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目立ちたがりのアバズレ? 米インフルエンサー界の草分け的存在が振り返る壮絶な過去

Rolling Stone Japan / 2023年9月30日 21時40分

10年前から時代を先取りし、ブログで自分をブランド化したジュリア・アリソン――現代のクリエイターとやっていたことは変わらないが、悪意に満ちた女性蔑視の標的にされた(JOSEPH PICKETT/ © JULIA ALLISON)

テイラー・ロレンズの著書『Extremely Online』は、ジュリア・アリソンによってコンテンツクリエイターという概念が生まれた経緯をつづった書籍だ。本書より一部記事を引用掲載する。

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インターネット黎明期、ジュリア・アリソンほど理解されず、悪意にさらされた人物はいなかった。2000年代中期、アリソンは複数のプラットフォームを駆使するコンテンツクリエイターとしてインターネット界を独走していた。だが当時、彼女の活動を表現する言葉がなかったこともあり、実際は誰からも認められなかった。今ならインフルエンサーと呼ばれていただろう。当時は大勢の人々、とりわけメディアが女性蔑視に走った。ジュリアはジャーナリストや評論家、ネット右翼から悪者扱いされ、こっぴどく叩かれた。

ジュリアの物語はインターネット文化の形成に貢献した女性たちの物語でもある。こうした女性たちは全く新しいキャリアの道を切り開き、いまや5000億ドル規模のコンテンツクリエイター業界をゼロから立ち上げ、従来の名声や権力の概念を打ち砕いたが、払った代償も大きかった。彼女たちの名前はシリコンバレー企業の物語から抹消され、彼女たちの生活はネットアンチからズタズタにされ、メディアからは今もなお、おバカな「イット・ガール」として軽んじられている――メディアで取り上げられるだけでもマシというべきか。こうした女性たちの境遇はこれまで一度も顧みられず、再検証されることもなったため、私は新著『Extremely Online: The Untold Story of Fame, Influence, and Power on the Internet(原題)』にアリソンの物語を書き加えた。これまでジュリアが公の場で評価されることは一度もなかった。だが、メディアやテクノロジー関する彼女の予想はことごとく現実のものとなっている。

***

2002年、ジョージタウン大学の2年生だったジュリア・アリソンは、学生新聞で男女交際をテーマにしたコラム「Sex on the Hilltop」の連載を始めた。ちょうど『セックス・アンド・ザ・シティ』がTV業界で話題をさらっていたころだった。彼女のコラムは学内の話題となり、アリソンはジョージタウンのキャリー・ブラッドショウのような存在だった。大学の所在地がワシントンDCだったこともあり、コラムは全米で報道された(若手議員との交際を匿名で記事にした時、ワシントンポスト紙はすぐに議員の身元を公表した)。歯に衣着せぬ彼女の物言いは学生の間でも好評だったが、数カ月もしないうちに卒業生や一部の学生から怒りを買うようになった。「セックスの記事はそれほど多くなかったんだけど」とアリソンは語った。「でも、ジョージタウンの保守的な人々はおかんむりだった。私に怒りが集中したわけよ」。それでも、アリソンはやがてコスモポリタン誌やセブンティーン誌といった全国メディアの見出しを飾るようになった。映画プロデューサーのアーロン・スペリングが映画化の権利を持ちかけるほどだった。この時彼女はまだ21歳だった。

2004年に卒業してニューヨークに移り住むころには、アリソンの未来も前途洋々と思われた。彼女には間違いなく人を惹きつけるところがあり、怖いもの知らずな部分もあった。雑誌に載ったことを足がかりに、ニューヨーク市のメディアでライターの仕事をするのが目標だった。自分のTV番組も持ちたいとまで考えていた。その年彼女がニューヨークで叶えたい夢のリストには、「カルト的人気者」という項目も書かれていた。

ニューヨークに着いた途端、アリソンは街中の編集者にメールを送りまくった。だが分厚い壁に阻まれた。少しばかり雑誌で取り上げられ、大学新聞でコラムを書いただけでは、由緒ある大手雑誌社の編集長の気を惹くには至らなかったのだ。最終的にAMニューヨーク誌という日刊フリーペーパーから週1のコラムの仕事をもらった。ギャラは週50ドルだった。

同じ年、作家のトム・ウルフが本の宣伝ツアーをしているのを見たアリソンの頭にある考えがひらめいた。ウルフ氏はどこへ行くにも、代名詞ともいうべき白いスーツを着て登場した。「彼はある種のブランドだ」と彼女は気づいた。「私も存在を知ってもらって、名前を売り込まなきゃ」。ウルフ氏はひと昔前に自らをブランド化した。だがアリソンがお手本にしたのはウルフ氏だけではなかった。

アリソンはラストネームのバウワーの代わりにミドルネームを使い、「ジュリア・アリソン」名義で執筆活動を始めた。彼女は精力的に活動した。AMニューヨーク誌にコラムを書き、リアリティ番組のパイロット版のオーディションにも参加して、実際に出演もした。TVに出てデートのアドバイスもした。そして2005年にブログを始めた。

それほど大きな野望をもってブログを始めたわけではない。最初はAMニューヨーク誌のコラムに書ききれなかったことを載せるはけ口のつもりだった。話題は恋愛生活や食べ歩きなどだった。やがて、「頭からつま先まで」バッチリ決めた(手ごろな価格の)コーディネイト写真を投稿するようになった。Tumblrで#gpoy(自己満足写真(gratuitous picture of yourself)の頭文字)と呼ばれる類の写真だ。アリソンの投稿は、従来の女性誌がまねできない形でミレニアル世代の女性たちの胸に響き、共感を呼んだ。多くのブロガーと同じように、彼女も小規模ながら成長の兆しが見えていたオーディエンスと関係を構築できる媒体を見つけたのだ。


2009年、ブライアントパークで行われたファッション・ウィークのパーティに出席したジュリア・アリソン(KATY WINN/GETTY IMAGES)

やがてアリソンは、自分が追い求めていた紙媒体の仕事には先がないという結論に達した。彼女はブログに力を入れ、2006年には注目を集め始めた。

当時ニューヨーク最大の影響力を誇っていた(かつ噂の的だった)オンラインメディアがGawkerだった。アリソンはGawkerの問い合わせ窓口に自分の記事のリンクを大量に送り付けた。Gawkerの記事にコメントする際には、自分の記事のリンクを添えることもしばしばだった。

注目を集めるために他人の投稿に遠慮なくコメントするのは今では日常茶飯事だが、当時は忌み嫌われた。Gawkerの社内記者はすぐさま、「図々しい売名行為」と彼女を非難した。

アリソンはめげなかった。2006年にGawkerの創業者ニック・デントン氏が開いたハロウィンパーティに、避妊具の包装紙で作ったドレスを着たアリソンが「コンドームの妖精」として登場すると、さすがのデントン氏もこれ以上無視できないと悟った。翌日、Gawkerのクリス・モネイ氏はデントン氏の要請で、「街の噂:ジュリア・アリソン」という800字の記事を投稿した。投稿は悪意に満ち、辛辣な言葉で目立ちたがり屋のアリソンを非難した(いかにも2006年のニューヨークらしく、有名写真家パトリック・マクマラン氏の知り合いではない点をバカにした箇所もあった)。記事の小見出しはずばり、「彼女は自分を何様だと思っているんだ? 自分に影響力があるとでも?」。とはいえ、「そこら中で彼女の姿を見かけるようだ」とも認めている。

記事は拡散し、悪意に満ちた記事は悪意に満ちたコメントを呼んだ。取り乱したアリソンは3日間泣きあかし、編集部に記事の撤回を訴えた。編集部に拒まれると、彼女は反撃を誓った。コンドームに覆われたドレス姿でお尻をカメラに向けた写真をブログに投稿し、「背景Gawker様。ケツにキスしな」と見出しをつけた。

アリソン対Gawkerの長きにわたるインターネット対決の始まりだった。これをきっかけに双方に注目が集まった。Gawkerの編集者はアリソンを、賛否両論分かれるお騒がせ者の再来として「我が社のパリス・ヒルトン」と呼んだ。批判的な人々に言わせれば、彼女は身の程知らずの「ナルシスト」。ファンにしてみれば、彼女は道なき道を切り拓く機転の利いた淑女だった。誰の目から見ても、彼女はとらえどころのない新手のセレブリティだった。



彼女はコンドームに覆われたドレス姿の写真をブログに投稿し、「背景Gawker様、ケツにキスしな」と見出しをつけた

「今じゃごく普通の有名になるやり方よね」とアリソンは語った。「でもあの当時は誰も心構えができていなかった。当時はにわか名声と呼ばれていたわ。思わぬタイミングで人気が爆発する例ね。テイラー・スイフトがブレイクしたのと同じことはできない。だから代わりにたくさん注目を浴びて有名人になるの――ただし、限られたニッチな分野でね。超有名でありながら、同時に無名という奇妙な取り合わせが生まれるわけ。インターネットで有名になるやり方は、私も含めてみんな初めてのことだったのよ」。

2007年2月、デヴィッド・カープ氏とマルコ・アーメント氏はニューヨークでブログサイトTumblrを設立した。Tumblrでは、プログラミングの経験がない人も美しく、すっきりとしたシンプルなブログを立ち上げることができた。

きっかけとなったのは、視覚に訴えるおしゃれなブログを作りたいというカープ氏の願望だった。だが周りを見回しても、「自分が投稿したいと思うカッコいい動画やリンクやプロジェクト」を投稿できるプラットフォームが見つからなかった、と後に同氏は雑誌net誌に語っている。こうした嗜好は、カープ氏がライター畑の人間でなかったためでもある。高校を中退した20歳のプログラマー兼デザイナーは、開発仲間のアーメント氏と自力で問題を解決することにした。

2人はプラットフォームをTumblrと名付けた。ユーザーはものの数分で@tumbr.comのユーザー名を登録し、美しくデザインされたテンプレートからひとつ選んでカスタマイズすることができた。後はテキストや画像、GIF、引用、動画を投稿すればいい。

WordPressやBloggerといったそれまでのサービスとは違い、Tumblrは早いうちから「リブログ」というソーシャルメディアの機能を備えていた。リブログの技術はニューヨークのアート&テクノロジーセンターEyebeamに在籍していたマイケル・フルミン氏とジョナ・ペレッティ氏が開発した。ペレッティ氏のルームメイトだったティム・シェイ氏(TumblrとオフィスをシェアしてNext New Networksという会社を運営していた)は、リブログ機能をDJに例えた。「あちこちに自分の意見をちょっとずつ織り交ぜつつも、大衆をハッピーにさせ続けることができる」と、自身のブログにも書いている。やがてTumblrはブログプラットフォーム兼ソーシャルネットワークサイトと化し、いいねやコメント、コンテンツのシェアができるようになった。世に出たタイミングもばっちりだった。ちょうどMySpaceが尻すぼみになり、1年ほど前に立ち上がったTwitterは限られた人に向けたテクノロジー寄りのサービスだった。業界を独占していたFacebookも当時はまだオフラインの交友関係が中心で、同じ興味を持つ赤の他人を結び付けるものではなかった。Tumblrは煩雑で、クリエイティヴで、現実社会では見知らぬ者同士がわんさと集まって偽名でやり取りしていた。あらゆるタイプのクリエイティヴな人間をとりこにし、スタートから2週間も経たないうちに7万5000人のユーザーを獲得した。ジュリア・アリソンもその1人で、1日に10回近くも投稿していた。


ジュリア・アリソン(MIKE COPPOLA/FILMMAGIC)

ロサンゼルスがネットクリエイターの聖地となる以前、インターネットでファン獲得に励む人々がたむろしていたのがニューヨークの「シリコンアレー」だった。2000年代が終わりになるころには、「生身の世界」でインターネットカルチャーを体現するイベントが次々現れた。マイク・ブルームバーグ市長は2008年、「ニューヨークのインターネット業界を称える」ことを目的に、ニューヨーク市主催の「インターネット・ウィーク」を立ち上げた。人気急上昇のフラットアイアン地区がTumblrやブロガー文化の巣窟だった。アリソンもTumblrのパーティの常連になり、NYCのITシーンではおなじみの存在だった。

当時Gawkerの動画部門を仕切っていたリチャード・ブレイクリー氏は2009年のインターネット・ウィークの日程表を見て、パネルディスカッションばかりでアフターパーティがないことに気が付いた。そこで、アッパーウエストサイドのエンパイア・ホテルの屋上でイベントを企画した。

そこから生まれたのが、「ウェビュタント・ボール」と呼ばれる毎年恒例インターネットのプロムパーティだ。RandomNightOutというwebサイトでITシーンを追いかけていたカメラマンのニック・マクギリン氏は、「名前が知られた途端、誰でもこのパーティに顔を出す」と2010年にオンラインマガジンDaily Beastに語っている。名誉会員として殿堂入りを果たしたアリソンは「プロム実行委員会」の1人だった。



彼女はユーザーを自分の世界に呼び込むジャーナリストだった。恋愛やセックスについて一気に語ったかと思えば、次の瞬間にはIT業界についてまくしたてる。本人は「ありのままの人生」と呼んでいた。

ウェビュタント・ボール以外にも、現実世界でのインターネットイベントは存在した。当時創業したばかりのデジタルメディア会社BuzzFeedは、ファンとのオフ会を開催した。2008年にはハーバード大学の学生軍団が、従来のメディアが「ネットセレブ」と呼ぶ初期クリエイター集団が集うインターネットミームをテーマにした2年に1度の祭典「ROFLCon」を立ち上げた。2009年にスタートした「ソーシャルメディア・ウィーク」では、インターネットでオーディエンス獲得の重要性を訴えるトークイベントが行われた。

同じ年、インターネットカルチャーの話題を発信するサイトUrlesqueとKnow Your Memeが、「A Night to ReMEMEber」というパーティを共同開催した。Tumblrの人気ブロガー、初代ユーチューバー、ブロガー、ネットオタクが集まるこのイベントで、参加者は好きなミームの格好で現れた。ちょうどミームがインターネットで人気を博していたため、パーティは成功裏に幕を閉じ、UrlesqueとKnow Your Memeは数カ月後に再びタッグを組んで第1回「HallowMeme」パーティを開催した。今回のドレスコードは、好きなネットの人気者。コンテストの結果、月に向かって吠える3匹の狼、キーボードを弾く猫、そしてチューブの束をまとった男性(ある上院議員がインターネットを例えた意味不明な比喩にちなんでいる)がトップ3に輝いた。この手のイベントでもアリソンは常連で、当時「ウェブリビティ」と呼ばれていた他のクリエイターと交流を深めた。イベントのようすをTumblrに投稿しては、たくさんのいいねやリブログを集めた。のちに多くの人々がInstagramでやるように、彼女もTumblrを駆使した。「日々のファッションコーディネートを載せてたわ」と本人。「記事が出たりTV出演したりすると、それも投稿してた。舞台裏系もかなり投稿してたわね。ファッション・ウィークの楽屋裏とか、普通なかなか入れないようなこととか」。

当時、メディアはアリソンの活動にどう反応していいかわからなかった。ブロガーは2000年後半から主流だったが、独自路線を歩んでいた。アリソンはその辺のブロガーとは違っていた。ジャーナリストだった彼女は写真やテキスト、動画――使えるメディアは何でも駆使して自分の世界にユーザーを呼び込み、自らのブランドを確立した。恋愛やセックスについて一気に語ったかと思えば、次の瞬間にはIT業界の行く末についてまくし立てた。彼女はそれを「ありのままの人生」と呼んでいた。

やがてインターネットでは、ジュリア・アリソンの名前を聞かないことはない状態になった。ニューヨークタイムズ紙は2008年に27歳のアリソンを特集した。同年7月にはWIRED誌の表紙を飾った。彼女のコラムはニューヨーク版タイムアウト誌の表紙でも頻繁に引用され、ありとあらゆる大手TVネットワークにちょくちょく出演した。


COURTESY OF SIMON & SCHUSTER

メディアはパリス・ヒルトンの時と同じように、アリソンも「有名であるがゆえに有名人」なのだと言い放った。だがプロデューサーはひっきりなしに電話をよこし、編集者は彼女のおかげでクリック数が増え、雑誌の売り上げが伸びることを知っていた。アリソンもこうした効果を心得ていて、名声をさらに強力な社会的・経済的武器にするチャンスだと捕らえた。

「ブログに何か投稿すると、次の日きっとメールが来るだろうなと思ってた」と彼女は当時を振り返る。「例えば水着について投稿すると、次の日に水着メーカーからメールが来る。『あなたは何者ですか? サイトのアクセスを辿ったら、全部あなたのブログ経由なんですけど』って」。

水着の無料進呈は彼女の野望のほんの一部だった。「オペラ・ウィンフリーの番組で、スーズ・オーマンとかドクター・フィルみたいな人たちが各分野の旗振り役として称えられていることに気づいたの」と彼女は語る。「私の年代では通らないだろうな、と思った。私の世代はオプラの番組なんて見ないで、インターネットを見てるんだもの。だったらインターネットでそういう人を作ったらどうかしら、って思ったの」。



アリソンは投資家から資金を募り、Non Societyという会社を立ち上げた。「今になって思えば最悪な社名だけど、自分たちは普通の社会人じゃない、自分たちは反逆児なんだって言いたかったのよ」と本人。「みんなで共同生活できるアパートを探した。家賃はスポンサードしてもらって、そこでライブストリームしたり、ブログを書いたり、動画を撮影したりするわけよ」。2010年代にブレイクしたコラボハウスのはしりだった。こうしたコンセプトでBravoからリアリティ番組『IT Girls』のパイロット版制作の依頼を受けると、インターネット評論家からは猛反発が起きた。彼女には力不足だ、と彼らは主張し、性差別的な攻撃を浴びせた。ニューヨークポスト紙のゴシップ欄Page Sixは、彼女を「インターネットで媚びを売るアバズレ」と呼んだ。

にもかかわらずアリソンは売り込みを開始し、大口契約を結んだ。2009年にはCiscoと3万ドルの契約を結び、消費者家電の見本市CES向けに2本の動画を製作した。同じ年にはT-Mobileに関するツイートを4本投稿して1万4000ドルを稼いだ。ユニリーバのマーケティング部門を仕切っていたサイモン・クリフ氏は、アリソンのネット活動は「ユニリーバのような500億ドル企業が学ぶべき教訓」だとして、本人を招いて重役300人の前でインフルエンサーマーケティングをレクチャーしてもらった。アリソンはSonyとも巨額の契約を結んで新型Vaioを宣伝し、ペイトン・マニングやジャスティン・ティンバレイクと一緒に広告キャンペーンにも出演した。

キャンペーンは彼女の熱烈な若い女性ファンの間で大好評だったが、Gawkerは性差別色の濃い記事で彼女をバッシングした。「ジュリア・アリソンがSonyのVaio Lifestyleをバッグに入れて持ち歩いているのを知ってるかい? バッグから取り出すのは、Lifestyleと書かれていてもVaioだけとは限らない」と、コンドームの人気ブランドをほのめかしながら小ばかにした記事もあった。

アリソンの活躍について書かれた記事はことごとく、気分が悪くなるほど女性蔑視的な文言や表現が含まれていた。圧倒的に男性が多いITジャーナリストは、アリソンが誰とでも寝る尻軽女だとほのめかした。性差別もはなはなだしい文言で中傷し、メディアやITの専門家としての彼女の信用性にけちをつけた。彼女がIT界の実力者とインタビューしたりパートナーを組んだりすると、枕営業をかけていると非難した。Fast Company誌は「おっぱいだけでは上手くいかないこともあるんだよ、ジュリア・アリソン」という記事を掲載し、WIRED誌をはじめとするITメディアも同様に敵意をむき出しにした。

女性蔑視の例にもれず、怒りの背後にあったのは恐怖だった。2010年、アリソンは情報サイトTheStreetのインタビューでこう語った。「私はインターネットを配信チャンネルと見ている……仲介者をすっとばせるでしょ。雑誌を経営して広告料を懐に入れるような人たちをね」。身の程をわきまえず、慣例や序列に従わない部外者をメディアは何が何でもつぶそうとした――部外者が女性ならなおさらだ。

こうした反発にもかかわらず、アリソンはインターネットで熱烈なファンを増やした。とくに若い女性たちは彼女を崇拝し、陽気な人柄と自信にあふれたな姿に憧れた。有名ブランドもオーディエンスを獲得する彼女の才能に一目置いていた。

そうしたファンが増える一方、アリソンは世界各地の主要ビジネス会議で講演した。ダボスで行われる世界経済フォーラムや、ホワイトハウス記者クラブのディナーにも出席した。ニューヨーク文化の中心地92nd Street Yのイベントではスター扱いされ、サウス・バイ・サウス・ウェストで基調講演も行った。

2010年も終わりに差しかかったころ、アリソンはロサンゼルスに移住した。ブレイク間違いなしと言われたBravoのリアリティ番組に抜擢されたのだ。『Miss Advised』と題した番組は、恋愛に長けた3人の独身女性が私生活でアドバイスを実践するという内容だった。だが、アリソンにとっては期待外れの結果だった。1シーズンで「さんざんな」経験をした後、二度とリアリティ番組流行らないと心に決めた。


『Miss Advised』 アリソンの出演エピソードより(EVANS VESTAL WARD/BRAVO/NBCU PHOTO BANK/NBCUNIVERSAL/GETTY IMAGES)

今になって思えば、アリソンが活動を辞めなかったのは驚きだ。世間では彼女をこき下ろすためだけのwebサイトが立ち上げられた。彼女の家族を付け回す者もいた。著名なジャーナリストや評論家は、全米TV局や大手メディアの紙面で彼女をばかにした。Radar誌からは、インターネット史上もっとも嫌われる人物第3位に挙げられた(ちなみに第4位はYouTubeの動画で子犬を崖から放り投げた人物だった)。投資家と会合すれば「媚びを打っている」と非難され、ビジネスパートナーの男性と肉体関係にあるかのように囁かれた。女性蔑視やゴシップが原因で要注意人物とみなされ、契約も打ち切られた。

「私に向けられた憎しみは、見るからにものすごい量だった」とアリソンは語った。「当時はインターネットのアンチに詳しいセラピストもいなかった。私をけなす人たちから精神的打撃を受けても、ほとんど助けを得られなかった」。

2012年には、彼女もこれ以上インターネットの攻撃に耐えられないという結論に達した。「約10年間ずっとこんなふうで、すっかり参っていた」と本人。「打ちのめされ、すっかり幻滅していた。こんな現実はうんざりだった。何よりインターネットから離れたかった。それで思ったの、『どうやってお金を稼げばいいかわからないけど、こんなのもうやってられない』って。そこから先はもう後ろは振り向かなかった」。

彼女はインターネットから自分の痕跡を消し始めた。何時間もかけて1万4000件以上のツィートをひとつひとつ削除した。Tumblrの投稿を削除し、他のアカウントは鍵アカにし、YouTubeやVimeoの拡散動画のアクセスも制限した。



「私に向けられた憎悪は、見るからにものすごい量だった。私をけなす人たちから精神的苦痛を受けても、ほとんど助けを得られなかった」

彼女は折に触れてネットに足を踏み入れたが、その度に後悔した。「もう安全だと思って画像を投稿すると、すぐにアンチに遭って削除した」と彼女は説明した。憎悪が消えることはなかった(あるユーザーは2019年、「今さらJAをフォローする気か、40になった彼女の人生は完全にみじめで中途半端だぞ。まさに何の価値もない存在だ」とRedditに投稿した)。

近年では90年代から2000年代に若い女性がメディアから受けた仕打ちを、社会全体で見直す動きが出てきている。ブリトニー・スピアーズやモニカ・ルウィンスキー、パリス・ヒルトンといった女性有名人が、自分たちの体験を再検証するドキュメンタリーに出演している。女性蔑視的なジャーナリストが女性をこき下ろす動画が掘り返され、TikTokの若いオーディエンスを震撼させている。

だがアリソンの場合、そうした過去の清算は行われていない。今や164億ドル規模に成長したインフルエンサー市場のパイオニアであるにもかかわらず、彼女は見直されるどころか無視され、見過ごされ、いまだ認められていない。シリコンバレーの投資家がようやくインターネットでのエコシステムに関心を向け、「クリエイター経済」と呼ぶようになっても、アリソンの名前は一度も表に上がってこなかった。

当時ジュリア・アリソンが誰よりも長けていたのは、インターネットでの認知を利用したこと、それを抜け目なくビジネスに転換した点だ。いずれも今では当たり前だが、2000年代中期は型破りだった。当時のブロガーは熱烈なファンを増やすべく、テーマありきのニッチな分野を開拓した。だが、個性の力だけで風穴をあけ、インターネットの新たなツールを駆使して無名の存在から名声を勝ち得えようとしただろうか? ジュリア・アリソンはそれを最初に試みた1人だった。

「(アリソンは)webカルチャーが大きく様変わりした時代を象徴していた」と、コメディアンのヘザー・ゴールドはツィートしている。「彼女は全てが変わった時代の申し子だった。そこに彼女の存在意義がある。彼女はwebカルチャーから受け入れられなかったが、彼女のしたことは定番化した」。

元Gawkerのマネージングエディター、ショワール・シーシャ氏はWIRED誌にこう語っている。「彼女はこのメディアを活用して、無敵の存在になった。彼女はある種魔法のようなやり方で、しなやかにそれをやってのけた」。パリス・ヒルトンは生まれながらにして有名であるがゆえに有名人となり、トップセレブの定義を変えた。ジュリア・アリソンはパリスよりもずっと少ない資産で同じ道を歩み、セレブのあり方を変えた。彼女にとってはインターネットが最大の武器だった。今日、数百万人のユーザーがアリソンと全く同じことをしている。心無い暴力や非難に耐えながらも道を切り開いてきたことを考えると、彼女が残した功績はより一層計り知れない。


2007年、ロシアン・ティー・ルームにて© JULIA ALLISON

「周りからは目立ちたがり屋のアバズレと呼ばれた。でも、本を売ろうとする人を世間では作家と呼ぶんじゃないの? レッドカーペットを歩く人を映画スターと呼ぶんじゃない? 相手が男性だったら、同じようなことを言ったかしら? 私は月2500ドルの家賃を払うために、みんなに自分のコラムを読んでもらおうとしただけ。『アバズレ』という言葉だってそう、みんな何かにつけて私をそう呼んだ。目立ちたがりのアバズレだって」。

以前と比べれば今のアリソンの生活は平穏だ。マサチューセッツ州ケンブリッジの自宅でフィアンセと暮らし、つい最近ではハーバード大学ケネディスクールの修士課程に合格し、リーダーシップと公共政策を学ぶ予定だ。「今のインターネットとの関係も、10年前とそれほど変わらないと思う」と本人。「がっかりしている自分もいるけどね。ありのままの自分をさらけ出すのがインターネットの本来の価値だと思うから、他の人がそれをやれてるってことは、私もまんざらじゃないわね」。

パンデミック中にはInstagramやFacebookに近況を投稿した――限られた少人数の友人にのみ公開された、貴重な投稿だ。「いつかインターネットに復帰できたらなと思ってる」と本人は言い、こう続けた。「TikTokにはもうおばあちゃんかもしれないけどね。それでもいつか復帰してこう言ってやるの、みんなくたばれ!って。今はまだ、その時にむけて地ならしをしているところよ」。

copyright©2023 by Taylor Lorenz. 新著『EXTREMELY ONLINE』(テイラー・ロレンズ著、Simon & Schuster出版)より、許諾を得て引用

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