沢田研二を描いた究極のノンフィクション、担当編集者と辿る完成までの道のり
Rolling Stone Japan / 2023年10月6日 17時0分
音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく、舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。
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2023年8月の特集は「最新音楽本特集」。PART4は、沢田研二を膨大な人物の証言を通して描いた書籍『ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』について、担当編集者・内藤淳を迎え掘り下げていく。
田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」マスター・田家秀樹です。今流れているのは沢田研二さん「君をのせて」。いい曲でしょう。1971年11月発売のソロデビュー曲。作詞が岩谷時子さんで、作曲が宮川泰さん。今週の前テーマはこの曲です。
今月2023年8月の特集は、「夏休み最新音楽本特集2023」。今週は4週目。文藝春秋社から発売になりました『ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』。ついに出た決定版沢田研二論。沢田研二がどういうアーティストだったのか、どういう存在だったのか。ここまで様々な角度、膨大な人物の証言を通して書いた本は今までなかった。これからも出ないでしょうね。著者は島崎今日子さん。朝日新聞の雑誌「AERA」の現代の肖像で健筆をふるわれていて、2013年の『安井かずみがいた時代』も素晴らしい本でした。
今日は彼女をお招きする予定だったんですけど、この暑さですからちょっと体調を崩されまして。ピンチヒッターで担当編集者・内藤淳さんにお越しいただいております。あとがきで内藤さんのことを連載中の伴走者として紹介されて、エネルギーをチャージしてくれた編集者に出会えたことを幸運に思うと感謝の言葉を書かれていました。ジュリーをジュリーさんと呼ぶ、島崎さんよりなんと41歳若い担当者、当時、週刊文春編集部、今は出版局第二文芸部、内藤淳さんです。
内藤:こんばんは。今日はよろしくお願いします。
田家:この「君をのせて」は内藤さんが今日流したいと思われた曲のうちの1曲です。本が6月に出て、手応えはいかがですか?
内藤:ありがたいことにもう三刷が決まって、今累計2万3千部という、ノンフィクションにしてはかなり売れている本になっています。
田家:ページ数は381ページなんですけど、情報の密度がものすごいですね。
内藤:ほとんど改行もないぐらいびっしり情報と気持ちがこもっている。こんな本見たことないよって社内でも言われるぐらい密度が濃いギチギチの本になりました。
田家:2019年3月、加藤編集長からジュリーを書かないかと言われた。
内藤:はい。もともと島崎さんは10年ぐらい前からいつか沢田研二さんを書いてみたいという気持ちがおありだったそうで。ただ本人が取材は受けないと名言されてらっしゃるので、ちょっとそういう機会は恵まれていなくて。
田家:第一章から第八章まであるのですが、今日はそれぞれの章を内藤さんと紹介していこうと思っております。第一章、沢田研二を愛した男たち。章の中で出てくる曲をお届けしようと思うのですが、1曲目は「時の過ぎゆくままに」。
田家:1975年8月発売「時の過ぎゆくままに」。ドラマ『悪魔のようなあいつ』の主題歌。第一章は沢田研二を愛した男たち。東アジアのBLが凄まじい勢いで世界を席巻している。BLとはボーイズラブ。いやー、驚きましたね。
内藤:最初、島崎さんは「沢田研二とBL」というテーマで原稿を出していただいたんですけど、編集長が愛した男たちに変えたことで妖艶な感じになるという(笑)。今、BLって一大コンテンツだと思うんですけど、日本における元祖が沢田研二なんじゃないかと島崎さんがおっしゃっていて。沢田研二さんとショーケンさんの関係をBLチックに見立てて、当時の女子はキャーキャー言っていたんだと。それが今のBLカルチャーに繋がっているのでは?という話から、この連載が始まる。二章目以降は時系列になっているんですけど、当初はカルチャーとか、ファッション、音楽みたいな感じでテーマごとにやっていこうという話だったんですよね。沢田研二さんをネックレスの糸にして、そこに真珠をつけていくようなイメージで始まって。
田家:いい表現だなあ(笑)。
内藤:これは島崎さんがよくおっしゃっています(笑)。というイメージで始まったんですけども、一章を書いた時に、島崎さんはここからいくらでも書けると思ったらしくて、二章以降は時系列でいける!という話になって、ちょっと変わっていったんです。
田家:沢田研二を愛した男たちの中には、久世光彦さんとか、加瀬邦彦さんとか、内田裕也さん。女性ですけど、石岡瑛子さんとか。本当にいろいろな方たちが登場するので、この後の章の話を続けていきたいと思いますが「時の過ぎゆくままに」のことは第五章、歌謡曲の時代に詳しく書かれています。
田家:流れているのは1967年2月発売、ザ・タイガース「僕のマリー」。デビュー曲ですね。内藤さんは島崎さんの41歳の下という、この年齢差の表現すごいですね。そういう担当の方にとってタイガースはどういう存在だったんですか?
内藤:恥ずかしながら全然知らなくて、私は2018年に入社したんですけど、ちょうど入社してすぐ沢田さんのコンサートドタキャン騒動があったんですよね。その事件というか、取材班みたいなものに入って、なぜドタキャンに至ったのかをやったことで、初めて沢田さんを知ったぐらいの感じで。
田家:本当に膨大な方が登場するんですけど、その中には連載をやっている時に共感されたんでしょうね、私の持っている資料を使ってくださいと提供される、そういう方たちがいっぱい出てきますもんね。
内藤:記事の切り抜きだったり、行ったコンサートの半券を未だにずっととっておいてらっしゃる方がいて、使ってくださいみたいな感じで送られてきて。週刊誌とか雑誌の記事って流れていくものなので、今から遡るのは限界があるんですよね。当時とっていらっしゃった方によって、あ、こんな記事があったんだというのが初めて分かるみたいなことがいっぱいあって。それにすごい助けられましたね。
田家:しかも島崎さんはそういう方に会いに行って、直接お話を聞いているのも本当に驚きました。そこまで取材しているんだという、ともかく膨大な数が登場している。例えばメンバーの瞳みのるさんとか、夏木マリさんとか、明治学院の教授の藤本由香里さんとか、日本一有名なファン・國府田公子さんとか、佐藤剛さんとか、亀和田武さん。日本一詳しい研究者・磯前順一さんとか、この人のザ・タイガースの本読みましたけど、おもしろいかったですね。びっくりしたのは重信房子さんが出ていたこと。タイガースの解散武道館の時、九段会館で赤軍派の集会が行われていた、それを本当にやっていたのかを重信さんに確認している。
内藤:そうなんですよ。
田家:いやー、驚きました。
内藤:島崎さんならではの人脈というか、重信さんに今話を聞いて、しかもタイガースの話を聞くというのが。
田家:しかも重信さんがタイガースを好きだったんだという話をされている。
内藤:ミーハーの重信らしいって書いているんですよ(笑)。その総括も島崎さんじゃないと言えないよなと思いながら。最初から島崎さんがこだわってらっしゃったのは、ファンの人の話を訊きたいというところで。当時の少女たち、彼女たちが熱狂的にハマったのに彼女たち目線での資料みたいなものが全然残っていない。後に出てくる音楽評論家の湯川れい子さんが、ビートルズが来日した時に女の子たちがキャーってみんな騒いでいて、それを大人たちがおとなしくしろー!みたいな感じで言っているというのを見た時に、私は一生キャーって言い続ける側でいようと思ったみたいな話をされていて、まさにそれと同じスタンスというか、キャーと言っている人たちから見たタイガース、ジュリーってどういう人だったんだろうというのをぜひ残しておきたいという話があって。それは私もすごく共鳴していたのでここは残せてよかったなと思っていますね。
田家:果ては浜村淳さんが登場した。なんでだろうと思ったら、京都音協の全関西ロックバンドコンテストにタイガースの前身のファニーズが出演していて、その時の司会が浜村淳さんで、浜村さんがファニーズのボーカルということを覚えてらした。これも驚きました。
内藤:タンバリンがカーっと弾けて、お客さんが熱狂した。よく覚えてらっしゃるなと。
田家:それだけ印象深かったんでしょうね。こういうエピソードをあげていくと、この番組は何時間あっても終わらないということで、次は第二章の中からお聴きいただこうと思います。熱狂のザ・タイガースの章の中から、登場している曲、沢田研二さんの「あのままだよ」。作詞が岸部修三さんです。
田家:1976年のアルバム『チャコール・グレイの肖像』から「あのままだよ」。ソロになって沢田さんがバンド時代を振り返っている曲ですね。これをタイガースの章の中で使っている。
内藤:これ、岸部修三さんが作詞されたというので、瞳みのるさんのことを想って書かれた歌詞と言われていて。あの時俺はお前と一緒にいたかったから学校に行ってたし、行かなくなったから行かなくなったんだよとずっと訴えているという曲で。
田家:これで締めるというのがすごいですよね。
内藤:島崎さんの書き方も本当に文学的というか、ただのノンフィクションの評論ではない。
田家:もう全然違いますよ。
内藤:私も資料とかいっぱい集めたし、取材も同行させてもらったんですけど、これをここに使うのか!ということばかりで。ずっと集めている時も私の中にはビジョンが見えていなかったので、ここでこれを出すのかー!ということばかり。
田家:第三章。自由、反抗、挑戦。これもそういうことの連続でしょう(笑)。
内藤:PYGのことを書いた章なんですけど、沢田さんとショーケンさんのツインボーカルという。当時からしたらありえないぐらいスーパースターが2人同じチームに入るというビッグバンドなんですけど、その挑戦が失敗に終わってしまうという。
田家:この自由、反抗、挑戦は柱が2つありまして、1つは早川タケジさん。伝説のデザイナーの彼が作ったイメージと言うんでしょうかね。ジェンダーを越境するというこの見出しがいいと思ったんですけど、そういう話とPYGの話と2つあって、自由、反抗、挑戦が象徴されているわけですけど、本人の発言で「大人たちがしない方がいいということならOK」という、そういう目安があったというのありましたもんね。
内藤:それもすごいですよね。たぶん30歳以上の大人を信じるなみたいな、そういう流れもあると思うんですけど。
田家:僕もそうだったわけですけど(笑)。
内藤:その流れから来ている言葉じゃないかなとも思うんですけど、タイガース時代も大人たちからしたらあんなの音楽じゃないって言われたり、早川さんがデザインした衣装も全く上に理解されずに、化粧とかも後年そうですけど、ナベプロの渡辺晋さんはあれやめさせろと言っているのも、大人がそう言うなら沢田さんは解釈してやっていくわけですよね。その感性がここまで大きくさせたんだろうなという気が。
田家:そういう若いロックファンからも帰れ帰れと言われたのが、彼の一つの運命的な出来事でもあったわけですけどね。PYGの中で伝説のプロデユーサー、今は美術家の木村英輝さんが出ていた。これは驚きました。京大西武講堂でPYGがものを投げられたり、帰れ帰れ言われた時、木村さんはその場にいらした。コンサートをプロデュースされた方としてあの時のことをどう思ったかという。その時彼が話していたことも書いてありましたもんね。
内藤:そうなんですよ。京大西武講堂の話もそうですし、比叡山のコンサートをフリーコンサートにした方がいいと言ったのも木村さんだった。そういうメモリアルな場面にいっぱい一緒にいらっしゃるんですけど、俺がいるとケチがつくみたいな感じで去っていくんですよね。その流れも後で出てくる吉田建さんとかもそうなんですけど、スターだからこその出会いと別れみたいなものがおもしろいんですよね。
田家:第三章自由、反抗、挑戦の中で出てくる曲をお聴きいただきます。1971年7月発売、PYGの「自由に歩いて愛して」。
田家:1971年7月発売でした。その後第四章は「たった一人のライバル」。その前に出ていたPYGを受けての章。ジュリーとショーケンをここまで書いた本があったか。
内藤:いやー、ここは私も島崎さんも一番好きなところで、読み返す度に泣いちゃうんですね。ノンフィクションで泣くってどういうこと?って思うんですけど、何回ゲラやっていても最後ラスト一行で。
田家:そうそう、ジュリーは涙を飛ばして叫んだ「俺はあいつが大好きなんだ」。最後これで終わるというのがね。
内藤:そうなんですよ。ここは筆が光っているなという感じですね。
田家:これはどういうことを書きたいという話で始められたんですか?
内藤:もともと沢田さんと言ったらショーケンさん。この2人の対比じゃないですけど、2人スターがいる時代は後にも先にもあの時だけだったんじゃないか、と島崎さんは常々おっしゃっていて。2つの太陽という言葉で表現しているんですけど、ジュリーがいたからショーケンは歌うことをやめたまで言わないんですけど、そういう書き方を島崎さんはされていて。ジュリーがいるからショーケンがいるし、ショーケンがいるからジュリーがいるみたいな関係の2人って、BLじゃないですけど、そういう風に見る人たちももちろんいるし、現実世界にいる2人なのに小説の中のことみたいな感じで読める章だなと私は思っていて、そこはいいですね。
田家:挫折を知る太陽だった。これもいろいろな方が登場するわけで、演出家の蜷川幸雄さんとか、蜷川さんの奥さんまで登場していた。「anan」で2人を撮ったカメラマン武藤義さんとか、ジュリーのドキュメンタリーの中にショーケンを出した映像作家・佐藤輝さん。2人がどう違ったのかということをアラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモンドと例えながら話をされたりしている。ジュリーはショーケンコンプレックスがあったみたいな話もあります。第四章の中に出てくる曲をもう1曲お聴きいただこうと思うのですが、内藤さんが流したいと言われた曲です。1973年4月発売「危険なふたり」。
田家:レコード大賞を取れなかったエピソードがあるでしょう。なんで沢田じゃないんだと裕也さんの軍団が関係者に詰め寄っていた中にショーケンがいた。嘘だろうと思いましたもん。
内藤:本当ですか。その後取った時にもちゃんと駆けつけて、マネージャーの方に今回は取れるんだろうなって言いながら控室で待っていたエピソードがあって。
田家:2人のエピソードがこれでもかと言わんばかりに登場する。そういう章の最後にショーケンが死んだ時に沢田さんが言った、「俺はあいつが大好きなんだ」と叫んだという話で終わるわけですね。
内藤:何回読んでも泣いちゃういい章です。
田家:話を聞いて泣いていただけるとうれしいなと思っています。
田家:第五章、歌謡曲の時代に行くわけですが、最初の小見出し「『君をのせて』、不発」。
内藤:この章もすごく好きなんですけど、この曲が売れなくてこの路線じゃないってナベプロがなったからこそ、J-POP路線というかポップ路線が始まったという話に結びついていって。不発にもそれなりの意味があったんだみたいな話を島崎さんは書いてらっしゃるんですけど、その回収の仕方がミステリーみたいでおもしろいなと思ったんですよね。
田家:この曲がどうやって生まれたのかとか、当時関係者は何を思ったのか、そこまで取材をされていて。宮川泰さんの奥様が、宮川さんが曲を依頼された時のことを覚えてらした。奥様にまで会いに行っているんだと思いました。
内藤:私もこれは同行させてもらっていないので、島崎さんの人脈の中で出てきた話だと思うんですけど、野外フェスだったんですよね。これが初めて披露されたのが。それを見たナベプロの方の印象とかもここには入っていて。
田家:中島二千六さん。ナベ出版の大御所の人ですけどね。
内藤:その関係者の方々が当時何を思ってそれを聞いたのかを今の時代に書けるっていうのが、びっちり決まったなという章ですね。
田家:沢田研二さんがこの曲をどう思っていたのかもちゃんと書いてある。
内藤:あまり得意ではなかった、難しい曲なんですよね。バラードなので野外フェスで歌ったというのもあったと思うんですけど。
田家:その後にスタッフが変わって加瀬邦彦さんが登場して、作詞安井かずみさんになったりしていく過程も書いてあるわけで。という話まで載っていましたね。
内藤:「危険なふたり」が最初B面だった話も載っているんですけど、それをA面に変えてくれって加瀬さんが直談判して、A面に変えさせたからには売れないといけないというので。ただ安井さんが書いた「赤い風船」がずっと上位にあって、それを覆すために一緒に応募ハガキを書いたという。リクエストハガキですね。あと、私がここでいいなと思っているのが、プロデューサーの木﨑賢治さんにお話を伺っているんですけども。
田家:この番組に来てくれてますよ(笑)。
内藤:本当ですか! 木﨑さんがおっしゃっていた「スターというのは存在に重みが出てくると、曲も重くなっていく」という。ただ、この曲が売れたことでやっぱりそうではなくて、ポップなもの、軽いものを書いていかないといけないと思った」とおっしゃっていて、なるほどなあと今の時代に照らしても思える仕事論。
田家:あの人が書いた本は仕事論の本でしたもんね。1つの曲にあらゆる角度から光を当てている。時代の転機となった曲、1980年1月発売「TOKIO」。
田家:第六章、時代を背負って。沢田さんはパラシュートを背負っておりましたけどね。第五章と第六章は1970年代から1980年代にかけて、音楽の流れが変わっていく中でのジュリーという、1972年前後から開花したニューミュージックの台頭で音楽シーンが変わり始めていた。244ページ。「夜ヒット」のこととかいろいろ書かれていましたね。
内藤:沢田さんの人気というのはもちろん沢田さんがスターであるというのは変わりないんですけど、今の時代と一番違うのは大衆の存在のあり方みたいな気がしていて。あの時代はテレビをみんながお茶の間で囲むという文化があったからこそ、あそこまで熱狂が生まれたのではないかというのも、ここに現れているなと思いながら。
田家:夜ヒットの司会の芳村真理さんの「スターたちの憧れがジュリーだった」という証言があったり、そういう直接、曲をお作りになった人とか、メディアで関わった人とか距離感がいろいろあるんですけど、身近な証言というところで言うと、マネージャーの森本さんですね。「勝手にしやがれ」の話もこの章の中に出ていて、沢田さんは、「レコ大を取った時に喜ぶな、来年の大晦日に喜べるかが問題やろ」って森本さんに怒った。
内藤:来年は1年365日歌いましょうって言ったエピソードも披露されているけど、森本さんと常に一緒にいたというのが、井上堯之さんだと思うんですけど、井上さんのバンドがなぜ沢田さんのところを離れたのかというところを結構頑張って取材していて。
田家:これ初めて知りました。
内藤:そうなんですよ。文献に全然載っていなくて、誰も真意を知らずに、なんでなんだろうねみたいな。井上さんも亡くなってしまって真相が闇の中みたいな感じだったのを丁寧に当時の資料と大野さんと木﨑さんに最終的に確認する形で書いたんですけども。
田家:大野克夫さんが井上バンドのギャランティの話までされていて、え、こんなに高かったんだというのがありました。
内藤:そうなんですよ。バックバンドがあれだけ大御所を揃えて、しかもそれでレコーディング、練習からちゃんと本番までやるという体制はなかなかナベプロの中でもなかったらしくて。結局結論としてはバンドを若返らせたいという加瀬さんの戦略の1つだったんじゃないかというところになっていくんですけど。
田家:そこに「TOKIO」も関係しているわけですもんね。
内藤:そうなんですよ。その衣装についていけるかみたいな。ここで木﨑さんがローリング・ストーンズの例を出して説明されているんですけどミック・ジャガーは新しくどんどん変わっていきたいけど、キース・リチャーズは嫌がってスタジオにも来なくなったりという全く同じことが起こっていて、ただ沢田さんはビジュアルと歌という2つの大きな柱があって。ビジュアルをやっていくには後ろも含めて、どんどん新しいことに挑戦していける人たちじゃないとできなかったんじゃないかという。ここの別れを描く島崎さんの筆致もかなり心に来るものがあるんですよね。
田家:第七章にいきましょうか。レゾンデートルの行方。その中の曲です。1983年 5月発売「晴れのちBLUE BOY」。
田家:作詞が銀色夏生さんで、作曲が大沢誉志幸さん。バンドは吉田建さんがリーダーだったエキゾチクスですね。内藤さんがさっきおっしゃった若返り。1980年代の若返り、加瀬さんと木﨑さんが考えたこと。
内藤:エキゾチクスに着く前にオールウェイズにも吉田さんはいらっしゃったんですけど二段階で若返りをさせていって、エキゾチクスでそれが完成したと書いていますね。
田家:この時に沢田さんに書かれた作曲家、プロデューサー、作詞家、伊藤銀次さんとか三浦徳子さんとか、銀色夏生さんとか佐野元春さんとか、白井良明さんとかガラッと変わりましたもんね。
内藤:そうですよね。ここにも書いているんですけど、レコードの購買層は常に若い人で自分たちの時代の音楽をみんな常に聴いていたんですけど、やっぱり35歳ぐらいになっていくと、それまでのようには曲を聴かなくなっていって、どんどん売れなくなっていって。ただ、自分の下の層に向けて音楽を届けようとすると、その下の層には下の層のスターがいるから上手く届かなくなっていってしまうみたいな話なんですよね。なので、このレゾンデートルというのは存在意義という意味なんですけど、何年も走ってきた沢田さんがここでちょっと壁にぶつかっていく、つらい章なんですよね。
田家:何を歌うべきか模索がいろいろな形で書かれているわけですが、その中で陽水さんの「背中まで45分」の話も出てきます。読んでいて思ったんですけど、第二章、第三章、第四章は50ページ以上あるのですが、第五章の歌謡曲の時代以降、第六章、第七章は30ページ強という若干長さが変わっていますね。
内藤:最初から意識してそうしようというわけではないんですけど、盛り上がっていく時代の方が証言者も多いし、みなさんの記憶にもかなり残っていると思うので書くことが特筆すべき事件とかエピソードがすごく多いということだと思うんですよね。
田家:最終章のイメージはどのへんからあったんですか?
内藤:最終章は、最初から島崎さんがルネッサンスで書きたいというふうにおっしゃっていて、右肩上がりじゃないといけないと思ってしまう日本ではよくないのではないかと沢田さんご本人もおっしゃっているんです。それに寄り添うイメージで沢田さんも本人の中での復活を遂げて、右肩上がりじゃないかもしれないけど歌い続けているというところで落としたいという話だったんですよね。
田家:第八章、最終章、沢田研二ルネッサンスの中からお聴きいただきます。1985年の曲「灰とダイヤモンド」。
田家:アルバムは『架空のオペラ』に入っておりました。渡辺プロを独立した第一弾ですね。作詞作曲が李花幻。本人じゃないかと言われていた曲ですけども、ちゃんと本人だと書いてましたね。これだけ業界の人たちが登場していて。でも、ありがちな業界の所謂裏話本になってないですもんね。
内藤:最初から暴露とか新発見というより、今の時代から振り返ってあの現象はなんだったんだろうと丁寧に掘り返していきたいという気持ちの上で書いているので、そのへんはたぶん島崎さんのバランス感覚が冴えてらっしゃるところかなと思いますね。
田家:終わり方をどう終わるか、それはお話をされた時があるんですか?
内藤:六章ぐらいからどうやって終わらせていくかというのを話すようになって、「ルネッサンス」をぜひ書きたいというのは島崎さんがもともとおっしゃっていて。これはジュリーがいたという題名にしたことで過去形なのではないかと言われることもあるんですけど、決して過去形ではなく、今の時代から再確認している本なんですよね。で、今もいるということを確認するために、今に至る時系列をさらっていく構成になっていますね。
田家:最終章の後ろから2つ目の小見出しに「神に選ばれし半神は人間に回帰する」。これは見事でしたね。
内藤:これは文中にある言葉で。
田家:冒頭のね。
内藤:そうなんですよ。小見出しは基本的に島崎さんがいっぱい考えてくださって、私のは全然採用されているのは少ないんですけど、ここは私のが残っているところで。
田家:これ内藤さんなんだ。第一章、樹木希林さんが裕也さんが常々沢田は神に選ばれた人間だぞと言っていた。これもそういう説得力の一つの材料なんですけど、第一章沢田研二を愛した男たちの中に、「その姿は両性具有の半神のごとく」というのがあったので。見事だなと思いましたね。
内藤:よくぞ気づいてくださいました(笑)。ここの伏線回収の仕方もミステリーみたいですよね。一読者としてすごいなと思っているだけなんですけど。
田家:今日最後の曲は第八章の中に出てきます。還暦の時に発売になったアルバム、ロックンロールマーチから「我が窮状」。
我が窮状 / 沢田研二
田家:2008年のアルバム『ROCK'N ROLL MARCH』からお聴きいただきました。連載、そして初めての書籍を担当されて、あらためて思うことというのは?
内藤:沢田研二さん自身ももちろん好きなんですけど、島崎さんが見る沢田さんみたいなところにすごく惹かれていて。それを通して今も思うのは、長い時間を歌い続けている時間の尊さというか。沢田さんってもう56年もずっと歌い続けていて、ファンはその間ずっと一緒にいられるんですよね。その時間をちゃんと引き受けて歌い続けてくれる。「我が窮状」も、新しく歌う曲は自分の気持ちを自分の言葉で表現しないと純度が下がるみたいなことをおっしゃっていて。歌い続けているからこそ言えるセリフだろうなと思って。時間を一緒に並走している、タイトルに「56年」と入れられたのはすごくよかったなと思っています。
田家:この本を通じて読者と言いますか、世の中と言いますか、沢田研二さんはどういう人でこの本がどんなふうに読まれたらいいなと思われますか?
内藤:回顧本ではあるんですけど、昔はよかったなあというのだけで終わらない本なんですよ。今の社会でできることってなんだろうみたいなことを考えさせてくれる広がりのある本なので、そういう読み方をしていただけると大変ありがたいなと思っています。
田家:分かりました。島崎さんにもよろしくお伝えください。ありがとうございました。
内藤:ありがとうございました。
左から、内藤淳、田家秀樹
流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。
週刊文春の連載も知っていたんですけど、単行本まで待とうと思って楽しみにしておりました。で、読んだら想像を遥かに超える本でした。こんなにたくさん取材しているのか!?というのが最初の驚きです。1つの曲、1枚のアルバム、1つの舞台、1枚の写真、1つの番組、なぜこの曲だったのか、なぜあの格好だったのかとか、なぜこの人選だったのかとか、なぜああいう話をしたのか、なぜと何をという問いかけが嵐のように連なっているんですね。
内藤さんは真珠のネックレスのようだと話されてました。僕はそんなに綺麗な言葉は思いつきませんでしたが、次から次へとそういう光が沢田研二、ジュリーに向かって当てられていくんですね。あらゆる面からあらゆる角度から語っている、そういうノンフィクションのお手本のような、究極のノンフィクションと言っていいでしょうね。
ノンフィクションで一番大事なのは本人の話よりも、周辺の取材の質だと思うんです。本人の話が出てくると、そこに頼ってしまったり、それが違う歩き出し方をしてしまうのでバランスが悪くなるんですけど、沢田研二さんが話さない、登場しない、取材を受けないということがこういう本を産んだんでしょうね。こんなに周りの人の話が意味を持って、ドラマチックでロマンチックな本は初めて読んだ気がしました。著者はもちろん、全員に愛情があるんですね。こういうスターは二度と出てこないでしょうし、沢田研二に関してこういう本は書けないでしょう。そんな本が登場しました。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
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