50年前の未解決事件、音楽フェス目指しヒッチハイクの旅に出た高校生は今どこへ? 米
Rolling Stone Japan / 2023年9月9日 21時40分
1973年7月27日の朝、ロック史上最大級のフェスを見に、ブルックリンの2人の若者がニューヨーク州内陸を目指して出発した。
【画像ギャラリー】開催から約半世紀、貴重な写真で綴る1969年ウッドストック
それきり2人の姿を見た者はいない。
本当に?
ミッチェル・ウィーザーさん(当時16歳)とボニー・ビクウィットさん(当時15歳)が姿を消して、先月でちょうど50年目になる。才能ある2人の高校生は、全米でもっとも古い行方不明者だ。
当初は恋の逃避行だからすぐに戻ってくるだろうと思われていたが、2人の運命は今も謎に包まれている。警察の不手際や誤った手がかりが数十年続いた後、捜査官は2人の身に起きたであろう様々な説を追跡している。最近になって失踪に関与した可能性のある容疑者の情報が浮上する中、ミッチェルさんとボニーさんの家族や友人は、全米最古の未解決事件の解決に必要な情報を開示するよう、連邦および州当局に要請している。
「弟と恋人のボニーに何があったのか、解明に必要なのは特別捜査班です」。この半世紀、弟ミッチェルさんの行方を捜してきた姉のスーザン・ウィーザー・リーブゴットさんは、ローリングストーン誌にこう語った。「正直なところ、それが事件を解く唯一の方法です」。
「家族や友人に正義と多少の平穏をもたらす最後のチャンスかもしれないんです」と、ミッチェルさんの幼馴染スチュアート・カルテンさんもこう続けた。
2人がキャッツキル山地で人気のウェルメット・キャンプ場を出発したのは明らかだ。キャンプ歴の長いボニーさんは、サマーキャンプに参加する子どもの保護者の手伝いとしてここで働いていた。ミッチェルさんはブルックリン在住で、地元の写真館で念願の仕事を手にしたばかりだった。7月26日木曜夜、ミッチェルさんはマンハッタンのポート・オーソリティ・バスターミナルからバスに乗り、2時間ほど先にあるサリバン郡ナロウズバーグのボニーさんが働くキャンプ場に向かった。
2人はヒッチハイクをしながら、北西150マイル先のワトキンズ・グレン・グランプリレース場で行われる屋外コンサート「サマージャム」を見にいく予定だった。グレイトフル・デッド、オールマン・ブラザーズ・バンド、ザ・バンドといったカウンターカルチャーの大御所が出演したコンサートは、今日までもっとも観客動員の多かった全米コンサートのひとつに挙げられる。
明くる金曜朝、2人の若者はキャンプ場で朝食を取り、ヒッチハイクでナロウズバーグに到着した。ジーンズのポケットにはたいした金もなかったため、その後2人は寝袋を小脇に抱え、「ワトキンズ・グレン」と書いた段ボールを掲げながら道路脇に立った。
サマージャムを目指して旅立ったファンの数は推定60万人。そのうちミッチェルさんとボニーさんだけが跡形もなく姿を消した。
1973年7月28日、ニューヨーク州ワトキンズ・グレンのグランプリレース場で行われたサマージャムに駆け付けた推定60万人の音楽ファン(AP)
失踪者捜索の専門家いわく、50年目という節目は世間――それもサマージャムの参加者――に当時の記憶を探ってもらい、ミッチェルさんとボニーさんの写真を見て新情報を思い起こす絶好のチャンスだという。「以前は誰も気に留めなかった記憶や新たな情報が呼び起こされるかもしれません」と、全米失踪・被搾取児童センターの行方不明児童部門を率いるリーミー・カン-ソーファー主任は言う。「それが事件解明の突破口になるかもしれません」。
「この事件は独特です」と言うのは、『The Vanished』というpodcastの創設者で、これまで400件近い失踪事件を報じてきた司会のマリッサ・ジョーンズ氏だ。「特大コンサートにあちこちから人々が集まる。ヒッチハイクする人もいる。確実な時系列を特定するのが難しいケースです――2人がコンサートにたどり着けたのか、どの時点でたどり着いたのかもわかりません。解明が難しいケースです」。
1973年に警察がすぐに動かなかったことが事をさらにややこしくしている。ニューヨーク州3つの郡の捜査官は当初、捜査してくれというミッチェルさんとボニーさんの両親を無視し、ヒッピー2人の駆け落ちだとして取り合わなかった。「まともな捜査は一切行われませんでした」と、ボニーさんの姉シェリル・ケイゲンさんも主張している。
1973年9月4日、ウィーザー家の友人でウォールストリートジャーナル紙の全国ニュースを担当する編集者マーティン・ホランダー氏が、当時のニューヨーク警察(NYPD)署長、ドナルド・コーリー氏に書簡を送った。ローリングストーン誌が入手した書簡には、警察の不手際の一例が記されている。NYPDは州全域の警察署にミッチェルさんの失踪を知らせるとミッチェルさんの父親に請け負ったが、実際には知らされず、結果としてサリバン郡では捜索すら行われなかった。
「貴重な時間が失われました」と書簡にはしたためられている。「その上、息子に関する通知が行われなかったとウィーザーさんが苦情を申し立てると、おたくの警察官から不当な扱いを受けました」。コーリー署長は書簡の内容を認め、「本署の上層部が捜査を開始し、引き続き捜査を進めていく」と述べた。
捜査が継続されることはなかった。「あれからずっとこんな調子です」と、ウィーザー・リーブゴットさんは語る。
1970年代初期のアメリカは、今とは全く違う時代だった。牛乳パックに失踪した子どもの写真が印刷されるようになる10年以上も前の事件だった。2人が失踪したのは、携帯電話が普及し、失踪者緊急速報「アンバーアラート」が導入される数十年も前だった。警察当局は、失踪した2人を見放した。
2人はまさに孤立無援だったのだ。
1973年、眼鏡をかけた童顔の青年ミッチェル・ウィーザーさんはブルックリンのグレーブセンド地区ジョン・デューイ高校の2年生で、才能にあふれる人気者だった。
身長5フィート7インチ、体重140ポンドのウィーザーさんは、長髪を真ん中で分けてポニーテールに結んでいた。栗色の瞳の上に、大ぶりの金縁眼鏡をかけていた。写真とボニーさんと野球が大好きで、グレイトフル・デッドの大ファンだった――バンドの楽曲にちなんで愛犬を「ケイシー・ジョーンズ」と名付けたほどだ。友人からは、向こう見ずで少し反逆児とみられていた。1歳年下の恋人ボニーさんとはジョン・デューイ高校で知り合った。
「非凡な才能の持ち主でした」と言う姉のウィーザー・リーブゴットさんは、今でも弟の遺物を収めた段ボール箱を保管している。1969年にメッツがワールドシリーズに出場した試合のチケットの半券、1964~65年に行われたニューヨーク万博博覧会でお土産にもらったトレーディングカード、使い古しのべっ甲の眼鏡、自作の詩、15歳の誕生日に友人が開いたパーティで贈られた巨大なバースデーカードなどが収められている。
サマージャムの噂を聞いて興奮したミッチェルさんは、高校の友人ラリー・マリオンさんと一緒に行くことにした。「当初の計画では、ワトキンズ・グレンに一緒に行くのはボニーではなく、僕だったんです」とマリオンさん。「僕が2人分のチケットを買ったんですから」。
だが、息子の身を案じたマリオンさんの母親が反対した。ミッチェルさんの母親シャーリーさんも行かないでと懇願した。「ヒッチハイクしなくて済むよう、もっとお小遣いを渡せばよかった」と、母親は1998年のインタビューで語っている。「有り金はたったの25ドル。それでも息子は家を飛び出していきました」(ミッチェルさんとボニーさんの両親はどちらもすでに他界している)。
ミッチェルさんは25ドルをナロウズバーグ行きのバス代と、キャンプ場までのタクシー代に充てた。ウィーザー・リーブゴットさんは弟がキャンプ場に到着したのを電話で確認したので、現地に着いたのは確かだという。「弟があそこに着いて、あそこから出発したのは確かです」
ミッチェルさんとボニーさん(WWW.MITCHELANDBONNIE.COM)
家族と友人は、2人が駆け落ちしたかもしれないという説をずっと否定してきた。「ありえません」と、ボニーさんの友人ミシェル・フェスタさんは言う。「2人が駆け落ちしたなんて、絶対考えられません。お互いの家族や友人ともすごく仲がよかったんですから」。
「100%確信を持って言えます。2人が駆け落ちだとか、コンサートに行って家に帰る以外の計画を立てていたはずはありません」とマリオンさんも賛同した。「ミッチは月曜には戻ってくると言っていましたし、あんなに気立てのいい人間が人を裏切ったりだましたりするはずがない」。
一方そのころ、およそ100マイル北にいたボニーさんは、コンサートに行くために週末休みをとることについて上司ともめていた。
身長4フィート11インチ、体重90ポンドのボニーさんは愛らしくて聡明だったが、時に頑固で一度決めたら動かないところもあった。茶色い髪を長くのばし、そばかす顔で、夏のバイトをする何年も前からウェルメット・キャンプ場の常連だったとケイゲンさんは振り返る。
ボニーさんはいつも成績優秀な生徒のクラスだった。地元の高校に進学する代わりに、新設された実験的なジョン・デューイ高校に興味を示した。「人から聞いたり新聞で読んだりした内容が気に入って、校長に手紙で入学を直談判しました」とケイゲンさん。「入学を認められた時はすごく喜んでいましたよ。校長も彼女の手紙を額装していました」。
フェスタさんの話では、ボニーさんは自由な精神の持ち主で気立てがよく、音楽を愛し、とくにオールマン・ブラザーズの大ファンだった。「私たちはいつも一緒でした。彼女の家でお菓子を焼いたり、YWCAで卓球したりしました」とフェスタさん。ボニーさんとミッチェルさんはフェスタさんの16歳の誕生日パーティにも出席した――ミッチェルさんは非公式のカメラマンを務めた。「ボニーは背中に翼があるかのようにダンスフロアを駆けまわり、みんなを笑わせていました」とフェスタさんは振り返る。
「ボニーと一緒にワトキンズ・グレンのロックコンサートに行こうとミッチェルがキャンプ場に現れると、彼女は週末休ませて欲しいと頼みましたが、キャンプ場から断られました」とケイゲンさん。それでボニーはバイトを辞め、ミッチェルさんと旅立った。出発前、ボニーさんはコンサートが終わったら服と給料を取りにくると上司に伝えた。
カルテンさんは、コンサートに向かう前日の消印が押された手紙をボニーさんから受け取っていたそうだ。「手紙には、孤独で、退屈で、仕事を辞めたいと書いてありました」とカルテンさん。「『追伸:そっちのキャンプ場で人を探してない? 聞いてみて』」。
7月27日の朝、2人はコンサートのチケットを手に、155マイル北西のコンサートを目指して出発した。2人ともブルージーンズにTシャツ姿で、ミッチェルさんは高価なカメラを携え、グレーとオリーブグリーンのフラネル織りのシャツを持参した。最後に2人が目撃されたのは、ウェルメット・キャンプ場を貫く70マイルの州間道路97号線で、ヒッチハイクしている姿だった。1台のトラックが2人を乗せた。しばらく走った後、2人は車から降りて運転手に礼を言った。わかっている限り、最後に2人の姿を見たのはその運転手だった。
同じころ、1日限りのコンサートは前売りの段階ですでに約15万枚のチケットが売れていた。だがコンサートのプロデューサー、スカイラー郡の警察当局とソーシャルサービスの職員は、コンサート当日の2日以上も前から面食らっていた。ニューヨーク州フィンガーレイクス地方にひっそり佇む人口2700人の小さな村に、20万人近いファンがすでに押し寄せていたのだ。予想以上の人出で道路も閉鎖された――4年前のウッドストックとまるで同じ状態だった。
「金曜の時点で、大変なことになったと思いました」と、コンサートのプロデューサーの1人ジミー・コプリック氏は当時を振り返る。「サウンドチェックをした段階ですでに15万人で、仕切りの一部がなくなっていました」。結局プロデューサーは仕切りをすべて取り除き、コンサートは無料イベントと化した。
ウッドストックでは音楽史に燦然と輝く演奏がいくつも飛び出し、2枚組のライブアルバムはベストセラー、コンサートの模様を収めた映画も賞を受賞したが、サマージャムのほうはあまり知られていない。だが「最多観客動員を記録したポップフェスティバル」としてギネス世界記録にも載っている(アメリカ国民の350人に1人が参加していたと指摘する歴史家もいる)。
だが規模の割には、サマージャムでは暴力事件は一件も報告されなかった。「全体的に平和なコンサートでした」と、ニューヨーク州警察も語った。「逮捕件数は重罪が13件、軽罪が71件、車両や交通関連が49件(そのうち飲酒運転は14件)でした」。
コプリック氏だけでなく共同プロデューサーのシェリー・フィンケル氏も、ローリングストーン誌から連絡を受けるまでミッチェルさんとボニーさんの失踪を知らなかった。これもまた、サリバン郡保安官事務所がコンサート関係者全員に周知しなかったことを物語っている。
「どんな悲劇にも結末は必要です」とコプリック氏は言う。
オールマン・ブラザーズ・バンド、グレイトフル・デッド、ザ・バンドが出演したワトキンズ・グレンのサマージャム(RICHARD CORKERY/NY DAILY NEWS/GETTY IMAGES)
コンサート終了から1日半が経過した7月30日月曜、ウェルメット・キャンプ場はボニーさんがまだ戻っていないと母親レイさんに連絡した。
日曜にミッチェルさんが戻らなかったため、母親のシャーリーさんはカルテンさんに居場所を知らないかと尋ねた。翌日ミッチェルさんの父親シドニーさんが、姉のスーザンさんと車で5時間かけてブルックリンからワトキンズ・グレンに向かった。「郡警察と会いましたが、警察は家出だとみなしました」とスーザンさん。「私たちはミッチェルとボニーの写真を警察に渡しました。それからワトキンズ・グレン峡谷に行き、2人がケガをしてまだそこにいるかもしれないと、2人の名前を叫びました」。
サリバン郡、スカイラー郡、ニューヨーク市いずれの警察からも相手にされず、慌てた家族は急いで計画を練った。ボニーさんの母親レイさんはサリバン郡庁所在地のモンティセロまで出向き、保安官事務所に助けを求めた。「警察からは一蹴されました」と、1998年のインタビューでレイさんは語っている。ボニーさんとミッチェルさんが最後に目撃されたのがサリバン郡だったため、サリバン郡保安官事務所が捜査の陣頭指揮を執ることになった。2人はニューヨーク市民だったのでNYPDも捜査協力をすることになっていたが、当時のNYPD職員も語っているように、支援協力はなかった。
2人の家族は自分たちで対処することにした。数千枚のチラシをサリバン郡とスカイラー郡で配布した。地域のアングラ新聞に広告を出し、2人がこれを見たら家族に連絡するよう呼びかけた。私立探偵も雇った。ヒッピーが集まるコミューンやアメリカ原住民居留地やカルト宗教に問い合わせたり、訪問したりした。ハレー・クリシュナという宗派や、「ムーニーズ」と呼ばれていた統一教会にも連絡した。ミッチェルさんの姉ウィーザー・リーブゴットさんは、身元を隠してカルト宗教に接近し、情報収集を図った。「チルドレン・オブ・ゴッドというカルトに潜入して、何か知っていないか探りました」とローリングストーン誌に語った。「何も収穫はなく、すぐに退団しました」。
地元メディアが徹底した報道を行ったにもかかわらず、努力は実を結ばず、家族は取り合ってくれない警察当局の態度の理解に苦しんだ。警察の助けがないまま、「どうするのが正解か、まったくわかりませんでした」とケイゲンさんは言う。
専門家の話では、警察当局が行方不明者の捜索に手を貸さないのは珍しいことではないという。「簡単な問いに答えてほしいだけなのに、壁にぶちあたる――大勢の人たちが同じ目に遭っています」と、行方不明者をテーマにしたpodcastの司会者ジョーンズ氏は言う。
1984年に連邦政府の財政支援で、地元警察と家族を支援する非営利組織「全米失踪・被搾取児童センター」が設立された。毎年3万人の子どもの失踪届けが出されているそうだ。2007年には司法省の下に全米行方不明者・身元不明者システム(NamUs)が設立された。推定によると、毎年4400体の身元不明の死体が回収され、身元が分からない人は1万4461人、引き取り手のない人は1万5796人にも上るという。
だが1973年当時、ミッチェルさんとボニーさんの家族には頼る先がなかった。警察の助けもなく、民間の支援団体もなく、やがて家族の資金や手段は底をついた。ボニーさんの母親レイさんは藁にもすがる思いで霊能者に助けを求めた(そのうち1人は、2人が採石場に横たわってる姿が「視える」とレイさんに告げた)。
やがてミッチェルさんとボニーさんの捜索は縮小し、傷心の友人と家族は前に進もうとした。事件が世間やメディアから姿を消すのも、当然の流れだった。
1984年、ミッチェルさんの両親は父親が肺炎にかかったため、アリゾナに移住した。だが夫妻はニューヨーク州の電話会社に毎月2ドル39セントを払い、ブルックリンの電話帳に自分たちの名前とアリゾナの新居の電話番号を掲載し続けた――息子がいつか帰ってくるときに備えて。
失踪から25年目にあたる1998年、筆者はニューヨーク支局の調査報道記者として、2人の身に何があったのか調査に乗り出した。後日掲載された記事から、警察の不能ぶりや不手際のパターンが判明した。サリバン郡保安官局やニューヨーク市警の行方不明者捜索班は、事件ファイルの原本だけでなく、証人候補者のリスト、捜査官のメモ、遺体確認の際に利用可能な2人の歯科カルテも紛失していた。
NYPDの行方不明者者捜索班を指揮していたフィリップ・マホニー氏は1998年のインタビューで、「なんともお恥ずかしい限りです」と認めた。マホニー氏自身も10代のころサマージャムを見に行っていた。同氏いわく、捜査ファイルは初期の段階で紛失したそうだ。
サリバン郡の元刑事アンソニー・スアレス氏も、1994年に事件を引き継いでから証人リストを探そうとしなかったこと、事件を最初に担当した捜査官に連絡もしなかったことを認めた(スアレス氏は2020年5月に他界)。
1973年7月28日、ワトキンズ・グレンのサマージャムに集まったコンサート参加者と警察(RICHARD CORKERY/NY DAILY NEWS ARCHIVE/GETTY IMAGES)
スカイラー郡のマイケル・マロニー保安官は、警察の怠慢を嘆いた。警察はFBIの全米データベースにも2人の名前を登録していなかった。「しかるべき措置が行われず、なんとも申し訳ない」とは、1998年のインタビューでのマロニー保安官の発言だ(マロニー保安官は2023年3月に他界)。
新聞の調査をきっかけに、家族と友人の怒りが再燃した。家族らはニューヨーク州知事と州司法省が介入して再捜査を行うよう訴えた。「私たちは怒り心頭していました」とウィーザー・リーブゴットさんは言う。「警察の無能ぶりと関心のなさに、心底うんざりしていました」。
2000年、ミッチェルさんの高校のクラスが卒業25周年に同窓会を開き、集まった旧友は行方不明の同級生を偲んでブルックリン自生の丈夫な木、ノルウェー・サトウカエデを1本植えた。また記念碑も建てられた。両サイドを粗く削った薄炭の花崗岩の素地には、「ミッチェル・ウィーザー、ボニー・ビクウィット。私たちはずっと忘れない。74年、75年卒業生より」という文字が彫り込まれている。
ボニーさんの友人フェスタさんによれば、同窓会では失踪事件による生活への影響で話が持ち切りだったそうだ。「昔話になると必ずこの話題になりました。いまだに事件の痛みと謎が離れませんでした」と、2000年にMSNBCの取材でフェスタさんは語っている。「あの夏から、私たちにとって世界は一変しました。安全だと思っていたこの世界が、実はそうではないと気づかされたのです」。
2000年6月、家族と友人の願いは聞き届けられた。ニューヨーク州のジョージ・パタキ州知事が州警察のロイ・ストリーヴァー捜査官(サリバン郡の住民でもある)を、エリオット・スピッツァー州司法長官がニューヨーク市警のウィリアム・キルガロン刑事をそれぞれ任命し、事件の再捜査にあたらせたのだ。
突如、流れが変わった。
一方そのころ開局したばかりのケーブルTV局MSNBCは、オリジナル新番組として実録犯罪シリーズ『Missing Person』の放映準備を進めていた。ミッチェルさんとボニーさんの事件も初回シリーズの候補に挙がっていた。2000年7月に撮影班がウェルメット・キャンプ場に出向き、筆者と霊能力者モーリス・シックラー氏も同行した。同氏は2人の幻影が見えたと主張し、2人はすでに死んでいて、ウェルメット・キャンプ場近くの採石場に埋められていると言った。
キャンプ場付近の林を歩いていると、シックラー氏が啓示を受けたと言い出した。「丘の上で殺しがあったに違いない。ミッチェルさんはベトナム帰還兵の男に殺された。それから男は数日後に、別の場所でボニーさんを殺害した」。
シックラー氏は殺人者について、「名前はウェインかウェイド、ウィリーかもしれない。犯人はまだ生きている」と言った。
3カ月後の10月、宝石メーカーに勤務するロードアイランド在住のアレン・スミスさん(当時51歳)は、チャンネルザッピングをしていたところ偶然『Missing Persons』が目に留まった。
ロックコンサートが映り、興味をひかれたスミスさんはそのまま番組を見続けた。コンサートの参加者で唯一行方が分からなくなった人物としてミッチェルさんとボニーさんの写真が映ると、スミスさんは興奮して妻を呼んだ。「おいお前、これはビックリするぞ」。
スミスさんは番組の最後に出てきた番号に電話したが、なかなかつながらなかった。スミスさんは電話をかけ続けた。ロードアイランドからニューヨークへ長距離電話――当時は決して安くない――をかけ、ようやくしかるべき部署につながった。「私につながるまでにかなり苦労したようです」とストリーヴァー氏は振り返った。
スミスさんは2人とは赤の他人で、コンサートに全く近づけずに家までヒッチハイクしていた2人と偶然出会った。スミスさんの記憶では、2人は若く「やせっぽっちで」、サマーキャンプについて話していたという。女性のほうは頭にバンダナかスカーフを巻いていたそうだ(ケイゲンさんは、妹が時々スカーフを巻いていたと認めた)。「とてもキュートで、おしゃれでした」とケイゲンさん。
スミスさんが捜査官に供述した話によると、3人はペンシルベニア州のナンバープレートをつけたオレンジ色のフォルクスワーゲンに乗せてもらったそうだ。その日は暑く、一行はサスケハナ川に立ち寄って涼をとることにした。水流が急になることもある全長450マイルの川だ。
2人が川に入った時、スミスさんは川岸から約100フィート離れた辺りに立っていた。突然女性の叫び声が聞こえ、視線を向けると女性が水の中でもがいていた。男性が彼女を助けようと飛び込んだが、2人ともすぐに川がカーブするところで波にもまれ、不慮の事故で溺れたという。
スミスさんはとっさに何もできなかった。「水に飛び込むのは絶対にごめんだ」とスミスさんは思った。2人の姿が見えなくなり、スミスさんと運転手はなすすべがないと判断した。人里離れた場所で、助けを呼べる場所もなく、2人はワゴンに戻ってその場を去った。「(運転手から)『この後ベンシルベニアに向かう。ガソリンスタンドで警察に通報する』と言われました」と、2000年にスミスさんは語っている。「もし運転手が(電話を)かけていれば、記録が残っているかもしれません」。
運転手が電話するだろうと高をくくり、スミスさん本人は事故を通報しなかった。マリファナでラリっていたので警察と関わりたくなかったのだ、とスミスさんはストリーヴァー捜査官に語った。
キルガロン刑事が「100万に1の奇跡」と呼んだ通話の後、州警察の捜査官2人がスミスさんの話の裏取りに乗り出した。ストリーヴァー氏はスミスさんが自腹でニューヨーク州まで来た捜査に協力した点を力説した。「1日かけて可能性のある橋をくまなく探しました……彼が橋の構造をはっきり覚えていたからです」とストリーヴァー氏はローリングストーン誌に語った。「橋にたどり着くと、彼はあきらかにがっかりした様子で『これじゃない』と答えたものです」。
キルガロン刑事はスミスさんの旧友に事情聴取し、1973年にサマージャムから戻ったスミスさんが溺死について話していたことを確認した(キルガロン刑事は2010年に他界)。結局、刑事はスミスさんの話を信じた。「誰もが同じ結論に達したと思います」と、当時キルガロン刑事は語っている。
「スミス氏は信頼できる証人だと判断しました」とストリーヴァー氏も同意した(スミスさんにコンタクトしようと何度もトライしたが、見つからなかった)。
ようやく家族や友人が望んでいた事件の突破口が開けた。
本当にそうだろうか?
やはり大きな落とし穴があった。死体が上がらなかったのだ。
溺死の場合、死体には数日かけてガスが溜まり、水面に押し上げられる。だが場合によっては、何かにひっかかって水中に沈んだままという場合もある。「死体がごみにひっかかって水面に上がってこなかった可能性もあります」というのは、ニューヨーク州警察潜水捜索班に所属する22歳のケヴィン・ガードナー元軍曹だ。同氏の説明によると、死体が2体とも上がってこないのは珍しいが、ありえない話ではないという。また遺体が他の州に流されて、身元不明の死体として扱われた可能性もあるそうだ。「水流で死体がかなり遠くまで流されることもあります。大雨になるとサスケハナ川の流れは早くなりますしね」とガードナー氏は言った。
2000年、ストリーヴァー捜査官とキルガロン刑事はサスケハナ川沿いに位置する3つの郡の検視局に身元不明の死体がないか確認したが、結果は空振りだった。サスケハナ川が流れる渓谷には他にも63の郡があったが、確認されずじまいだった。「身元が確認できそうな死体がないと、完全に区切りをつけることはできません」とストリーヴァー氏も認めた。
スミスさんの話に対する反応は2つに割れた。ボニーさんの母親と姉は、心の平穏と気持ちの整理がついた語った。「これで区切りをつけることにします」と当時ケイゲンさんは語った。だがミッチェルさんの姉と友人は、はっきりしない点がたくさん残っているとして納得しなかった。たとえば、フォルクスワーゲンのワゴン車を運転していた謎の運転手探しだ。「多少疑念が残っています。確認したい点もいくつかあります」と当時マリオンさんは語っている。
スミスさんの話の裏取りについても、まだ作業は残っていた。スミスさんはいまだうそ発見器にかけられていなかった――スミスさんが捜査に協力的だったので、ストリーヴァー氏はすぐにうそ発見器にかけることはしたくなかったのだ。沿岸の郡検視局に確認する作業も残っていた。また同じころ、連続殺人犯のハッデン・クラークが2人を殺害したと自供するなど、時期には別の説も浮上していた(警察は即座に自供を退けた)。
だがスミスさんの話の裏どり作業が行われるのを前に、ハイジャックされた2機の飛行機がワールドトレードセンターに突っ込んだ。3000人のニューヨーク市民が命を落とし、全米が緊急事態となった。ストリーヴァー捜査官とキルガロン刑事は異動になった。ミッチェルさんとボニーさんの事件は再びお蔵入りとなった。
2013年、すでに40年が経過した未解決事件を引き継いだサリバン郡のサイラス・バーンズ刑事は、フロリダ州の51歳女性から思いがけない電話を受けた。
その女性はワトキンズ・グレンから約20マイル離れたウェインという町で、両親やきょうだいと生まれ育った。その女性は、父親がミッチェルさん殺害に関与しているようだとバーンズ刑事に語った。
その女性は11歳の時、父親と地元のレストランに行き、そこでテーブルに座っていた1人の青年に近づいて名前を訊いたと警察に語った。青年はミッチェルと名乗った。女性の記憶では、その青年は落ち着かなそうにソワソワしていた。
女性からの情報を得て、バーンズ刑事は州警察とストゥーベン郡保安官事務所に捜査協力を要請した。また女性の話の裏を取るために、掘削器具とソナー、死体発見犬も要請した。
ストゥーベン郡保安官事務所のドン・ルイス捜査官は、女性の情報が「細部にわたっていた」とローリングストーン誌に語った。また女性の話では、他の子どもと一緒に父親や他の男性から性的虐待を受けていたそうだ。
「彼女の話は相当はっきりしていました」とルイス捜査官は言い、父親が当時「重要参考人」に上がっていたと付け加えた。州と郡の合同捜索班がウェインの2カ所で掘り起こし作業を行った。ひとつは近くにある一家の小屋、もうひとつは民家と隣接したニューヨーク州電気ガス(NYSEG)発電所の廃屋だった。
隣人のサラ・ソーンダーズさんは2013年10月のその日、ドアをノックした捜査官が裏庭を掘らせてほしいと頼んだ時のことを覚えていた。「具体的なことは言いませんでしたね。『いや、失踪人を調査しているだけですよ』 うちの裏は若者がよくたむろしていた場所で、『無人地帯』と呼んでいましたが、捜査官はそこを掘り起こしました」。
ちょうど同時期、両親と祖母を亡くしたソーンダーズさんは霊媒師に見てもらっていた。「突然、『家の近くに死体はありますか?』と訊かれました。椅子から転げ落ちそうになりましたよ。でも霊媒師はこう言うんです、『でも大丈夫。悪い霊じゃないから。あなたを傷つけたり、怖がらせるためにいるわけじゃないわ』とね。そりゃあもうびっくりしました」。
その後ソーンダーズさんは、13年前にウェインの頭文字Wの幻影を視たという霊能力者シックラー氏の話を知った。彼女はすっかり驚いた。「私もウェインの町の住民ですから」。ニューヨーク州警察E班とストゥーベン郡保安官事務所の協力のもと、バーンズ刑事は捜索を行ったが、掘り起こし作業からは何も見つからなかった。
バーンズ刑事は女性の父親を容疑者として事情聴取しようと考えたが、弁護士に回された。「事情聴取をしようと思っても、物的証拠が揃っていない限り時間の無駄です。開口一番に『弁護士をつけてくれ』と言われるのがおちですから」とは、『The Vanished』でのバーンズ氏の発言だ。
事件から40年後に、例の女性が2人の失踪をどうやって知ったのか、サリバン郡保安官事務所の連絡先をどうやって知ったのかは謎のままだ。
木の根元に設置された記念石(WWW.MITCHELANDBONNIE.COM)
2000年にスミスさんの話を信じた州警察の2人の捜査官は溺死と判断したが、バーンズ氏はとうにこの説を却下していた。「全部でっち上げだったと思います」と、2016年にバーンズ刑事は語っている。「2人が溺死したとかなんとか言ったんでしょうが、彼は海軍にいたんですよ。筋が通りません……その後ペンシルベニア方面に行き、彼は車を降りて、運転手が通報するだろうと思い込んだ。まるでつじつまが合いません。しかも死体はひとつも上がっていない」。
バーンズ刑事の発言を最近になって知ったストリーヴァー氏は驚いていた。バーンズ刑事から何の連絡もなかったからだ(今回の記事でバーンズ刑事に何度も取材を申請したが、返答はなかった)。にもかかわらず、引退した州警察の捜査官は(うそ発見器の専門家で、地元のブルーグラスバンドのギタリストでもある)一貫して自説を主張した。
「名乗り出たところで、アラン・スミスさんには何の得もありませんでした」とストリーヴァー氏。「注目を浴びたいとも思っていませんでした。ただ番組を見て、驚いただけです。ボニーさんとミッチさんの写真を見て、彼らだと100%確信していました」。それでも死体を回収できていないので、「つねに疑問の余地は残りますがね」。
フロリダから通報し、ウェインの掘り起こし作業のきっかけを作った女性は現在61歳。今回の記事で取材に応じることはなく、一家も名前を伏せてほしいと要請した。父親も今回の事件に関して一切起訴されていなかったことから(昨年他界)、ローリングストーン氏も一家の要請を尊重した。
18カ月前、事件はサリバン郡のジャック・ハーブ刑事に引き継がれた。ハーブ刑事にもたびたび取材を申請したが返答はなく、開示を要求した報告書も提供されていない。ミッチェルさんの姉の話では、情報を公開するとメディアがすぐに反応し、追跡や捜査に追われることになるので取材には協力したくない、とハーブ刑事に言われたそうだ。
警察関係者、行方不明者の捜索に詳しい専門家、ミッチェルさんとボニーさんの友人は、サリバン郡の消極的な態度に面食らっている。1973年の事件発生当時の初動がいやがおうにも思い出される。50年目の節目が、2人の情報につながるかもしれない人々の記憶を呼び起こす最後のチャンスだと、誰もが口を揃えている。
「このような事件では、協力こそが最善の方法です」とジョーンズ氏は言う。「とりわけ50年もの年月を経た事件では当然です。メディアの取材に答えたところで、何を失うというのでしょう?」。
「個人的には、情報を開示することに大賛成です」と、ニューヨーク州警察E班のジョン・ストゥーブ捜査官も同じ意見だ。
NCMECも、未解決事件の解明にメディアが強力なツールであるという。「メディアは事件を活かし続けます」とカン-ソーファー氏は言う。「1人の人間の観察や情報から、道が開けることがあるのです」。
失踪した2人に関する「数百ページもの情報」があると言いながら、警察は「機密情報および未成年者の個人情報」を理由に詳細を明かそうとしない。生きていればミッチェルさんは現在66歳、ボニーさんは65歳だ。NCMECの広報担当者レベッカ・スタインバック氏は、その後資料に関する質問をすべてサリバン郡保安官事務所に問い合わせた。警察から最後に連絡があった時期については明かさなかった。
ミッチェルさんの親友スチュアート・カルテンさんは、サリバン郡保安官事務所がサマージャム50周年を利用して、各種ソーシャルメディアやwebサイトに通知し、ミッチェルさんとボニーさんの写真を掲載して一般から情報提供を募るべきだと感じている。
「僕らが知る限り、警察はまだ着手していません」と言うカルテンさんは、2人についての専用webサイトを運営している。サリバン郡の刑事は行方不明者専門のwebサイトやpodcastを捜査に加えるべきだ、とも語っている。そうすれば、数千人の自称「ネット探偵」が独自のやり方で点と点をつなぎ、当局が見落としたことを発見できるかもしれない。
他にも重要な対策を講じることができるかもしれない、と行方不明者の捜索に詳しい専門家、家族、友人は言う。
スミスさんをうそ発見器にかけるのも一案だ。「彼の話の信憑性が高まるかもしれません」とストリーヴァー氏も言う。連邦警察と州警察が合同捜査班を立ち上げ、3つの州にまたがるサスケハナ川沿岸のすべての郡で、身元不明や引き取り手のない死体を調べるのもありだろう。2013年にバーンズ刑事の興味をひいた今は亡き容疑者の経歴を、ニューヨーク州警察が調査することも可能だ。バーンズ刑事がボニーさんだと考えた謎の写真を、最新技術で分析するのもいいだろう。
ジョーンズ氏は、ミッチェルさんがいいカメラを持っていた点を指摘し、贈り物として誰かの手に渡った可能性があると述べた。ただし、警察は具体的なカメラの型番を公開していない。これがわかれば、手がかりとして証言の裏どりができるかもしれない。「もし誰かがカメラを受け取ったことを覚えていて、フィルムにミッチェルさんとボニーさんが写っていたら?」と、『The Vanished』でジョーンズ氏は問いかけた。
「事件がどんなに古かろうと関係ありません」とジョーンズ氏は続けた。「あらゆる手がかりを追いかけ、事件解決の糸口になるかもしれないという風に扱うべきです」。
先月警察当局は、情報提供に基づいて10年前に掘り起こしたウェインで再び掘削作業を行ったそうだ。当局は55ガロンのドラム缶を回収したが、中には石しか詰まっていなかった。
ミッチェルさんとボニーさんの家族や友人はほとんど他界しているか、年老いて記憶が薄れている。答えを求め続けること50年、現在66歳のカルテンさんは7月27日――2人が失踪したまさにその日――最後にもう一度だけ悲しみに暮れることにした。50周年が報道されることで新たな反応が出てくることを願いつつも、身を引くことを決意した。カルテンさんは裏庭に2本の木を植えた。ミッチェルさんとボニーさんの名前を刻んだ碑も建てる予定だ。「なぜ自分はこれだけ長い間執着してきたのかと自問するんです」と彼は打ち明けた。「その理由は、これが自分だったらミッチェルも同じことをしていたと思うからです」。
ボニーさんの母親レイさんは、晩年アルツハイマー病を患っていた。「ある日コニーアイランドの桟橋を歩いていたら、私にはもう1人子供がいたかしら、と母が尋ねたんです」とケイゲンさん。「ボニーのことを全部話しました。すると母はこう言いました。『思いだせないわ。でもその方がいいわね、あまりにも悲しすぎるもの』」。
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from Rolling Stone US
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