音楽ライター下村誠の遺稿集から辿る、ミュージシャンとしても生きた軌跡
Rolling Stone Japan / 2023年9月27日 12時0分
音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。
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2023年8月の特集は「最新音楽本特集」。PART3は、ライターでありながらプロデューサー、シンガー・ソングライターとしても活動した下村誠の活動を辿った『音楽(ビート)ライター下村誠アンソロジー 永遠の無垢』を編集の大泉洋子を迎え掘り下げていく。
田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」マスター、田家秀樹です。今流れているのは下村誠さん、2002年に発売になった4枚目のソロ・アルバム『風待ち』の中の「森の魂・風の塔」。今週の前テーマはこの曲です。
森の魂・風の塔 / 下村 誠
今月2023年8月の特集は「夏休み最新音楽本特集2023」。今週はその3週目、『音楽(ビート)ライター下村誠アンソロジー 永遠の無垢』という本のご紹介です。下村誠さんという名前をご記憶の方はどれくらいいらっしゃるかなと思いながら話を始めておりますが、1970年代の半ばから1990年代の半ばにかけて音楽雑誌を中心に原稿を書いていたライターなんですね。一番多かった雑誌が「シンプジャーナル」、アーティストとしては佐野元春さん、甲斐バンド、浜田省吾さん、THE BLUE HEARTS、ストリート・スライダーズ、友部正人さん。ロック系・フォーク系を問わず、シンガー・ソングライター、バンド、個性的なアーティストの原稿を書いておりました。そういう意味で言うと、同じ土俵にいた僕の仲間。気取った言葉を使えば、年下の戦友。彼は東京を離れて長野の山荘に拠点を移して、そこで音楽を作るようになっていたんですね。2006年に火事になって、燃える自宅の中に大切なものがあると火の中に飛び込んでいってそのままあの世に逝ってしまいました。
彼が僕らと違っていたのは、ライターだったんですけれども、自分でバンドも持っている。インディーズのレーベル、NATTY RECORDSを作って、そこから自分の作品だけではなく、いろいろな人のシングル、アルバム34枚を発表しているんですね。ライターでありながらプロデューサー、シンガー・ソングライターだった。今日ご紹介する本は、彼が残した原稿を集めてそこに新しい要素を加えた遺稿集、彼の足跡を辿ろうという本なんです。編集したのは大泉洋子さんという女性です。下北沢のタウン誌とかアニメ雑誌で仕事をしていたフリーのエディター&ライター。出版社は虹色社と書いて、なないろしゃと読む。自費出版の本のお手伝いをしましょうという出版社なんですね。つまり、この本は彼女の自費出版なんです。一音楽ライター、インディーズアーティストについて自費出版しようという異例の音楽本ですね。下村誠とはどういうライター、シンガー・ソングライターだったのか、そしてこの本はどんな本かを編著者の大泉洋子さんをお迎えして紹介しようという時間であります。こんばんは。
大泉洋子:こんばんは。大泉洋子です。よろしくお願いします。
田家:ようやく発売になりましたね。あとがきのような形でなぜ彼の原稿をまとめたいと思ったかという経緯が書かれていましたけれども、2020年12月6日でしたっけ?
大泉:はい。十三回忌ライブの後から年に一回やっている下村誠 SONG LIVE「BOUND FOR GLORY」で、2020年の開催はコロナ禍だったので配信ライブをやったんですね。それを見ていて思ったんですが、でもその前に何年も助走期間みたいなものが実はあって。始めは本を作ろうなんてことは全く考えていなくて、むしろ音楽を誰か歌い継がないのかなとか。
田家:彼の残した歌を?
大泉:そうですね。でも私一人では……バンドのメンバーの人と繋がっていなかったので、というか繋がっていた人も長い間に連絡がつかなくなって。そうこうしている時に、2019年の十三回忌ライブがあったりして、だんだん機が熟していって。
田家:2020年にライブを観ていてやろうと決められたんだ。
大泉:「あ、私は本を作ろう」って思ったら止まらなくなっちゃったんです(笑)。
田家:今流れている「森の魂・風の塔」もいい曲だなと思ったんですけど、この曲についても本の中でお書きになっていましたね。
大泉:東京の日の出町にある産業廃棄処分場の森を守ろうという運動があって、その運動に歌で寄り添ったというか、ライブをしてカンパを集めるとか、CDを作って売上を運動資金に充てるとかしていたみたいです。
田家:タイトルになっている風の塔というのは、実際にあったという。
大泉:あったんです。本の中に、森の中にあった頃の風の塔の写真も小さく出ているんですけど、それが一回、東京都の行政代執行で移動されて、東京都のどこか倉庫に入ったままになって。実際に見に行って思ったんですけど、ただのシンボルというよりは精神的なものだったと思うんですね。なんとかあれだけは取り戻そうということで、カンパをするためのライブを企画してお金を集めて無事に取り戻した。それは今、日の出町に立っているので見に行ってきました。
田家:そういうこともやっていたシンガー・ソングライターだった。大泉さんが下村さんを知ったのはいつだったんだろうということで、きっかけになった曲をお願いをしましたらこの曲が上がってきました。佐野元春さん「SOMEDAY」。
田家:1981年発売のシングルでした。
大泉:私は立教大学なんですけども。
田家:佐野さんの後輩。
大泉:1981年4月に入学して入って早々人間関係でちょっとトラブルがあって、すごく落ち込んだ時期があって……。「だからもう一度あきらめないで まごころがつかめるその時まで」とか、その歌詞がすごい沁みて大ファンになってしまって。下村誠さんが書いた佐野元春さんに迫った著書『路上のイノセンス』も、もちろん読んでいたんです。それが最初の接点でした。
田家:流れているのはTHE ALFEEの「SWINGING GENERATION」。1986年のアルバム『AGES』に入っていました。高見沢さんのティーンエイジ・ドリームを歌った曲なのですが、『下村誠アンソロジー』はいくつかの章に分かれておりまして、「第一章 音楽ライター下村誠の仕事」、その中の最初の原稿がこれなんですね。『シンプジャーナル』1981年1月号に書いたALFEEのアルバムについての記事です。大泉さんが下村誠さんを知ったのが1990年代だった。
大泉:私がライターを始めた頃に下北沢の『しもきた情報』という情報誌で仕事をしていたんですね。その中で下北沢に関わるアーティストとか街の人のインタビューをとるページがありまして、私が担当だったんです。次の号の人選をどうしようかとなった時に、今回年表とかでお願いをした妹尾みえさんも編集部にいて、下村誠さんっておもしろい人がいるよって紹介してくださって。「ちょっと待てよ……。下村誠さんって『路上のイノセンス』書いた人じゃないの?」って。言われてみれば、『Guts』の佐野さんの記事があって、読んだことがあったんですけど、あれがもしかしたら下村さんだったのかと……実際そうだったんですけど。『シンプジャーナル』もそう言えば読んだことがある気がするという感じで、初めてお会いしたんです。
田家:この本をあらためて作るという中で、最初がTHE ALFEEの『AGES』について書いている記事なのは理由があったんですか?
大泉:どう並べたらいいだろうかと考えて、単純にあいうえお順にしようと。
田家:あ、あいうえお順か!
大泉:もちろん記事もよくて、同じ年の生まれということもあってか。
田家:下村さんが1954年生まれでALFEEの3人も同い年生まれですもんね。
大泉:同じ時代に同じものを聴いて育ってきた共通の感性というか。記事の中で、高見沢さんの言葉として「今の時代ってはっきりものを言わない方がかっこよかったり、ちょっと斜に構えている方がうけたりするでしょ? なんかそういうのってさみしいよね。僕はやっぱり歌には夢がなくちゃいけないと思うんだ」って高見沢さんの言葉を紹介しているんです。同い歳同士だから下村くんはそう言えば分かるよねっていう感じだったんだろうなって思ったんですよね。それを10代~20代の読者にどういう言葉で伝えればいいのかすごく一生懸命書いている感じを受けて。あいうえお順というのもあるんですけど、この本に載せたいと思う記事を選ぶ目安になった感じがします。
田家:下村さんが残しているアルバムの一枚に『ホリー・バーバリアンズ』という作品があって、ライナーに彼が自分の手書きで「僕の中のセブンティーズ」っていうエッセイを書いていて、70年代は僕の先生と言って過言ではなかった。THE ALFEEの3人が全くそうですからね。そのライナーの中には「戦争を知らない子供たち」の時が15歳で、そこから五つの赤い風船や吉田拓郎に始まり洋楽にいって、ディラン、ニール・ヤング、ジョン・レノン、ジミー・クリフとボブ・マーレー。いろいろなアーティストの名前が書かれていて、生き方全てが彼は70年代の子どもなんだなとあらためて本を読んで感じたことでもあるんですね。「下村誠の仕事」の章の記事の中から、大泉さんに3曲選んでいただきました。まずはこの曲ですね。白鳥英美子さん「NOTHING COMPARES 2U」。
NOTHING COMPARES 2U / 白鳥英美子
田家:1990年のアルバム『Voice of mine』から「NOTHING COMPARES 2U」。下村誠の仕事という章で、このアルバムについて書かれている記事を選ばれている。
大泉:今回下村さんが書いた記事を集めて並べてみた時に、それまでちゃんと聴いたことのないアーティストもたくさんいたんですね。その中で一番「え!」 という新鮮な驚きがあったのが白鳥英美子さんだったんです。
田家:トワ・エ・モワですもんね。
大泉:トワ・エ・モワはもちろん知っているんですけども、小さい頃のヒット曲ですし、よく覚えてないですし、声の印象も全くなくて。下村さんが記事の中でこのアルバムを「バッハの「G線上のアリア」からプリンスの今かかっている「NOTHING COMPARES 2U」まで極端な選曲がされているが、全く違和感がないと」書いているじゃないですか。いやいや、バッハとプリンスに違和感がないわけないと思って聴いたら、本当に違和感がなくて……。白鳥英美子さんの凛とした歌声と世界観が合って、全く違和感がない。
田家:下村誠さんがそのアルバムについて書いた原稿がどこにあったのかと言いますと、1992年に発売になった『日本のベスト・アルバムーフォーク&ロックの25年』という本でこのアルバムについて書いていたんですね。
大泉:そうなんです。田家さん監修で(笑)。
田家:そうなんですよ。一緒に書いたのが『シンプジャーナル』の編集長だった大越正実さん、評論家の前田祥丈さん。そして高橋竜一さん、この間亡くなった藤井徹貫さん。で、下村誠さん、僕も書いていて、僕は監修になっているんですね(笑)。この本をあらためて手に入れて、下村さんが何を書いているのかも全部読み直して、この原稿をいいと思って再録している?
大泉:そうです。
田家:でも、ものすごい数の原稿があったんじゃないですか?
大泉:あの本だけで相当数あったと思います。あと、図書館で下村さんが書いている記事を探して、音楽雑誌を見ていく時に、もちろん全部見るんですけど、このへんの人を書いている可能性が高いっていう目安になってすごく助かったんです。
田家:そういう記事の中から下村さんがこのアルバムについて書いた原稿がよかったということで、大泉さんはこの曲を選ばれました。友部正人さんで「西の空に陽が落ちて」。
田家:1988年のライブアルバム『はじめぼくはひとりだった』の中の「西の空に陽が落ちて」。15周年記念ライブ。下村さんはこのライブに関わっていたんですね。
大泉:下村さんの十三回忌ライブに友部さんが出演されているんですけども、その時のブログを見るとこの企画そのものを立てたのが下村さんだったみたいです。今回初めて知ったんですけど、田川律さんが舞台監督をしていたようですね。
田家:「ニューミュージックマガジン」創刊スタッフの一人で関西フォーク系の大御所の評論家ですね。下村さんのバンド、BANANA BLUE。このバンドのベストアルバム『バナナブルーベスト』のライナーは友部さんが書いていましたね。それもこの本に掲載されていましたけども、これで知りました。
大泉:友部さんは他のアルバムでも書いてらっしゃるんです。
田家:下村さんの生まれは和歌山県の新宮ですから、友部さんもそうですし他に本の中に大塚まさじさん、シバ、高田渡さん、豊田勇造さん、西岡恭蔵さん、中川イサトさんについた原稿も再録されていますね。関西フォークはやっぱり近かったんでしょうね。
大泉:そうなんだろうと思います。やっぱり中学生とか高校生の頃にライブにだいぶ行っていましたね。春一番だったり、とても身近なミュージシャンたちだったんだろうなと思います。影響を大きく受けたんだろうなと。
田家:原稿の許諾というのは必要になるんでしょう?
大泉:最初に版元さんに一応全部ご連絡をして、「いいですよ」と。基本的にはアーティストの許諾はいらないのじゃないかとは言われたんですけども、やっぱり昔の記事ですし、中にはちょっとあの頃の記事は嫌だなって人もいらっしゃるかもしれないので。
田家:たしかにね。いるんです。
大泉:なので、一応ご連絡を……。70組全部連絡したわけではないんですけども。
田家:本を手に取られた方も、どうしてあのアーティストの記事がないんだろうと思う方もいらっしゃるでしょうが、それはそういう理由があったと思っていていいですね。そういう中で大泉さんが選ばれた今日の3曲目、真島昌利さんで「クレヨン」。
クレヨン / 真島昌利
田家:1989年11月発売、初めてのソロ・アルバム『夏のぬけがら』の中の「クレヨン」。
大泉:THE BLUE HEARTSと真島さんについてはもちろんこの本を作る前から知っていて、好きな曲もいっぱいあったんですね。真島さんの記事にTHE BLUE HEARTSのことも出ているんですけども、この記事を読んだことでより好きになって。『夏のぬけがら』を最初聴いた時は1曲目の「夏が来て僕等』とか、その後の「風のオートバイ」とか、そっちの方が好きだったんです。「クレヨン」はなんかかわいい曲だなぐらいな感じだったんですけど、この記事全体がすごく気になる記事で2~3回読んだんですね。それこそ、線を引いて読んだんです(笑)。
田家:うわー、ライター冥利に尽きますよ、それは。
大泉:「子どもがクレヨンを手に落書きを始める瞬間のときめき」ってここに書いてあるんですけど、「思考せずにぐんぐんと進めていく、ありのままの状態。そういうことがいつの間にかできなくなって、何度も何度も手を加え、完成を目指す大人のテクニカルなアプローチとのギャップ。それもとても簡単な言葉で書いた傑作である」とここに書かれているのが、本当にそうだと思って。自分の記憶にはあまりないですけど、小さな頃はもっと自由に描いてたよなとか、歌いたいと思ったら歌って、描きたいと思ったら描いて。だんだん大人になってくると、上手く描かなきゃとかになってくるじゃないですか。本当にその通りだと思って、この曲がこのアルバムの中で一番好きな曲になりました。
田家:さっき名前があがった人以外には伊藤銀次さん、エコーズ、吉川晃司さん、佐藤奈々子さん、ストリート・スライダーズ、ストリート・ビーツ、篠原太郎さん、ジュン・スカイ・ウォーカーズ、浜田省吾さん、ふきのとう、THE BLUE HEARTS、真島昌利さんなどの原稿も再録されております。
真夜中すぎの中央線 / 下村誠
田家:ここからは下村誠さんの音楽、歌をお聴きいただこうと思うのですが、2000年に出たアルバム『セイクレッド・ソウル』の中の「真夜中すぎの中央線」。ギターは真島昌利さん、ブルースハープは甲本ヒロトさん。彼はライターでありながらシンガー・ソングライター、アーティストだったんですね。経歴を見てましたら、21歳の時に西本明さん、江沢宏明さんとバンド舶来歌謡音楽団を作って、YAMAHAのポップコンにも出ていた。西本明さんは浜田省吾さん、佐野元春さん、尾崎豊さん、そういう人たちのセッションミュージシャンとしても知られていましたし、彼は長いインタビューが載っていて、そういう経緯も出ていましたね。バンドはももちゃんバンドとか下村誠バンドとか、BANANA BLUEとかザ・スナフキンとか、こじこじ楽団、アイタルミーティング。そういうバンドをライターの傍ら組んでいたんですね。
大泉:どっちが先と言うと、たぶん音楽活動の方が先ですよね。
田家:「シンプジャーナル」に入る前にYAMAHAのポップコン出てるんですもんね。大泉さんがご覧になったライブはどのへんになるんですか?
大泉:私はアイタルミーティングとソロの時なんです。だから、もうBANANA BLUEとかザ・スナフキンはバンドとしてはちゃんと見てない。
田家: BANANA BLUEというのはボブ・マーレーに傾倒して、ボブ・マーレーに憧れて、ボブ・マーレーをやりたいってことが前面に溢れているバンドでしたね(笑)。
大泉:そうですね(笑)。衝撃を受けたという。レゲエを知って、来日公演にも行って。
田家:来日公演でボブ・マーレーに会ってるって書いてましたね。ジミー・クリフとボブ・マーレーの追っかけをやっていたという(笑)。音楽を自分がやる一方でいろいろな音楽を紹介したいということでライターになったんでしょうね。
大泉:年表を見ると、16歳の時に”友だちと「フォークピープル」というミニコミ誌を作って、労音の会報誌に折り込んでもらう”となっているので、音楽に関することは何かルポ的なことを書きたいし、でも自分の音楽も作りたいしというのが中学生、高校生ぐらいからほぼ同時に始まっているんだなというのが分かりますよね。
田家:それを自分のレーベルを作ることで全うしようとしたんでしょうね。下村誠さんの音楽を曲を3曲選んでいただいたのですが、1曲目は1992年のアルバム『バナナ・ブルー・ベスト'82~'85』から「風が唄うメロディー」。
風が唄うメロディー / BANANA BLUE
大泉:BANANA BLUEの曲で、1983年『東京レゲエシーン』、リバスターから出ているものに収録されている曲ではあるんですけど、私が出会った頃はアイタルミーティングというバンドで活動をしていたんですけども、この曲をライブでよくやっていたんです。
田家:たしかにライブっぽいですね。
大泉:そうなんです。アイタルミーティングは下村さんがギターとメインボーカルで、吉田ケンゴさんがジャンベ。
田家:吉田ケンゴさんは、楽器作家、造形作家、ドーム建築研究家。ジェンベの第一人者でパチカっていう南アフリカの木の実を使った打楽器の日本版を作っている。そういう人もメンバーだった。
大泉:そうです。もう一人は尾成彩さんという女性で、彼女はボーカルでサックスを吹ける人だったので、時々サックスも吹いていたんですけど、基本的にはギターとジャンベ。
田家:『東京レゲエシーン』というアルバムはリバスターから出ているんですね。橋幸夫さんの会社ですよ。
大泉:すごくちゃんとしたスタジオで録ったという話は聞いています。
田家:あらためて思ったんですけど、彼はメジャーに行こうとしなかったんですかね。
大泉:たぶん……自分の歌いたいこと、BANANA BLUEの頃って結構、環境のこととか、歌とか。
田家:メッセージ性強いですもんね。メジャーではやれなかったかもしれない。大泉さんが選ばれた2曲目、下村誠 with ザ・スナフキン「鳥肌のアメリカ」。
鳥肌のアメリカ / 下村誠 with ザ・スナフキン
田家:1993年発売、アルバム名が『ホリー・バーバリアンズ』、聖なる野蛮人たちっていうことなのかな。
大泉:ですね。
田家:この曲を選ばれているのは?
大泉:下村さんの曲の中で、サウンドが一番好きかもしれない。
田家:バックのメンバーすごいですね。
大泉:すごいですよね。びっくりします。
田家:ギターが松田文さんで、佐久間順平さんがバイオリン。サニーボーイヒロトリアンという、ブルースハープにサニー・ボーイ・ウィリアムソンという人がいますけども、これはヒロトさん?
大泉:ですよ。間違いなく。
田家:そういうメンバーでこれをやっているという。
大泉:そうなんです。ギターももちろんかっこいいし、佐久間順平さんのバイオリンも素晴らしいし、ヒロトさんはヘローとかグッバイって言っているだけなんですけど、この存在感すごいっていう。
田家:彼がこういうアルバムを作っているのは知っていたのですが、すごいミュージシャンが一緒にやっていたというのも見ていて、実は嫉妬してたんですね(笑)。悔しかったなー。なんであいつはこんなことができるんだろうと思っていましたよ。理由は今なら分かります。そのことは原稿に書きましたけどもね。
大泉:それはぜひ読んでほしいです。
田家:「永遠の無垢」というタイトルがついた理由も明かされておりました。
大泉:この「鳥肌のアメリカ」は、1988年、東京経済大学の学生企画集団が企画した<明日のために その1都市生活者へのもう一つの視点>というイベントがあって、これを下村さんがサポートして、そこの学生だった村田博さんという人と親交ができて。
田家:詩人の諏訪優さんのイベントだったと。
大泉:最初は諏訪優さんと佐野元春さんの対談をお願いしたかったらしいんです。『現代詩手帖』の別冊でビート・ジェネレーションの特集号があって、その中で諏訪優さんと佐野元春さんが対談をしているんですけど、その続きをやってほしいと。諏訪優さんのところへ行ったんだけれども、佐野さんがこの時ロンドンにレコーディングに行っている時期で。こういうことをしたいんだったら、下村誠っていう人がいるからその男を訪ねてみるといいよって諏訪優さんに紹介してもらって会いにいって、すごく大きいイベントになったんです。
田家:その村田さんが下村さんと1989年に一緒にグレイハウンドバスでアメリカ横断をしている。この時の村田さんのエッセイが再録されていて、おもしろかったですね。オクラホマ生まれのヤンキーにウォークマンでエレファント・カシマシを聴かせていたという(笑)。下村誠らしいなみたいな(笑)。
大泉:本当に(笑)。
田家:その中に「永遠の無垢」という言葉が出ていたんだ。
大泉:『GU』という自費出版の雑誌があって、そこに掲載されていた村田さんの記事、下村さんがまだ生きている頃に書かれた記事なんですけど、その時に「次のアルバムは「永遠の無垢」というタイトルにするんだ」って言っていたみたいなんです。だけど、結局は「永遠の無垢」は使われることはなく、おそらく時期を考えるとそれが『セイクレッド・ソウル』になったんじゃないかなと。「永遠の無垢」から「聖なる魂」に。これは使われることなく、亡くなってしまったということと……。
田家:そういう意味では原稿の遺稿集というだけではなくて、彼がやろうとしていたアルバムのタイトルを使っている本。
大泉:そうですね。下村さんらしい言葉の選び方がするし。
田家:『路上のイノセンス』は無垢ですからね。
大泉:今回不思議なことにというか、田家さんも下村さんについての「追想」という原稿の中で「無垢な瞳」という言葉を使っていて。
田家:そう、偶然ね。
大泉:これ偶然なんですよね。でも他の人の話にも無垢という言葉がいくつか出てくるんです。
田家:やっぱり彼にそれを感じたんだろうな。みんな業界の垢にまみれていましたからね(笑)。大泉さんが選ばれたもう1曲、2002年のアルバム『風待ち』の中に入っている「海への風'02」これは違うバージョンで。
大泉:最初に発表されたのは1991年で、『Bird』というソロ・シングルがあったんですけれども、その中に3曲入っていて、3曲目に入っているバージョンで2002年のアルバムとは違ってギターの音がメインで入っています。
海への風 / 下村 誠
田家:年表が載っていましたでしょう。あれがいろいろなことを教えてくれましたね。2006年に仏門に帰依していた。これは知らなかったですね。戒名があって愚然(ぐねん)。2004年頃に長野に移住していた。それは噂で知っていたんです。産業廃棄物反対運動に参加したり、自然保護、環境問題にも音楽で参加していた。
大泉: 1995年の阪神淡路大震災のあたりから、そういったことに目がいっていたんでしょうね。
田家:阪神淡路大震災の時に彼が書いた原稿もこの本の中に載っていて、”赤十字とか行政にいくら寄付をしても現場には回らないんだ、最新医療機器を買うところにしかお金が使われないから違うやり方をすべきだと。行政に何度お願いに行っても相手にしてもらえなかった”と書いてた。カンパ、寄付に対しての感じ方、現場にいなかったらああいうふうに書かなかったでしょうね。阪神淡路大震災の後に被災地で演奏した時のエッセイは素晴らしかったです。
大泉:阪神淡路大震災で神戸に行って地元の方の話を聞いて感じたことを記事にもまとめているんですけども、この1995年あたりがきっかけで環境問題、地球とか原発の問題とかに気持ちを向けていったんじゃないかなと思っています。
田家:冒頭でおっしゃった残された彼の歌を歌うというあのライブはまだやっているんでしょう?
大泉:そうですね。今年はちょうど十七回忌にあたるので、11月5日に下村誠 SONG LIVE「BOUND FOR GLORY」の十七回忌ライブということで開催予定になっています。
田家:どこでやるんですか?
大泉:神田にあるレタスというライブハウスです。
田家:あらためてこの本がどんな役割を果たせたらいいだろうと思っていますか。
大泉:この本を手にしてくれた方が世代を問わずお友だちとかご家族と音楽の話で盛り上がって、楽しんでもらえたらそれがすごく幸せだなと、まずは思っています。あとははじめにとか、『シンプジャーナル』の最後の編集長、大越さんのインタビュー終わりの方にも書いているんですけども、下村誠が書いた記事を通してその当時の音楽シーンのこととか紙面から溢れ出るエネルギーとか、そういうワクワク感を感じてもらえたらいいなと。今回、シバさんに原稿の転載をお願いをする時に、彼は絵を描く方でちょうど個展をやってらしたので会場に伺ったんです。そしたらシバさんが、アメリカにはロックンロールの歴史のまとまった本があると。でも、日本は本として気軽に読めるものとしてあまりないから、こういうものを読んで、若いミュージシャンとか音楽をやりたいなって人が、こういう歴史があったんだと感じてもらえるとうれしいなみたいなことをおっしゃっていたんですね。そういう本になるといいねっておっしゃってくださって、この本を出す意味をまたもう一ついただいたなと思いました。
田家:メジャーなところで活動していることが全てじゃないぞ、というような一つの再評価の入り口になればいいなと思いますね。ありがとうございました。
大泉:ありがとうございました。
左から、大泉洋子、田家秀樹
大泉さんから突然、下村さんの遺稿集を作りたいんです、協力してくださいって連絡があったのが2022年の夏突然だったんですね。もうほとんど彼のことは考えることがなくなっていたのですが、その時に僕ができることだったらなんでもやりますよって思わず言ってしまったのは、どこかで彼のことが気になっていたからだと思います。1980年代から1990年代、よく一緒になったんです。好きな音楽が似ていたり、彼の書くものに共感していたというのもありました。同時に彼がシンガー・ソングライターで、僕が好きなミュージシャンと一緒にアルバムを作っている。それがどこか悔しかったんでしょうね(笑)。
今回僕との対談も2本収録されているんですけども、そこもライターとしての話しかしていないんです。でも、彼は1990年代半ばから作る方に比重を移して、環境問題とか自然保護とかそういうところに参加して、自分でイベントも組んだりしていたとあらためて知りました。そして、最後は仏門に帰依していた。これはちょっとショックでした。そういうところにたどり着いたんだと思って、あらためて1990年代、彼は何を考えていたんだろうと本を読み直しながら思いました。先月お送りした90年代ノートの残されたピースの一つが埋まった感じがしてます。
メジャーのシーンが全てではなく、僕らも業界の中にいながらいろいろなところに目を配れない、知らないことがいっぱいあったな。何を見ていたんだろうな、俺は、みたいなこともありながら本に協力させていただきました。こういう人がいたんだ、こんな時代があったんだ、自費出版の本でそういうことを知っていただけると下村誠も浮かばれるのではないかな。僕もやるべきことをやったなという感じがちょっとしております。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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