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石垣島在住87歳のジャズシンガー齋藤悌子が語る、戦後から現在に至る歌手人生

Rolling Stone Japan / 2023年8月1日 6時50分

齋藤悌子(Photo Herbie Yamaguchi)

音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。

2023年6月の特集は「沖縄を知ろう」。沖縄戦で亡くなった方たちの霊を追悼する沖縄の慰霊の日である6月23日。その6月に改めて音楽を通して沖縄を知ろう、沖縄について勉強しようという1カ月間。PART2は石垣島在住、87歳のジャズシンガー齋藤悌子を迎え、沖縄の音楽に迫る。



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」マスター田家秀樹です。今流れているのは、BEGINの「島人ぬ宝」、2002年5月に出たシングルで、アルバムはその年に出た『ビギンの島唄~オモトタケオ2~』に入っておりました。今月の前テーマはこの曲です。「J-POP LEGEND CAFÉ」、POPの歴史を彩った様々な伝説を改めて語っていこうという60分です。

今月2023年6月のテーマは沖縄を知ろう。6月23日は沖縄の慰霊の日です。約20万人、沖縄県民のおよそ4分の1が亡くなったという沖縄戦、戦争が終結した日ですね。亡くなった方たちの霊を追悼する日でもあります。2001年から始まってるBEGINの「うたの日」は今年も慰霊の日の週末24日に行われます。様々な形で沖縄が取り上げられる6月ですが、この番組では改めて音楽を通して沖縄を知ろうという企画を組んでみました。

今週はジャズなんですね。沖縄とジャズ・沖縄の音楽はチャンプルーと呼ばれてます。いろんなものがミックスされてるごった煮。その中には当然のことながらアメリカがあるわけですね。三線が主体だった沖縄の音楽に、アメリカからエレキギター、ドラム、ベース、電気楽器が入ってきて新しい島唄、琉球ポップスが生まれた。ジャズはその前からある。歴史そのもののような生き証人、生きる伝説。先週のBEGINの比嘉栄昇さんと同じく石垣島在住、ジャズシンガー。なんと87歳。1935年生まれ、美空ひばりさんの二つ上、エルヴィス・プレスリーと同い年。今年の2月19日、これまでのキャリアで初めて東京でのコンサートを行ったという齋藤悌子さんです。リモートでお話を伺います。こんばんは。

齋藤:こんばんは。よろしくお願いします。お手柔らかにどうぞよろしくお願いします(笑)。

田家:何しろ石垣島にお住まいですからね。今リモートで繋いでるわけですが、こういう形の取材とか結構ありますか。

齋藤:いえ、初めてです。取材の方がうちにお見えになって話してくれたことは度々ありますけども、こうしてカメラを通しては初めてなので、ちょっと緊張してます。

田家:光栄です。6月はいろんな形で沖縄がマスコミ・メディアで取り上げられたりしますけど、悌子さんの中で6月はどういう月ですか。

齋藤:今月の6月23日には慰霊の日がありまして、その日は私も出ていっては歌うことになってます。

田家:どちらで歌われるんですか。

齋藤:石垣島に大きな公民館があるんですけど、そこで集まってちょっと歌ってくれっていうもんでね、歌うことになりました。去年は平和の塔っていうとこでちょっと歌いましたけど、そんな大がかりなものではなかったですね。今回はかなり大きくやるようですけども。

田家:そういう慰霊の日に歌うっていうのは何か違うものっておありになりますか?

齋藤:やっぱり慰霊の日にはどういう曲を選んだらいいものかってちょっと考えましたね。そして2、3曲、私のレパートリーから選びましてね。そしていつも大体歌いたいなというのは、皆様ご存知だと思いますけれども「ダニー・ボーイ」って曲があるんですね。それは私も大好きな曲なんですけど、とても思い出深い曲なんです。遠くにいる息子のことを思う母親の気持ちを歌ったような内容。一度米軍キャンプで仕事して歌ってるとき、リクエストがありましてそれを歌ってたんです。そうしましたら、目の前で若い軍人さんが素敵な女性と踊ってたんですね。ふっと歌いながら見ましたら、その男性が目に涙いっぱいためていて、あれはどうしたんだろうと思って歌い終わってからクラブの方にお聞きしたんです。そしたら、実は彼もすぐベトナムへ行くんだよって。それを聞かされたときは、本当にもう胸が熱くなりましたね。そういう思い出があります、この曲に特にそういうことがあったものですから。慰霊の日に必ずこれを歌おうと思ってます。決してもう戦争はいけませんっていう意味で歌いたいですね。

田家:去年アルバム『A Life with Jazz』をお出しになって、そのアルバムの1曲目が「ダニー・ボーイ」でしたもんね。今日は、このアルバムもご紹介しながら、齋藤さんの今おっしゃったような話を伺ったいけたらと思ってます。



Danny Boy / 齋藤悌子

田家:最初にこの曲を聞かれたのはいつ頃のことなんですか。「ダニー・ボーイ」と出会ったのは。

齋藤:歌い始めてから、2、3年ぐらいしてからだと思いますけどもね。クラブで歌ってますとリクエストが多かったんです、この曲は。だからこれはもう絶対歌わなきゃっていうことで必死に覚えた記憶があります。

My Funny Valentine / 齋藤悌子

田家:齋藤さんのことは、女性週刊誌に長い記事が載ってまして、そこにこの「My Funny Valentine」のリクエストカードの写真があったんですよ。齋藤さんが歌ってらっしゃるお店で、兵隊さんがこの曲をリクエストするっていうカード。

齋藤:いろんなのがたくさんありますから。クラブで歌ってリクエストするときには必ずカードに書いてステージに持ってくるんですね。それを見て歌ったりしたもんですから。歌い始めの頃っていうのは何しろ、学校を卒業した頃はジャズスタンダードっていうのを歌ったことないけども、とにかく専属で入るからにはリクエストの曲は何でも歌わなきゃいけないって思ったもんですから、もうありとあらゆる曲を片っ端から覚えましたね。だんだん歌ってるうちにお客様の好きな曲、今アメリカで流行してる曲っていうのがわかってきて、リクエストがあればそれを歌うようにしてきましたね。

田家:去年初めてのデビューアルバム『A Life with Jazz』をお作りになろうと思われたのは、いろんなすすめがおありになったんでしょうけど、ジャズバーの「すけあくろ」のマスターの方がアルバムを作らないかって。

齋藤:お話を持ってきてくださったんです。それで私にしても本当にびっくりしました。初めてですからね。ましてやバックのメンバーがすごい方たちでしょ。びっくりしましたけども、一生懸命やりました。

田家:やっぱりびっくりされました。

齋藤:そりゃそうですよ。松永(誠剛)さんとMarinoちゃんは存じ上げなかったんですけどね、デビッド・マシューズさんはもう有名ですから。ジャズマンにして知らない方はいないくらいの方でしたから、その方の伴奏で歌えるっていうのはびっくりしましたね。でも、本当に練習もしないですけど、私にこの曲とかこの曲ね、イントロいくつ? 間奏はいくつ? じゃあやりましょうって感じで、もうそのまま録音している感じなんですね。でもさすが。ちゃんとカバーしてうまく入れてくださってますね。びっくりしました。

田家:アルバムをお出しにならなかったのは、やっぱり理由があるんですか。

齋藤:今みんなすぐCDに録るじゃないですか、なんでも。あの頃は全くそういうことはなくて。私が持ってる自分のCDは2枚しかないんです。1枚は知らないうちに入ってたの。それはいつどこで録ったかわかんないですけど、宮古の民謡をフルバンドで歌ってるのが、コザのレコード店にあったのが見つかったんですね。

田家:宮古島の民謡?

齋藤:宮古の方言でフルバンドで歌った。歌った記憶はあるけども、録音したということは全く知らなかったんです。そのレコードを何十年経ってからいただいて、そしてもう1枚はRBCって放送局の10周年記念講演が国営館という映画感であったんですね。そのときに歌ったとき録音されたのが、しばらくしてから齋藤さんこんなのがあるよってことで、びっくりして、ぜひくださいっていただいて。それ以外には何もないんです、私の録音したものっていうのは。

田家:もう1枚というのはジャズのスタンダードだったんですか。

齋藤:そうです。そのときは主人も元気でしたから、主人のバンドで歌ってますね。

田家:アルバムを出されて変わったことというのはありました。

齋藤:それあります。もう皆さんびっくりしちゃって。あちこちからお電話くださってね。かなり反響がありましてね。びっくりするような、ありがたいような、本当びっくりしました。この前沖縄のコザのプラザハウスっていうところでやったときとか、東京の有楽町でやったとき、50年ぶりの友達が来てくれて。50年ぶりですよ。それが電話かかってきてね、私達5人で行くから頑張ってねって。50年前の中学生の頃に別れた子の顔なんかわかりませんよね。それはちょっと戸惑いましたけどね。最後に声かけられてびっくりしたんですけど、そういう感じで、本当に昔の懐かしい友人が大勢来てくださったのは本当に感動しました。

田家:東京のコンサート初めてだったわけですもんね。

齋藤:そうです。大きなステージでね。最初は緊張してたんですけども、だんだんお友達のこともいろいろ考えると気分がほぐれてきて、やりたいようにやったって感じです。



Tennessee Waltz / 齋藤悌子

田家:1950年、パティ・ペイジで大ヒットして、江利チエミさんとか雪村いづみさんとか、たくさん流れました。僕76なんです。この曲、子供のときにいっぱい聴きました。大好きな曲です。この曲はどんな思い出がおありですか?

齋藤:それはもう好きで歌いましたけども、やはりいろんな方が歌ってますでしょ。最初聞いたときから好きになりました。

田家:齋藤さんのお子さんのときは、どんな音楽が周りにおありになったんでしょう。

齋藤:音楽には全く関係なかったですね。高校行ってからですね。音楽に目覚めたっちゅうのは。音楽の先生がとてもよくしてくださって、そのときはクラシックを歌ったりしたんですけどね。そして学芸会で独唱したりしたんですけども、音楽の先生が私に学校卒業して社会に出たら音楽の道に行った方がいいんじゃないのって一言おっしゃったことがあって。私はもうその気になってましたね。

田家:戦争中は台湾に疎開されてたんですよね。

齋藤:そうです。戦争中は台湾に家族で行きまして、姉と父親は疎開できなかったんですね。宮古島の学生でしたからね。娘だけ1人残すのはかわいそうだからということで、父親も残って2人残って私達だけ。母親と兄と台湾にいったんですね。ですから戦争の厳しさっていうのはあまり体験してないですね。で、終戦後帰ってきましたから。

田家:宮古島も何度も空襲は受けてらっしゃるわけでしょう。お姉さまは従軍看護婦をされていたっていう。

齋藤:そうです。あの頃は、ひめゆり部隊と同じで、女学生みんなそういうことをやらされて、いろいろと働いてたようですね。ですから、後で聞いた話ですけども、米軍がもし近づいてきたら、どうせ死ぬんだったら一緒に死のうねって父親はいつも毒薬を手に持ってたってことを聞かされたときは、本当に胸が熱くなりましたね、こういうこともあったんだって後で聞かされましたね。

田家:戦争が終わったときにはどんなふうに思われたか覚えてますか。

齋藤:終わったときは台湾にいましたから。終戦後、どうしても帰らなきゃいけないっていうことで戻ってきたんですね。ですから、戦争の激しい経験っていうのはあまりないですね。

田家:お父さんは三線をお弾きになってたっていう記事を見ました。

齋藤:子供の頃、たまに父親が夕飯済んだ後に1人で弾いて歌ってるのを子供心に覚えてます。

田家:基地で歌うようになったのが、さっきおっしゃった高校の先生のすすめだった。そのときのクラシックを歌われたっていう話がありましたね。

齋藤:学生の頃はやはりクラッシックですから、高校生のとき歌った曲というのは「アヴェ・マリア」を独唱した記憶があります。

アヴェ・マリア / レオンティン・プライス

田家:基地のオーディションで「アヴェ・マリア」を歌われたときはどうだったんでしょう。

齋藤:基地で歌ったことはないです。オーディションのときに「なんか歌ってごらん」って言われたって何歌っていいかわかんないすけど、もう学生の頃に歌ったっていうだけのことなんですね。ですからそれを聞いてスカウトしてくれたんでしょうね。

田家:どこで歌われたんですかオーディションは?

齋藤:それは音楽の先生のお宅だったんじゃないかな。記憶ではね。こういう子がいるよっていうことを先生が紹介してくださったんじゃないかなと思いますけどね。東京からバンドメンバーが来まして、そこのリーダーが私の主人なんです。

田家:スカウトされたときってのはどんなふうに覚えてらっしゃいますか。

齋藤:声を聞いて、私が思うに仕込めば何とかなると思ったんじゃないですか(笑)。それから必死になって、もうありとあらゆる曲を覚えました。ウエスタンやらいろんな曲覚えました。サービスクラブってのがありまして、米軍キャンプの中には。そこに日曜日に行くと軍人さんのために、ソング・フォリオという本がいただけるんです。それには今アメリカでヒットしてる曲が全部載ってるわけです。それはいつも私の勉強になるんですね。夢中になっていろんな曲を覚えました。ですから今、昔からの手帳を見ると、400近くありますね。覚えた曲。その中には好きでなくて歌わない曲もたくさんありますけどね。やっぱり好きな曲はずっと続けて歌ってますね。もう入ってるときはもう、ありとあらゆる曲を歌うようにしてました。

田家:ご主人はその都度、そこはこうした方がいいよとアドバイスをされたりして。

齋藤:厳しかったですね。音楽に関しては、主人がアドバイスしてくれましたから、いろいろ教えてもらいましたけど、発音の方はキャンプの中にスターズアンドストライプスという新聞社があって、そこの記者の方がとてもかわいがってくださって、一生懸命発音を教えてくださって。私が思うには、軍人さんにしてみれば、沖縄の若い子たちにも苦労をかけたなって気持ちがあったんじゃないかな。行くと必ずご馳走してくれるし、丁寧に発音を教えてくださるし、そういう意味では私にしてみれば本当にラッキーでしたね。今はなかなかそういうことないと思うんですけど、その頃は丁寧に教えてくださいましたね。

田家:今日初めて悌子さんが歌われたスタンダードっていうことで、この曲をお聞きいただこうと思うんですが、パティ・ペイジの「Changing Partners」。





田家:この曲は懐かしいですね。

齋藤:大好きでした。

田家:ご主人は本土の方、内地の基地でも演奏されてたんですか。

齋藤:東京の方でグループでやっていたようですね。グループでやってる時に米軍の方から何年か契約で来てくれないかっていう話で沖縄へ来たんですね。

田家:渡辺プロダクションの社長さんとかも、米軍基地の中でベース弾いてた人ですからね。

齋藤:フランク永井さんなんかもそうらしいですね。米軍キャンプで歌ってたってことは聞いたことありますね。

田家:基地の中はなかなか日本のコンサートで見れないような歌い手さんも来たりしてたんですよね。

齋藤:あちらにわりと慰問のためにビッグバンドとかボーカルとか来ましたね。そういうのをタダで聴けたのは本当にラッキーでしたよね。有名なビッグバンドとかサラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドとかなかなか聞けたもんじゃないでしょ。そういうのが聞けたのはね本当にラッキーでしたよね。東京で聴くとしたら大変でしたからね。

田家:齋藤さんのステージは、一晩で何回もおやりになったりしたんですか。

齋藤:大体3ステージで、1ステージ3曲。リクエストがあれば4曲になることもあるってそういう感じですね。

田家:ベトナム戦争が激しくなっていく経過は歌われて感じられました。さっきの「ダニー・ボーイ」の話に出ましたが。

齋藤:つらかったですね。素敵な彼女と踊ってるシーンを見てね。ですから今思えば、あの方も元気で帰ってきたかどうかわかりませんよね。

田家:基地の中で歌うことに対して、「お前基地の中なんかで歌ってるのか」って。

齋藤:それはなかったです。これ言っていいかどうかわかりませんけども、私と兄とはちょっと反対で。兄は米軍は早く沖縄から撤退してほしいという行動を取ってるし、私はその基地で歌っていた。全然反対なことやってたんですね。ですから彼は私の歌っていうのは本当に聞いたことなかったと思うんです。ところが去年、プラザハウスというところで私が歌ったときに、一番前に座って聞いてたんです。そのときに彼が感極まったんですね。いきなり立ち上がってハグしちゃった。みなさんの前で。そしたらアナウンサーの方が、実は悌子さんのお兄さんなんですって言って、みんな納得したんですけど。いきなりハグされてびっくりした。ある方が写真撮ってくださって、大事にとってあるんですけど、いい写真ができてましたね。ですから、あのとき初めて兄も私の歌を聞いて、何か感じるものがあったんじゃないですか。

田家:お兄さんは牧師さんだったんですもんね。

齋藤:そうですね。兄がその牧師で盛んに活動してるときに、祈りの言葉を出したということね。今度の弁務官が最後の弁務官となりますようにというお祈りを大衆の前でして、それがものすごい反響を得て、ああいう場所でああいうお祈りをするのはけしからん、ああいうところで度胸のあるお祈りがよくできたって混乱になったらしいんです。そのときは私は千葉にいましたから全くわからなかったんですね。後で聞かされましたね。

田家:高等弁務官っていうアメリカから来る人の就任で、お兄様が初のお祈りを捧げられて、そのときにこれが最後の弁務官になってほしい。素晴らしい挨拶ですよね。祈りですよね。ご主人の実家に1965年、千葉の方にお帰りになるわけですが、その話は、この曲の後にお聞きいただこうと思います。



Summertime / 齋藤悌子

田家:これは千葉のホテルやクラブとかでも歌を歌いになった。

齋藤:もうよく歌いましたね。大好きな曲ですから。

田家:千葉にお帰りになったのは何でだったんですか。

齋藤:主人の両親がだいぶ歳をとって、そろそろ帰ってきたらどうかってことを言われまして。千葉へ行ってから続けて子供が2人できまして、そのときは5年ぐらい歌を辞めてたんですけど、クラブとかホテルから話が来て、またやらないかって話が来て、迷ってるところお姑さんが、おやんなさいよって、せっかくいい話なんだからって言ってくださったんで、甘えてまた始めたっていう感じです。

田家:1989年に石垣に戻られた。

齋藤:それは娘が毎年遊びに来てるうちに石垣の青年と結婚して、石垣に喫茶店を始めたんでね、主人が老後は石垣に住もうかってことで、思い切って石垣に引っ越してきたんです。そして石垣に住んで5年ぐらいしてから、あんなに石垣が大好きだった主人が急病で倒れて亡くなったんすけどね。それからは歌を辞めてたんです。

田家:15年以上ですよね。

齋藤:ラジオから音楽聴くのも嫌でしたね。すぐ涙が出ちゃうから聞かないようにして、しばらくはね。

田家:でも再開するきっかけがあった。

齋藤:きっかけは老人クラブというものがありまして、そこに行って観てたり、フラをやったりしてるとやっぱり好きだから乗り出してきて始めたって感じです。

田家:そうやって始められた歌と、基地の中で歌われたころの歌っていうのは。

齋藤:全然違います。

田家:一番違うことは何でした。歌ってらっしゃってて感じることとか思うこととか。

齋藤:やっぱり今のようにデビッドさんの伴奏で歌うときには昔を思い出して、スタンダードっていいなと思いますけどね。でもそんなわがまま言ってられないし、とにかく今は楽しく若い人たちと、何でも歌う。60年前の歌謡曲も歌いますよ。ウエスタンも何でも歌うようにしてます。

田家:今も何でも歌われてる。

齋藤:若い人たちがこれいいなっていうのがあったらやろうかって歌うようにして。努めて声を出すように努力してます。ですから、お話したことがあったと思うんですけど、今でも毎日朝はラジオ体操とボイストレーニングは欠かせません。

田家:ボイストレーニングで、何か歌われたりするんですか。

齋藤:いや、もう、声を出すだけです。高い音から低い音まで。腹式呼吸をまずやって。ですから石垣島の老人大学っていうのがあるんですね。去年もやりましたけど今年も依頼が来たんですけど、私の健康法は、まず声を出すことだということまで教えてね。朝は空気をいっぱい吸って、腹式呼吸をやって声を出すことが私の健康法で。そうすると朝ご飯もとても美味しいしね。皆様にぜひやってくださいって言うんですね。少しお喋りをするんですけど。老人大学でそんなことやってます。

田家:今日最後の曲、「Cry Me A River 」。



田家:石垣島在住87歳のジャズシンガー齋藤悌子さんが我が人生思い出の曲として挙げられました。ジュリー・ロンドンの「Cry Me A River」。ご主人のギターでこれをよく歌われた。やっぱりご主人のギターは特別なものがありましたか。

齋藤:それはもういろいろあります(笑)。

田家:この曲についてご主人が何かおっしゃったことは覚えてらっしゃいます。

齋藤:とにかく息の合った歌い方をするように。こういうときにはこういう感じでって。ギターも結構主人も好きだったらしくてその曲はよくやりましたね。ですから一番思い出深い2人の曲はこれですね。

田家:先週のこの番組のゲストが、BEGINの比嘉栄昇さん。石垣島在住。彼は齋藤さんのお名前は存じ上げてるけど、お会いしたことないんだと言ってました。

齋藤:名前だけはよく知ってますけどお会いしたことないですね。

田家:この番組の録音を栄昇さんに送ることになってるんで。

齋藤:今度ぜひどこかでお会いしたいですね。

田家:最後に一つお聞きしたいんですけど、番組が「LEGEND CAFE」なんで、思い出のカフェとか、今石垣島で行きつけのカフェがおありになったら教えてください。

齋藤:私達が行くのはもちろん、「すけあくろ」もそうですけども、ウクレレのメンバーで練習してます「カフェ・タニファ」ってお店で。毎週土曜日に集まってウクレレで歌ってます。

田家:わかりました。お元気で歌い続けてください。どうもありがとう。

齋藤:ありがとうございました。





流れてるのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

沖縄とロックっていうのはいろんな形で語られているテーマではありますね。4週目はそういう話にもなるんですけど、基地の中には若い人だけではなくて、年配の方もたくさんいらっしゃったわけで、そういう人たちにはロックというよりジャズだったりしたんでしょうね。基地の中でジャズを聞く場所があって、そこで齋藤悌子さんは高校卒業してからずっと歌ってこられた。

斎藤さんのお兄さんの話が改めて印象に残りました。お兄さんが高等弁務官、つまりアメリカを統治してる軍政の一番の偉い人の就任式で「これが最後の就任式になってほしい。早く正常な状態に戻ってほしい」って祈りの挨拶をされてる。反発を呼んだでしょうね。そんなこと言っていいのか、この場でって思った方もいたでしょう。彼女はそういう基地の中で、アメリカの兵隊のために歌っていた。ドラマチックな兄弟だったことになりますね。

沖縄の歴史には、日本の政治が深く深く影を落としております。戦争中、日本の政府は沖縄の人たちに方言を使わせなかったんですね。方言を使った子供は、「私は方言を使いました」っていう札、方言札っていう札を首からかけられて廊下で立ってなければいけなかった。そういう中でいろんな歌が歌われてきた。BEGINの島唄はそういう歴史も踏まえて、沖縄の人たちにとっての歌というものに対して、改めて感謝という言葉でイベントにしてるわけですね。齋藤悌子さんは生きた伝説そのものではないでしょうか? 来週は改めて島唄について勉強しようと思います。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND CAFE」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストにスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
OFFICIAL Facebook : @FMCOCOLO
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cocolo.jp/i/radiko

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