ミック・マーズが愛憎のバンド人生を語る、さらばモトリー・クルー
Rolling Stone Japan / 2023年10月10日 17時0分
11月の来日公演が迫ったモトリー・クルーだが、オリジナル・メンバーでありギタリストのミック・マーズは来日しない(今回のツアーにはジョン5が参加)。マーズは現在、ほかのメンバーたちと法廷で争っているのだ。
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事の発端は、マーズがツアー活動からの引退を宣言したことだった。2022年の夏にポイズンとデフ・レパード、ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツとのジョイント・ツアーを行ったあと、マーズは10月にツアー活動から身を引くと言った。モトリー・クルーのメンバーは、そこにつけ込んで自分をバンドから追い出そうとしている。それだけでなく、1981年の結成から42年にわたってバンドを支えてきた自分から、今後の利益を奪うつもりだ。そう考えたマーズは、訴訟を起こした。さらにマーズは、ツアー中にメンバーが当て振りをしたと暴露した。すると今度はバンド側が、曲の構成を覚えていない、きちんと演奏できない、という理由をつけて、当て振りをしたのはむしろマーズのほうだと応酬した。
「あいつらがハイになって、なにもかも滅茶苦茶にした時、俺がカバーしてやったんだ」とマーズは怒りをあらわにした。「それなのに、今度は俺のレガシーを奪おうとしている。モトリー・クルーのメンバーとしての取り分とバンド名の所有権、さらにはブランドそのものを俺から取り上げようとしているんだ。ケチャップで有名なハインツ社からミスター・ハインツを解雇できると思うか? そんなことは不可能だ。ハインツは彼の会社なんだから。フランク・シナトラやジミ・ヘンドリックスのレガシーだって永遠に生き続ける。だからこそ、遺族はその利益を享受できるんだ。あいつらは、それを俺から奪おうとしている。そんなことは絶対に許さない」
マーズの後任にジョン5を迎えたモトリー・クルーのワールドツアーのヨーロッパ・レグがはじまる数週間前、ベーシストのニッキー・シックスは怒りを爆発させた。この件に関しては、ほかのメンバーと同様に口を閉ざしてきたが、数カ月にわたる鬱憤が噴出したようだ。「いよいよ活動再開だって、みんながスタジオに集まっているのに、ミックは曲を忘れていた」とシックスは主張する。「ミックの心と体、記憶力が壊れていく様子を目の当たりにしたんだ。俺たちは、まるで壊れ物のようにミックを大切に扱った。いつでも手を貸すつもりだった。俺たちは、いつもミックの味方だった。でも、あんな状態のミックをステージに立たせてツアーを台無しにするわけにはいかなかった。それなのに、ミックはただ俺たちを傷つけるためだけにあんなことを言っている。そんなことをして、いったい何の意味があるんだ? ミックは、自分のレガシーを壊している」
LAメタル時代のメンバー。(左から)マーズ、ニッキー・シックス、ヴィンス・ニール、トミー・リー。RANDY BACHMAN/GETTY IMAGES
メイクは「醜い老女みたいだった」
1951年5月4日生まれのマーズは、ほかのメンバーよりも一回り年上だ。彼らがキッスやニューヨーク・ドールズなどのきらびやかなバンドを崇めていたのに対し、マーズはテン・イヤーズ・アフターやバッド・カンパニーのようなブルースバンドが好きだった。「1970年代には、優れた音楽がたくさんあった」とマーズは言う。「俺もあの時代に成功できればよかった。そのほうが時代に合っていたのに。チャンスを逃してしまった」
チャンスが訪れたのは、ようやく29歳になってからのことだった。金もなく、3人の子供を抱えて毎日を必死に生きていたマーズは、「音がデカくて、無作法で、攻撃的なギタリスト」と豪語したメンバー募集広告を機に、のちにモトリー・クルーのメンバーとなる仲間たちと出会った。その数カ月後には、派手な演出のライブやタイトなレザーパンツなどのファッション、ヘアスプレー、マスカラ、口紅を使った派手なルックスによってLAメタルシーンの最注目バンドへと成長した。「メイクはしたけど、好きだと思ったことは一度もない」とマーズはため息をもらす。「醜い老女みたいだった」
マーズは、いつから痛みを感じるようになったのかを覚えていない。14歳の頃だっただろうか。最初は、尾骨の上のほうに鋭い痛みを感じる程度だった。だが、その数年後にロサンゼルス界隈のナイトクラブでライブをするようになると、痛みは全身に広がっていた。「痛みを説明するのに友達に『胃に穴が空いて胃酸が漏れ出し、体内を焼いているみたいに腰が痛い』と言ったのを覚えている」と振り返る。「あまりに痛いので、ドアノブを握って友達に『俺の体を思いっきり引っ張ってくれ』って頼んだくらいだ。それでも良くなるどころか、腰痛はひどくなるばかりだった。背中が曲がりはじめた。実年齢よりも老けて見えるようになってしまった」
27歳の時に強直性脊椎炎と診断された。「あの時は『スゲーな、俺はいつかこれで死ぬのか』と思った。実際、強直性脊椎炎は死ぬほど辛いけど、命にかかわる病気ではないんだ。強直性脊椎炎が手足にまで影響を及ぼすことは稀だ。要するに、ギターは弾ける。俺にとっては、それがすべてだった」
米インディアナ州テレホート出身のロバート・アラン・ディール(マーズの本名)にとっては、ギターを弾くことがすべてだった。3歳の時に地元のお祭りでスキーター・ボンドというカントリーシンガーが歌うのをピクニックテーブルの上に立って見て以来、マーズは音楽に夢中だった。「スキーター・ボンドは、スパンコールだらけのオレンジの衣装を着て、白くて大きなステットソンの帽子を被っていた」と回想する。「あんなふうになりたい。俺もミュージシャンになるんだと思った」
「眼のなかをのぞき込んでも、悲しみしかない」
マーズが9歳の時、7人家族は1959年式フォード・ギャラクシーに鮨詰めになり、約3200キロメートル走ってカリフォルニア州のガーデン・グローブという労働者階級が暮らす街に移住した。金はなく、貧乏暮らしは1980年代にモトリー・クルーがブレイクするまで続いた。それでも両親は、家計をやりくりしてギターを買ってくれた。休むことを惜しむようにギターを練習しながら、マーズは成功だけを夢見ていた。その後、マーズの人生が変わった。まだ19歳の頃にガールフレンドのシャロンが長男のレスポールを産んだのだ。その2年後に長女のストーミーが誕生した。
昼間はクリーニング工場で働き、夜は自分が結成したWahtoshiというバンドのメンバーとともに小さなナイトクラブのステージに立った。だが、ある日職場で事故が起き、あと一歩で片手の骨を粉砕されそうになった。その日を機に仕事を辞め、音楽活動に専念した。ガールフレンドのシャロンは、子供たちを連れて家を出た。金のない駆け出しミュージシャンにとって、ここからが苦労のはじまりだった。マーズは、ロサンゼルス界隈の三流バンドで演奏しては酔っ払ってソファや床の上に倒れ込み、養育費の支払い期限が過ぎたと言って追いかけてくる警官たちをかわすようになった。
1976年当時、ホワイト・ホースのメンバーとして活動していたミック・マーズことロバート・アラン・ディール。アナハイム・ウェアハウスにて。COURTESY OF HENRY CLAY
1973年にマーズは、比較的成功していたホワイト・ホースというコピーバンドに加入した。「ピッチがとても安定していた」と、バンドのベーシストのハリー・クレイは振り返る。「耳もよかったし、タイミングも抜群だった。一音一音、きっちりコピーできた。たとえば(ディープ・パープルの)『Highway Star』の音源を渡したら、リッチー・ブラックモアのリフを完璧に弾きこなした」
ホワイト・ホースのメンバーとして安定した収入を得るようになったとはいえ、家賃を払う余裕はなかった。クレイとドラマーのジャック・ヴァレンタインがシェアしていたアパートメントに転がり込み、床にマットレスを敷いて寝た。第3子のエリックが生まれると、財政状況はますます悪化した。「哀れな奴だった」とヴァレンタインは言う。「眼のなかをのぞき込んでも、悲しみしかないんだ。苦労してたんだな」(マーズはレスポールとは連絡を取り合っているが、ほかの2人とは疎遠だ。約10年前に結婚した妻のセライナは、2人とは顔を合わせたことがない。マーズは、自分に孫が9人と、少なくともひ孫が1人いると信じているが、正確な数はわからない。家族のことについては、あまり語りたがらないのだ)。
しかし1970年代後半には、ロックバンドが演奏していたナイトクラブのほとんどがディスコへと変わった。そのため、ホワイト・ホースはマーズに脱退を迫らなければならなかった。「もうロックなんて演奏できなかった」とヴァレンタインは語る。「プロデューサーに『ふざけたロックンロールをやめてディスコシーンに乗らないと、ヴァン・ヘイレンみたいに一生酒場で演奏し続けるハメになるぞ』と言われたんだ」
モトリー・クルーとして味わう成功体験
その後、マーズとニッキー・シックス、ドラマーのトミー・リーが結成したバンドは、マーズの運命を変えるはずだった。マーズは、ようやく自分の野心とスキルに見合うだけでなく、オリジナルバンドとしての強いこだわりを掲げる存在に出会えたのだ。そして、このバンドを「モトリー・クルー」と名付けた(oとuにウムラウトを付けるというのは、シックスのアイデアだった)。
さらにマーズは、楽曲づくりを資金面で援助してくれるサポーターを見つけ、結成からたった数週間後に彼らを説得して初代シンガーのオディーン・ピーターソンを解雇した。モトリー・クルーに合っていないと思ったのだ。「ヴィンス・ニールに初めて会った時のことを覚えている」とマーズは語る。「ヴィンスは19歳くらいだったかな。ブロンドのすらっとした青年が、白いレザーの衣装に身を包んでいた。本当にかっこよかった。『こいつが歌えるかどうかなんてどうでもいい。女の子たちを見てみろ! セックスアピールは金になるんだ』と思った」
モトリー・クルーのメンバーとしてのキャリアを振り返ると、1981年に味わった高揚感に勝るものはないと言う。1981年といえば、バンドが一躍クラブシーンに躍り出、のちに名曲と称される「Live Wire」や「Too Fast For Love」をレコーディングした時期だ。パンクやグラム、メタルの要素を等しく取り入れたモトリー・クルーは、独自のハイブリッドなサウンドを創出した。「人生でいちばん幸せだった時期だ」と回想する。「場末のクラブで腐っているのではなく、梯子をのぼっているような感覚だった。目で見てもわかるし、実感としても感じられた。なにもかもが新しかった。誰もが『こんな音楽は聴いたことがない』と驚いていた」
この時代に活躍した多くのメタル・ギタリストと違い、マーズはテクニックをひけらかすようなことはしなかった。テクニカルなプレイをお見舞いしてくるギタリストを軽蔑していた。「ミックのトーンは最高だった」と、1992年にニールの後任として加入したジョン・コラビは言う。コラビは、いまもマーズと親交がある。「ミックは、(マウンテンの)レスリー・ウェストやジェフ・ベックのようなトーンの魔術師たちに憧れていた。大事なのは、相手の胸に蹴りを入れて、神をも恐れないような大胆なサウンドを繰り出すことだった。サウンドに関しては、ミックは科学者だった。メンバーより10歳年上だっただけでなく、その分賢かったんだ」
MTVに見出されて、一晩に何万人ものオーディエンスの前で演奏するようになると、事態はやや複雑になった。ニールとシックス、リーの3人は、ロックンローラーのライフスタイルにどっぷり浸かるようになったのだ。バンド内に深い亀裂が走り、軋轢が表面化した。彼らの生活にヘロインの魔の手が忍び寄っていた。「俺は、頼むからヘロインには手を出すなと言った。ヘロインでイカれた頭に音楽なんて作れない。でも、手遅れだった。あれには心底辟易した」とマーズは明かした。マーズ自身、1980年代に重度のアルコール依存症を抱えていた。もともとグルーピーにはあまり興味がなかったが、「俺はメンバーのなかでも最年長だったから、俺のファンもそれなりの年齢だった。(中略)実際、死ぬほど羽目を外すこともあるけど、何事にも潮時がある。『もう終わりだ』と言えることが大事なんだ」
『Dr.Feelgood』の成功とマーズの後悔
モトリー・クルーの絶頂期においても、マーズの財政状況は安定とは程遠いものだった。「確かに、札束が転がり込んできた」とマーズは認める。「でも俺は2回結婚して、3人と関係が破綻していた。1人はバンド結成前のガールフレンドで、もう1人は最初の妻。もう1人が2人目の妻だ。彼女らが俺の銀行口座を空にしてしまった。俺は家と車、持っていたギターを手放した。すべてを失ったんだ」
『Dr.Feelgood』(1989年)期にバンドはヒットシングル5作を世に放ち、スターダムを駆け上がった。それでもマーズが苦い気持ちでこの時代を振り返ることには理由がある。「俺たちは、少なくともあと4年半はツアーができた」とマーズは言う。「でも、実際のツアー期間は9カ月だった。『これ以上は無理だ! 体調不良のメンバーがいることにしよう』と言わざるを得ない状況だった。でも、実際ツアーが中断されるとがっかりした」
これについてシックスは、呆れた表情を浮かべた。「体調不良のメンバーなんていなかった」と反論する。「俺たちはみんなクリーンでシラフだった。『Dr.Feelgood』を引っ提げて長期間ツアーを行った。ツアーをやめるという判断も適切だった。こんなことは俺たちメンバーも知らないし、マネージャーも聞かされていない。どうしてミックは、思っていることを俺たちに話してくれないんだろう?」
マーズとしては、3人との対立を避けたいという強い思いがあったそうだ。それに加えて、ステージ以外でメンバーと関わることもなかった。これについてマーズは、1989年以来、シックスは自宅に来ていないと言う。「俺の家に来たのは、多くて2〜3回だろう」と明かした。「トミーは一度だけ来たことがある。ヴィンスも一度だけだ。俺の家から目と鼻の先のベニスビーチに住んでいたのに。でも、これが俺たちの働き方だった」
(左から)シックス、コラビ、マーズ、リー。1994年に撮影。DAVE BENETT/GETTY IMAGES
現在マーズが住んでいる約1100平方メートルの豪邸内を歩いてみると、マーズがモトリー・クルーのメンバーとしての功績を誇りに思っていない、などとは微塵も感じられない。壁には、ゴールドディスクや1980年代のライブのポスター、さらには1989年10月21日付の全米アルバムチャート「ビルボード200」のコピーが額装され、掛けられているのだ。1989年10月21日は、『Dr.Feelgood』が1位に輝いた日だ。
モトリー・クルーの黄金時代だった。それから数年後、グランジがメインストリームの音楽シーンを席巻した。ニールがバンドを去った。1994年にリリースしたアルバム『Mötley Crüe』を引っ提げて後任のジョン・コラビとツアーを回った頃には、バンドの人気は地に落ちていた。「ハコの規模もアリーナから1200人規模のナイトクラブに縮小された。ステージに行くまで観客の間を歩いていかなければいけないような会場だった」とマーズは振り返る。「俺たちは、史上最高のレコードを作ったと思っていた。もちろん、裏切られた気分だった。時間をかけて『Dr.Feelgood』のツアーをやっていれば、こんな気持ちにはならなかっただろう」
「カビのせいで衰弱し、妄想にとりつかれるようになった」
1997年にニールが復帰し、不本意ながらも再結成が実現すると、バンドは『Generation Swine』のレコーディングに取りかかった。だが、マーズの主張によると、彼はこの時点から意思決定の場から閉め出されていたそうだ。復帰後も数カ月間はバンドと一緒にいたコラビも、マーズの主張を裏打ちしている。「あいつらは、ミックに対する敬意を欠いていた」とコラビは言う。「ミックのことを不機嫌な老人ぐらいにしか思っていなかった。(ニッキーとトミーは)ミックの金のことや付き合った女の子たちの悪口を言っていた。ミックは、20年以上もこんなことに付き合わされてきたんだ」
私は、マーズにインタビューを行った2日の間に『Generation Swine』という単語が10回ほど登場したことに気づいた。ほとんどは、マーズの口をついて出てきたものだ。25年以上も前のことだというのに、いまだに生々しいトラウマに囚われているようだ。「俺は、一音も弾いていないと思う」と表情を曇らせる。「俺のギターの音が気に食わなかったんだ。あいつらは、ギターじゃなくてシンセサイザーのような音にしたかったんだ。自分の無力さを痛感したよ。自分のパートを弾いても、それが消される。挙げ句の果てには、別人が弾いていた」
『Generation Swine』の数年後、メンバーは『New Tattoo』のレコーディングのためにスタジオに再集結した。ドラムは、リーに代わってランディ・カスティロが担当した。マーズは、その時に参加を拒まれたと主張する。「俺は呼ばれなかったから、一曲も書いていない」とマーズは言う。「アルバム全体を通して、弾かせてもらえたのは一回だけだった」(これについてシックスは次のように反論した。「あのアルバムでミックは、リードギターとリズムギター、その他の全ギターパートを担当している。おまけにミックは、かなりクールなリフをいくつか書いてきた。でも彼はソングライターではない。それに、当時の健康状態のことも忘れてはいけない。あの頃のミックは、重度の麻酔中毒だった」)。
2008年にリリースされたアルバムで、現時点でモトリー・クルーの最新作である『Saints of Los Angeles』に関しては、マーズが手がけるべきパートのほとんどをDJアシュバが担当したことをマーズとシックスの両方が認めている。これについてシックスは、選択肢がなかったと語った。「ミックは、自分のパートをなかなか弾けずに苦労していた。だから、DJアシュバとミックのサウンドをミックスした。もちろん、俺たちはいつでもミックを立てるつもりだった。でも、彼は自分のパートを弾くこともできなければ、ろくに覚えてもいなかったんだ」
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの数日後、マーズは人生のどん底にいた。バンドは活動休止期間を延長し、マーズはカリフォルニア州マリブの自宅に引きこもった。アルコールを過剰に摂取しては、強直性脊椎炎の痛みを和らげるために鎮痛剤を1日45錠飲んでいたが、それがオキシコンチンからバイコディン、そしてついには致死量ギリギリの麻薬性鎮痛薬に代った。さらに悪いことに、カビが家中に繁殖し、ミックの健康を脅かした。ツアーやレコーディングという仕事もないので、マーズはほとんど外出しなかった。カビのせいで衰弱し、妄想にとりつかれるようになったと語った。
「ベッドの足元に巨大な爬虫類のようなエイリアンがいるのを何度も見た。毛むくじゃらのエイリアンもいた。夜になると、猫人間が忍び込んでくるんだ。子供の頃に母親から聞かされて恐怖を覚えたモンスターだ。不幸中の幸いだが、自分が幻覚を見ていることに気づけた。一生気づかない人もいるんだ。そういう人たちは、窓から飛び降りてしまう」
2005年の再結成ツアーの直前にマーズは自宅を出、人工股関節置換術を受けた。「俺の家で暮らすことになった」とシックスは言う。「医者にも連れて行ったし、ひどい時はスプーンを使って一口ずつメシも食わせてやった」
マーズは、カビのない新しい住まいとギャラのいいツアーのおかげで復活を遂げた。それどころか、モトリー・クルーのメンバーとして久しぶりに楽しい時間を過ごした。Carnival of Sinsと銘打ったツアーは、マーズがお気に入りのピエロ風のメイクをする格好のチャンスだった。「ピエロみたいなメイクをして楽しんだ」と振り返る。「心の底から自由を感じたよ」
現在のパートナー、セライナとの出会い
2007年にモトリー・クルーは、いくつかのメタル・フェスに出演するためにヨーロッパに渡った。そこでマーズは、セライナ・シェーネンベルガーという23歳のフォトグラファー/モデル/ギタリストと出会った。数カ月前にSNSでメッセージをやり取りしていたが、実際に会うのは初めてだった。マーズの投稿にセライナが反応したのをきっかけに、ふたりは直接メッセージを交わすようになった。「週末なんてクソくらえ。どうせろくでもない一週間が続くんだ」的な意味のメッセージをセライナに送った。それ以来、2人は一緒にいる。
2013年に2人はマリブからテネシー州ナッシュビルに引っ越した。もっと静かで広い家に住みたかったのだ。引っ越してからは、広大な裏庭にジャグジーと深さ約3メートルの巨大なプールをつくった。セライナがすべてのプロセスを監督している。インタビューを行った今日は、まさにカオスといった状況だった。作業員たちが水を補給しにいったタンクローリーが戻ってくるのを待つ間、セライナは忙しそうに動き回っていた。階段を駆け上っては作業員の質問に答え、マーズのレコーディング・スタジオのブレーカーが落ちると、ダッシュで降りてスイッチを入れる。その間、バーベキューグリルでロースト中の肩ロースのことも忘れない。別の時は、自分よりも大きな椅子を軽々と持ち上げて細い階段をのぼっていた。セライナは愛情を込めてマーズのことを「マーズマン」と呼び、助けてほしそうな時は作業をやめて彼のもとに駆けつける。
長いさよならツアーを終えて2015年にバンドが活動休止すると、マーズはセライナと幸せな時間を過ごした。その一方でバンドは、「ツアー停止契約書」なるものに署名していた。今後のライブ活動は一切行いません、というものだ。バンドは契約書をメディアに公開しなかった。そのため、誰もがチケットの売り上げを伸ばすための策略だと踏んだ。だがマーズは、契約書は存在したと誓う。その裏付けとして、「またツアーをやることになったら、みんなにチケットをおごる」という2014年のインタビューでの発言を引き合いにした。「それくらい真剣に、俺たちは終わったと思っていたんだ。あの契約は本物だと思っていた」とマーズは言う。
さよならツアーを行うほぼすべてのバンドの例に漏れず、モトリー・クルーのツアーはひどいものだった。それでも2022年には、ツアー停止契約を破棄してツアー活動を再開した。理由は、2019年に公開された映画『ザ・ダート:モトリー・クルー自伝』によってバンドへの関心が高まったからだ。「映画が公開された時、次になにが起きるかわかっていた」とマーズは語る。「仕方ない、またツアー生活に戻るか、と覚悟を決めた。でも、実際はクタクタだった」
ツアーバスや空港、ホテル——そしてバンドメンバーたち——と無縁の7年を経て、いまさらツアー活動に復帰するのは問題外だった。マーズは、リハーサル前に今回のツアーが最後だとメンバーに宣言した。「こう言ったんだ。俺は引退するわけじゃない。ラスベガスのレジデンシー公演であれ、ニューアルバムのレコーディングであれ、好きにすればいい。俺は喜んで手を貸す。一夜限りのライブも任せろ。ただ、ワールドツアーだけはもう勘弁してくれ」
マーズの訴え、シックスの主張
強直性脊椎炎が進行し、首を左右に動かせないほどになっていた。真っ直ぐ立つこともできなかった。高校生の頃よりも、少なくとも8センチくらいは背が縮んだようだ。「俺の脊椎は、一本の硬い骨になってしまった。まるで額から20キロのコンクリートの塊が吊るされていて、いつも下に引っ張られているような感覚だ」
それでもマーズは、すべての公演をこなした。もともとは12公演で演奏すると合意していたが、ツアーは延期されて36公演になった。その間、マーズは常に激痛と闘っていた(マーズの背中はすでに「?」のような形になっていた)。腰の曲がった自分の姿を動画で観るのは、もっと苦痛だった。「骸骨みたいだ」とマーズは言った。「そんな自分を動画で観るのは大嫌いだ。でも、杖は使いたくない。車椅子もごめんだ。自力でステージにのぼれないなら、俺はステージに立ちたくない。自分の外見が気に入らないし、そんな姿でステージに立つのは居心地が悪い」
最後のツアーでのニールとマーズ。2022年ジョージア州アトランタにて。KEVIN MAZUR/GETTY IMAGES FOR LIVE NATION
2022年10月27日、ニールとリー、シックスは声明を発表した。そこには「変化は決して簡単なことではないが、我々は健康上の理由からミックがバンドを引退するという決断を受け入れることにした」と書かれてあった。「我々はミックの意思を尊重し、2023年のワールドツアーを予定通り行う」。その一方、マーズのほうから何の発表もないことにファンは違和感を覚えた。それからしばらくして、ファンは2023年4月6日に全貌を知った。マーズがメンバーを訴えたのだ。バンドから不当に解雇され、関連企業7社から今後は利益が得られないような取り決めをされた、というのがマーズの主張だ。提出された訴状はなんと全29ページというボリュームで、そこにはバンドのもっとも暗い歴史にスポットライトが当てられている。ニールとリー、シックスの3人は、これでもかというくらいの極悪人として描写されていた。
「(マーズ以外の)メンバーの2人は、バンド時代はほとんどヘロインに溺れていた。そのうちの1人は、重度のアルコール依存症も抱えていた」。訴状はさらに続く。「(マーズ以外の)もう1人のメンバーは暴行を繰り返したことで執行猶予を言い渡され、最終的には何度も妻を蹴った家庭内暴力の疑いで重罪判決を受けた。彼女は、妊娠7週目だった」
マーズの訴状の中でもっとも注目されたのが、2022年のツアーでのシックスの演奏に関する記述だった。「北米ツアー中、(シックス)は一音もベースを演奏していない。シックスのベースパートは、100%予め録音されたものだった」とマーズは主張した。
これに対し、バンドは7人のツアークルーからの証言とともに反論した。シックスはベースを生で演奏していたと宣言した一方で、時折曲を忘れたり、間違って演奏したりしたのはマーズのほうだと主張したのだ。ステージ上でたまにミスをしたことについてはマーズも認めているが、「俺は、ステージ上で妨害行為にあっていた。しくじれば俺をクビにして、別のギタリストを入れられるから」とネガティブな解釈をしている。「イヤモニから返ってくる音はひどかった。音割れしているんだ。ほかのメンバーはそうでもなさそうなのに、俺の音だけ割れている。慣れない新曲を覚えようとしている時もリハで収録したクソみたいな音源にスイッチされる。あいつらは、俺のメンツを潰すためにこんなことをやっていたんだ」
「まったく正気じゃない」とシックスは反論した。「どうしてファンの前でそんなことをしなければいけないんだ? 俺たちがミックのレガシーを守ろうとしているのに、ミックと代理人たちがファンに嘘を撒き散らしていると考えると胸が痛む。俺たちは、マーズのことを心の底から愛している。それなのに、こんな被害妄想に囚われているなんて、まじでおっかないよ。リハに来た時、ミックはギターをきちんと弾けなかった。何度やってもダメなんだ。だから、仕方なく録音済みの音源でカバーした。当て振りをしていたのは、マーズだけだった」
ミック・マーズ、2023年撮影。QUYN DUONG FOR ROLLING STONE
ツアー活動から引退するのであれば、(利益の配分は)得られない
結局のところ、この裁判はマーズをモトリー・クルーという事業から一方的に追い出し、利益の配分を拒むことができるかどうかが問題なのだから。メンバーは、2008年に関係者全員が署名した文書を引き合いに出した。そこには、「いかなる場合においても、辞任する株主はライブ演奏(すなわちツアー活動)に起因する金銭を受領する権利を有しない」という文言がある。
これについてマーズ側は、彼が「辞任する株主」ではないと反撃する。マーズは、ツアー活動への参加を確約できないメンバーなのだ、と。「もしジェフ・ベゾスがアマゾンの社員を辞めたいと言っても、株主であることに変わりはありません」と、マーズの弁護士のエド・マクファーソンは言った。「株主としての権利を取り上げることはできません。ミックはツアーができないから、株主でもないという相手側の思考は、まったくもって理解不能です」
対してモトリー・クルー側の弁護士のサーシャ・フリッドは「ミックが署名した文書があります」と指摘した。「ツアー活動から引退するのであれば、(利益の配分は)得られないというものです。ツアーを欠席し、バンドに貢献せずに自宅で座っている人に、なぜ利益を配分しなければいけないのでしょうか? ほんとうにわけがわかりません」
モトリー・クルーが新曲のレコーディングを行い、ジョン5とともにワールドツアーのヨーロッパ・レグをこなす一方で、マーズは自身のソロアルバム『Another Side of Mars』をリリースしてくれるレコード会社を模索している。ソロアルバムが発売されても、ツアーで彼に会えることを期待してはいけない。「もうツアーはたくさんだ」とマーズは言う。「1、2回の限定ライブならやってもいいかもしれない。でも、荷物を抱えて飛行機で移動するツアーは、もう二度とやりたくないんだ」
マーズにとって金銭は問題ではない。2022年のツアーは、1億7350万ドル(約250億円)もの興行収入をあげたのだから。マーズの懐には、バンドの取り分の4分の1が入った。ソロアルバムに収録されているいくつかの楽曲を披露している半ばで、メールの受信音が響いた。マーズがとびきりの笑顔を見せた。「ライセンスが売れた!」と興奮している。「交渉がまとまったんだ。もうなにも心配しなくていい。さっきも言ったように、あと7〜8年は生きられるんだから」
7〜8年と言わず、もっと長生きしてほしい。私がそう言ってもマーズの意思は固い。「俺はもう十分歳をとった。85歳、ましてや90歳までは生きられないだろう。そんな予感がする。俺だって死にたくないさ。でも俺の脳ミソは、不格好でボロボロのこの体にいいかげんうんざりなんだ。脳ミソから情報だけを抽出できたら、どんなにいいだろう。マイクロチップに保存して、別の誰かとか、ロボットに埋め込むんだ。頭のなかでは、いまもいろんなことが起きているから」
インタビューを終えてドライブウェイから車を出そうとすると、巨大なタンクローリーがこちらに向かってきた。裏庭のプールに初めて水が張られるのだ。そういえば、誕生日の夜にマーズをプールで泳がせてあげたい、とセライナが言っていた。初夏の夜にプールに浮かぶマーズの姿を想像して、私は思わずにんまりした。その瞬間、最後に訊いた質問が脳裏をよぎる。「1981年にモトリー・クルーを結成した自分にアドバイスをするとしたら?」という質問だ。
「もう少しアグレッシブに行け」とマーズは答えた。「中立である必要はない。声をあげるんだ。軋轢は好きじゃない。でも、過去に戻れるのなら、もう少し腹を割って話せるような関係になれていたらよかったと思う」
モトリー・クルーを結成したことを後悔しているか? と尋ねると、マーズの動きがぴたりと止まった。虚な目でこちらを見る。頭のなかで、いままでの人生が超高速で再生されている様子が手に取るようにわかる。約40年もの成功と酒やドラッグに溺れる日々、実刑判決、破産、そして現在の泥沼裁判へとつながる内紛……11秒後にマーズが口を開いた。「していない」と言う。「サンセット・ストリップの外の世界に足を踏み出した頃から、俺たちは違っていた。嫌なこともあったし、触れてほしくないこともある。それでも、ここまで成功したバンドのメンバーとしてギターを弾き、世界を見ることができた。だから、後悔していない……『Generation Swine』以外はなにも」
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