラシックを聴いたり練習していました。いつ行っても大体ピアノの音が聴こえてくるんですよ。家でスーツを着て、朝7時くらいから夜6時くらいまで弾いていたり。練習の鬼みたいな人でしたね。スーツを着て練習するのは、音楽への敬意からなんです。ハンクのお父さんが厳格な人で、クラシックや教会音楽はいいけれど、ジャズなんて悪魔の音楽だなんていう人だったみたいです。今よりも比較にならないほど黒人差別の厳しい時代に生まれ育ち、その中でピアノを弾けることや音楽に心から感謝しているからこそ、ピアノを弾く時は家でもスーツを着ていたんです。面白いのは、そういう家庭環境にありながらも、弟のサドやエルヴィンはお父さんのことをあまり気にしていないようで、ワイルドに育っているんですよね。持って生まれたそれぞれの性格なんでしょうね。
―海野さんが渡米したのは2008年、当時のハンクはすでに80代ですよね。
海野:80代後半ですね。その頃、「88歳で鍵盤の数と一緒になったから、ようやく少しはピアノのことがわかるようになったかな」と言っていたお茶目なハンクを今でもよく覚えています。
海野とハンク・ジョーンズ、2008年7月7日にNYの自宅でセッション
「憧れのハンクと彼の自宅で何時間も連弾セッション。こんな贅沢な経験は他にはないでしょう。 繊細なタッチや音楽に対する哲学、練習方などを自然と学びました。NYに来てよかったと心から思えた時間でした」
―ハンクのアルバムはたくさんありますが、特に好きなのは?
海野:初めに好きになったのは、ケニー・クラークとやっている『The Trio』という1956年のアルバムです。あの頃の彼の演奏にまずはすごく惚れたので。僕が日本で作った最初のデビューアルバム『Pee Ka Boo!』(2004年)でも取り上げた「We're All Together」という大好きな曲も入っています。あとは、切ない話になっちゃうんですけど……。
―というと?
海野:ハンクには年上の奥さんがいたのですが、アルツハイマーになってしまって、ハンクのことがわからなくなってしまったんです。その時期にハンクが大きな心臓の手術をして、奥さんは施設に入ったので、二人は一緒に暮らせなくなってしまった。
それで、ハンクはロバータ・ガンバリーニ(ハンクとのコラボでも知られるイタリア出身のジャズ歌手)の部屋を間借りしていたのですが、あるときそこでセッションしてくれたんです。(一緒に)連弾をするんですけど、僕は2~3時間で疲れるのに、ハンクはやめようとしないんですね。気づいたら6時間とか7時間になって「そろそろ休憩しなくても大丈夫ですか?」と言っても止まらなくて。ハンクに聞いたら「昔はこんなの当たり前だったから」と。すごくそのセッションを楽しんでくれました。7時間でいったい何曲演奏したのか覚えていませんが、僕は昔からスタンダードが大好きだったので、ハンクのコールする曲をほぼ覚えていたので弾けてほっとしました。その日以来さらに認めてくれたようで、周りのミュージシャンにも僕の話をしてくれたりしていました。セッションを通してハンクから練習方法やタッチ、ハンクならではのコード進行なども学び、まさに夢のような時間でした。
ところで、ハンクの青春時代のスケジュールはめちゃくちゃハードで、最初のギグが夜中の10時か11時から始まって、そのまま朝の5時とか6時になり、そこからさらにメアリー・ルー・ウィリアムスの家に行くと、そこにセロニアス・モンクたちが集まってきてハングアウトして、そのあとはスタジオへ行き、朝10時からレコーディングで、夕方頃に帰ってきて2~3時間だけ寝て、ご飯を食べて、練習してまた夜になったらギグが始まるみたいな感じだったそうです。とにかく演奏し続けていた人なので、僕との6~7時間のセッションなんてチョロいもんだったみたいで(笑)。とにかく集中力が半端ない。それを肌で感じました。ハンクの長年の親友でもあったフランク・ウェスとセッションしていた時にもそう感じたので、あの世代特有のミュージシャンライフだったんだと思います。
海野とフランク・ウェス、2010年頃にNYでの自宅セッションにて
当時、90歳近かったFrankは自宅に若手ミュージシャンを招き、日々セッションをしていました。この世代のミュージシャンは全くの疲れ知らずで、何時間でもセッションをしてくれて、歳を重ね身体は不自由になる事も多い中でも、一度楽器を吹くと誰よりも若々しいフレッシュな演奏で、若手にジャズの精神を最後まで伝え続けてくれました。
―凄まじいエネルギーですね。
海野:で、切ない話にようやく行きますが、それは亡くなった時のことです(2010年)。ハンクは末期がんになっていて、もう手の施しようがないので、病院じゃなくてホスピスという痛みを緩和するケアの方の病棟に入っていました。僕は昼過ぎにキーボードを担いでハンクの病室へ行きました。着いた時にはもういませんでしたが、ちょっと前にフランク・ウェスもお見舞いに来ていたそうです。ハンクは一人で静かに病室にいて、その時は元気そうに見えました。一緒にお話してから持参したキーボードで「Were All Togeter」を弾いたら喜んでくれて。でも、次第に周りのナース達が慌ただしくなり、僕もそこから離れられなくなり、そして午後9時頃にハンクが僕の手を握ったまま亡くなったんです。まさかその日そこで亡くなるとは思っていませんでしたし、最期に立ち会う事になるとは……今でも不思議でなりません。ハンクはその直前に「I want to go home to practice」(家に帰って練習したい)と言っていて、僕は「Definitely, You can!」(絶対にできますよ!)と励ましたんですけど、そのままふわーっと力が抜けていって。最後の最後まで練習したいと言っていたんですよね。
だから、ハンクはピアノの世界から来てくれた使者で、この世に素晴らしい音楽を伝えてくれた伝道師じゃないかって。僕は本気でそう思っています。
あと、これは今まで誰にも言っていないのですが、ハンクが亡くなった後、悲しみとショックで呆然としているうちに、日付が変わり午前0時を回りました。その時、ハンクが病室に持ってきていた日めくりカレンダーを僕はそっとめくりました。ハンクが生きていた世界で永遠に時間が止まって欲しいという思いと、でも時が進んで行く事は避けられない現実。とても悲しく複雑な気持ちでした。師匠ハンクとの大切な思い出を胸に、まだまだ未熟な僕だけどこの先も生きていくという、何か言葉では言い表せない想いを心の中で誓った夜でした。
ビル・エヴァンス、ボビー・ティモンズ、ジュニア・マンス
―最初にオスカー・ピーターソン、ビル・エヴァンス、ウィントン・ケリー、レッド・ガーランド、ボビー・ティモンズの名前も挙がりましたが、このあたりが海野さんにとって影響源のボリュームゾーンという感じでしょうか?
海野:そうですね。9歳の頃に、親がアート・ブレイキーを聴きにブルーノート東京へ連れて行ってくれたのが、僕のジャズの原点なんです。その時ライブで聴いたピアニストはまだ10代のジェフリー・キーザーでした。でも、僕が聴いていたアート・ブレイキーは、ボビー・ティモンズが生み出した「Moanin」の頃のもので。モダンジャズの原風景はそのあたりなので、今でももちろん大好きです。それからトミー・フラナガン、シダー・ウォルトンやモンティ・アレキサンダーもよく聴いていました。そういう「歴史が脈々と続くツリー」に根差している人をたくさん聴いてきましたね。
―特にコピーしたピアニストは?
海野:最初はオスカー・ピーターソンと一緒に合わせて弾いていたりしていました。9歳の頃です。レコードに合わせて一緒に弾くみたいな感じで。それを見ていた親が「この子はジャズが好きなんじゃないか」って気づいて、浅草橋にあるジャズ教室に連れて行ってくれたのが原点です。だから、最初はオスカーとビル・エヴァンス、ボビー・ティモンズでした。
―ビル・エヴァンスはどこが好きですか?
海野:どの時代のビルを聴いても人間味が溢れているんですよ。「My Foolish Heart」など綺麗だなってイメージが一般的だと思いますが、僕の印象はブルージーなんですよね。一音で心までダイレクトに響く。(ピアノが)常に歌っている。彼の「節」があって、常に呼吸を感じます。
―エモーショナルですしね。
海野:それに、とてもスインギーなんですよ。ウィントン・ケリーと比べられて、ビルはバラードの人みたいなイメージがあるかもしれませんが、そもそもスイングしない人がマイルスのバンドに入れるわけがないので。
―もともとバド・パウエルから影響を受けた人でもありますしね。
海野:ビルのトリオにはスコット・ラファロ、ポール・モチアンと結果的に白人が集まったけど、ビルがトリオ結成時に最初に声をかけていたのは、実は黒人の二人で、ジミー・ギャリソンとケニー・デニスだったんですよ。でも、二人とも空いていなくて、その他大勢にも声をかけたけどダメで、回り回って仕方なくラファロとモチアンになった。だから、ビルが白人とトリオを組みたかったという話は結果論なんですよね。マイルスのバンドを去って以降、ビルは白人としか演奏したがらなかったっていうのは、完全な誤解なんです。
―そもそも『Everybody Digs Bill Evans』のように、リズムセクションがアフリカ系アメリカ人の作品もありますし。
海野:はい。サム・ジョーンズとフィリー・ジョーンズですね。ビルはとにかくフィリーが大好きだったし、フィリーもビルが大好きな相思相愛な関係で。まあ、深いドラッグ中毒繋がりっていうのもありますけどね(苦笑)。ビルは人種の壁を超えてやっていけるジャズの希望だったんですよ。ジャズ界に奇跡的に咲いた一輪の希望の花ってフィリーはビルのことを語っていたそうです。
―海野さんがビル・エヴァンスを好きな理由がわかった気がします。
海野:大好きですよ。だから、僕はジミー・コブと演奏できることになった時に「ビルはどうでした?」ってめっちゃ質問しましたから(笑)。
―マイルスの『Kind of Blue』はジミー・コブのドラムがすごいですもんね。
海野:絶妙なんですよね。ジミーは最高にスイングするのはもちろん、繊細で絶妙なんです。例えば「So What」でのマイルスのソロの出だしのシンバル。あれは通称「コブの会心の一撃!」と呼ぶ人もいるぐらい歴史に残る絶妙さなんです。大き過ぎず小さ過ぎず、これしかないっていう完璧な音量、音圧のシンバル。あれはフィリーには出せなかったと思います。
有名な話ですけど、ビルはマイルスがどういうコンセプトのアルバムを作りたいと思っているか知っていた。でも、それ以外のメンバーは、ただ日時だけ言われて、レコーディングするっていうのはわかっていたけど「何をやるんだろう?」って感じでスタジオに集まってきた。そしたら、半年前に辞めたはずのビルが先に来てピアノを弾いて座っていて、現メンバーのウィントン・ケリーも呼ばれていたから、「俺、間違って来ちゃったのかな?」ってウィントンの機嫌が悪くなってしまった。それをジミー・コブがなだめて、「いやいや、お前も呼ばれたんだから絶対にあとで出番があるはずだよ」って。でも、出番はなかなか来なくてウィントンがマイルスに聞いたら「黙ってビルを聴いてろ」ってマイルスに強く言われていたらしくて。マイルスって喧嘩じゃないけど、そういうやり方でテンションを高めさせるのが好きみたいですよね。そして、ビルとウィントンはその後、大親友になった。そういうエピソードを、ジミー・コブに聞くと話してくれるんですよ。
左からパオロ・ベネデッティーニ、ルディ・ヴァン・ゲルダー、ジミー・コブ、海野。2016年6月20日、米ニュージャージー州のヴァン・ゲルダー・スタジオにて(Photo by John Abbott)
「ジミー・コブ最後のリーダートリオ作『Remembering U』録音時。伝説のレコーディングエンジニア、ルディ・ヴァン・ゲルダーの生涯最後のレコーディングでもありました。この時すでに引退していたルディですが、ジミーの長年の親友で、レコーディングを引き受けて下さったおかげで実現しました。ロイ・ハーグローヴもゲストで数曲参加してくれました。その事がきっかけとなり、私はロイ・ハーグローヴ・クインテットのメンバーに迎えられました」
ジミー・コブと海野の共演。2019年11月25日、NYのDizzys Clubにて
「『Remembering U』発売記念ライブ。奇しくもジミー・コブとの最後のNYでのライブとなってしまいました。ジミーは僕にとってNYの父で、心の支えでした。渡米してからジミー・トリオのピアニストとして10年間の活動で感じ、学んだ事は計り知れません」
―直接聞いてるのがすごいですね。では、ボビー・ティモンズの好きなところは?
海野:ビバップのランゲージを完全に自分のものにしていて、それが彼のファンキーな持ち味と完全に一体になっている。今も生きていたらどんな演奏をしていたんだろうって思わせてくれますよね。ノリ一辺倒じゃなくて、理知的だし。
―ボビー・ティモンズは「Mornin」に代表されるように作曲面でも優れています。
海野:曲も書けるピアニストだったらシダー・ウォルトンが真っ先に浮かびますけど、ボビー・ティモンズもまさにそんな感じですよね。シダーがデビューした時に「次期ボビー・ティモンズ」みたいに言われていたのは、アート・ブレイキーが率いるグループのピアニストの流れというのもあるけど、ボビー・ティモンズの流れを汲むコンポーザー・ピアニストってことでもあったんでしょうね。
現代でこういう存在は大好きなジョージ・ケイブルスですね。ジョージとは新曲を発表前にお互い最近作った曲を弾き合っているんです。ジョージのために僕が書いた曲「Crazy Love」はジョージが特に気に入ってタイトルもつけてくれましたし、彼のアルバム『Too Close For Comfort』でも収録してくれて、とても嬉しかったです。
―ボビー・ティモンズのファンキーさは研究したんですか?
海野:僕はそもそも研究をあまりしないんです。往年のアルバムをレコードで聴くのが好きで、そのフィーリングを真似して弾こうとしたりすることはありますけど、一字一句コピーして弾くというのを実はやったことがない。お勉強になっちゃうのが嫌いなんです(笑)。それよりも楽しみたいので。
―いいですね、昭和のピアニストみたいでかっこいい。
海野:リスナーの気持ちを持ち続けるのは大事だと思うんですよ。ミュージシャンというのは、意識しなくていいことまで細かく聴いちゃっている気がする。それでマニアックな方向に行って、音楽の本質から離れてしまうこともあると思うので。
―リスナー的というのは海野さんの特徴の一つかもしれません。ボビー・ティモンズと近いラインで、好きなジャズピアニストは誰ですか?
海野:ホレス・パーランですね。ハービー・ハンコックはそれ以前のあらゆるエッセンスを身体に入れていて、ハイブリッドな感じがします。で、ハービーのなかにもホレスが聴こえるんですよ。例えば、4thのサウンドとか。ホレスの映像を見ていると、小児麻痺で指が動かなくて、すごい指使いで弾いていてびっくりします。両手を駆使して(ハンデを)克服した人ですよね。そういう強さも大好きですし、何よりもファンキーだし泣ける。音に泣けるピアニストなんです。
―ジャズ喫茶の客みたいなこと言いますね(笑)。
海野:僕はミュージシャン以前にジャズ小僧でファンなので(笑)。あとはジュニア・マンス。実は僕、ジュニアからピアノを引き継ぎまして。ジュニアは渡米した時にすごく助けてくれたんです。彼は毎週月曜日に「Café Loup」でレギュラーのレストランギグやっていたんですね。あの憧れのレジェンドがNYに行けば毎週聴けるんだって。それはNYに来て心からよかったと思える経験の一つでした。ジュニアは本当に日本のことを愛していました。僕が初対面でも、僕が日本から来た若者でピアニスト、しかもジュニアの大ファンって事で受け入れてくれたんです。そんな彼が亡くなったあとに(2021年)、奥様から「ピアノを引き継いでほしい」と連絡があって。今も日々練習していると、何を弾いてもジュニアと繋がっているような感覚があります。
ジュニアは最高のストーリーテラー。最近、自分の演奏はかなりジュニアの影響も受けているなって思っています。メロディの構築の仕方、フレーズの置き方もそうですし、そのフレーズに対して合いの手を打っていたり。一つのラインでずっとやっているのではなくて、ラインに合いの手、ライン、合いの手みたいな立体的なことを、ジュニアはずっとやっていたんですね。
―つまり、コール&レスポンスですよね。
海野:そう、それを一人でやってのけるというか。ジュニアの特徴的な素晴らしい部分の一つだと思います。
ジュニア・マンスと海野。2015年12月27日、NYのCafe Loopにて(Photo by Sayaka Unno)
「毎週月曜日にこの店でヒーローの一人、ジュニアを聴く事ができた事は一生の宝物です。 演奏後には自ら一人一人のお客さんのテーブルまで来て挨拶してくれた温かいジュニア。ある時、ジュニアがツアーで演奏できない時に僕はトラを頼まれ、デイヴィッド・ウォンとDuoで演奏していたところ、なんと最後のセットでジュニアが現れて聴きに来てくれました。ツアーが終わり戻ってきたその足ですぐ奥様と来てくれたのでした。ジュニアは皆に愛されていました」
アーマッド・ジャマル、ロイ・ハーグローヴ、ブラッド・メルドー
―その流れでいうと、フィニアス・ニューボーンはどうですか?
海野:もちろん大好きです。ただ、フィニアスは聴くと気分が重くなってしまう時期の演奏もあって。精神的にやばい時期のバド・パウエルを聴いている感覚と重なる部分があります。フィニアスは若い頃のキラキラしている演奏がアメイジングで、今でもあんなのできる人いないだろうなって思います。オスカー・ピーターソンがアート・テイタムの系譜を引き継いだってよく言われるけど、僕に言わせると真の後継者はフィニアスじゃないかと。引き継ぐっていうのは大事な精神を引き継ぐって話で、演奏の形やスタイルを真似るわけではないですからね。逆にオスカーは、フィニアスのオクターヴ奏法を研究していましたから。フィニアスのオリジナリティは輝いていました。
だから、その意味でオスカーのハイブリッドぶりはすごい。エロル・ガーナーも入っているし、デューク・エリントンやカウント・ベイシーも入っているし、なんとビル・エヴァンスまで入っている。以前、モンティ・アレキサンダーとそういう話になったんですよね。ある時期からオスカーの弾くコードに明らかにビルのコードワークの影響を感じるって。ドイツのMPSからリリースしていた頃のクリアな音になってくる時期ですね。オスカーも常にずっと変化していたんですよね。
モンティ・アレキサンダーと海野
―そのモンティ・アレキサンダーはどんなところが好きですか?
海野:みんなオスカーが推して出てきたと言うけど、どちらかといえばナット・キング・コールやアーマッド・ジャマルの系譜だと僕は思います。脈々とジャズの歴史に根差しながら、モンティならではのカラーがある。ちょっと聴けば誰の演奏かわかるっていうのが、僕にとって最高のピアニスト(の条件)です。表面的な特徴ではなくて、深い音から感じるその人の個性って意味です。ジャマルっぽい、オスカーっぽいとか、エロル・ガーナーっぽいとか探ろうと思えばルーツは探れるけど、「モンティ節」みたいなものがある。モンティのスイング感はウィントン・ケリーにも勝るとも劣らない最高のノリで惚れ惚れしますね。そこは彼らにジャマイカのルーツがある事も関係あるのでしょう。僕はロイ・ハーグローヴのツアーでモンティとヨーロッパで同じような地域やフェスを周っていたので、同じホテルに偶然滞在したり、ライブを聴き合ったりと仲良くなりました。僕の大怪我で心配して真っ先に電話をくれたのもモンティでしたし。
あと、好きなピアニストで忘れちゃいけないのがアーマッド・ジャマルですね。
―やっぱり!
海野:(今年4月に)亡くなって本当にショックです。僕はジャマルを聴きたいがためにジョージ・コールマンとの仕事の機会を蹴って、サンフランシスコに飛んで、SF JAZZで3日間聴いた思い出もありますから。レジェンドに対しては、行かなかったら絶対に後悔するって思いが常にあって。2008年に渡米した一番の理由もそれなんですよ。ちなみにジョージ・コールマンとはつい先日にNYのスモークで4日間のギグに呼んで頂きようやく初共演が叶いました。
海野とジョージ・コールマンの共演(2023年6月4日、NYのスモークにて)
「メンバーのピーター・バーンスタイン、ジョン・ウェッバー、ジョージ・コールマンJr.の推薦で、88歳のジョージ・コールマンからオファーを頂き、初共演できた夢のような時間。休憩中も休みなく音楽談義、貴 重な歴史について話してくれたジョージの目はキラキラと輝き、まるで少年のようでした」
―ジャマルはどんなところがすごいと思いますか? 僕らの世代だとヒップホップの有名な曲にサンプリングされているっていうイメージですが。
海野:ジミー・コブが教えてくれたのは、マイルスはジャマルが聴きたいがためにシカゴのギグを入れて、さらに延泊して滞在を延ばしたりしていたそうですよ。自分が仕事をしていたら聴けないので。マイルスはジャマルの目の前でずっと聴いていたそうです。その上、自分のバンドのピアニストになってもらいたくて何度もジャマルを誘っている。結局断られてしまうのだけど。だから、マイルスってすごくピュアな音楽ファンだと思います。元々お姉さんがジャマルを先に知って、マイルスに「あなたも好きだと思うよ」って紹介したのがきっかけだったみたいですね。
―マイルスって意外と素直ですよね。妻のフランシスから「フラメンコを聴いて」と言われて「Flamenco Sketches」(『Kind of Blue』収録)が生まれたりとか。
海野:トニー・ウィリアムスに影響を受けたり、世代の違う若い人の感性を信じたり、すごくピュアですよね。
―マイルスはなぜそこまでジャマルにハマったんだと思います?
海野:一言で表現するとユニークだからでしょうね。誰もやっていなかった演奏方法だし、ヒップですよね。ダンスミュージックだからサンプリングされるのもわかります。イスラエル ・クロスビーとヴァーネル・フォーニアとの黄金のトリオは一体感があって、ピアニストは常に音を弾いて何かを構築するっていうのがスタンダードになっていたなかで、ベースとドラムに任せてピアノは弾かないで踊れるっていうのがジャマルのコンセプト。そもそもセンスの塊だから、一般的に「こう来たらこう来るだろう」っていうのをことごとく裏切ってくれる。常に想像力を掻き立ててくれるピアニストですよね。
僕はジャマルのベーシストだったジェイムス・カマックと、日本でも一緒にツアーしたり仲がよくて。彼からジャマルの話をよく聞かせてもらいましたが、コンサート(の映像)を観ていても、メンバーを翻弄しているんですよ。リーダーが誰にも予想できないことをやっている。そこにジャズの一番のフレッシュネスがあると思います。リハをやればいいっていうものではなくて、リハをやればやるほど、どんどんジャズの精神から遠ざかっていくっていうことにも通じます。さっきの『Kind of Blue』の話にしても、メンバーが何も聞かされてなかったのはリハをしなかった話にも通じますし。ロイ・ハーグローヴの『Earfood』も実はそうやって録られたんですよ。
―リハをほとんどしてなかった?
海野:その場でリーダーのロイがピアノをちょっと弾いたり、あとは(トランペットで)メロディを吹いたりしたのを、みんなが必死になって「今の曲は何?」みたいな感じで聴きとって、ロイが「できるようになったか?」って。ロイのバンドはリハも譜面もゼロ。「じゃあ、ちょっと試してみようか」ってみんなが録ったら、それがもう本テイクだったんです。
―でも、『Earfood』って完成度が高いですよね。
海野:あのバンドってワーキングバンドで、 LAのキャピトルスタジオに昼間入ってレコーディング、夜はカタリーナで毎晩演奏していたんですよ。だから、ツアーやその時のライブでやっている曲もレコーディングしている。「Strasbourg / St. Denis」みたいに彼らにとってはすでにライブで演奏して馴染みのある曲もあったけど、曲によっては本当にその時に初めてだったみたいですよ。僕のベーシスト、ダントン・ボーラーからこの辺りの話は詳しく聞いているので、僕も知っています。
ロイ・ハーグローヴと海野の共演。2018年4月10日、パリのNew Morningにて(Photo by Pascal Martos)
「ロイが最も愛したライブハウスは、間違いなくここパリのNew Morningでした。年に何度も連日ここで演奏し、熱狂的なファンを沸かせました。そして、2018年10月15日、ロイの生涯最後の演奏がこの場所だったのも何かの縁でしょうか。ロイのコンピングをしているだけで私はとても幸せでした。この写真はその雰囲気がよく出ていると思います」
―ロイ・ハーグローヴといえばディアンジェロやRHファクターの印象がありますが、実は大ベテランのレコーディングにも参加してるような人でもあるんですよね。例えば、オスカー・ピーターソンとも『Oscar Peterson Meets Roy Hargrove And Ralph Moore』で共演しています。
海野:はい。そこがロイの真骨頂の一つでもあるわけです。ソニー・ロリンズやオスカー・ピーターソンのようなレジェンドからも、ロイはデビュー当時から共演を望まれてきました。オスカーの場合は、サックスのラルフ・ムーアがその界隈に溶け込んでいて、オスカーともロイより先に繋がっていて。ラルフはロイの先輩だったので、彼をフックアップしてあげたみたいです。オスカーも事前に何やるかわからない人で、彼がエレピか何かを自宅で弾いたデモテープみたいなのをラルフが持っていて、それを聴かせながらロイに教えていたらしいです。何の曲をやるのかロイがわからなかったから。
ロイ・ハーグローヴと海野の共演。2018年3月17日、モスクワのTriumph of Jazz Festivalにて(Photo by Olga Karpova)
「今では演奏で訪れていた事が信じられないモスクワでの演奏。極寒の中での忘れられないライブです。あの時出会った人は元気だろうかと、その人達の顔が浮かびます。一刻も早い戦争の終結を願います」
ジョン・ピザレリと海野、2022年5月22日にブラジルのBelo Horizonteにて(Photo by Julio Mello)
「ロイが亡くなった後、メンバーに誘ってくれたギターレジェンドのジョン・ピザレリとのブラジルツアー。ユーモアと疾走感溢れる演奏で聴衆を魅了するリーダー。ジョンとの共演はいつも最高に楽しい経験です。ジョンとマイク・カーンとのトリオで世界中を廻りますが、かつてロイとも演奏した地域や会場も多く、思い出がフラッシュバックし、ノスタルジックな想いがいつもあります」
―さっきから、海野さんにしかできない話ばかりですね。
海野:当事者と直接演奏して交流していますからね。この話はロイから直接聞いていますし、ロイが亡くなった後に僕がラルフとツアーした時に彼からも聞いています。いろいろな人からダイレクトに歴史的な話もたくさん聞いてきたので、いつかは本にでも書いた方がいいかもしれないと思う話ばかりです。ところで、話は変わりますが、ジミー・コブの話だと、ジミーのバンドにギターのピーター・バーンスタインや、ベースのジョン・ウェバーがいる時、僕は前任のピアニスト、リチャード・ワイアンズやブラッド・メルドー役だったらしいです。あっ、彼らはこういう気持ちだったのかと感じられたのは嬉しい経験でした。
―海野さんは世代的に、メルドーど真ん中でもおかしくないですが。
海野:正直、みんなが騒いでいた頃はちょっと引き気味でしたね。でも、NYに行ってから、ジュニア・マンスの家に行って話していると「メルドーは素晴らしい」と言うんです。「俺の教え子のなかでも最高に優秀な生徒だった」って。
ジュニアが教えていたのってブルースのクラスなんですよ。一般的にメルドーはブルースを弾くイメージではないと思うけど、そんなことなくて。ビル・エヴァンスの「My Foolish Heart」の話と同じで、メルドーの演奏のところどころにブルースを感じるんですよね。ここで僕が言ってるブルースって、単なる「12小節のブルース」とかそういう単純な意味じゃなくて、曲の中にソウルを感じるかって意味ですけど、メルドーにはそれがある。NYに渡ってから好きになりましたね。
―歳を重ねて、バラード中心のアルバムでブルースをやってたりもしますしね。
海野:時代を切り拓く人として、どこか気負っていた部分があったのかもしれないですしね。今のメルドーの方が僕には自然に入ってきます。
マルグリュー・ミラー、シダー・ウォルトン、ジェイムス・ウィリアムス
―海野さんの同世代は、マルグリュー・ミラーに影響を受けた人も多いと思います。
海野:別格ですよね。彼がいなかったら現代ジャズはない。グラスパーはもちろんみんな尊敬していますし。そこは演奏だけじゃなくて、彼の人柄もありますよね、神様みたいな人だったから。僕がNYに渡る直前にロン・カーターのトリオでマルグリューがブルーノート東京に来日していて、もうすぐ渡米するんですって楽屋でお話したんですよ。そしたらそれ以来NYで会う度に優しくしてくれて。ある時スモールズのライブでマルグリューを聴いたあとに、「今日は来てくれてありがとう。NYの街は君をよくトリートしているかい? そういえば、なんて名前を呼ばれるのが好きかな? タダって呼んでもいい?」ってわざわざメールまで頂いたことがありました。あの憧れの大先輩がですよ!
マルグリューに聞くと彼もNYで最初の頃は馴染むのに大変だったそうで、僕の事も心配してくれていたんです。若くして亡くなってしまったけど(2013年死去)、実年齢以上にマチュアな人でした。感覚的には80〜90代っていうか。ロイもそういう人で、49歳で亡くなったけど(2018年)、60〜70代のように達観している人だった。僕はハンク・ジョーンズ、フランク・ウェス、ジミー・コブ、ジュニア・マンスのような90代のレジェンドと演奏したり交流してきたので、マルグリューやロイがすでにレジェンド達のように達観していてマチュアだったことがよくわかるのかもしれません。ピアニストとしても、マルグリューのまろやかで熱くて温かいタッチはピカイチでした。今でも亡くなったことに泣いちゃいますもんね。
―マルグリューは伝統的な部分を引き継ぐってことを最も体現していたピアニストの一人ですよね。80年代にアート・ブレイキーやウィントン・マルサリスと一緒にやっていたピアニストはいかがですか? 例えばサイラス・チェスナットとか。
海野:サイラスはタッチが特に好きです。タッチが綺麗な人が好きなんですよね。あと、ジェイムス・ウィリアムスも大好きです。コンポーザーとしてもバンドサウンドとしてもご機嫌ですし、彼のゴスペルが堪らないです。あの世代のピアニストって、マッコイ・タイナーの影響がすごく入っていて。その中でジェイムスの特徴はブルースやゴスペルを弾いた時の奥深さにあって、シンプルにポンっと弾いた時に「ああ!」ってなっちゃう。
―ロイ・ハーグローヴもジェイムスの曲を取り上げていましたし、彼は作曲家としても特別でしたよね。
海野:「Alter Ego」ですよね。ロイはピアニストの曲を好んで取り上げるところがあって、そこも彼のバンドが楽しかった理由の一つですね。ジョン・ヒックスの「After the Morning」やシダー・ウォルトンの「Im Not So Sure」をやるときはピアノをフィーチャーしてくれるので、ロイを通じてジョンやシダーの精神を感じることができました。ラリー・ウィリスやロニー・マシューズなど、かつてロイのバンドを支えた先輩のレジェンド達の曲もよくやってましたからね。
―シダー・ウォルトンはどんなところが好きですか?
海野:シダーはソロで流れるようなフレーズを紡ぐんですよ。クラシカルとも言えそうなくらい完成されたものに聴こえます。彼はトータルでバンドサウンドを考えていたんですよね。ビル・エヴァンスと比較すると、ビルは管楽器がいる編成ってそんなに好きじゃなかったと思う。ピアノがリードして構築していく、自分でテーマを取ってソロって感じのインタープレイが好きだったと思うんです。でも、シダーの音楽は管楽器がいるのがスタンダードになっているところがあって。そこはもしかしたらアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの流れかもしれない。音楽の構築の仕方として、管楽器が聴こえてくる曲をいっぱい作っていましたから。
―実際、彼の録音にも管がいますしね。
海野:サックスのボブ・バーグとかね。僕は新しいアルバムに、シダーに捧げる「Cedars Rainbow」という曲を収録したのですが、ここには彼のいろんな曲の要素が混ざっています。最初にシダーの曲を好きになったのは「Firm Roots」と「Holy Land」、ロイとよくやっていたのは「Im Not So Sure」。シダーの奥さんから名前を取った「Marthas Prize」もいい曲ですし、好きな曲は数え切れないですね。
―シダー・ウォルトンと近い世代だと、ハロルド・メイバーンはどうですか?
海野:ハロルドはメンフィスの誇りを持っていた人で、彼の弾くブルースはメンフィスのブルースそのものでした。ブルースに精通した人が聴くと、すぐにどこの地域のブルースかわかるものなんですよね。その人の地元の音になるので、マルグリュー・ミラーが弾いてもメンフィスのブルースになる。みんな地元に誇りを持っていて、「俺はここから来たんだ」っていうローカル性を提示するんです。それはフィニアス・ニューボーンやドナルド・ブラウンも同じで、何を弾いても彼らからはメンフィスの香りがする。ハロルドはコンピングの達人でもありましたから、リー・モーガンやジョージ・コールマンなど彼を手放さなかったリーダーも多くいます。シダーもハロルドも亡くなってしまいましたが、彼らと交流する事ができて人柄に触れられて本当によかったです。
ジョージ・コールマン(Sax)と海野の共演写真
―アート・ブレイキーのバンド出身者はメンフィス人脈が多いですよね。
海野:ジェイムス・ウィリアムスの周りのグループですよね。マルグリューもそう。一緒に成長し合った仲間なんですよね。当時、例えばマルグリューが新曲を作ると、ジェイムスがライブでその曲を早速やっていたり、その逆もあったそうです。みんなでハングアウトして、「最近何やっているの?」と見せ合ったりして、他の人がライブでやったりするんですよ。盗られたとかじゃなくて、ライバルどうしで互いに高め合う。今でもジェイムスがミュージシャン同士の関係性を変えたって、ある年代より上のミュージシャンは言います。コンペティティブ(競争的)なジャズ界で、友情関係の素晴らしさを感じさせてくれて、その中心にいたのが彼だった。もしかしたらジョージ・ケイブルスと僕の関係も当時でいうと似たような関係かもしれません。
―ジェイムスがリスペクトされている感じって、日本にいるとわかりづらいけど、海野さんの話を聞くといろいろ納得しますね。
海野:僕はNYでジャズの学校に行ってはいませんが、次第に受け入れてもらえました。最初は人脈を作るのに時間はかかりましたが、お会いできなかったけれど、ジェイムス・ウィリアムスのようなあたたかい人がいたから、彼のような心ある人のあたたかさに支えられたのだと思います。
―アフリカ系アメリカ人寄りのジャズコミュニティに、ってことですよね。
海野:そう。それが僕のやりたかったことですから。
ニューオーリンズ、日本人ピアニスト、過去との向き合い方
―海野さんの前作『Get My Mojo Back』(2022年)にはビバップより前のスタイルもかなり入っていました。その感じでいうとエリス・マルサリスはどうですか?
海野:素晴らしいですね。NYにいなかったからアンダーレイティッドな扱いかもしれませんけど、NYにいたらマイルスとやっていたかもしれないですよね。ジミー・コブは仲良しで一緒にアルバムも作っていたので、ジミーからエリスの話も聞いていました。
―海野さんの趣味的には、ニューオーリンズのピアニストも好きですよね?
海野:プロフェッサー・ロングヘアやジェイムズ・ブッカー、ドクター・ジョン、アラン・トゥーサンも大好きです。でも、僕の中でニューオーリンズの友達で真っ先に浮かぶ人はサリヴァン・フォートナーです。僕がロイのバンドに入るきっかけは、サリヴァンが僕に託したからなんですよ。
―海野さんの前任がサリヴァン・フォートナーだったんですよね。
海野:サリヴァンは6~7年くらいロイのバンドに在籍していたんですけど、当時はロイの体調の浮き沈みでツアーがキャンセルになりがちで、メンバーが生活に困ることが定期的にあったそうです。サリヴァンにはジョン・スコフィールドなどのビッグネームからオファーが来るんだけど、彼はロイを優先していたんですね。でもある日、「もう6年経験したから」って辞めることを決めた。その時に、ヴァン・ゲルダー・スタジオでのジミー・コブとの録音に参加した僕の演奏を、ロイが気に入っていたことをサリヴァンも知ってたみたいで、僕を推薦してくれたんです。ほかにもジミー・コブやジョージ・ケイブルス、ジャスティン・ロビンソンも推薦してくれたこともあって、僕はロイのバンドに入ることになりました。
僕がロイのバンドに入る時に、サリヴァンがうちに来て「最近ロイのバンドはこういう曲をやっていた」とか教えてくれました。全く譜面がないから、サリヴァンの演奏を録音しながらひたすら聴いて曲を覚えていました。ちょっと話が脱線しちゃったけど、ニューオーリンズといえば僕にとっては友人のサリヴァンなんです。
―そんな繋がりがあったんですね。
海野:あと、サリヴァンとはストライドピアノの頃のアート・テイタムの話で毎回盛り上がったりしました。「フレッチャー・ヘンダーソンのここのフレーズを、アート・テイタムが取っているよね」とか二人で研究したり。マニアなんですよ。
―サリヴァンの演奏にもストライドっぽい感じがありますよね。
海野:最初に僕が言った「バド・パウエル以降に失われているもの」の話もよくしましたね。だから、それを復活させたいって思いもあるんですよ。ストライドっていうのは古い音楽ではなくヒップなんだっていうのを、今の解釈でやりたいというか。サリヴァンはNYで出会った仲間の中でも特に飛び抜けて天才肌ですね。
サリヴァン・フォートナーと海野
―ラテン系のピアニストだと誰が好きですか?
海野:僕はチック・コリアから入ったタイプです。ハービー・マンとかとやっている、初期のサイドマンとしてのチックはキレキレで好きでしたね。
―スタン・ゲッツの『Sweet Rain』で演奏している時とか?
海野:もちろん大好きです。ラテンサイドのチックがすごく好きで、そこからラテンのジャズを聴き始めました。ピアニストとして大好きなのはゴンサロ・ルバルカバ。最初に好きになったのは日本企画のアルバムで、ゴンサロの簡単にモントゥーノを弾かないところ、強引にキューバの方向に持って行かないところが好きですね。でも、モントゥーノが聴こえだすと「来たー!」って嬉しくなっちゃいますが(笑)。彼にしかできないリズム感だし、いい意味で青い光が見えるようなテンションなんですよ。ビル・エヴァンスもそういう性質があるけど、静かに燃える炎みたいなところがあって、そこからいきなり「ボーン!」って来るみたいなところも好きです。抑制の美学、澄んだ音とタッチの美しさと爆発力。いやー、いいですよね。
海野とチック・コリア
―日本人のピアニストだと誰が好きですか?
海野:ジャズじゃなくていいなら内田光子さん。先輩だったら渋谷毅さん。世界観を持っていて、弾いている姿勢とかも含めて、その人にしか出せないロマンティックな何かがある方が好きですね。山本剛さんはもうど真ん中です。
―秋吉敏子さんはどうですか?
海野:神懸ってるというか……すごいですよね。今のほうが技術も発展しているから、若い人は理解した気でいるかもしれないけど、「何あれ⁉️」って感じ。しかも、その時代の最先端だったはずのものを、島国の日本でいち早く取り入れている。日本のモダンジャズ創成期にそんな方がいたことにはすごく勇気づけられます。
そんなふうに、「え⁉️」って思う人がたまにいますよね。ジョー・ザヴィヌルもそう。なんでウィーンの人がこんなにブルースを弾けるの、みたいな。
―「なんでこんなにファンキーなんだろう?」って思いますよね。
海野:しかも、ザヴィヌルも歴史を大切にしている。彼はベン・ウェブスターとルームメイトだったんですよね。ベンとの共演アルバムもありますが、あれもルームメイトだからっていうのがきっかけで。
そう考えると、言い訳はできないですね。ミシェル・ペトルチアーニをめっちゃ聴いていた時期もありましたが、彼らのようにイマジネーションがあれば、その国(アメリカ)に育っていなくても、そしてハンディキャップがあったとしても超越していけると思うんです。
―海野さんはラグタイムから現代まで、100年分のジャズを聴いているわけじゃないですか。しかも、その歴史を把握していて、どのスタイルも演奏できる。ある種の伝統というか受け継がれてきたものを大事にしているプレイヤーだと思うんですけど、伝統を大事にすることと、自分のオリジナルなものを表現することのバランス、その2つを共存させることについてはどのように考えていますか?
海野:別に過去が素晴らしいと思って、それを目指してやっているわけではありません。自分も現代に生きていますから。例えばストライドに関しても、昔と同じことをやりたいわけではない。どうしたって時代の香りや空気だったり、その時にしか生まれないものがあるわけですから、過去と同じになるように目指してもしょうがない。でも、過去にリスペクトがないと音楽はできないとも思うんです。
「自分たちがどこから来たかを知らないと、自分たちがどこに行けるかもわからない」「歴史を遡って、遡って、遡っていくほど、さらに先に行ける」と、ウィナード・ハーパーがよく言ってました。音楽が本当に好きなら自然と音楽の歴史や文化にも興味を持つと思います。それは懐古主義じゃない。音楽という大きな世界のなかで、心から好きでやっている人は、その人の感覚をトラックアウトして、それこそモンティみたいにオリジナルになるんじゃないかなって思っています。
―たしかに。
海野:前作『Get My Mojo Back』に続き、新作『I Am, Because You Are』でも全曲オリジナル曲を収録しましたが、それは、先程お話したボビー・ティモンズ、シダー・ウォルトン、ジョージ・ケイブルスのように、僕もコンポーザーでありピアニストでありたいと思っているからかもしれません。でも、たまに考えるのですが、ジャズの世界はスタンダードをみんな聴きたがるじゃないですか。他の洋楽全般だと、逆にカバーの方が珍しいですよね。「え、カバーアルバム出すの⁉️」って感じで。でも、ジャズの世界はカバーの方が当たり前。それだとジェイムス・ウィリアムスやジョン・ヒックスがやっていたような新しい曲を発表する場がないんですよね。
僕にとって自分の曲は名刺代わり。前作は特にそうでしたが、僕はトラディショナルなものをルーツとして影響を受けていますが、それも含めて自分のカラーを提示したい。オリジナルだとその人の個性が出てくるし、個性を感じてもらえる。でも、それはスタンダードを愛しているからこそできるわけで、スタンダードを知らずに曲は書けない。いろんな歴史を知ったから、少しずつですけどようやく自分の曲を書けるようになってきたのかなって感じています。
―なるほど。
海野:だって、「こんなの誰も考えたことないだろう」ってコード進行で粋がっていたところに、「100年前に同じような曲があるよ」と言われたりしたら恥ずかしいじゃないですか。ジャズには深い歴史があるわけで。
―「All The Things You Are」みたいな曲のことですよね。
海野:そうです。あんなのぶっ飛んでいるじゃないですか。今でも難しい曲ですからね。
海野雅威トリオ(Photo by John Abbott)
―昔の曲にも新しく聴こえるものがあるし、アート・テイタムみたいな信じられない技術もすでにあったりしますし。
海野:古代エジプトのピラミッドが現代の技術をもってしても造れないという話と一緒で、「今のほうが新しくて優れている」みたいな価値観で生きていると、しっぺ返しに遭うこともある。過去から怒られるみたいな。先人の技術が現代人をはるかに超えていることもあるし、そういうものに支えられて今我々は生きていられるんですよね。だから音楽でも新しいものほど価値があるという価値観には昔から疑問を持ってきました。もちろん過去がベストという懐古主義では全くないのですが、真摯に生きていく上で歴史から学ぶアティチュードの問題だと思います。
ロイ・ハーグローヴがなぜあらゆるレジェンドに愛され、しかも時代の寵児でいかにゲームチェンジャーだったかも結局全部この事に集約されるんですよ。ロイは誰よりも音楽を愛し、深いルーツに根ざして、先人をリスペクトしていましたから。古い、新しいで音楽を捉えていないロイのような稀有な存在がいつも時代を変えていくんだと思います。
僕はそんなロイに最後に期待してもらったメンバーなので、自分自身もその経験や教えを実践していきたいんです。事件で大怪我を負った時に、こんなところで終われないって強く思ってリハビリに懸命に励みましたが、いろいろな奇跡が重なって医者もびっくりするぐらいに早く復帰することができました。その要因の一つは、きっとロイやハンク、ジミーなど僕を愛してくれた人に対して、僕が音楽をし続ける事で恩返ししたいという思いもあったからです。小さい頃から好きな事に真っ直ぐに音楽をしてきましたが、気がつけばそれはありがたいことにほとんどの人が経験できないディープな世界に入っていて、それが僕の個性にもなっていきました。これから先、どういうふうに自分の音楽が変化していくのか、自分自身でも楽しみにしています。
海野雅威トリオ
『I Am, Because You Are』
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