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続・J-POPの歴史「1992年と93年、女性のラブソングとポップソングの全盛期」

Rolling Stone Japan / 2023年8月13日 12時0分

1993年8月に開通したレインボーブリッジ(Photo by Gerhard Wolfram/ullstein bild via Getty Images)

音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。

関連記事:〈Gacha Pop〉がJ-POPを再定義する? 日本の音楽を海外に発信するための新たな動き

2023年7月の特集は「田家秀樹的 続90年代ノート」。「J-POP LEGEND FORUM」時代に放送した「60年代ノート」「70年代ノート」「80年代ノート」の続編として、今年5月に特集した「田家秀樹的90年代ノート」の続編で、よりパーソナルな内容の90年代特集。PART2は、1992年、1993年のヒット曲10曲をピックアップする。



こんばんは。「J-POP LEGEND CAFE」マスターの田家秀樹です。今流れているのは平松愛理さん「部屋とYシャツと私」。92年3月に発売になったシングルで、この年の年間チャートは17位。でもミリオンセラー。今日の前テーマはこの曲です。20位の大黒摩季さん「DA・KA・RA」もミリオンセラーなんです。年間チャートの上位ほとんどがミリオンというで、とんでもない時代、まだ序の口ですよ。

この「部屋とYシャツと私」は結婚がテーマだった。さだまさしさんの70年代の「関白宣言」の女性版というふうに言われましたね。とても牧歌的な結婚ソングに聞こえるでしょうが、「あなた浮気したら 私は子供を守るから 結婚祝いのカップに 特製スープ ひとりで逝って」っていう歌詞があるんです。「逝って」っていうのが逝去の「逝く」なんです。つまり死んでくれっていう意味なんですね。笑顔の裏に潜む女性の怖さ。そんなことも当時話題になりました。でもこれはもう今では冗談では済まない、そんな時代になってるのかもしれません。

先週90年代初め、90年91年はバンドブームの最後で盛り上がったという話で終わりました。今週は、ポストバンドっていう傾向が強くなってくるんですね。女性のラブソング、ポップソングの全盛期。時代は大体2年か3年で変わってくものですから、この92年、93年はそんな色合いが強いですね。その象徴がDREAMS COME TRUEとユーミンだった。これは5月の特集のときにもお話しましたが、そういう中で改めて脚光を浴びた人の曲からお聴きいただきたいと思います。92年10月発売、竹内まりやさんのアルバム『Quiet Life』から「家に帰ろう (マイ・スイート・ホーム)」。





1992年11月発売、竹内まりやさんの「家に帰ろう (マイ・スイート・ホーム)」。いつ聴いてもほっとする。ときを超えた普遍のアメリカン60's。J-POPの帰るべき場所。そんな気のする1曲ですね。

さっきの「部屋とYシャツと私」が結婚する前の女性の歌でしたけど、この「家に帰ろう」は結婚した後。冷蔵庫の中で愛が凍りかけた2人が愛を取り戻す歌。結婚してお互いのことをわかり合ったカップルのやり直しの歌ですね。まりやさんは結婚して家庭に入ってシンガーソングライターとして活動して、ライブをやらないでご主人の達郎さんからシンガーソングライター専業主婦というふうに呼ばれるようになりました。



1992年4月発売、GAO2枚目のシングル「サヨナラ」。バンドブームのピークが90年だったっていう話を先週しましたが、NHKがバンドコンテスト番組を始めたんですね。「全日本勝ち抜きロック選手権 BSヤングバトル」。全国のNHKの地方局が窓口になって地方大会が行われて、テープ審査、それからライブ審査があって、全国から集まったバンドで全国大会が行われた。審査員がそうそうたる顔ぶれだったんですね。例えば小倉エージさんとか、渋谷陽一さんとか、吉見佑子さんとか。その中に私も加えてもらってましたが、この地方大会の審査が面白かったんですよ。各局の会議室に集まってカセットテープを聞いてくんですけど、そこから始まって各地のライブハウスでライブ審査を通過して全国大会に集まる。1回目の優勝がバンドのGAOだったんです。プロになったときにはソロになって彼女1人で活動してました。2回目の優勝がシャ乱Qですね。「ラーメン大好き小池さん」。GAOはソロデビュー91年、2枚目のシングルが「サヨナラ」で、92年93年と紅白歌合戦にも出ました。

女性アーティストにもいろんなタイプがいて、まりやさんみたいな家庭に入ったまま活動するちょっと大人のシンガーソングライターがいたり、平松愛理さんのようなカジュアルな人がいたり、GAOのようなボーイッシュな人がいたり。次の人もそういうボーイッシュなイメージの女性でした。92年と93年、初めて女性アーティストで横浜スタジアム公演を成功させたのが、この人です。永井真理子さん。最大のヒットで90年のシングル「ZUTTO」。

ZUTTO / 永井真理子

永井真理子さん、90年10月発売のシングル「ZUTTO」。91年の紅白でこの歌を歌いました。日本女子体育短期大学出身で、とってもボーイッシュで、元気印が旗印でしたね。デビューが87年なんですが、彼女を92年で取り上げたのはいくつも理由があって。92年4月25日、尾崎豊さんが危篤状態で発見された。その知らせを聞いたのが、永井真理子さんの取材の直前だったんですね。取材が始まっちゃったんで、あまりその話は考えないようにしてたんですけど、取材の間はもう気もそぞろだったっていう記憶があります。そして92年8月、93年7月、横浜スタジアムで彼女がライブをやりました。

92年の手帳を見てたら、永井真理子っていう名前が随所に出てくるんですね。92年11月打ち合わせ、というふうに書いてあって、その日の夜がGAOのPOWER STATIONのライブなんです。POWER STATIONと武道館に通ってた年だったなと思ったりもしたんですね。永井真理子さんの93年のツアーは取材でかなりあちこち一緒に行った記憶がありますね。そういうツアーの後、横浜スタジアムで婚約発表したんじゃなかったかな。93年9月25日、永井真理子結婚って書かれた日があって、その日、POWER STATIONでパーティーだったと思うんですが、そのときの司会をしたなと思い出したりもしました。

92年、93年、印象的だった女性アーティストの曲をもう1曲お聞きいただきます。森高千里さん、93年6月に出たシングル「ハエ男」。





93年6月発売19枚目の衝撃のシングル「ハエ男」。アイドルのイメージを変えた1人でしょうね。これも一つの元気印のバリエーションだったんじゃないかと思いますが、先週お話した「24時間、戦えますか?」という企業戦士をこんなふうに揶揄していたっていう1曲ですね。92年の6月に「私がオバさんになっても」。あれも驚きましたけども、その後93年「渡良瀬橋」が出て、とてもしっとりした、こんなに叙情的な歌も歌うんだと思ったら、この曲でしたからね。

この年、92年、93年の4枚のシングルは驚かされっぱなしでした。怖いものなしの女性陣。でも、森高さんのディレクターが矢沢永吉さんを手掛ける瀬戸さんだという話を聞いて、これも驚いたことの一つでありました。



92年9月発売、大黒摩季さんの「DA・KA・RA」。5月にデビューシングル「STOP MOTION」が出て、2枚目のシングルでした。作詞作曲は大黒摩季さんですね。90年代の音をしてますよね。TM NETWORKと初期のB'zが一緒になってるみたいなそんな音ですけども、これが当時のビーイングの音でしょうね。で、この曲がですね、2枚目でいきなりミリオンです。

ライブをやらなかったりしたわけで、本当にいるんだろうかっていう憶測が交わされましたね。ZARDのデビューが91年。ライブをやらなかったり、CMをうまく使ったりっていう、これがビーイングの戦略でしたね。でも大黒摩季さんのスタッフとかミュージシャンの中には、B'zとかTUBEのサポートメンバーだった人たちがちゃんと加わってるんですね。音楽的なバックグラウンドをきちんと作り上げた上で、世に送り出してた。ZARDはモデルさん出身だったわけですけど、大黒さんはコーラス出身で、オーディションを落ちまくってた時期があるんですね。そういうキャリアを全部踏まえながら、表に出なくていいから曲だけで勝負した。この大黒摩季という人は、実はとてつもなく歌がうまいんじゃないかって話をしたことがありました。本当にそういう人でしたけどね。

93年のシングルのタイトルが「別れましょう私から消えましょうあなたから」。長いですよね。B'zが「愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない」。もう1組、WANDSがいましたね。「愛を語るより口づけをかわそう」。90年に槇原敬之さんの「君が笑うとき君の胸が痛まないように」。これが長いタイトルの走りだと思うんですが、そういうものをちゃんとキャッチして、さらにそれを商品化するビーイングの力というんでしょうか、それが存分に発揮された、そんな時代ですね。

時の扉 / WANDS

93年2月発売、WANDSの「時の扉」。年間アルバムチャート2位がこの『時の扉』だったんですね。

この曲は作詞が上杉昇さん、作曲が大島康祐さん、編曲が明石昌夫さん。上杉さんはWANDSのリーダー。明石さんはB'zのサポートで知られた人ですね。上杉さんは元々ガンズ・アンド・ローゼズで音楽の道を志して、LOUDNESSに憧れていた。LOUDNESSはビーイングの所属でしたからね。ビーイングがやってた音楽スクールでこういう形に変わっていった。アメリカにはモータウンとかスタックスとか、いわゆるレーベルの音ってのがありましたけど、日本でここまでレーベルの音という形を作り上げたのはビーイングぐらいでしょう。

そういうレーベルの音っていうところから離れて自力で自分たちの音楽を作り上げたのがB'zでしょうね。92年のアルバム『ZERO』、そして94年のアルバム『The 7th Blues』は、その成果ということになるんじゃないでしょうか? そういうバンドブームが去って、実力派と個性派が残った。これが92年93年でしょうね。個性派をお聴きいただきます。麗蘭、93年7月発売、「マンボのボーイフレンド」。



マンボのボーイフレンド / 麗蘭

1993年7月発売、麗蘭2枚目のシングル「マンボのボーイフレンド」をお聞きいただきました。RCサクセションのチャボ(仲井戸麗市)さんとストリートスライダーズの蘭丸(土屋康平)さんのバンド。良かったですね。それぞれのバンドが活動を休止して2人が組んだんですね。2人は文通友達だったという話がありました。文通ってのがいいでしょう。

結成が91年で、10月にシングル「ミュージック」とアルバム『麗蘭』が出たんですね。当初、1年限定で全国ツアーをやりました。「麗蘭との夕べ」。92年に日清POWER STATIONでライブがありました。これも良かったですね。93年に再度全国ツアーに出ました。東京はPOWER STATIONで、神戸がチキンジョージ、京都が磔磔。麗蘭の磔磔はそのままずっと続きましたからね。

今お聞きいただいた「マンボのボーイフレンド」は最初のアルバムにもライブ版にも入ってないんです。1年間ツアーをやった後に出したシングルなので、僕、この歌が一番好きだった。ギターのリフの気持ちよさと、チャボさんの歌が本当に溶け合ってる。チャボさんの言葉の情景感みたいなもの、エキゾチックな感じがよく出てて、ライブでもこれは聞きどころの一つでしたね。やっぱりこれをかけようということでお送りしました。業界にファンクラブができたんですよ。ファンクラブ名前を連ねたい人いませんかって。僕も手挙げましたからね。あまりの評判に毎年ライブをやるようになったそんな1組でした。

もう1組ご紹介しますね。そういう国内のブームがどうなの?って、私達は知らないわよっていう、そういう主戦場が世界だったバンド。少年ナイフ、93年発売「コンクリート・アニマルズ」。



93年9月発売、少年ナイフ、メジャー2枚目のアルバム『Rock Animals』から「コンクリート・アニマルズ」をお聞きいただきました。

結成が81年。83年にインディーズでCDを出して、そのアルバムがアメリカの関係者の目に留まって、85年に全米発売された。大阪から東京を飛び越してアメリカに行ってしまって、世界ツアーになったという異例のバンドですね。92年8月に日本のメジャーデビュー。そしてその年もイギリスツアー25公演を行った。年末にレコード大賞の特別賞をもらってるんです。当時のレコード大賞は、そういうこともちゃんと目配りをしておりました。

手帳にあったんですよ。93年2月15日、渋谷公会堂、少年ナイフって。俺、少年ナイフ観てるんだと改めて思い出しました。インタビューも2回はやってますね。そういうことを忘れちゃいけないんですが、やっぱりその後あまり接触がなくなると何となく記憶が薄れていくもんだなとちょっと自分を戒めた、そんな発見でありました。

2021年に海外に出られなかったんで、国内で40周年ツアーをやって、今年の2月に新作アルバム『OUR BEST PLACE』が出ております。そして昨日、心斎橋のライブハウスANIMAでライブが行われたはずなんですが、どんなライブだったんでしょう。40年間ですよ。海外でこんなふうに活動してることに対して改めてリスペクトの気持ちを込めてお送りしました。そんな92年、93年。92年の年間チャート1位をお聞きいただきます。米米CLUB「君がいるだけで」。



今日最後の曲、1992年5月発売、米米CLUB「君がいるだけで」。最後は盛大に。そういう感じですけども。アルバムは92年6月に出た『Octave』。この「君がいるだけで」は当時史上最大のシングルヒットだと思うんですね。約289万枚。シングルもアルバムもダブルミリオン。90年の年間チャート2位が米米CLUBの「浪漫飛行」で、87年の曲でしたからね。こちらはホヤホヤの新曲で、93年1月に彼らは初めて武道館のライブ行ったんですね。それまで武道館なんかやらないって言ってたんですが、結成8周年で武道館を8公演やりました。武道館の形は8角形ですからね。そういう洒落がちゃんと効いていて、8日間全部選曲が違ったという、そんなライブでありました。





流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

92年、93年、本当にいろんなことがあったなと思ってます。90年から91年にかけては、浜田省吾さんのツアーに同行していて東京にいなかったりして、その反動もあったんでしょうね、ライブを見まくっていた。それを手帳を見て改めて驚いたりもしております。

忘れてることもいろいろあって、92年の6月にモンゴルに行ったんです。ヤマハのバンドコンテストのモンゴル大会があったんですね。モンゴルは91年に民主化されて、ロックが解禁になったんです。それまでバンドは非合法だったんで、海賊版を聞いて曲をコピーして、楽器屋さんがないので折れたスティックをガムテで貼って使ってるっていう、そういうバンドが晴れて一堂に会したんですね。そういうバンドの人たち、音楽関係者と、満天の星空の人でバーベキューパーティーをやりました。そこでみんなで片言の英語で、ジョン・レノンの「イマジン」を歌ったんですね。東欧の民主化のときに評論家の立花隆さんが文藝春秋だったと思いますけど、「ビートルズがレーニンに勝った」と書いていたんです。とってもいい表現だなと思ったんですけど、モンゴルの星空のもとで「イマジン」をみんなで歌ったときに、こういうことか!と思ったりしました。ウラジオストックのレーニン像が倒されたばっかりでした。希望に満ちた90年代。個人的には、あの満天の星空がそういう希望を象徴しておりました。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND CAFE」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストにスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
OFFICIAL Facebook : @FMCOCOLO
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