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知らないうちに原子爆弾開発に関わっていた、若き女性たちの真実 米

Rolling Stone Japan / 2023年8月6日 21時40分

第2次世界大戦まっただ中の1944年、マンハッタンプロジェクトの一環でオークリッジのY-12工場でカルトロンを操作する作業員(GALERIE BILDERWELT/GETTY IMAGES)

ローズマリー・レーンさんは上司からオフィスに呼ばれた。大事な話だと言われ、若い看護士は何の疑いもなく医師の後をついていった。オフィスでは病院スタッフ数人がラジオの前に集まって、トゥルーマン大統領の国民演説に耳を傾けていた。現在進行中の戦争で驚くべき進展があり、これですべてが終わるだろうと誰もが感じた。最新兵器が日本で実戦使用されたのだ。

【写真を見る】嘘発見器にかけられる女性作業員

ローズマリーさんはトゥルーマン大統領が爆発の威力を語るのを聞いた。「複数の実験室での戦い」と「科学の英知による功績」が爆弾を完成させ、無数の国民が知らず知らずのうちにこの計画に手を貸していた、と。さらに大統領は、陸軍長官が間もなく声明を発表して「テキサス州ノックスビル近郊のオークリッジ、ワシントン州パスコ近郊のリッチランド、ニューメキシコ州サンタフェ近郊の某所に関する事実を明らかにする」と続けた。

ある地名がローズマリーさんの注意を引いた。彼女の出身地、オークリッジだ。噂はたちまち口コミやメディアで彼の地にも広まり、企業や一般家庭に重大発表の衝撃が走った。ついに秘密が公表された。その秘密――原子爆弾の開発――は、警備されたオークリッジの門の外にいる人間だけでなく、今では「マンハッタンプロジェクト」として知られる計画で重要な役割を果たしていた数万人の人々にも知らされていなかった。

あれから78年経った今、クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』をきっかけに、多くの人々がまずは上層部の興味深い視点からマンハッタンプロジェクトを初めて知ることになるだろう。物理学者や化学者、頭脳明晰な人々や軍上層部。いずれも秘密を「知っていた」人々だ。だが理論を現実にする手助けをした女性作業員たちがいなかったら、そうした人々の努力も実を結んでいなかっただろう。

アメリカ男性はみな戦場に送られたため、驚くほど大勢の女性たちが、様々な職務に駆り出された。オークリッジでは老いも若きも男女問わず動員され、戦争の在り方、医学、国際政治、環境を永遠に変えることになる兵器の開発で重要パートを任された。作業員の大半は広島の実戦で原爆が投下されるまで、自分たちが歴史的出来事に果たした役割を全く知らなかった。彼らが爆弾の開発と製造を決めたわけではないが、彼らはその選択と顛末から永遠に離れられなくなった。その多くが女性たちだった。ほとんどがまだ10代だった。






数年前、私はテネシー州オークリッジを訪れ、第2次世界大戦中にオークリッジに住み込みで働いていた男女の追跡を始めた。世界を一変させた出来事を、彼らの視点や独自の経験からとらえたいと思ったのだ。最初に声をかけた時、私が興味を持っていることに誰もが目を丸くした。なぜ私の話を聞きたがるんです? 私は何も知らなかったんですよ、とみな口を揃えて応えた。だが話を聞いていくうちに、私は彼らの話に引き込まれ、彼らの冒険心に心を奪われていった。彼らは何も知らない土地に行き、ろくに説明もされなかった仕事を選んだ。戦争努力を支えるため、生計を立てるために、彼らは不安と秘密に立ち向かった。そうするうちに、彼らは歴史の流れを変える後押しをした。

数マイル先のクリントンで育ったトニ・ピーターズさんは、ネテシー州の赤土から街が一夜のうちに現れるのを高校の友人と見守っていた。それまで5万エーカー強の土地には結束の固いコミュニティがいくつか存在していたが、政府は収用権を行使して差し押さえ、更地にした。庭の木に立ち退き通知が張られたケースもあれば、役員が呼び鈴を鳴らしたケースもあった。いずれもメッセージは明白、即効退去だ。たった2週間の猶予しか与えられなかった者もいた。家財道具をまとめ、収穫時期を迎えたものをとにかく収穫し、代々受け継がれた土地で眠る愛する祖先の亡骸に別れを告げるのもままならなかった。

オークリッジは掘り起こされた遺体の残骸が散乱する地面から生まれた。靴、本、食器、フライパン、あてもなくさすらう家畜。かつてここに住人がいた形跡は、やがてほとんどなくなった。家を追われた人々の一部は、退去させられた元凶であるプロジェクトに従事した。1943年以前には存在しなかった町は、戦争が終わるころには8万人以上の住民と全米最大級のバス系統を有し、電力消費量はニューヨーク市をしのいでいた。だがその町が地図上に記されたのは終戦後しばらくしてからだった。

マンハッタンプロジェクトは秘密のベールに包まれていたが、その規模とスケールはどこから見ても明らかだった。ヘラクレス級の大規模な建設事業とそれに伴う雇用を見過ごすことは不可能で、絶えず周辺住民の興味をそそった。


デニース・キーナン著『Girls of Atomic City: The Untold Story of the Women Who Helped Win World War II(原題)』(ATRIA BOOKS)

「あらゆるものが運ばれていきましたが、運び出されるものはありませんでした」とトニさん。少なくともはた目にはそう見えた。工場や施設の建築だけでなく、そこで生活する従業員用にひとつの町を建設するのに十分な備品や機材が車両やトラックに積まれ、敷地内に到着した。だがあれほどの資材が警備されたフェンスの向こうに運ばれたわりには、最終製品が敷地から搬出されている様子はまるでなかった。戦車も、弾薬も、何もなし。オークリッジという町が大きくなるに従い、謎も膨らんでいった。

とはいえ、オークリッジから搬出されたたものもあった。地球上で自然生成される元素のうち、もっとも重い核分裂を起こす同位体ウラン235だ。膨大な資源とたゆまぬ努力の末に生まれた製品は非常に小さな容器に格納され、ごく普通の袋に入れた後、運搬人の手首に手錠で括りつけられ、電車や車でロスアラモスやニューメキシコといった砂漠の僻地に運ばれた(ワシントン州リッチランド郊外のハンフォードではプルトニウムが製造されていた)。



オークリッジを24時間365日で稼働させ続けるのに必要な作業員を確保するべく、様々な採用方法が取られた。ドット・ウィルキンソンさんのような若い女性は、高校の廊下で採用され、そのまま現地に連れていかれた。いい稼ぎと戦争終結につながる仕事という保証は、ドットさんのような女性を納得させるには十分だった。テネシー州の田舎で育ったドットさんは兄のショーティを真珠湾で亡くしていた。経済的必要性と戦時中の愛国心は、強力で説得力のある組み合わせだった。

ドットさんたちが現地に到着すると、ならされたばかりの土地が夏の雨で水浸しになり、泥の沼と化していた。歩道はなく、間に合わせの板が一面の泥に渡してあるだけだった。住民と作業員はセキュリティバッヂを着用し、バッヂごとに乗車できるバス、飲食できるカフェテリア、入室できる施設が決まっていた。女性たちは様々な仕事を任された。教師、清掃員、料理人、バスの運転手、電話交換手。みなロスアラモスに送られることになるウランの濃縮に、知らず知らずのうちに関わっていた。

戦時中はウランを濃縮するために、気体拡散や電磁質量分離など複数の方法が試された。Y-12は電磁分離を行う施設だった。そこでドットさんを始め数千人の若い女性は「カルトロン」という機械を操作した。一般的なウラン238から、ウラン235という同位体を分離するカギとなる機械だ。


1944年1月1日、オークリッジではセキュリティ審査の一環で嘘発見器の検査が行われた(GALERIE BILDERWELT/GETTY IMAGES)

来る日も来る日も、ドットさんは椅子に座って目の前の操作盤を見守った。本人いわく、これほど複雑で革新的な科学機材のわりには、訓練はいたってシンプルだったそうだ。針を中央の位置でキープする。右に動いたら、ノブを左に回す。左に動いたら、ノブを右に回す。火花が出たら監視員を呼ぶ。

ゲートの中で暮らす住民に、これほどの大規模な計画の理由を想像するなと言うのは無理な相談だった。だが詮索しすぎれば職を失うだけでなく、しばしば住む場所も失った。誰かが話題にすれば、デスクや椅子に空きが出て、ほどなく他の作業員が補充された。オークリッジの住民が「クリープ」と呼ぶ人々も雇われた――住民を監視し、セキュリティ規制を取り締まる政府要員だ。洗濯物を干しながらおしゃべりしていた女性たちは、後でクリープの訪問を受け、話の内容を尋問された。だが政府はオークリッジの住民がほとんど何も知らない秘密を守らせるために、住民の手も借りていた。

Y-12工場で働いていた当時18歳のヘレン・ブラウンさんは、ある夜宿舎に戻ると2人の男から外に呼び出された。職場やカフェテリアでの会話に注意してくれないか? 内部事情に首を突っ込んでくる人間や、職務内容を話題にする人間がいたら気に留めて置いてほしい。もちろん彼女が密告しても全て匿名扱いにすると男たちは請け負った。ヘレンさんは男たちから記入用紙と、ノックスビルにあるACME保険会社の住所が書かれた封筒を受け取った。ヘレンさんは聞き耳を立て、目を光らせることに同意した。怖くて断れなかった。彼女は用紙を箪笥の引き出しの奥にしまった。できれば使いたくなかった。



オークリッジの住民は仕事のない時の余暇に事欠かなかった。時間に追われる仕事ゆえ、町は24時間稼働していた。スタッフの離職は作業を遅らせるため、マンハッタンプロジェクトでは可能な限り住民を満足させる充実したレクリエーションが用意された。スポーツチームや各種クラブ、ボーリング場が設けられ、ほぼ毎日ダンスパーティがあった。一部の人々にしてみれば、カフェテリアや宿舎や出会いの場があるオークリッジの生活は、想像していた大学生活のようだった。ケイティ・ストリックランドさんのような人にとっては、オークリッジの生活はまったく違った経験だった。


1945年のオークリッジ。町は1942年、マンハッタンプロジェクトのクリントン土木事業の一環で、人里離れた農地に陸軍工作部隊によって建設された(GALERIE BILDERWELT/GETTY IMAGES)

アラバマ州オーバーン出身の黒人女性ケイティさんは、夫のウィリーさんとオークリッジに移った。オーバーンで図書館の清掃員をしていた時よりも、2倍稼げるという触れ込みだった。黒人はオークリッジに子どもを連れていけないと言われたため、子どもたちは祖母に預けられた。ケイティさんも当時は知らなかったが、現地では夫と一緒に住むこともできなかった。黒人は男女に分かれて「仮兵舎」で生活した。ケイティさんは16フィート四方の部屋を3人の女性と共有した。ドアにカギはついていなかった。配偶者との面会は限られ、門限が設けられた。勤務時間外にはベッドの点検が――しばしば抜き打ちで――行われた。ケイティさんはこの部屋を「檻」と呼んでいた。ケイティさんは気体拡散を行うK-25工場で、設立当初から清掃員として勤務した。工場がいつ、どんな風に稼働しているのかは知らなかった。給料を受け取ると、ウィリーさんの分とまとめて小包にし、少しでも多くアラバマに律儀に仕送りした。

オークリッジの幹部の近くにいた人々ですら、詳細は知らされなかった。セリア・クレムスキさんが勤務していたのは「丘の上の城」――オークリッジのみならず、マンハッタンプロジェクト全体を統括していた本部棟だ。セリアさんはしばしば口述の書きおこしや、時には暗号解読を担当した。オフィス全体を取り仕切る将校の書きおこしをしたこともあった。将校の名前は知らされず、本人はただ「G.G.」と名乗った(後にセリアさんは、その男がマンハッタンプロジェクトの最高責任者レスリー・R・グローヴス少将だと知った。映画の中ではマット・デイモンが演じている)。同じ棟では、新聞や雑誌に目を通して検閲局の禁止用語をチェックする女性たちもいた。セリアさんは「知っていた」人々の近くにいたが、これほど大掛かりな計画の理由については検討もつかなかった。セリアさんの兄弟の1人はイタリアで、もう1人は太平洋で従軍していた。兄弟を帰国させるためにも、自分のやるべきことをやりたかったとセリアさんは語った。



学歴や職務内容によっては、情報をつなぎ合わせてオークリッジの目的を解明できる人たちもいた。ジェーン・パケットさんは統計学者で、エンジニアを目指していた。だがテネシー大学は女性の入学を認めていなかった。ジェーンさんはオークリッジで「コンピュータ」室の監督係を務めた――そこでは男女が計算器を操作して、最終的にY-12工場の生産高をはじき出していた。80代を過ぎた今もなお、ジェーンさんは男性作業員が自分より給料をもらっていたと不満を吐いていた。


1945年8月29日、テネシー州オークリッジの原爆研究施設で、作業員を前に演説するマンハッタンプロジェクトの主任、レスリー・リチャード・グローヴスJr.少将(PHOTOQUEST/GETTY IMAGES)

ヴァージニア・コールマンさんもY-12工場で働いていた1人だ。財政難と性差別にもめげず、彼女はノースカロライナ大学で化学の学位を取得し、卒業した。就職説明会でオークリッジ行きを決めると、そこには給料のいい仕事が待っていた。彼女も含め、研究所のメンバーはみな自分たちがウランを扱っていることを知っていた――ただし、ウランという言葉は禁句だった。ヴァージニアさんは核分裂のことも知っていて、最近発見されたばかりにもかかわらず、新聞や雑誌や出版物からウランという単語や関連研究が見当たらなくなったのはなぜだろうと疑問に思っていた。1945年8月が近づくにつれ、研究所では使用目的が噂になり始めた。どうやら兵器として使われるらしい。

ヴァージニアさんが短期ながらも待望の休暇を取っていたころ、広島のニュースが飛び込んできた。男たちが原爆投下について話し、オークリッジという場所では誰1人事情を知らないことに驚いていた。男たちの話を耳に挟んだヴァージニアさんは、「あそこで働いてました」と言った。「私は知っていましたよ」。

誰も彼女を信じなかった。

数年後、ドットさんは科学博物館でガイドとして勤務した。ある時1人の女性が近づいてきて、大勢の命を奪う片棒を担いだというのによく生きていられますね、と言われた。

その後ドットさんはハワイへ向かい、兄が命を落とした一番近い場所、真珠湾を訪れた。水面を眺めながら、ドットさんは日本人女性の隣に立った。2人とも赤の他人で、かつて敵として戦った国に暮らし、話す言葉も全く違っていた。2人は涙を流し、互いに向き合って抱擁した。戦争に伴う痛みと喪失が2人の共通点だった。

映画『オッペンハイマー』初日には、私も映画館に足を運ぶつもりだ。だがおそらく私の思いは、知り合えた素晴らしい女性たちの思い出に向かうことだろう。全員すでにこの世を去ってしまった。若かりし日の彼女たちや数千人以上の女性たちは、2つの異なる世界に横たわる時代の流れの一部だった。かたや核エネルギーや核兵器とは無縁の国、かたやそれを免れることができなかった国。「核の冬」「核の灰」という言葉や表現から完全にかけ離れていた国と、それが恐ろしいほど日常化している国。後者は彼女たちが行った作業により誕生し、彼女たちとは全く関係のないところで下された決定で被害を受けた。彼女たちは息を引き取るまでその遺産を抱えていった……望むと望まざるとにかかわらず。

デニース・キーナン氏はニューヨークタイムズ紙のベストセラー『The Girls of Atomic City: The Untold Story of the Women Who Helped Win World War II』の著者。彼女の活動についてはwww.denisekierman.comを参照。

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