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フジロックがグラストンベリーに学んだ「フェスのあるべき姿」 アジカン後藤正文が花房浩一に訊く

Rolling Stone Japan / 2023年7月26日 18時0分

後藤正文、グラストンベリー・フェスティバルの会場にて(Photo by Mitch Ikeda)

2023年のグラストンベリー・フェスティバルが6月21日~25日に渡って開催された。会場はイギリス南西部サマセット州にあるワーシー牧場。1100エーカー(東京ドーム95個分)もの広大な土地に約21万人の観客が訪れることから世界最大規模の野外フェスとして知られ、アークティック・モンキーズ、ガンズ・アンド・ローゼス、エルトン・ジョンがヘッドライナーを務めた今年は、わずか1時間でチケットが完売した。

フェスの歴史を辿ると、ワーシー牧場の持ち主であるマイケル・イーヴィスと、妻のジーン・イーヴィスが創設者となり1970年に初開催。当初は小規模なフリーコンサートだったが徐々に規模を拡大させ、1999年にジーンが亡くなると娘のエミリー・イーヴィスが共同主催者に。音楽のみならず演劇、ダンス、コメディ、サーカスから映画まで様々なアートが披露され、フジロックのモデルとなったことでも知られている。

そんなグラストンベリーを今年、後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)が取材で訪れた。彼は現地で何を思ったのか。そして、グラストンベリーはフジロックや日本の音楽文化にどのような影響を与えてきたのか。同フェスに40年以上通い続けるfujirockers.org主宰/音楽ジャーナリスト&写真家・花房浩一との対談をお届けする。
(開催2日目の6月22日・木曜にフェス会場で収録。聞き手:小熊俊哉、構成:岡本貴之)

※”Glastonbury”は発音的に「グラストンバリー」表記がより正確だが、本記事では日本での定着度を踏まえて「グラストンベリー」表記で統一した。

【写真ギャラリー】グラストンベリー・フェスティバル2023 現地撮り下ろし写真(全61点)


花房浩一と後藤正文、グラストンベリー・トーにて6月19日に撮影(Photo by Mitch Ikeda)


―まずは今回、後藤さんがなぜ花房さんと一緒にグラストンベリー・フェスへ行くことにしたのか訊かせてもらえますか。

後藤:花房さんと最初に出会ったのは国会前の反原発集会でしたよね。でも、それより前からミッチさん(mitch ikeda:オアシスやマニック・ストリート・プリーチャーズなどの写真で知られるフォトグラファー、アジカンとも親交が深い)に「グラストンベリーに行こうよ」と誘われてたんです。

花房:そうそう。ミッチがゴッチを連れて行きたいという話は聞いていて。ぼくもゴッチが何やってるかというのを情報では知っていたし、もう自分の仲間や友人だと思っていたんだよね(笑)。それで、たまたま最初に会ったのが国会前で。

後藤:2011年か12年ぐらいですね。


英サマセット州にある丘「グラストンベリー・トー」は観光名所やパワースポットとして有名。頂上には14世紀に建てられた旧聖ミカエル教会が立ち、丘の上から田園地帯の美しい光景を一望できる(Photo by Mitch Ikeda)


6月20日の午前中、会場でのキャンプに備えて買い物をする後藤。同日夕方から会場入りした(Photo by Mitch Ikeda)

花房:そのとき、ゴッチは自分のメディア(「THE FUTURE TIMES」)を作ったりしていて、真摯なファンが多いと思ったんだよね。グラストンベリーが長い歴史の中で培ってきたものは、社会をものすごく変えてきたわけですよ。だから、ゴッチにも実体験してもらったうえで、それを発信してもらえたら嬉しいなと思って。

ぼくはずっとグラストンベリーについて書いてきたけど、ある時からやめたわけ。どれだけ書いてもわかんない奴はわかんないし、現地に来てもわかんない奴はわかんない。

後藤:ははははは(笑)。

花房:でも、どっかで自分と同じような波長を持ってる人が見てくれたら、おそらく自分と同じような視点か、あるいは全く違うアングルから(グラストンベリーの魅力を)何か感じてくれるだろうし、ぼくも得るものがあるんじゃないかなって。








(上から)フェスの入場ゲート、会場に向かう観客、電光掲示板と男たち、キャンプエリアの向こうに広がる虹(Photo by Mitch Ikeda)

―後藤さんは実際にグラストンベリーに来てみていかがですか。

後藤:お客さんも本当にフェスのみならず、自分の人生を楽しんでいるような雰囲気を感じるし、働いている人たちも底抜けに楽しんでいるのが伝わってきますよね。

―我々は開催前日の火曜日(6月20日)に現地入りしたわけですが、夜は何千人ものスタッフが会場中で飲み交わしていて、みんな楽しみながらフェスを作っているんだなと。

後藤:そういう意味では、日本のフェスよりも関わっている人たちの関わり方が濃い感じがするっていうか。「私はただのワーカーです」みたいな感じの人が少ない感じはする。働きながら代わりばんこで楽しんでたりして、そういうのもすごくいいなと思いました。






盛り上がる観客たち(Photo by Mitch Ikeda)

―もちろん、アーティスト目線でも気になるフェスだったわけですよね?

後藤:うん。10代の頃からグラストンベリーはやっぱり夢っていうか、いつか出てみたいと思ってきたフェスだから。そこにこうやって、バンドを25年くらいやってきた後に来ることで、今だから見える景色もあるだろうなって。花房さんからも「”誰が出るから”とかじゃないんだよ」っていう話は事前に聞いていましたけど、会場を歩いてみて「なるほど」みたいな。まだフェス3日目で本番が始まってないのに、こんなに人がいてさ(笑)。

その話でいうと、昨日(6月21日)の丘の上からの風景は本当にマジカルでしたね。俯瞰でグラストンベリー・フェスが一望できるっていう。替えのきかない経験というか、ここに来ることに意味があるんだなって。デカいバンドをデカいステージで観るみたいなことよりも、あの丘であの景色を見ることに意味がある。あれは本当にすごいなって思いました。

花房:キーはそこにあると思うんですよ。ぼくはここに来ることで、ものすごく”自分になれる”んですよね。自分がジャーナリストだとか関係なくて、本来の「生きてることってこういうことなのかな」っていう感覚をすごく感じるんです。それが嬉しくて。




フェス初日の6月21日夕方に撮影。会場南端のエリア「THE PARK」後ろの丘は、会場全体を見渡すことができる人気スポット。夕日や夜景も美しい(Photo by Mitch Ikeda)

―あの風景は胸がいっぱいになりました。iPhoneで撮ってはみましたけど、スマホの写真では到底伝わらない感動があるというか。自分の目に焼き付けることに意味がある。

後藤:全然違いますよね。ぼくも撮ったそばから「違うな、カメラじゃ撮れない」って思いました。

花房:「これから何が起きるんだろう」と心待ちにしている、無数の人たちの想いが伝わってくるような感じ。あの感覚っていうのは、たぶん他のフェスティバルじゃありえない。フジロックの前夜祭は近いものがあるけどね。

あと、ぼくなんかの場合はもう何度も来てるから、毎回ここでしか会わない人がいるわけ。そういう人たちに会うと、名前を知らなくてもハグして「元気だった?」みたいな。自分の里に帰る、本来の自分の世界に戻ってこれる感覚がすごく好きなんだよね。


丘から遠くを見つめる後藤(Photo by Mitch Ikeda)

1982年のグラストンベリーで受けた衝撃

―そもそも花房さんは、どういう経緯でグラストンベリーに魅了されていったんですか?

花房:ぼくは1982年に、イギリスのブライトンで仲良くなった友人の家で居候していました。そこは他にもカナダ、アイルランド、ドイツ、オーストラリアからやって来た人達も転がり込んでいて、コミューンみたいな感じ。そこで、今も姉のような存在になっている家の主から誘われたのが最初ですね。伝統的なフェアーと呼ばれる祭りに根ざしている、というような説明を聞いていたんですけど、第一印象はウッドストックでした。会場に入ると(映画サントラの)ジャケットみたいに、カップルがブランケットをかぶって立っているし、デカいラジカセからジミヘンが聴こえてきて、もうタイムスリップしたような感じ。「なにこれウッドストックじゃん! マジ⁉️ まだこんなことやってんの⁉」みたいな(笑)。

ゴッチ:ははははは(笑)。

花房:当時はそういうフェスがどこにもなかったんですよ。フェス文化が本当はあったんだろうけど誰も騒がなくなっていたし、日本でもほとんどなかったから、もうビックリしちゃって。


初開催となった1970年のポスター。当時のフェス名は「Pop, Blues & Folk Festival」で、観客動員数は1500人、チケット料金はわずか1ポンド(ワーシー牧場が無料提供する牛乳付き)だった(グラストンベリー・フェスティバル公式サイトから引用)


1982年のポスター。当時は「CND」がフェス名に含まれていた(グラストンベリー・フェスティバル公式サイトから引用)

花房:1982年のグラストンベリーは、CND(イギリスの反核運動団体)と提携するようになってから2年目で、「お互い助け合おう」ということでジャクソン・ブラウンはギャラを一切もらわずに出演したんです。そんな彼の姿勢を受けて、ジ・エニッド(The Enid)というグループも「この危険な時代に生きる我々ミュ-ジシャンは出演料をCNDに寄付すべきだ」と声明を出し、他の出演者に呼びかけていました。

ちなみに、グラストンベリーで最大規模のステージであるピラミッド・ステージには、当時も今もピースマークが飾られていますが、そもそもピースマークというのは、CNDが反核運動に用いてきたシンボルが起源になったもの。グラストンベリーはそういう歴史的背景をずっと大切にしてきたフェスでもあるわけです。


1982年のピラミッド・ステージ、演奏しているのはジョン・マーティン(Photo by Koichi Hanafusa)


2023年、エルトン・ジョン出演時のピラミッド・ステージ(Photo by Mitch Ikeda)

花房:それで1982年当時、この辺り(グラストンベリーの会場)はもっと盆地っぽくて夕方ごろから霧が立ち込めていたんだけど、観客の誰かが懐中電灯でピラミッド・ステージの頂上に飾られたピースマークを照らすと、会場中から無数の光の筋が当てられ、(霧の中から)ピースマークが夜空に浮かび上がったんです。それを見たときは「すげえー!」って、ものすごくドラマチックに感じました。

その翌日には、当時のグラストンベリーの中心人物の一人で、PAを担当していたトニーという人物がステージ上からこう呼びかけたんです。「ほんの1分でいいから完全な沈黙をここに生み出そう、ぼくらが想いを一つにすれば何かができるんだって証明するために」って。そうしたら、広い会場中がシーンと静まり返った。ただ一人だけ、「そんなことで世界が変わるわけないだろ!」って叫んだ奴がいたけど、そんな声を遥かに圧倒するような沈黙でした。トニーは数年後、政治との絡みが嫌になってフェスから離れてしまったそうですが……どちらの光景も、いわゆる60年代から始まったオルタナティブ・ムーブメント、ヒッピーとかグラスルーツの文化が辿り着いたものだと思いましたね。

フェスと政治が切り離せない理由

―花房さんが今聞かせてくれた1982年のエピソードは、今日のグラストンベリーが環境問題に配慮し、フェスの収益を慈善団体に寄付し、労働格差や人種/ジェンダー差別などの社会問題を訴えるアートを会場中に飾っていることにも通じる話ですよね。そういったことへの問題意識を、出演するミュージシャン側も当時から共有していると。

花房:そうですね。でもかたや当時、日本のミュージシャンは政治的な発言や行動をほとんどしていなかった。ぼくはそれがものすごく悔しかったんですよ。「なんで自分たちに影響力があるのに何もしないんだ?」って。

―日本では「音楽に政治を持ち込む」なんてありえない時代だったと。

花房:だからこそグラストンベリーは衝撃的だったし、そこで何が起きているのか伝えるべきだと思って書き始めたんですよ。「こんなに面白いことができるのに、あなたたちは何もやらないんですか?」って。だから初期の数年間はフェス文化というよりも、反核とか政治的なことばかり書いていました。

後藤:なるほど。






アジカンとも親交のあるマニック・ストリート・プリーチャーズが6月24日に出演。「演奏はもちろん、歌詞やスクリーンに表示されるメッセージに込められた政治的メッセージにも刺激を受けた」と後藤は振り返る(Photo by Mitch Ikeda)

花房:グラストンベリーでもう一つ衝撃的だったのは、お客さんの層です。あの当時はヒッピーはヒッピー、レゲエはレゲエの人、パンクはパンクみたいな感じがあったんだけど、そんなの関係ないんだよね。子どもからお年寄りまで、いろんな世代の人たちがやってきて運動を支えている。反核運動だけじゃなくて、世界を少しでも良い場所にするためにみんなが動いているんだよね。

ぼくは当時のグラストンベリーで、「何でここにいるの?」ってみんなにインタビューして回ったんですよ。そしたら「だって楽しいし、ここに参加することで反核運動に寄付できるんだよ」と言われて。

その頃は反核運動がヨーロッパで大きくなっていて、グリーンハム・コモン空軍基地では女性たちが中距離核ミサイルの導入を阻止するための抗議キャンプを行っていたんだけど、そこにも足を運んでいろんな人たちにインタビューしたんですよ。まだ10代の子たちにどんな音楽が好きなのか尋ねると、UB40やスペシャルズが好きだと言っていて。そこでも音楽はすごいなって思ったんです。人間を行動に移す力があるんだなって。






グラストンベリーの観客たち(Photo by Mitch Ikeda)

後藤:ちゃんと聴いてる音楽に本人の政治性が表れているわけですね。日本のミュージシャンが政治について話したがらないのは事実だし、今もそういうところはあると思います。それについては自分にも反省があって、いざ震災が起きたあと「こういうときの準備を全然してなかったな」って気づかされたんですよね。何か行動に移そうにも知識がないから、反省してやり直さないといけないんだなと思って。それからデモに参加したり、自分でメディアを作ったりするようになったんです。音楽で何を歌うかはその人の自由だから好きにやればいいと思うけど、花房さんが言ったように、いち市民としては「より良い社会ににしよう」っていう気持ちがあって然るべきだと思うし、それを表に出すことが「政治的だ」ってなるのはおかしいと思う。若い世代とかにもっと良い社会をパスしないと恥ずかしいじゃないですか。

花房:それもあるし、単純にもっといい生活したいじゃん。「自分も豊かになりたい、不安なく生きていきたい」って。そのためには環境を変えざるを得ないんだよね。政治的な発言をするっていうのは硬派では全然ないわけ。むしろ超軟派なんですよ。自由に好き勝手に生きたい、その世界を作るために邪魔なものに対して、ぼくは違うと言いたいっていうね。人間はさ、政治的・経済的・文化的な世界の中で生きていて、そのどれも切り離すことはできないわけ。だからこそ、自分で声を上げて、自分で生活を変える。それを効果的にするためには運動にしないと。一人ではうまくできないから、そのためにネットワークを作ろうよっていう。ぼくはイギリスのそういう動きをずっと追ってきたんです。

後藤:そうですよね。

花房:例えば、ロック・アゲインスト・レイシズム(RAR)もそう。エリック・クラプトンがバーミンガムのコンサートで「黒人はここを出ていけ!」って言ったというのを、ぼくはロビン・デンスロウの『When the music's over』(邦題:音楽は世界を変える:反逆する音楽人の記録)を翻訳したときに知ったんだけど、誰も信用しないわけ。「ずっとブルースをやっていて、ボブ・マーリーのレゲエで初めて全米No.1になった人がそんなこと言うわけないじゃん」って、日本のクラプトン・ファンはみんなそう言うんだよね。

でも、日本にアスワドが来たときにローディーの一人とその話をしていたら「俺はその場にいたよ」って言うの。「あのとき目の前でその発言があって、会場からいっぱい人が帰っていったんだ。あれは本当の話だよ」って。

後藤:へぇー!


「ロック・アゲインスト・レイシズム」のドキュメンタリー映画『白い暴動』予告編

花房:そこからミュージシャンとかメディアが怒って「それは違うだろう!」となってRARが生まれて、スティール・パルスやアスワド、ザ・クラッシュとかが一緒になってライブをやったわけ。そういう運動を経て、1985年にもっと具体的にイギリスの政治を変えようと発足されたのがレッド・ウェッジ(Red Wedge:ビリー・ブラッグが主導、ポール・ウェラーやザ・スミスも参加した選挙運動。マーガレット・サッチャー率いる保守党政権を破るべく、労働党の勝利を目指した)だったんですよ。

ぼくは記者会見にも行ったんですけど、特に印象的だったのがブロウ・モンキーズのドクター・ロバートで、「自分はずっとこういうことをやろうと思っていた。ぼくが売れていなかったら何を言っても意味がない。でも、売れたから声を大にしていく」と話していて。しかも彼らは、選挙の真っ只中にサッチャーのことをボロクソに歌い、その曲がヒットしていた(笑)。レッド・ウェッジは「労働党に投票しよう」と呼びかけるコンサートツアーをやったんだけど「労働党を完璧に支持してるのではなく、今の政権を倒すために投票せざるを得ない。そのための圧力団体となっていくんだ」っていう、明確なビジョンを持っていた。結局うまくいかなくて自然消滅したけど、インパクトとしては残っていると思うし、彼らは具体的に何ができるのかを証明したと思う。


1986年、Red Wedgeツアーでパフォーマンスするビリー・ブラッグ

―そういう話と、グラストンベリーというフェスのあり方も繋がっている気がします。

花房:本当にそう。1984年にハイドパークで反核運動の集会があって、40万人が街中で交通を遮断してしまった。ぼくも一緒に行進したんですけど、その中にはビリー・ブラックやポール・ウェラーがいて、最後はハイドパークにステージがあってみんなで歌うわけですよ。そのとき誰かが(ジョン・レノンの)「Give Peace a Chance」を歌い出したら、ドーッと広がっていったんだよ。背筋がゾクゾクしてさ、「音楽ってすごい!」って。みんなを一緒にする力があって、エネルギーを与えてもらって、さらにそれを増幅できるっていう。あの体験とグラストンベリーがぼくの人生を変えたんだよ。それまでの自分は超ノンポリで、「政治で何が変わるんじゃボケ!」と言ってたような人間だったのに。

後藤:「デモの現場になんで音楽が必要なんだ」って、何回やっても訊かれるんですよ。でもやっぱり、音楽には異なる思想、異なる体験をしてきた人々を繋ぎ合わせる何かがある。そうやって「Give Peace a Chance」がシェアされるマジカルな瞬間にこそ、音楽の可能性があるんじゃないかなと思うんですよね。メッセージ性で啓蒙することよりも、私たちに通じ合う可能性があるんだってことをシェアしていくことのほうが大事っていうか。

花房:ただ悲しいのはね、日本の歌にそれがほとんど見当たらないこと。みんなで歌える歌がない。ソウル・フラワー・ユニオンの中川(敬)君が偉いなと思ったのは、モノノケ・サミットのときに昔の労働歌「がんばろう」をカバーして歌うわけ。「がんばろう 突き上げる空に」って歌えばモリモリとエネルギーが湧いてくる。ただ、それも労働運動をやってる人にはわかるかもしれないけど、一般の人にそうやって歌える歌がないんです。それが一番悲しい。

ぼくの親父は50年以上も共産党の党員で、労働運動をずっとやっていて。そういうレコードを聴いていたのを、ぼくは「ダセエ歌だな」って馬鹿にしてたんだよ。でも彼らには歌う歌があった。ぼくたちには歌える歌がないんです。

後藤:たしかに。日本人が日本語で歌える曲がない。日本の場合は、社会や政治への関心があるってことを楽曲から削ぎ落とすことが、反転してある種の政治性になってると思うんです。政治から離れることの政治性っていうか。なぜならば、そうしないとスタッフやファンもいい顔をしないから。とりあえずそういうことは一切匂わせずに、日常から切り離すような歌を作りましょうっていう。でも自分からすると、そっちの方がすごく政治的に見えるんですよね。ビジネスのために自分の身の振り方をコロコロ変えてるとか忖度してるって意味では、政治家並みに政治的な選択だと思う。

花房:だから、「音楽に政治を持ち込むな」という意見の方がよっぽど政治的なんですよ。そんなこと人の勝手やろって話じゃん。「フジロックに政治を持ち込むな」って言われたときに思ったのは「お前こそ政治的じゃないか? 人の自由を奪うのか? 誰が何を言おうと勝手だろう?」って。その自由を奪うのは間違ってるでしょって。




グラストンベリーを自由に楽しむ観客たち(Photo by Mitch Ikeda)

―グラストンベリーの会場にいても「誰がどう楽しもうと自由だよね」みたいな雰囲気が伝わってきますが、各々が自由に楽しむことと、そういう政治性の話は切り離せないものであるということですよね。

花房:こういうところにいると、自由に生きるために何が邪魔なのかわかってくるわけじゃない? みんながそういう想いを分かち合えれば、トラブルなんて起きないんですよ。オーガニックに世界を変えていくためには、それぞれの個人がそういうふうに生きていく必要がある。ぼくにとっては、そこが集約されてるのがグラストンベリーなんです。

後藤:ただ自分勝手なのではなく、他者に対する尊重もありますよね。日本だと混同されがちですけど。

花房:そう、それこそが個人主義なんです。それぞれが尊重し合うからいい方向に向かっていく。エゴイズムとは全然違う。

グラストンベリーとフジロックの関係、フェスのあるべき姿

―ここからはグラストンベリーとフジロックの関係について訊かせてください。

花房:ぼくの書いているものに影響を受けた大久保青志くん(『ロッキング・オン』創刊メンバー、1989年に東京都議会議員に当選)と、日本のミュージシャンが政治的なことを発言できる場を作るために、反核・脱原発を訴えていく「アトミック・カフェ・フェスティバル」を1984年に開催したんです。そこで中心を担っていたのが日高(正博:スマッシュ代表)だった。

あのときは政治的なスタンスを前面に出したけどうまく機能しなくなり、運動も自然消滅していったわけだけど、福島の原発事故が起きたときは大いに反省させられました。もっときちんと運動しておけばよかったなと。

―フジロックのルーツ、社会問題にコミットしてきた背景として「アトミック・カフェ・フェスティバル」があったと。日高さんがグラストンベリーを初めて訪れたのは1987年だったそうですね。

花房:ぼくは初めて行った翌年の1983年からライターとしてグラストンベリーを取材するようになったんですが、その年に客として来ていたクボケン(久保憲司)と知り合い、1986年には彼をカメラマンとして雇って同行してもらいました。で、同じ年にミッチとクボケン経由で知り合い、その翌年から日高が来るようになった。そこから彼は「日本でこういうフェスがやりたい」と考えるようになったんだと思う。そして、いろんなところをロケハンしながら10年間を過ごし、1997年に始まったのがフジロックだった。

日高は「俺が何をやりたいのか一番よくわかってるのはお前だから手伝え」って。それで「フェスとは何か」というのを、今度は書くことじゃなくて現場を作ることで伝えていけたらと思ったんです。ぼくがグラストンベリーで体験したことを踏まえて、「これが自分たちのフェスだ」って言えるものを一緒に作っていこうと。

ただ、ぼくはスマッシュの社員になったことはなく、ずっと日高と仕事しているだけ。ぼくが主宰を務めるfujirockers.orgも、フジロックを愛する人たちのコミュニティですけど、スマッシュからお金をもらっているわけではないし、オーディエンスにサービスするための組織ではない。ぼくらはもっと自由な立場からフジロックに参加し、フェスの魅力を発信しているんです。

後藤:花房さんはフジロックに参加しつつ、批評性を持った立場であり続けているということですね。


6月18日(フェス開催前の日曜日)に撮影、ロンドンで合流してからパブを訪れた後藤正文と花房浩一(Photo by Mitch Ikeda)

―もう少し遡ると、スマッシュの設立は1983年ですよね。

花房:スマッシュが立ち上がった頃、日高と一緒にロンドンのブッキングエージェントを回りました。彼も英語はできるけど、通訳というクッションを置いた方が冷静にアプローチできるからということで、ぼくに声がかかった。

日本の歴史背景がわからない人も多いと思うけど、当時はプロモーターといえばウドーとキョードーしかなくて、彼らは有名なアーティストのコンサートしかやらなかった。訳のわからない新参プロモーターが海外までやってきて「コンサートやらせてくれ」と言っても、「お前ら誰だ? うちはウドーやキョードーとしかやらないから」ってなるじゃん。そこで日高が「イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズをやりたい」って言うと、「は? 日本で1000枚しかレコード売れてないぞ」と向こうが笑い出すんだよ。それでも日高が「だって良いバンドじゃん」と伝えたら「マジでやってくれるの?」って相手の態度がガラリと変わった。

日高はどのブッキングエージェントに会ってもそんな感じだった。「俺は信じてるバンドをやりたい、本当に良いバンドを育てたい」って。あいつが携わってきたエルヴィス・コステロやオアシスも、最初は全然売れてなかったんだよ。でも、そういうふうにやってきたから日高はすごく信頼されるんだよね。


イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズの初来日は1987年6月、後楽園ホールでウィルコ・ジョンソン・バンドを引き連れて実現。アンコールでは忌野清志郎も登場した

―まだ日本では知られていないけど、実力のあるアーティストを紹介していくというのを最初に始めたのが日高さんだったと。

花房:それから当時の日本はまだ、スタンディングのライブができるところがなかった。コンサートは席に座って静かに鑑賞するものだったんだよね。でも、海外のライブに行くと、DJが音楽をかけながら「さあ楽しむぞ!」という雰囲気を作って、みんな踊ったり自由に楽しんでいるわけ。そういう土壌が日本にはなかったんだけど、日高はその慣習も変えようとした。彼は後楽園ホールと交渉して、会場のなかにステージを作って、メチャクチャお金がかかったけどスタンディングで楽しめるライブ会場を用意した。

さらに、日本にDJカルチャーを持ち込んだのも彼ですよ。ぼくはイギリスでずっといろんなクラブを取材していて、クラブでの流行がポップミュージックに反映されていることを知っていた。例えば、エブリシング・バット・ザ・ガールとかウィークエンド、シャーデーが出てきた頃、彼らの音楽にはクラブでの動きが反映されていた。その頃にギャズ(・メイオール)がスカやR&Bがリバイバルさせる一方で、ポール・マーフィーを中心としたイギリスのDJたちがジャズをかけるようになり、それに合わせて踊ることでダンサーたちが技を競ったりするようになった。そこからDJも進化していって、いわゆるストレートアヘッドなジャズにも影響を与えるようになっていく。そういうふうに、DJたちが作ってきた文化があったんだよね。

ぼくがそういう動きについて書いていたら、「DJを呼ぼうぜ」って流れを日高が作ってくれて。ギャズとポール・マーフィーの初来日が1986年。それに触発されたのが松浦俊夫くんのU.F.O.、沖野修也くんのKYOTO JAZZ MASSIVEだったりするわけ。そこからシーンが形成されていったわけです。

【関連記事】ジャイルス・ピーターソンが語る、ブリット・ファンクとUK音楽史のミッシングリンク

後藤:なるほど。政治との関わり方やライブハウスのあり方やクラブカルチャーなど、いろんなことを点ではなくて面で変えていったんですね。その先に90年代のフェスカルチャーがあり、ある種の大きな発露としてフジロックが生まれた。

花房:そう。フジロックについて理解しておくべきなのは「日高がやってきたことの集大成」だということ。フジロックにはライブだけでなく、DJもあれば芝居もあるしハプニングもある。グラストンベリーにあるものが全部含まれているし、音楽だけじゃない「遊び場」がフェスなんです。だからこそ、みんな行ってみたいと思うんじゃないかな。

その話でいうと、グラストンベリーで「Carhenge」という廃棄物を使ったアートを作っているジョー・ラッシュにインタビューしたとき、「フェスっていうのは、お金を出したからって口をあんぐり開けて美味しいものを食べるだけじゃないんだよ。自分もそのパートになって何かを一緒に作っていくものなんだ」と話していたのは面白かった。だから、お客さんが着飾ったりメイクしたりして遊んでるわけ。

後藤:グラストンベリーがただのコンサート会場じゃないっていうのは、少し歩いてみればよくわかりますよね。


廃車から作られた「Carhenge」のインスタレーション。今年は廃棄物から音楽を作り出すコンゴ民主共和国のバンド、Fulu Mizikiのステージも披露された(Photo by Jim Dyson/Redferns)






フェスの魅力は音楽だけではない。観客の数だけ楽しみ方があることをグラストンベリーは教えてくれる(Photo by Mitch Ikeda)

―「DJカルチャーの主役はオーディエンス」とよく言われますけど、フェスについても同じことが言えそうですよね。そう考えると、日高さんはただ与えられるだけの消費者ではなく、能動的な観客たちが生み出すカルチャーを日本に根付かせたかったんだなと。

後藤:たしかに。マナーやルールでがんじがらめになるのではなく、能動的に「お互いを尊重し合おう」ってことですよね。繋がりとしてはそこまで強固ではなく、むしろ割と緩いんだけど、何かしら似たような想いや価値観を持っている人たちが集まっているのがフェスだとすれば、コミュニティの比喩みたいにも思えてくる。

このグラストンベリーでも、何を観て、どこに行くのかは自由だし、それぞれが好きなところで全然違う環境で過ごしていて、みんなそれぞれ自分の選択をしているんだけど、どこかで何かしら繋がってるバイブスがある、みたいな。こういう場がときどき現れたりするのって美しいし、それだけでも十分「ぼくたちに何かできることはある」って思えますよね。

花房:そう思えるよね。自分は決して数字の中の一つではなくて、どこかで誰かと繋がっているんだなって。一人一人が存在することによって、それぞれが影響を与え合って、無意識のうちにも世界を作り上げているわけですよ。そんなふうに、「生きてるって何だろう?」って本質的なことをものすごくいい形で教えてくれるのがフェスであり、グラストンベリーだと思う。

ジョー・ストラマーが以前インタビューで、「年に3日間でいいから、”生きてるってどういうことか”を感じられる場にいようよ。それがフェスなんだ」と話していたのが僕の中にずっと引っかかっていて。あの言葉はすごくデカい。みんな毎日仕事で嫌なこともあったりするけど、そういうのから自由になって、「生きてるってこういうことだよね」と思えるような場を提供するのがフェスなんだろうね。その3日間が5日間になり、1カ月になり、自分の生き方になれば素晴らしいじゃないですか。








フェスは自分らしく生きること、そのために大切なことを再発見させてくれる(Photo by Mitch Ikeda)

後藤:「チケットを買ってるんだからサービスしろ」ではなくて、みんなで一緒にフェスを作っていくんだっていう。それは大事な精神だと思います。

花房:チケットは何かを与えてもらうために買うのではなく、「これだけ得られるから、そのバーターとしてこれをこなす」ってシェアするためのものですよ。本来はそういうものなんです。

後藤:そうやって考えていくと、最初の「”誰が出るから”とかじゃない」に戻ってくるというか。大きいバンドのファンだけが集まってチケットが売れたらいいって話じゃなくて、自分から参加している人が増えないと、フェスの意味がないよってことですね。

花房:そうなんですよ。だから、ぼくが一番望んでいるのは、グラストンベリーみたいに発表したら即売り切れるようなフェスティバルを作りたかった。売れてるアーティストを呼んだらいいっていうのは、昔のプロモーターがやってきたことと同じで、そんなのブローカーじゃん。フェスはそういう文化じゃないやろって。

実はフジロックを始めたとき、(グラストンベリー創設者の)マイケル・イービスに、「あなたたちの影響で、ぼくたちもこういうのをやることになったんだよ」って伝えたら、すごく大切なことを言ってましたね。「あのな、大きく育った木を掘り起こして植え替えても育たんよ」って。

後藤:うわー、めちゃくちゃ重要な言葉ですね!

花房:グラストンベリーは今年で53年目だけど、マイケルがこの自分の農場に数千人を集めて大赤字を出していた頃から歴史が脈々とあって、今ではしっかりした根を張っているわけ。コロナで瀕死状態になったフェスもあるけど、グラストンベリーはそんなの全く関係なかった。本当にすごいことだよね。


Photo by Mitch Ikeda



APPLE VINEGAR -Music+Talk-
後藤正文がホストを務めるポッドキャスト番組で、グラストンベリー取材旅行記を配信(前後編)





『田舎へ行こう! ~Going Up The Country』
Side A:忌野清志郎 「田舎へ行こう!~Going Up The Country」 作詞・作曲:忌野清志郎
Side A:円山京子 「苗場音頭」 作詞:長谷川洋・作曲:永田哲也
7インチアナログEP  カラーバイナル(グリーン)45rpm
詳細・購入:https://fujirockers-store.com/collections/cd-lp





FUJI ROCK FESTIVAL '23
2023年7月28日(金)29日(土)30日(日):新潟県 湯沢町 苗場スキー場
公式サイト:https://www.fujirockfestival.com/

【ライブ写真まとめ】
グラストンベリー・フェスティバル2023 


アークティック・モンキーズ(Photo by Mitch Ikeda)







マニック・ストリート・プリーチャーズ(Photo by Mitch Ikeda)















リック・アストレー(Photo by Mitch Ikeda)



ライトニング・シーズ(Photo by Mitch Ikeda)


チャーチズ(Photo by Mitch Ikeda)





ザ・ハイヴス(Photo by Mitch Ikeda)

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