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追悼ロビー・ロバートソン ザ・バンドやディランとの秘話、音楽的成熟の裏側を明かす

Rolling Stone Japan / 2023年8月22日 17時30分

ロビー・ロバートソン(Photo by SACHA LECCA FOR ROLLING STONE)

8月9日に亡くなったロビー・ロバートソン(Robbie Robertson)を追悼。ザ・バンド(The Band)の今は亡きリーダーがローリングストーン誌との未公開インタビューで、『地下室』(原題:The Basement Tapes)から『ザ・ラスト・ワルツ』、そしてその先まで音楽人生を振り返った。

2020年6月、パンデミックが激しさを増す中、ロビー・ロバートソンは、ザ・バンドの偉大なヒット曲の制作秘話からボブ・ディランとの共演作品に至るまで、グループでのキャリアをじっくりと振り返った。ドキュメンタリー映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』の公開によって、彼は過去へと想いを巡らせることとなり、バンドメイトのリック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、そしてリヴォン・ヘルムと共に作った音楽について、新たな詳細を語る心境にさせたのだ。今月舞い込んできたロバートソンの80歳での訃報を受け、このたび初公開となるインタビューのテキスト全編をお届けする。


—ザ・バンドの歴史は成功物語と見ることができると思います。あなたは永遠の命を宿す驚くべきアルバムを作りました。と同時に、いくつかの点で悲劇と見做すこともできるでしょう。なぜなら『ザ・ラスト・ワルツ』以降、あなたがバンドに戻ることができなかったからです。さらには、恨みつらみもあれば、悲劇的な死や晩年を迎えたメンバーもいました。では、あなたはどちらの視点で捉えていますか?

ロビー・ロバートソン(以下、RR):僕らのこの兄弟関係の中で、既に3人がこの世にいないのはとても悲しいことだよ。だけど『ザ・ラスト・ワルツ』以降は、みんなそれぞれの目的があったんだ。それぞれ自力で発見したいことがね。僕らは「よし、それぞれのことをやって、その後また戻ってこよう。みんなで集まって、これまで以上に素晴らしい音楽を作ろう」って感じだったんだ。それは素晴らしいことだと感じられたし、それがそんな風に僕らを心の絆で結び付けていた。

時間の経過と共に、ある時点でみんな戻って来るのを忘れてしまったと感じられたんだ。みんな他のことを引き続きやっていたよ。そして思うに、僕らが元に戻る道筋は事実上無くなってしまったんだ。リック、リチャード、ガース、そして僕にはその後のストーリーがあった……そこには恨みつらみは全くなかったよ。僕らは最高の兄弟の絆で結ばれていて、それが本当に嬉しかったんだ。そして、その数年後に彼らがいくつかのギグを一緒にやろうと決めたのも、それが彼らの身体に染み付いているからだ。僕もそれは心から理解できたよ。

そして、彼らは僕に連絡してきてこう言った「僕らと一緒にやる?」。そこで僕は言った「遠慮しておくよ。今関心があるのは制作作業で、もしも僕らが新たな音楽を作るとしても、最もそれを望んでいるのは僕なんだ。でも、ツアー生活には戻りたくないんだよ」。すると彼らは言った。「”ザ・バンド”という名前を使ってもいい?」。僕は言った。「もちろんいいよ。僕は、自分のやるべきことをやっている、それで生計を立てたりとかそういったことをしている人たちの邪魔をしたくないんだ」。そして彼らはそうしたわけだけど、それが僕から見たストーリーだね。

このドキュメンタリー映画が大いに着想源とした自伝『ロビー・ロバートソン自伝:ザ・バンドの青春』(原題:Testimony)では、まさに僕の視点や、これをどのように回想し、どのように捉えているかが記されている。僕から見れば、恨みなどは一切無く、あるのは僕らが共に過ごした驚くべき時間への感謝の気持ちだけだ。



―ところで、リヴォンが自伝やインタヴューで吐露した不満の大半は、楽曲をアレンジしたことに対してもっと作曲クレジットされるべきだという彼の感情がもとになっています。彼は、自分が曲を書いたと実際に言うこともあれば、また別の場合には書いていないと言うこともありました。とはいえ総じて言えば、アレンジに対して作曲クレジットされてしかるべきだと感じているように思えます。その話は当時持ち出されていたのですか? それとも後年になってからですか?

RR:全くなかった。話し合われたことは一度もなかったんだ。僕がこれに関してどれだけ骨を折ったかはみんな知っているし、それは責任を、あるいは他人がやるべき範疇を、遥かに超えていた。でも、それが僕の仕事だと感じていたんだ。この件に関して僕が実際にできることはそれぐらいだった。それに、世の中そういうものだよ。例えば、リンゴ・スターは(多くの)曲を書いていない。チャーリー・ワッツは曲を書いていない。ああいった人たちが出版権を他のメンバーと分け合っていたことはないはずだ。僕はそうしたけどね。

だから、僕は寛容に受け入れるよう強く意識していたし、僕が作曲していた時にそこにいたというだけでリヴォンに作曲クレジットを与えていたんだ。なぜなら、兄弟の絆をとても大切にしていたからね。全員が関わることを大切にしていたし、彼やその他のメンバーにもできるだけ曲を書くよう働きかけていたんだ。だけど、最初期には僕が唯一のソングライターで、最後も曲を書くのは僕だけだった。それはどうしようもないことだ。僕には変えられないんだ。

晩年のリヴォンが辛い時を過ごしていたことは理解しているし、ゆえに僕は何も語らなかった。彼は葛藤していたけど、現状に対する責任を他人に負わせるのがいつも上手かったんだ。彼はみんなを片っ端から巻き込んでいったけど、最後に残ったのが僕だった。そして、彼が何を言おうが、自分の視点でどんな風に考えようが驚かなかったけど、彼は一つの角度からしか捉えなかった。そして僕は自伝を書き、僕のアングルからそれを捉えたんだ。



―彼は「The Night They Drove Dixie Down」をあなたと共作したと言っていますが、一方あなたの自伝では、彼はあなたを図書館まで車で送り、基本的にはそれだけだったと記されています。

RR:そのとおりだ。そして彼は、この曲でエイブラハム・リンカーンという名前を出さないよう僕に言ったんだ。それだけさ。

―リヴォンの声があの曲に見事にハマっているのは明らかで、それは他の様々なメンバーが歌う他の曲にも言えることです。あなたは、どの程度特定のメンバーに当て書きをしていたのでしょうか? あるいは、曲を割り振るようなことをしていたのでしょうか?

RR:まさにそんな風に捉えていたよ。ある意味、劇団のような感覚だった。いろんなストーリーを採用して、いろんな映像を撮る。ジョン・フォードやイングマール・ベイルマンが同じ人を多くの映画で使っていたような感じだ。この映画では、この役者が医者を演じ、あの映画では同じ役者が聖職者を演じていた。僕もそんな風にしたんだ。僕は曲を特定のメンバーに歌わせるために書いた。リヴォンは僕の最も近しい兄弟だったから、とりわけ頑張ったよ。彼の楽器のことも分かっていた。彼の技量についても分かっていた。僕は彼が歌うのにぴったりの曲を書こうとしたんだ。そして、何度かは上手くいっていたと思うよ。

ボブ・ディランとの関係、「音楽的成熟」の裏側

―あなたが多くの楽曲で使用した、聖書に書かれているかのような、威厳のある、同時代的ではない言語、そして、そこに加えていったイディオム。それはどこから生まれたものですか?

RR:優れたストーリーテリングが大好きなんだ。聖書に書かれた多くの物語はとても素晴らしいと思うよ。そして、時に特定の方向に進むことで、それはより強い感情を帯びる。そうした場所から、聖書のような環境から生まれてきた、「Daniel and the Sacred Harp」(『ステージ・フライト』収録)のような曲を書くたびに、とてもいい感じになったんだ。それに、聖書はこれまでに語られた最高の物語の一つだと思うよ。実際のところ、かなりのベストセラーさ。しばしばそこに手を伸ばし、ついついインスピレーションを引き出してしまうんだ。

―あなたは『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』でボブ・ディランと共演し、彼がタイプライターで歌詞を綴っているのを目の当たりにします。そうした境遇に置かれた多くの人は「ボブ・ディランがそこにいる。代わりに自分が曲を書くというのか?」と言うでしょう。それはあなたを反対方向へと押しやってしまったように思えるのですが。

RR:うーん。威圧感のようなものは全く無かったよ。僕らはクラブハウスにいて、みんなそれぞれやることをやって、時に寛いで、楽しい時間を過ごしていた、といった感じだった。その一方で、僕らがクラブハウスを借りたのは、ザ・バンドで1stアルバムを作るためだった。だから僕らがそこに集結したんだ。いきなりボブがいわゆる”楽隊車”に乗り込んできたんだけど、彼が僕らと一緒につるみたいと思ってくれたことは嬉しかった。タイミング的にも素晴らしかったし、みんなそこにいられて幸せだったよ。それは儀式のようなものになっていった。毎朝起きて薪を割る人もいれば、曲を書く人もいたんだ。

―にもかかわらず、あなたは制作途中の楽曲についてボブに相談することは決してありませんでした。彼はそれらの曲を完成してから聴いたという印象です。それはどうしてですか?

RR:なぜなら僕の中に誇るべきものがあるからだ。ボブと僕らのマネージャー、アルバート・グロスマン、そしてその他の人たちにも、僕は「彼らは僕らを知っていると思っている。彼らは僕らのやることを知っていると思っている。彼らは僕らのことを分かっていない」といった感情を抱いていたんだ。近しい人と何かをやって、さらには、彼らを驚かせ、多少を感動を与えることができるという発想? いい感じじゃないか。うん。

【画像を見る】ザ・バンド、ボブ・ディランとのツアー未公開写真



―ザ・バンドのデビュー作が世に出た頃のミュージシャンたちは、例えばクリームなどと比較して、その抑制や威厳、そして曲に焦点を当てたアプローチのことを、極めて啓示的なものだと口を揃えて言います。それは劇的な変化であり、驚くべき影響力を示しました。あなたは、自分たちがやっていたことが本質的に正反対であったことを自覚していましたか?

RR:こうしたものには何か無意識のものが働いているのかもしれないね。追随者にはなりたくなくて、パレードの先頭に立ちたいもの。だから、僕らの誰もが一度ならず「違っているからこれをやろう」って言っているんだ。何度もね。実際に起こっていたのは、僕らが山の中にいて、雰囲気があって、あのクラブハウスにいて、もしも地下室で大音量で演奏すると、耳を痛めるし、シンガーの声も聴こえない、ということだった。だから、僕らは場所やその時の状況に合わせたんだ。それに、僕らが『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を完成させた時は、他人がこれをどう思うのか想像も付かなかったんだ。自分たちがどう思っているかは分かっていたけど、それがどう受け取られるかを知るには外の世界との繋がりがなかったんだ。だから、あれら全ての反応は、僕らには驚くべきものだった。分かっていたのは、僕らが既に6〜7年も一緒にいて、その後にあのレコード作ったこと。ずっと活動してきて、それなりの地位を得て、音楽的にも見え透いたことをしなくていいところまで成長した。それが分かっていたんだ。

―その主な理由は、何年も続いたライブ活動で即興演奏を出し尽くし、その結果、ロック・バンドが1969年に長尺ソロや表面的な派手さで何かを示した手法によって表現するものはもう何も無くなった、ということでしょうか?

RR:実際には成熟だよね。音楽的な成熟が始まっていたんだ。あの時点の僕は、あらゆるものを、いわゆる(フルテンを超えて)”目盛11”で鳴らすことに時間を費やしていた(笑)。そういった情熱や興奮を素晴らしいと思っていたよ。でも、繊細さについては学んだことがなかったし、リズムでの感情表現、さらには、隙間というものにおける感情表現も学んでいなかった。そうした境地に達する時、自信や成熟といったもの、あるいは、それらを与えるものはなんであれ、手に入れた時、そこは大いに満足を得られる場所となるんだ。それはエリック・クラプトンが言及していた「おぉ神よ、あなたはそうなさる。実に繊細なやり方で。そしてあんなにもパワーを感じる。おぉ」ということだ。これぞまさに僕らが成長して辿り着いた場所ということなんだ。



―鋭角的な単音ソロと比べると、あなたのサウンドの大部分はコードに沿ったフレーズが占めていますが、それはスティーヴ・クロッパーやポップス・ステイプルズといった人たちからの影響なのでしょうか?

RR:叫び声を上げて12フレット以上で演奏しながら出て来る必要のない地位に上り詰めるということ? 君が言及した人たちに関しては、「おぉ、経験豊富な人がいる」と思ったものだ。というのも、スティーヴ・クロッパーがオーティス・レディングのレコードで演奏しているのを聴いたからね。素晴らしかった。あるいはサム&デイヴ。素晴らしい演奏だ。そして僕はポップ・ステイプルズのシンプルな伴奏が大好きだった。そのことを本当に理解していると僕が思ったメジャー・アーティストは、カーティス・メイフィールドだった。そう、彼にも影響を受けたよ。彼がギターでやったことは、思うに「うぁ、あの男は何にも示そうとはしていない。ただそこにある」ということだった。僕はそれに魅了されたんだ。僕はこうした新たな要素を理解し、そこへと辿り着き、それを実行したんだ。

ツアーからの離脱、パンク・ロックへの見解

―よく知られるようにあなたはツアーから引退しましたが、そのことに後悔はないですか?

RR:そう思ったことは一度もない。『ザ・ラスト・ワルツ』という映画を作って、そこでそれについて言明しているよ。もう何年もツアーを行った。実に驚くべき環境でやってきた。ザ・ホークスにザ・バンドと、僕は想像もできないような場所で演奏したんだ。僕らが活動できたのは本当にラッキーだったし、世界最大規模のコンサートも行った。だから、そこから見たいと思ったあらゆるものを見てきたし、16年以上もそれをやった後にその場所に辿り着いた。僕は芝居をしているような感覚を抱いたよ。50年も『王様と私』で(王様役を)演じてきたユル・ブリンナーのような気分だった。僕が言っているのは、同じ曲、同じ歌詞を毎晩、僕は出ていってそれをやる。僕はどう対処すればいいか分からない試練にとにかく飢えていたんだ。

学びたかった。成長し続けたかったんだ。というのも、僕は若い時からツアーに出ていたからね。僕は常にこうした飢えを、より吸収し、創造性を育むために活用した。だから僕は、一連の映画でマーティン・スコセッシやその他の人たちと共同作業を行ったんだ。ザ・バンド以降の活動をしていた時には、朝、目が覚めて「なんてことだ、このやり方が分からない。なんとかしなければ」と思うことが何度もあった。それは、やりがいを感じさせる感情であり、僕に刺激を与えるものだ。同じことを何度も何度も繰り返すよりもね。そして、レコードが作りたくなったらレコードを作ればいい。脇道に逸れて「そのために(ネイティヴ・アメリカンの)遺産を再び訪れ、誰も聞いたことがないけど非凡な才能を有していると思われるアーティストと共演して、一緒に何かを掘り下げよう」と言うこともできる。思うに、正しかろうが間違っていようが、僕はそれを手に入れていたんだ。他にも様々な形で下積みを経験してきたから、自分の成長を実感させてくれるようなこともできたのさ。

―大々的に行われたロックの殿堂入り記念コンサートの直前に、「ステージに飛び入りする計画はあるか」とあなたに訊ねたのを覚えていますが、あなたはそれを考えもしていませんでした。あなたはツアーはおろか、人前で演奏することへの欲求も無いかのようですが。

RR:人前で演奏したいという欲求がある人々を心から敬服するよ。僕にもそれが十分にあるけど、別の筋肉を使う必要があったんだ。脳の別の部分を使う必要性を感じていて、この渇望をみんなの前に立って誇示しようとは思わなかった。これまでとは別のことがやりたかったんだ。そして僕はそうした。「音楽を作ろう、そしてツアーに出掛けよう、そしてまた音楽を作ってツアーに出掛けて」という風に人生が回っている人をたくさん知っている。僕もそういうことをたくさんやってきたし、ある時点で、なんというか、どうやら年を取ってしまったんだ。生業としては素晴らしいものだよ。人前に出ていって、みんなが応援してくれて、そうすることで報酬がもらえる。驚くべきことさ。先ほど言ったように、それには心から敬意を表するけど、なんだろう、今は違う欲求があるんだ。

―アルバム『ブロンド・オン・ブロンド』制作の初期段階では、ザ・ホークスでレコーディングする試みがありました。最終的にディランはナッシュヴィルに行き、その際あなただけを連れ出しました。ところで、その初期セッションのことは覚えていますか?

RR:僕らはそれをあのアルバムの始まりだとは捉えていなかったよ。ボブは曲をほとんど仕上げていなかった。2曲だけだったと思う。一つは「Please Crawl Out Your Window」という曲。もう一つの曲名は忘れてしまった。そして僕らはスタジオに入って「Crawl Out Your Window」を録音し、たしかもう一曲も録音したと思う。

―いくつかのスタジオ集を参照すると、あなたは「I Wanna Be Your Lover」を何テイクも録音しています。また「Visions of Johanna」の初期別バージョンもありました。

RR:あぁ、そうかも。でも、僕らが気付いたのは、この曲について「あぁ、この人は随分と独りで演奏してきたんだな」ということだった。スタジオ・ミュージシャンとスタジオに入る時、彼らのやり方はこうだ。スタジオに入ると、彼らは自分が何をすべきか15分で把握し、その中で細かいパートを作り出そうと試みる。でも僕らは違う。なので、ボブと初めてスタジオに入った時、そこで彼がただ曲を演奏し、人々がそれに付いていっていることがよく分かったんだ。そして僕らは「いや、僕らはバンドなんだ。5人のメンバーがいて、5人がそれぞれ何をすべきか理解する必要がある」といった感じだった。僕らは雇われのスタジオ・ミュージシャンではない。僕ら自身はその正反対だと考えているよ。

『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』『ザ・バンド』『ステージ・フライト』といったアルバムを作って初めて、僕らの制作過程がどういうものか本当に理解されるようになったんだ。そして僕らのやり方は、スタジオ・ミュージシャンのやり方とは違うし、ボブが求めていたものとも違った。最初にボブが出来上がったばかりのレコードをいくつか聴かせてくれた時、ミュージシャンたちが次の曲で一体何が起こるのかを必死で追っているように聴こえたんだ。一人であればそれでも構わないだろう。ナッシュヴィルの面々とセッションした時は、ボブが曲を演奏し、彼らは誰がそのトラックで演奏するか即座に決めていた。そして「あぁ、僕がこことあそこでちょっとしたメロディを弾こう」というのが彼らの仕事だった。彼らはそれができた。彼らはスタジオ・ミュージシャンだから即座に対応することができたんだ。

それは僕らにはピンと来なかった。ボブもそれが分かっていたんだ。僕が彼にこんな風に言っていたからね「ここで僕らが何をすべきか理解しなければならない。どこで始まってどこで終わるのかも知らずに慌ててやるのは良くないことだ。一緒に演奏するための言語をみんなで決めなきゃいけないからね」。ライブで演奏する時は、僕らが曲のアレンジを手掛け、自分たちが何をするかを決めていた。だから、それは良かったんだけど、これはまた別の話だった。そんな時、彼が「ナッシュヴィルに行こうと思うんだけど、君を連れて行きたい」と言ったんだ。僕は以前ナッシュヴルに行ったことがあったけど、全く歓迎されなかった。彼らは排他的だった——極めて有能な人たちの排他的集団だ。そして、このクラブは他のメンバーを必要としていなかったんだ。

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―1974年、あなた方はよく知られるようにボブと再びツアーに出ていて、それはライブ・アルバム『偉大なる復活』(原題:Before the Flood)にも収められています。人々は、アレンジに宿るエネルギーに覚醒剤の影響のようなものを嗅ぎ取っていたように思います。これは間違っていますか? あるいは、それは当時の状況を垣間見せるもので、あのツアーで演奏された曲にとてつもないエネルギーが溢れるようになっていたということですか?

RR:1966年に僕らが演奏した時、ボブは、当然ながら、アンフェタミンの力を借りてステージをこなしていて、それは彼に大きな原動力を与えていたよ。僕らは「うぁ、そういうことをやる人もいれば、やらない人もいるんだな」と思った。僕らは既にロカビリーの世界でそういったことを目撃していたんだ。みんなベンゼドリンやアンフェタミンなんかをやっていて、そうした時期を経験済みだった。1974年のツアーが始まる頃には、ボブは全く別の段階にいて、スピードなどは一切使用していなかったよ。

僕らがやっていたことは、そして、おそらくあの音楽のエネルギーやパワーの要因となっていたのは、僕らが世界中でブーイングを受けてきた環境に舞い戻っていたことだ。僕らは死ぬほどブーイングを受けてきた。そして、僕らは戻ってきて、みんな「素晴らしい。いつだって素晴らしかった」というように振る舞っていた。でも、どんな状況だったかは忘れてはいなかったし、僕らの演奏にはある種の復讐の要素があったんだ。パワーと自信を剥き出しにして音楽を演奏することと関係があると思う。というより、それは僕らが体験したエネルギーと高揚だったんじゃないかな。それは、僕らが何年か前にやったこととそれほど変わらなかった。8年のギャップはあったけど、音楽に宿る情熱はそれほど変わっていなかったんだ。でも今や、僕らは好きなだけハードに演奏できるし、それに文句を言おうという人は誰もいないんだ。

―想像するに、あなたが初めてパンク・ロックを聴いた時、「僕らは1966年にライブでそういうことをやっていた」と思ったんじゃないでしょうか?

RR:そうした部分はあったかな。そして、多くのパンク・ロックについて、「あぁ、僕らにはこんなビンタが必要なのか」と思ったよ。新鮮だよね。僕らは、音楽が真に時代の声となった時期を過ごしてきたんだ。それは重い責任であり、国中の、世界中の若者の共同体や組織にとって極めて重要なことだった。でも、その後は? 何が起こった? パンク・ロックは「団結などどうでもいい(笑)。何にも興味がない。俺たちはただお前の靴に小便をかけたいだけだ」と宣言している。僕は「分かった、これは新たな受難劇だ」と思った。こうした連中の一部は高く評価したよ。エルヴィス・コステロは素晴らしいソングライターだった。ザ・クラッシュ? 最高だよ。そしてラモーンズは、その音楽的なシンプルさが、ロニー・ホーキンスと活動していた僕の駆け出しの頃を思い出させてくれた。ある種の純粋さがあった時代さ。中には耳障りな音楽に聴こえるものもあったけど、それは意図したものだったと思う。パンクに対して受け入れられない部分はそれほどなかったよ。唯一の不満は、スコセッシに関することだ。彼はパンクが大好きで、大音量で鳴らしていたんだ。僕が誰かに「お願いだから音量を下げてくれないか?」と頼んだのは初めてのことだった。

―「It Makes No Difference」は、あなたが書いた曲の中で私の一番のお気に入りですが、これはエディ・ヴェダー(パール・ジャム)が最も好きな曲でもあります。あの曲の実際の作曲作業について何か思い出すことはありますか?

あの時は、リック(・ダンコ)が完璧に歌える曲を書きたくて、彼の声が到達できるパワフルな領域を見つけようとしていたんだ。それに、その上で演じたくなるようなものを書きたかった。曲を書いて、特徴的なギター・プレイを入れて、ガースのサックスも入れて。頭の中で全体像を描いていたよ。これもまたこのグループでの、このクラブでの僕のやるべきことであり、僕の役目はこれらの役者が演じる素材を書くことだったんだ。

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From Rolling Stone US.

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